アニマスブレイク

猫宮乾

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 自宅へと戻り、収納場所から、もてる限りの衣服を鞄へと詰める。災害時用の防災備品はあったが、それらとは別に、飲食料をできる限り袋へ詰め、簡易用の火や水の用意も行った。それから数冊の本を荷物へと押し込んだ時、点けっぱなしにしていたモニターが、ムー大陸に起こった惨禍を伝え始めた。敵国であるとはいえ、人道的に救援へと向かったアトランティスの部隊が、虚構じみた英雄像として、そこには映し出されている。
 後数時間で、こちらの大陸だって、さらに悲惨な打撃を被るはずなのに。
 それを公にすることよりも、逃避の支度を優先している自身を、奇妙に思った。
「終わったか?」
 焦るようにリビングへと顔を出した間宮に向かい、務は小さく頷いた。
「行くぞ」それを確認した間宮に強く言われ、務は足早に歩き出した彼の背を追った。
 歩み出した街の風景は全く何時もと変わらず、そこには穏やかな笑みの気配が溢れている。幼い少女が花を買いに出かけ、恰幅の良い女主人が花束を作っていた。傍らの衣料品店では、毛糸の色で迷う若い女が楽しそうに頬を持ち上げていて、その横の精肉店では、今宵の食事を思案する主婦が腕を組んでいる。向かいの雑貨店では、誰にプレゼントする腹づもりなのか、少年が、一心にぬいぐるみを見つめていて、横の衣料品店では、頭髪が薄くなった男が絆創膏を手に取っている所だった。
 全てありきたりな風景で、けれど、務は叫び出さずにはいられなかった。
「逃げて。もうすぐ、ここも沈むんだ」
 その声に、驚いたように幾人かが務を見た。けれど大半は、先ほど流れたムー大陸の一件すら失念しているようで、怪訝そうに眉をひそめる。
「何やってるんだよ馬鹿」
 間宮に腕を引かれ、強く頭を叩かれる。
「一体誰が信じるって言うんだ。仮に信じたとしても、教えない優しさもあるだろ」
 務はその声に、決して納得は出来なかったのだけれど、ただうつむいて、懸命に足を動かした。
 そのまま車に乗り、その後いくつかの交通手段を経て、初めてたどり着いた間宮の部屋は、生活感の感じられない、小さな一室だった。
「……随分、小さな部屋に住んでいるんだね」
 間宮の収入であれば、いくらでも広く豪勢な部屋に住むことが可能だっただろうと考えながら、務は呟いた。
「寝に帰るだけだからな。お前と暮らしていた時を懐かしく思ったものだよ。帰っても何もないんだ。また仮眠を取って、明日が始まる。仕事が山積みの明日がな」
「それなら、誰かと暮らせば良かったのに。大体、日和ちゃんは?」
「死んだよ。前に付き合ってた女に殺された。それ以来、作る気が起きなくてな」
「作ってその人にも復讐すれば良かったのに」
「あれは駄目だね。お前と違って罪悪感を覚えるような繊細な神経をしてない。それにやっぱり、俺とお前の友情と、男女間の恋情っていうのは、似て異なるんだろうな。お前だって遇津に対して思うこともあっただろ」
「僕と彼女の関係が、本当に恋という名を冠していたのか、今となってはもう分からないけれど、それでも、すごく悲しいんだ」
「それで十分だ。俺もいつか死ぬ時には、好きな誰かに悲しまれたいとそう思う」
 目の前で避難の用意を始めた間宮は、けれど務とは違い、ものの数分で荷物をまとめた。
「え、それだけでいいの?」
「良いんだよ。必要なら、また揃えればいい」
「直ぐに揃えられる環境が訪れるとは限らない」
「でもこないとも限らないし、本当に必要となるかも分からないだろう? 良いんだよ、俺には、今持ってるもの以外、何も必要がないんだ」
「一番の持ち物はその自信かもしれないね。僕は不安でいっぱいだから」
「だったら俺がいつでもどうにかしてやるよ。代わりにお前は、俺に足りないものを貸してくれ」
 そういい笑った後、間宮が歩き出した。慌てて務が後を追う。
 二人で出た外の風は、ひんやりとして感じられ、務は目を細めた。
 間宮が手を挙げ、タクシーを拾う。
