近江の轍

藤瀬 慶久

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三代 利助の章

第34話 山形屋の若旦那

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 1662年(寛文2年) 夏  近江国蒲生郡八幡町山形屋



 西川利助は、明け六つ(午前6時)前に夜明けと共に目覚めた
 三和土を下りて取り井戸まで行き、水を汲んで顔を洗う



 奉公に来ている丁稚が店の前を掃き掃除していた
 厨では、下男と下女が忙しくかまどの前で立ち働いていた
 住み込みの奉公人の分も合わせて飯の支度をしている
 毎日一斗の米を炊くのだから大変だろう

「若旦那、おはようございます」
「ああ、おはよう」

 丁稚が裏庭の掃除に回ってきた。今年十一になる

 続いて年かさの手代が取り井戸に来る

「若旦那、おはようございます。早いですね」
「おはよう、五郎八。みんなもうぼちぼち起きてくるかな?」
「そろそろかと思いますが。朝飯の匂いがしてきましたからな」

 言う間に住み込みの手代三名がどやどやと取り井戸にやってきた
 口々に”おはようございます”と挨拶を交わす

 利助は東の空を見上げた

 ―――今日もいい天気だ


 顔を洗うと店主一家と手代・丁稚一同が膳につく
 下男・下女は雑用係だから、食事は三和土で取る


「いただきます」
「「「いただきます」」」
 義父、甚五郎の合図で全員が食べ始める

 朝飯は玄米飯と鮎河菜の味噌汁、それに日野菜の漬物だ
 飢饉以来八幡町でも雑穀を主とした食事にしていたそうだが、この頃では飢饉の影響もなくなり、米を食う日常に戻っていた


「旦那様。今日は町年寄りの会合がおありでしょう?私は江戸へ送る荷の整理と蚊帳織りの染の品物を確認に行こうと思っていますが…」
「うむ。それでよい。総年寄殿が相談したい事があるとかでな」

 それで今日一日の予定は決まった


 朝飯を食べ終わると、各自の膳を厨まで運び、仕事にかかる
 手代たちはそれぞれ売捌きの荷を天秤に下げて、五つ時(午前8時)までには里売りに出発する


「おはようございます」
「新八殿、おはようございます。今年の蚊帳も染め上がってきましたか」
「ええ、何せ染賃を上げてもらったはいいものの、六月末日までに納めないと逆に過銭(違約金)を払わねばなりませんからね」

 山形屋分家である西川新八家も既に三代目になり、利助とも良好な関係を築いていた

 ゑびす講では染職たちの希望を入れ、最近諸色(物価)が上がって来た事もあって七年前の承応四年に染賃を値上げしていた
 蚊帳もそうだが、畳表もじりじりと値が上がり、売上が伸びるのはいいのだが仕入れ値もその分上がっていた
 まあ、皆の収入が増えればその分世の中が豊かになると思えば、商人としては文句の付け所はなかった


 江戸へ送る蚊帳を整理し終わり、染職の家に向かっていた
「新八殿は初代の仁右衛門おじいさまの代からの由緒ある分家ですが、独立して売捌きはされぬのですか?」
「ははは。私の祖父の初代新八がご初代様に拾われて、蚊帳織りを始めたのが近江蚊帳の始まるきっかけですからな
 八幡町の開闢かいびゃくから続く山形屋の仕入れを司るというのは、それはもう大変な重責であり名誉です
 独立して新たに商売を始めるなどとてもとても…」
 歩きながら新八が顔を横に振る

 確かに、初代新八殿の織った蚊帳をお祖父様が北陸へ売り歩いたのが山形屋の商売の原点だ
 市左衛門父上もそれがために鹿磯に定住した
 そのおかげで今の自分があるのだから、世の中は不思議な縁で一杯なのだと思わざるを得ないな

 これからもそれは……………うん?揺れている?



