鶴が舞う ―蒲生三代記―

藤瀬 慶久

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第六章 蒲生賢秀編 元亀争乱

第70話 本圀寺の変

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主要登場人物別名

左兵・左兵衛大夫… 蒲生賢秀 左兵衛大夫 蒲生家当主 織田家臣

上総介・弾正忠… 織田信長 織田家当主
右京… 稲葉良通 織田家臣 美濃三人衆の一人、稲葉一鉄

――――――――

 
「戻ったぞ」
「お帰りなさいませ」

 蒲生賢秀は京への従軍を終え、日野の中野城に戻っていた。
 出迎えるのは妻の華と母の辰の二人だ。

「……父上は?」
「奥でいつものしかめっ面をして居りますよ」

 辰がため息交じりに首を振る。華は舅への遠慮から批判めいたことは滅多に口にはしなかったが、辰は定秀の正室だけあって物言いにも遠慮がない。

 家督を譲ってからの定秀は表に出て来ることが少なくなり、近頃では終日隠居所で将棋盤とにらめっこを続けている。それも楽しそうにしているのならともかく、しかめっ面で眉間に深い皺を刻みながら将棋盤を睨みつけている。
 だが、母の辰はそれを困ったものと言いながらも終日定秀の側に居ることが多かった。賢秀に家督を譲ったと同時に辰も華に奥向き事を任せ、華が何か困っている時だけ口を出すようにしている。
 定秀は将棋盤に向かい、辰は針仕事をし、時に雪も一緒に茶飲み話に花を咲かせる。終日一緒に居ながら、辰と定秀が言葉を交わすことは数えるほどしかない日もあった。だが、賢秀はそれがこの二人なりの満ち足りた時間なのだと理解している。


 具足を脱いで直垂に着替えると、賢秀は定秀の隠居所に向かった。

「父上、入ります」
「うん」

 賢秀が居室に入ると、定秀はいつもの縁側でいつものように将棋盤に向かい合っていて顔も上げない。賢秀からは定秀の向こうに湖東の山々の鮮やかな赤が目に入るが、当の定秀はそういった景色にも興味の無い様子だった。

「畿内を平定された織田上総介様が軍勢を返し、岐阜城へと帰還されました」
「そうか」
「足利左馬頭様は征夷大将軍へと任じられ、京の六条本圀寺へと居を移されましてございます」
「そうか」
「三好日向守殿、三好下野入道殿、岩成主税助殿、いずれも京や摂津を追われました。三好左京大夫殿、松永弾正殿は織田の配下として加わるようにございます」
「そうか」

 今まで六角家と覇を争って来た三好家が崩壊し、三好家の当主や重臣が織田に降ったと聞かされても定秀は一切の反応を示さなかった。
 何を言っても上の空のような反応を示す定秀に、賢秀も困惑するしかない。あるいは六角家の崩壊を目の当たりにし、既に世捨て人の心境に至っているのかもしれない。
 だが、賢秀の次の一言には少しだけ反応を示した。

「上総介様は従五位に叙され、弾正少忠へと補任されました」
「……そうか」

 駒を持つ手がピクリと止まる。だがそれも一瞬のことで、次の瞬間には駒を将棋盤に置く音が響いた。

「気になられませんか?」
「……是非もあるまい」

 ようやく視線を上げた定秀の目を見て、賢秀はその内心を推し量った。
 定秀にとって『弾正』と言えば亡き主君六角弾正定頼のことだ。松永久秀を『弾正』と呼ぶことにもなかなか抵抗があったと聞かされた覚えがある。まして、六角家を観音寺城から追い落とした織田信長が正式に『弾正』を名乗るとなれば、内心は穏やかではないのだろう。

