アニマスブレイク

猫宮乾

文字の大きさ
上 下
34 / 37

34

しおりを挟む
 
 灰色のコンクリートの壁を、赤いオリハルコンが縦横無尽に支える地下施設。その中央には、淡い緑色のマキナエルライトの光が溢れていて、自身の足場の無機質な鉄網の色になど興味を覚えないまま務は足を止めた。
「遇津」一歩先を走っていた間宮が声を上げる。
 するとぼんやりと夢でも見ているような眼差しのまま、彼女が振り返った。その乱れた髪に、けれど数々の愛おしい思い出が過ぎり、務は何も言えなくなる。
「草薙の剣を起動したのはお前か?」
 間宮の険を含んだ声音が、辺りに谺した。
「そうだよ。梓月君だってそんなことを望んでいないのに、彼らはそれを強要するから」
 務は始め、彼女の返答がないことを確信していた。けれど発せられたそのはかない声音に、泣きそうになる。彼女の自発的な言葉を、もう何日も何日も待ち望んでいたからだった。
「それで満足はしたのか? 梓月の死を思ってお前が嘆いた事実と同じように、数多の悲劇が生まれているのに」
「間宮は教養がないんだね。この世界って言うのはさ、観測者がいなければ成り立たないんだよ。だから悲しい観測者に見守られた世界は、それは悲しい世界なんだよ。そんな世界に、他者の悲痛を思いやるだけの余力があるのかな」
「でもお前には務がいただろ」
「そうだね。ごめんね、務君」
 別に懺悔されたいわけではなかったから、務は言葉に迷ったまま、ただ顔を歪めた。
 悲しげに笑う遇津の顔を、これ以上は見ていたくなかったのかもしれない。
「ムーに核攻撃をすることで、その悲しさは、少しは癒えたの?」
 漸くひねり出した務の声に、遇津は苦笑したまま首を振る。
「もう、こんな世界はいらないんだよ。実際にはただの、ちっぽけな文明で、大地でも、地球でも、それこそ世界ですらないの。だけど、私の世界はもう無いんだ。無くすべきなんだと思う。だから、ムーもアトランティスもいらない。それこそ、それより前のセグメントだって、そう」
「だけど僕には遇津さんが必要だよ」
 思わず口走り、それは本心なのだろうかと務はうつむく。
「嘘」その上彼女から帰ってきた言葉に、何も応えられなくなって、唇を噛んだ。確かに面倒だと思ったことがあるのだ。邪魔だと感じたことがあるのだ。けれど、それでも。
「冷静になれ。お前は、梓月がいない苦痛を誰よりも知っているだろう? 今となっては、もしお前が、そこから飛び降りるようなことがあるとすれば、梓月も、何より務が、お前よりも悲しい思いをするんだ」
「それがなに? それは私の悲しみじゃないよ」
 くすくすと笑った遇津が、身を乗り出す。その繊細な指がかかるフェンスに、僅かな隙間が生まれ、大きく彼女の身体が傾いた瞬間、務は駆け寄っていた。
「――……どうして」
 彼女の左手首を懸命に掴み、務は歯を食いしばる。マキナエルライトの動力炉へ身を投げようとした遇津を、なんとか引き留めようと、一度大きく息をついた。
「遇津さんは、僕が悲しい時、慰めてくれたじゃないか。それは、共感だろ?」
「……そうかもしれないね」つまらなそうに自分を見上げる彼女の瞳に、務は憤りを覚える。
「だったら、いまだって、そんな風に、自分の悲しいって言う感情だけに身体を支配させなくたって良いだろ」
「梓月くんがいてくれるんならそれでも良かったよ」
 けれど、続いた言葉に、務は力が抜けそうになることを実感して、慌てて、手に力を込める。
「君のことを傷つけたと思う。務くんの事も本当に好きだったんだ、多分。でもね、梓月じゃなきゃ駄目なんだよ。駄目なの、もう許して、私には無理。こんな世界で生きていけない、呼吸をすることだって辛い」
 笑みを浮かべた遇津の双眸から涙がこぼれ落ちていく。
 間宮に身体を支えられながら、務は、それを唖然として見据えていた。
「梓月くんの望みはさ、次世代計画を、アトランティスとムーを終わらせることだから。今、私に出来ることはなんだと思う? 梓月は、本当に優しいんだよ。きっと、彼が自分でやったら、もっともっと傷つくから。だからさ、せめて最後に、私が梓月に出来ることを、したいの」