 後部座席に乗り込み、一息ついて瞬いた時、そのまま務の意識は暗黒に絡め取られた。
 微睡むような猶予もなく、蓄積された疲労が現実認知の規則正しい羅列を裁断した様で、務は自身が睡魔に飲まれたことにも気付かぬまま、闇に縁取られた別の風景を、気がつけば当然のことのように見据えていた。
 その白昼夢の中で我に返った時、務はただ一人声を上げて笑っていて、気道は熱く歓喜に震え、掲げた右手の指先までを愉悦が満たしているようだった。自身の5つの爪は、マキナエルライトにそっくりの淡い緑色の光に覆われているように見える。その指の合間を、赤とも黒ともつかない血液が緩慢に流れ落ちる感覚、感触。
 死んでしまえ、と誰かが囁く。
 場所はいつか出かけた思い出したくもないアトランティスの神殿で、演台の傍らでは跪いたエンリルが右手で、左目から頬までを覆っていた。金糸の髪が、震えで乱れ、実に滑稽だと思えば、また笑みが沸いた。止まらない。
 殺してしまえ、と誰かが呟く。
 その誰かが自分自身であるのだと自覚したのは、腕を伸ばした間宮に、実行しようとしていた身体を遮られた時のことだった。――務。確かにそう、強く名を呼ばれた。
 途端に胸が凍てつき、苦しくなって、務は目を見開いた。
「務」白昼夢を遮断し、本物の現実を捉えた聴覚にも、同時に間宮の声が入る。夢の中と似た様子で、自分の胸の正面にある間宮の腕を凝視し、務は身体をこわばらせた。
「務? なんだよ、着いたぞ?」
 困惑した表情で右側からこちらを覗き込む間宮の表情を、二度瞬きをして、しっかりと確かめた。
「ごめん、夢を――……」
「夢? 聴いてやりたいのは山々なんだけどな、とりあえず、離陸が直ぐだから。シャトルに乗ってからにしてくれ。余計なことを考えている余裕がない。いや、余計ってのも言葉は悪いと思うけどな、頼むから今はそういう言葉尻を捕まえないでくれ」
「分かってる」両手で顔を覆い、未だ鳴りやまない鼓動に耳を傾けながら、小さく務は頷いた。余計と言われたことよりも、言葉尻を捕まえそうな人間だと思われている方が、余程傷つくとも言わない。実際務自身も、そんな些末な事柄よりも、生々しすぎた夢の方に思考を絡め取られ、精一杯だった。
「手続きをしてくるから、そこにいてくれ。勝手に動くなよ」
 空港のロビーで、間宮に言われ、務は床に荷物が置かれる音を静かに聞いていた。
 それ程の慌ただしさもないその場所で、一人ソファに腰を下ろし嘆息する。
 そして、携帯電話を取り出した。間宮はとうに関知済みだと言っていたのだけれど、一呼吸着くと、やはり梓月や焔紀の事が心配になる。
 まずは梓月に電話を掛けた。遇津の事を伝えなければと、確かにそう思ったのだけれど、間宮に再会する場面をいつか空想していたあの時よりも、紡ぐ言葉が浮かばない。しかし悔恨と悲壮がせめぎ合うそんな胸の内の不安は杞憂に終わり、梓月は電話に出なかった。その事実に覚えた僅かな安堵を、頭を振って打ち消して、再度焔紀に電話する。自分は一体何を話すつもりなのかと考えて、誰だってこんな状況なら安否を確認したくなるはずだと納得させて、そんな状態で3コール。4度目が響いている最中に、電話越しに繋がる気配がした。
『もしもし。どーした?』
 驚く程何時も通りの声音。逆に問われた務が声に困って、唾液を嚥下する。
「あ……その、今どこにいるかと思って」
『なんで?』
「なんでって……アトランティスが沈むっていうから。大丈夫かなって……」
『お前間宮と行ったんじゃねぇの? 何? なのに、酷い事した俺の心配? 酷いことは、してないけどな。俺からすれば。爆弾だってなかっただろ? でもまぁお前からしたら酷かったかもな』
 揶揄するような口調で続いた焔紀の声音に、応える言葉が浮かばなくて、務はうつむいた。
『――お優しいなぁ、相変わらず。未だ俺のことをお友達だと思ってる』
「別にそんな」そこまで口にしながらも、自分が何を否定しようとしているのか分からない。優しい? 優しくなど無いという自覚があった。では、友達とは何だ。爆弾など入れていなかったというのは、友達の証か?