「当面の間、某には日野と合わせて観音寺城の守備の任を与えられました」
「わかった」
「父上は行かれませぬので?」
「……もはや年寄りの出番でもあるまい」

 定秀に限って、賢秀が留守の間に日野中野城を占拠するなどという暴挙には及ぶまいとは思うが、今の定秀は何を仕出かすかわからないような雰囲気がある。
 賢秀の胸は妙に騒いだ。

「留守の間、中野城をお願いいたします」
「……」

 最早返事すらしなくなった父を尻目に、賢秀は一つ頭を下げると隠居所を辞した。
 このまま何事も無く織田家臣として過ごしたい。賢秀はそのことのみを心の中で念じた。

 永禄十一年(1568年)十月
 足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、三好家の畿内での本拠であった摂津を平定して義昭の将軍宣下を見届けた後、日を置かずに岐阜城へ凱旋する。
 美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城を落とし、岐阜と地名を改めてからまだ一年しか経っていない。信長にとって今大切なのは新たな本拠となった岐阜の安定であり、上洛したからといつまでも京に居残るわけにはいかなかった。
 将軍を後見して上洛させ、京には代官を置いて自身は領国統治を優先する。それは偶然にも六角定頼の行った領国統治と酷似していた。あるいは、信長は定頼の事績を知り、そのやり方を真似ようとしているのかもしれない。



 ※   ※   ※



 賢秀は正月早々、京の角倉吉田家を訪ねていた。天文年間以来の付き合いである角倉吉田家は、この頃には医師業と土倉業を明確に切り分け、医師業を吉田宗桂が、土倉業を角倉栄可が引き継いでいる。
 今回賢秀が訪れたのは角倉栄可の方だ。

「……では、二条に御所を造られると?」
「左様。我ら蒲生にもご普請の命が下りました。普請奉行は村井民部殿が務められますが、我らには普請の番匠を集めるように御指図が下っております」
「なるほど。それで手前に……」
「いかにも」

 角倉栄可は京の長者としての名声を得ている。番匠(大工)はもちろん日野からも連れて来るが、圧倒的に人手が足りない。そこで、京に顔の広い角倉の力を借りようとしていた。


 永禄十二年(1569年)正月
 岐阜に戻った織田信長の元に京から緊急の使者が駆け込んだ。

 上洛軍によって畿内を追われた三好三人衆や斎藤龍興、長井道利らが足利義昭の仮御所である本圀寺を急襲したという報せだ。
 報せを受け取った信長は、大雪の中を即日岐阜城を出立し、京の義昭の元へと駆け込んだ。室町幕府の再興を志す信長にとって義昭を失うことは大義名分を失うことになる。信長にとっては痛恨の出来事と言っていい。
 幸い、明智光秀や細川藤孝、三好義継らの活躍によって三好三人衆の軍勢は撃退されたが、信長は急襲を許した反省から早速に二条邸を拡張して新たな将軍御所として普請を行うことを決めた。
 昨年降った近江衆にも普請役を申しつけられ、賢秀も正月早々に再び上洛する破目となっていた。

 普請は順調に進み、二月に着工した二条城は四月には義昭が移り住めるほどに急ピッチで建設されたが、一方で京で初めて石垣を使った防備を備えるなど城郭としての性能も重視された。
 建物は多くが本圀寺から移築され、瓦には金箔を用いて威容を出し、畳も当時の最高級品である備後表で備えるというように防御性と威容とを両立させた。

 信長は二条城に続いて内裏の修理も行い、五月になって岐阜へと帰国する。
 帰国の前日、信長は不意に蒲生賢秀を宿所に呼び出した。


「蒲生左兵衛大夫様、参られました」
「うむ」

 小姓の呼び出しに続いて賢秀が信長の御前に伺候すると、信長は上機嫌で賢秀に視線を投げて寄越した。
 傍らには美濃三人衆の一人である稲葉良通が控えている。

「お呼びにより参じました」
「おお、よく来た左兵。実はな、そなたから預かっている鶴千代だが、岐阜城に戻ったら元服させようと思うのだが、どうだ?」
「ありがたきお計らい、恐れ多いことでございます」