 自嘲気味に笑った遇津の瞳から、涙がこぼれ落ちていく。その身体の重みに、務が唇を噛んだ時、彼女が懐から簡素なナイフを取り出した。
「有難う」
 その声が形作ったものは、先ほど務が間宮へ述べたものと同じだったのだけれど。悲しみや温もりの度合いが違いすぎて、同じ形なのに、全く違う音として響き渡る。
「ごめんね」そう告げた遇津が、刃で、務の手首を薙いだ。けれど痛みをこらえるように、務は込める力を増す。しかし、何度も何度も抉られて、務は指先の力が緩んでいくことを実感していた。
「嫌だ、嫌だよ。止め」間宮に視線で助けを求め、彼もまた手を伸ばそうとした時のことだった。
「務君、務、務は、もっと幸せにならなきゃ駄目だぞ」
 そういって、遇津が笑った。その意味を理解できなくて、けれどただ目を見開いた務は、自身の両頬を涙の濁流が汚していくことだけを実感していて。そして、そうして、遇津が次にふるったナイフに、手首の深部を抉られた瞬間、世界との境界もまた、分からなくなった。
 落ちていく彼女、噴き出す血液、座り込んだせいで痛んだ臀部。
 後ろから支えてくれていた間宮が、慌てたように、動力炉へと腕を横から伸ばす姿を眺めるだけしかできなくて、務はただ唇をふるわせる。
 遠方から響いてきた、何かがおれる音、潰れる音、鈍い音。
 それが遇津のものだと認識したくはなくて、務は間宮へと振り返り、その胸元の服を殴るように引き寄せて、号泣した。これほど声を上げて泣いたのが、何時以来なのか思い出せない程、ただ泣き叫び、わめいた。
「……マキナエルライトが暴発する。この規模なら極変動か地軸変動か、どちらにしろ大災害だ。逃げるしかない」
 間宮がそう口にしたのは、一頻り声を荒げ尽くした務が、もう喉をふるわせる言葉に思い至らなくなった時のことだった。
「だけど、もう」涙でゆがんだ務の顔を、間宮が片手で覆う。右頬のその温もりに、務は目を伏せ、睫を震わせた。
「ムーの現状は分からない。ただな、アトランティスは沈む。ここが沈めば、他だって影響を受ける。近接しているムー大陸は絶望的だ。でもな、だからといって文明が潰える訳じゃない。次の計画だってたっているし、神代派が潰れるわけでもない。お前が今、この時出来ることは何だ?」
「何もないよ」
「遇津はいったな。梓月に汚れた仕事をさせたくないんだ、そういったんだよ。傷つけたくないんだよ、これ以上梓月を。別にお前はそれを継ぐ必要はない。でもな、誰かに対して、他者に対して、最低限愛しい誰かに対してだけでもいい。その優しい気持ちを、志を忘れず、続けることを、持ち続けることを、伝え続けることを、怠ってはいけない。お前がやらないで、一体誰がやるって言うんだ。今お前が泣いているのはどうしてだ? 遇津の優しさに共感できるからだ。俺には出来ない。だからお前は生きるべき何だよ、生き残るべきだ」
 間宮に優しく頭を抑えられ、胸に顔を押しつけられたまま、務はその言葉を聞いた。
「だから、生き残るぞ。逃げるんだ、ここから。アトランティスは沈む」
「……どうやって」別に間宮の言葉に納得したわけでも、行きたいと思ったわけでもなかった。それでもそう訊ねたのは、優しい遇津の顔がいくつもいくつも脳裏を過ぎるからで、それを打ち消そうと、務は必死だったのだ。
「マキナエルライトの暴発までには、未だ一日以上の間があるはずだ。接触後、暫く時間があるのは明らかになっている」
「避難させなきゃ。みんな死んじゃう」
「構うな。自分のことだけを考えろ」
 務は優しいパン屋のおばさんの顔を思い出しながら、首を何度も振った。
「駄目だよそんなの、未だ、未だ出来ることがあるのに」
「もうないんだよ。いいか、俺たちが生き残ることだけを考えろ」
「だけどせめて、アトラスとか焔紀とか、第一梓月さんに」
「とうに感知してるだろ。安心しろ、大丈夫だから。もし、あいつらが誰もいなくなっても、俺がお前の側にいてやる。不本意だけどな」
 それでもその時、務は確かに間宮の言葉で自分を取り戻すことが出来たのだった。

しおりを挟む

処理中です...