『ま、俺は今でもお前を友達だと思ってるけどな』
 しかし務の声を遮って、受話器の向こうで焔紀が笑った。その声を認識したのとほぼ同時に頭を小突かれ、驚いて振り返る。
 すると、柱を挟んで、向かいにも連なるソファから、焔紀が振り返り楽しそうに笑っていた。
「俺なら大丈夫だ。お前らと一緒。今からシャトルで出るよ、兄貴と。転移装置じゃなくシャトルで父成る天に戻るって言うのも新鮮だよな」
 その何時も通り過ぎる朗らかな笑顔に、務は何か言おうとしたのだけれど、やはり何も言葉を見つけることが出来はしなかった。僅かな恐怖と、憤り。叱責したい心地でもあったのだけれど、それが何を対象とする感情なのか理解が出来なかったから、胸の内に止めおく。
「梓月さんは?」だから別の言葉を探し出し、務は周囲を見渡しながら口にした。
「お前と一緒じゃないの?」
「え?」しかし何気なく返ってきた言葉は、自分の予想だにしなかったもので、不意を突かれて務は息を飲んで顔を上げた。
「あいつ、お前と遇津を迎えに行くってでって行ったきりだけど」
 務の返答に、焔紀も虚を突かれたように、まじめな表情を浮かべた。
「迎えって、何処に?」
「何処って……家じゃねぇの? 一緒じゃないのか? 連絡は?」
 次第に焦る調子にかわった焔紀の声と真剣な眼差しに、務は歯をきつく噛んだ。
「何故貴方が此処にいるんですか?」
 するとそこへ、些か緊張した声がかかった。そろって二人が顔を上げると、あからさまに目を細めたエンリルが、組んでいた腕をほどく姿があった。そのまま反射的にと言った様子で、彼は白い繊細な手で、左目を覆う。
 先ほど夢の中でみた光景に酷似していたからか、務は頭痛を覚えて右のこめかみを利き手の指で押した。
「なあ兄貴。梓月を見たか? 今手続きしてきたんだろ?」
「三十分程前からいましたが、少なくともそこにはきませんでしたよ。間宮を見て嫌な予感はしていたのですが」
「俺が梓月を見送ったのは、兄貴が手続きにいってからだから、やっぱり空港には戻ってきてないんだろうな」
 考え込むように呟いた焔紀から顔を背け、務は再度携帯電話を取り出した。
「もし連絡が取れなかったら、家に戻ってくる。間宮が来るまで、そこの荷物見てもらっていても良い?」
「ああ。まぁこういう事態だからな。でも待て務。もう空港に来てるかもしれないだろ? このまま入れ違いになったら、お前だってシャトルに間に合わなくなる」
「だけど梓月さんが」そこまで口にし、携帯電話越しの機会音声で、務は繋がらないことを悟った。
「やっぱり行ってくるよ。後はお願――」走り出した務は、そう口にした所で、誰かにぶつかり言葉を止めた。思わず顔を押さえる。
「何をお願いしたんだ? 大体、時間もないって言うのに、何処へ行く気だ」
「間宮」転んだ務の身体を支えながら、焔紀を睨め付けているその表情に、安堵と混乱が一緒くたになって意識を染めた。
「梓月さんがいないんだ。僕を迎えに家に行ったって、だから、だから行かないと」
「梓月ならとっくにシャトルに乗ってる」
「でも焔紀は、梓月さんが遇津さんと僕を迎えに家に行ったって」
「そいつを信用するなと何度言えば分かるんだ?」
「だけど」
「だけどなんだ? 焔紀が信用できて、俺は信用できないのか? 俺の方が信用できないって言うのか? 梓月はシャトルに乗ってる、俺は確かにそういったよな」
 静かな間宮の剣幕に、務は顔を上げ、唇を震わせた。焔紀と間宮の顔を交互に眺める。
 間宮の言葉に、焔紀は困ったように笑っている。
 エンリルはと言えば、どちらでも良いといった表情で、面倒くさそうに腕を組み時計を一瞥していた。
「務。確かに俺は梓月がお前と遇津を迎えに行くっていったのを見送ったきりだ。嘘じゃない。戻ってきていないことは心底心配だ。でもな、今お前が行って、仮に合流できたとしても、もう間に合わないだろ。梓月のことはあきらめろ。お前だけでも助かる方が良いって、俺は友達として思う」
「余計なことを言うな」
「間宮こそ梓月が乗ってるなんて嘘を良く吐けるな。ま、お前と梓月は、今じゃ仲違いしてるも同然だしなぁ」