 頭を下げる賢秀に信長もカッカッと笑う。
 岐阜にて元服させるということは、烏帽子親を信長が務めるということだ。主君に烏帽子親を務めてもらうのはこの当時一般的であったとはいえ、それでも傘下に入って一年も経っていない蒲生家に対しては厚遇と言える扱いだ。

「何、鶴千代はさすがに良くできた倅だ。なあ、右京」

 信長が傍らの稲葉良通に視線を投げると、良通もニヤリと笑って頷く。
 鶴千代は賢秀から見て良く言えば才気煥発、悪く言えば小賢しい所が見える。岐阜城で何かしたり顔で披露したのかと賢秀は不意に心配になった。

「倅が何か仕出かしましたか?」
「いやいや、この右京が毎夜小姓たちを集めて軍談を披露しておるのだがな、右京の軍談は深夜に及ぶこともざらにある。ほとんどの者は堪えきれずに居眠りをしてしまいおるのだが、鶴千代だけはランランと眼を開いて右京の話を食い入るように聞いている。何とも大軍を率いる気概を持った器量人であると右京が褒めておったのよ」
「左様でございましたか」

 賢秀は心の中で胸を撫でおろした。
 少なくとも己の文や武の腕を誇って生意気を言ったわけではないらしい。

 人質として岐阜城へ行く前年のことだが、日野の中野城に連歌師の里村紹巴が訪ねて来たことがあった。賢秀の曽祖父に当たる蒲生貞秀は連歌師宗祇から古今の伝授を受けるほどの文人として知られており、定秀や賢秀も京では文人としても知られている。
 紹巴の接待は深夜にまで及んだが、当時十一歳の鶴千代も紹巴に酌をしながら歌を披露している。

 つまり、そこらの文人僧侶とは比べ物にならないほど鶴千代には連歌や和歌の教養があった。悪いことに文武の名門の子として鶴千代には自身の力を恃むところがあり、知らず知らずのうちに自分の力を誇示するような所が見える。
 それが信長や近臣の不興を買ったのではないかと心配していた。

「うむ。それでな……」

 信長が笑顔を引っ込めて賢秀の顔を見つめて来る。その様子に賢秀の心は再び不安でざわついた。

「秋になれば伊勢の北畠を攻める。鶴千代を元服させて日野へ戻す故、お主の陣に置いて初陣をさせてやるが良い」
「初陣を……それは……」
「何、一日も早く戦に出たそうな風情だったのでな」

 再び信長がクックッと可笑しそうに笑う。その様子を見て、賢秀はやはり岐阜で鶴千代が己の文武の才を鼻にかけているのだと理解した。
 父親としてはそういう己の本心を律する術を身に着けて欲しいという思いがあるが、悪いことに鶴千代は多芸多才で何でもそこそこ器用にこなしてしまう。それゆえにガツンと頭を打って反省するという機会に乏しかった。

「倅が生意気を申したようで申し訳もございません」
「なに、覇気のある若武者は儂も嫌いではない。せっかくだからその力を早く戦場で試させてやろうと思っただけよ」

 どうやら何もかもお見通しの上で信長が可愛がってくれているのだと察した賢秀は、今度こそ本当に胸を撫でおろした。

「忙しいことで済まぬが、そういうわけで日野に戻ったらすぐさま岐阜へ参るが良い」
「ハッ!」

 ―――つまり、戻ったらすぐに伊勢攻めの用意を整えておけということだな

 事情を察した賢秀は、すぐさま日野に戻ると軍勢の用意を急がせた。
 保内衆を率いていた伴伝次郎とは未だ繋がりは切れていない。伝次郎に兵糧と軍馬、それに武具の用意を頼んだ後、急ぎ足で岐阜城へと向かった。
 六角家臣時代と違い、広域に領国を持つ織田家臣というのは忙しく動き回る宿命だった。

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