「っ!地震だ!大きいぞ!」
「若旦那!広い場所へ!家や木が倒れて来るかもしれません!」
「新八殿!危ない!」
 地面が割れ、裂け目ができた
 新八を突き飛ばしてお互い難を逃れたが、一つ間違えば押しつぶされていたかもしれないと思うとぞっとした


「店は!義父上やみんなは無事か!?」
 新八と二人で慌てて店へ戻ったが、店内は無残に倒れた柱や倒壊した壁でとてもひどい有様だった

「みんな!生きてるか!」
 外から呼ばわると数名の下女の声がした
 新八と二人で瓦礫をどけ、女たちを救出する
 救出し終わる頃合いにかまどに残った火から家屋に燃え移って火事になった

「外へ!外へ出ろ!」
 周囲の家に呼びかけて動けるものは建物の外に避難させた。あちこちで同じような火事の煙が上がり始めている
 昼間のことで驚いたが、夜に起きた地震だったらと思うと再びぞっとする


「義父上はどこだ!?」
「おそらく会所に…」
 そう話していると次の地震が来た

「さっきよりも大きい!皆!建物から離れろ!押しつぶされるぞ!」
 しばらくして揺れが収まったが、辛うじて残っていた壁や柱も倒れてしまった
 今日は当分建物の中には入れないな…
 また揺り戻しがあったら今度こそ死ぬかもしれない


 しばらくすると義父上が戻って来た
「義父上!ご無事ですか?」
「うむ、大事ない。しかし、大変なことになったな…」
「ともかく、今は皆の無事を確かめるのが先決です。今日は野宿になりますが、御辛抱ください」
「なに、若い頃から行商で野宿は慣れておる。それよりも、怪我をして動けぬ者を助けてやってくれんか」



 寛文近江・若狭地震と呼ばれる近江を直撃した地震だった
 この地震による被害は、彦根城下で家屋倒壊千余り・死者三十名余り
 八幡町付近においても液状化による地層断裂などを伴ってそれに近い被害が出た
 死者が少ないのは、第一波は巳の刻(午前10時頃)の地震で、本命の第二波が午の刻(正午頃)であったため、最初の地震により建物から逃げる時間があったことが幸いしたのだろうか

 利助の考えた通り、これが夜間に起きた地震だったら人的被害はこんなものでは済まなかっただろう



 1663年(寛文3年) 夏  近江国滋賀郡大津城下



 父の代から大津で米穀商を営む『枡屋ますや岩城いわき九右衛門きゅうえもんは頭を抱えていた
「西廻航路の影響で大津を通る米は極端に減ってしまった。そのうえ、昨年の地震で蔵が倒れ、再建には相当な金銭がかかる。どうしたものか…」

「父上、この際米商いに加えて呉服の商いも行ってはいかがですか?
 大津は京に近い場所でもあります。糸割符の廃止で今までより廉価に生糸が手に入るようにもなりました
 この先米商いを続けても大資本の大坂商人には勝てぬように思います」
 息子の九郎右衛門が進言する



 寛永年間に実施された鎖国令により失業した外洋航海技術者が国内の航路開発に向かったことで、蝦夷から日本海を回り、下関を経て瀬戸内海を大坂に至る西廻航路や太平洋を回る東廻航路が発展していた
 従来日本海側からの米は越前の三国湊や敦賀湊で陸揚げされ、琵琶湖を通って大津に至り、そこから京・大坂へと運び込まれた

 大津の米穀商はその間の荷役と蔵役を勤めることで中間マージンを受け取ることを大きな収入源にしていたが、加賀藩などの大口顧客が北風家などの廻船屋を使って直接大坂に荷揚げすることになり大津の米穀商は大きなダメージを負っていた

 加えて、寛文の近江・若狭の地震では大津周辺も甚大な被害を受け、復興こそしたものの蔵などの設備投資は馬鹿にならない出費となる
 その為、在庫を持つのに軽くて大きな蔵を必要としない呉服反物の商いに転向する者も出始めていた