「嘘をついているのはお前だろ。中華計画を一緒にやる梓月とお前は、とっくに手続きを終えていたはずだ。エンリルを待って、お前だけ此処に残ったんだろ」
「もうそれでいいよ。だからな、務。ほら、間宮も俺もこういってることだし、シャトルに乗ろう、な?」
「待っていろと頼んだ覚えなど在りません。大体僕は彼と一緒に行くなんて嫌です」
「兄貴は黙ってて。今は大事な所なんだからさ。この件で、務が後悔して、おれと間宮を一生恨んだとしても、今目の前で一人の友人を亡くすよりましだ」
「焔紀、その白々しい口を閉じろ。務に余計なことを吹き込むな」
 確かに焔紀のことは信用できなかった。その上、仰々しいこの台詞と態度に、疑念だってつきまとった。それに間宮の言葉を疑ったわけではない。だが、彼と叔父の仲が最近険悪なのも事実だった。信じるべきは間宮なのだと分かってはいる。けれど、けれどだ。後悔するのは嫌だった。もう、嫌だった。何よりも、二人のやりとりは、残り僅かな時間で、自分をシャトルに乗せるための戯れ言に聞こえる。
「だから待てって言ってるだろうが」再度走り出そうとした務の腕を、間宮が強く引く。
「離してくれ、間宮。僕は行くよ。君のことが信用できないんじゃない、だけど、梓月さんが家にいるかもしれない。置いていけない」
 そうしてこれから一生思い悩むくらいならば、今死んでしまった方が、どんなに気が楽なことか。いつか笑顔で梓月を見送ってしまった日のことを思い出す。残された日々は、そのままなのに、欠けた何かが健常だった心の内まで何時しか蝕み始めるのだ。
「それは俺じゃなくて焔紀を信じるって意味だな? いや、もう良い。巫山戯るな。仮にだ、仮に梓月が本当はシャトルに乗っていなかったとしてだ、だからなんだっていうんだ? お前はもう何人もの街の人間を見捨てる決意をしただろ。それと梓月を見捨てない違いは何だ?」
「だって梓月さんは、俺の」
「血縁だから特別だってか? 巫山戯るな。お前は俺に着いてくるんだよな? 梓月か? それとも焔紀か? 冷静になれ。お前が信じるべきなのは誰だ? お前は信じられない人間について行くのか? お前は俺の事なんてつゆほども信じちゃいない、違うか? 俺だって信用の出来ない奴なんかを側に置きたくない。それも焔紀なんかの言葉を真に受けて、俺を疑うような馬鹿をな。何でだまされてることが分からないんだよ。今は時間がないんだ、頼むから落ち着いてくれ」
「だまされてたって、それでも、いいだろ、別に。梓月さんを見殺しにするよりマシだ」
 言葉とは裏腹に、冷静さを欠いた間宮に対して、務は叫び返した。
「もういい、分かった」
 その時だった。務は、間宮に足払いをされて、床の上に身体を叩き付けられた。息を飲んだ瞬間、間宮に膝の関節を取られる。思わず息を飲んできつく目を伏せた。身体の奥から、ゴキリ、というような鈍い音が鼓膜へ伝わり、痛みで喉が震える。
「あ、あ、あ――ぅあああああああああああああああああああああああ」
 そのまま床に右半身を預けた状態で、太股の関節を両手で押さえる。背骨がしなる度に、体中が痛みを訴え、耳鳴りが始まった。
「全く人が下手に出てやれば、ずけずけと。つけあがるなよ」
 そう吐き捨てた間宮が、乱暴に務の手首を掴みながら、舌打ちする。
「大胆だなお前も。この衆人環視の最中。何、骨折ったの?」
「外しただけだ。大体誰のせいだ、いい加減にしろ。焔紀、お前のその愚図な頭だって緊急時とそれ以外くらい区別が付くだろ。詫びろ、全力で俺に詫びろ。そして心して、そこの無駄に多い務の荷物を持て。それくらい出来るだろ」
 自分の荷物のみ、自分で肩から提げ、務を引きずりながら、間宮は歩き出した。
「は? 嫌だね。何で俺がそんなこと」
「一生恨まれても構わない、お友達なんだろ」
「冗談。だって俺、務よりもさらに無駄に多い兄貴の荷物持たなきゃならないしさぁ。兄貴か弱いからさぁ」
「無駄なものなど在りません。大体僕は、もってくれなどと頼んだ覚えはありません。貴方も、神野君の荷物ぐらい持って差し上げたらいかがです?」
「あれ、兄貴優しい、熱でもあるのか?」
「覇者たる者、このような些末な雑事に慈悲の一つももてないようでは、器が小さいとしか言いようがない」
 ひきずられながら、浅い呼吸を繰り返し、痛む腕と太股に意識を集中させていた務には、そんな彼らの会話など、現実離れして響いていた。床の上を滑っていく自身の体躯が、自分のものとは感じられなくなり、ただ痛みと耳鳴りと不安だけが、現実感を伴っている。
 このまま、叔父が、死んでしまったらどうしよう。また自分は何も出来なかったのだ。そんな不安は、けれど痛みよりもずっと弱くはかない存在だ。
 それが一段落したのは、シャトルの絨毯の上に座らされた時のことだった。
 痛みで朦朧としたまま、間宮に関節をはめ直される。
 力の入らない身体で座り込んだままの務の左手を取り、間宮が鎮痛剤を注射した。
 険しい表情のまま、間宮は何も言わない。
 務も言葉が見つからないまま、緩慢な動作で顔を背けた。
 その視界に、荷物を降ろして肩で息をしているエンリルが入り、そして、目を見開いた。一歩先で立ち止まった焔紀の横に、梓月が立っていた。
「随分遅かったな」気怠そうな表情で、焔紀に対して叔父が掛けた声を聴覚が認識し、務は体中の緊張が解けていくことを自覚した。あるいはそれも、鎮痛剤のもたらした弛緩だったのかもしれないが、確かに心もまた軽くなったように思ったのだ。
「待ったか? 務がシャトルに乗らないって暴れたんだよ。それで俺が、あいつの荷物持ちする事になってさ」
「焔紀が、梓月は務を迎えに家に帰ったなんて行ったからだろうが。やっぱり、先に乗ってるを知っていやがったくせに」
 務の元から立ち上がり、いらだたしそうに歩み寄った間宮は、焔紀から、務の荷物を強引に引き寄せた。
「務が?」間宮の言葉に、面倒くさそうに梓月が務を一瞥した。その冷ややかな瞳を、ぼんやりと務は見返す。
「馬鹿な奴」
「梓月、何を言うんだ。務は、お前を心配して」
 叔父の淡々とした声音を、聞き咎めるように間宮が目を細める。
「本当馬鹿だよな。その上間宮に足外されて、ま、大概間宮も不幸だよな。自業自得だと思うが」
 間宮には応えず、軽い笑みすら浮かべて歩き出した梓月を、そういってから焔紀が追う。慌てたようについていくエンリルを、間宮が視線で見送った。それから振り返った彼に対し、務は力なく笑いながらうつむく。
「務」梓月の態度故なのか、同情するような、伺うような眼差しで、間宮が膝をついた。
「良かった。梓月さんは、本当に乗っていたんだね」
「……そうだな」
「ごめんね間宮、本当に疑ってたわけじゃないし、焔紀のこと信じてたわけでもないんだけどさ、なんか、僕、嫌だったんだ、梓月さんがまたいなくなるって言うのがさ。でもそうだね、やっぱり僕が馬鹿だったんだと思う。確かに冷静に考えたら、梓月さんが僕のこと迎えにきたりしないよね、もう。それに梓月さんなら、本当に家に戻ってたとしても、何時だってちゃんと、ちゃんとさ、僕よりも後のことを考えて、逃げ道用意してたはずだしさ。ごめん。ごめん」
「……ああ、お前は馬鹿だよ。でも俺も悪かった。俺も冷静じゃなかったかもしれない。もう止めにしよう、すぐに離陸だから座席に着こう」
 力の入らない身体を間宮に支えられ、何とか務は席へと着いた。
 未だ足も腕も痛む。それを実感しながら、シートベルトを締める。そして窓から景色を眺めると、それは直ぐに、角度を変えていった。
 丁度雲へとさしかかり、次第に陸地が特有の輪郭を務の視界におさめ始めた頃だった。雲の合間から、陸地の一角に直線が走り、海が、水滴を落とされた水たまりのように跳ねる様が見えた。轟音が耳へと届く頃には、雲よりも下へと代わっていた大地の一部が、暗い海へと沈み始める。
「転送装置を経由しなくて良かったな。やっぱりもう暴発は始まっていたのか」
 間宮が、務越しに下界を眺め、眉をひそめた。
「アトランティスはどうなるの?」
「沈む以外の回答が欲しいのか?」
 間宮に問われ、けれど自身の問いの欲するものが、自分でも分からなかったから、務は静かに目を伏せた。嗚呼、沈んでいく。様々な記憶も、思いでも、全て。全てを捨ててしまいたい心地になったから、務は静かに唇をなめた。置いていこうと決意して。


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