 一方で糸割符仲間が廃止されたことで生糸の価格は相場商品となり、一定の価格水準から騰落のある水物へと変わったが、全体でみると輸入量は増えて値は下がりつつあった
 また、この頃から国産の生糸の品質改善が進められたこともあり、国内の生糸の価格は徐々に値下がり傾向だった



「呉服商いか… 確かに、京や八幡町でも呉服を商う商家は多い。
 それだけ利幅が大きいと見るべきかもしれんな」
「私にお任せいただけませんか?米商いは変わらず継続すべきかと思いますが、それだけではなく呉服の商いも手掛けていきとうございます」
「わかった。一つ試してみるか…」



 1665年(寛文5年) 秋  蝦夷国夷人地イシカリ



『恵比須屋』岡田弥三右衛門はイシカリのハウカセの元を訪れていた
「ヤザエモン殿。これだけしか米がもらえぬのか…」
「済まぬ… 飢饉以降、各藩で米の備蓄が行われ、米価も高止まりしていてこれだけしか用意できないのだ」
「…」
 弥三右衛門はただ謝るしかできなかった


 以前は干鮭五束(100本)で米一俵(2斗)という交換比率だった
 それでも松前城下で交易していた時に比べれば大幅な値下がりだった

 しかし、現在では交換比率はさらに下がり、今では米一俵の中身が七~八升ほどまで減らされていた
 弥三右衛門も松前藩士に直訴して米を多く交換するように嘆願するのだが、米自体の値上がりに加えて凶作や年貢の未納などが東北地方で度々起こり、松前藩自体が二年後の寛文七年には『御公儀に三千石の米を拝借』という状況に陥る

 松前藩にしてもない袖は振れないという状況だった
 ただでさえ物価高で武士の生活が貧窮し始め、知行主たる藩士自身に余裕がない
 アイヌの生活の心配などしているヒマがないというのが松前藩士の本音だった






 ―――松前城下 佐藤家屋敷―――


 岡田弥三右衛門はイシカリ周辺の知行主である佐藤権左衛門に再び直談判に訪れていた

「今の交換比率ではアイヌ自身も食べていくことが難しくなります。どうかもう少し多くの米と交換させては頂けませんか?」
「そなたら両浜組に属さぬ他郷の商人は同じ交換比率でより多くの運上金(上納金)を稼ぎ出しているではないか。
 アイヌの生活というが、そなたらが利を貪りたいだけなのではないのか?」
「彼らは決められた交換比率以上に厳しい比率でアイヌを苛め抜いているだけです。今のままではそれがますます悪化すると申し上げているのです」

「ならば、その方らもアイヌからもっと搾り取れば良かろう。交換比率を上げて、運上金が下がる事になればそなたらに任せることは出来ぬようになるが、それでも良いのか?」

「アイヌは胡麻やガマの油ではありませぬぞ!絞れば絞るだけ出てくるなどと、勘違いも甚だしい限りです!
 彼らとて食っていかねばならんのです!これ以上苛烈に取り立てては、そもそもの交易品を手に入れることすら危うくなりまする!」

 弥三右衛門は心底腹が立った
 権左衛門の物言いは、まるで苛斂誅求を旨とする悪代官そのままだったからだ

 もっと搾り取れというが、それが出来るのは最初の二~三年だけで、彼らが交易を諦めるあるいは交易をする余裕を失くしてしまえば、そもそも運上金すら手元に入らぬことになるのがわからないのか
 商人の『基本のき』ともいえる、生産者の保護の観念が一切ない武士の勝手な都合に腹立ちだけが募った


 しかし、ここで手を引いてしまえば、後には他郷の商人が権左衛門の言いなりにどんどんと搾り取るだけになるだろう
 そうなれば、蝦夷の産業は終わってしまうことになる


 結局、直談判は不調に終わり、後には寂寥とした悲しさだけが残った


 ―――ハウカセ達に何と言って詫びたらいいのか…

 弥三右衛門はアイヌの行く末と蝦夷の産業の未来を思って泣いた
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