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―― 第一章 ――

【023】ステッキ

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 二杯目のオレンジジュースを飲み干し、時生がコップを置いたのは、午前十一時半のことだった。
 玄関の音がガラガラと開く音が台所まで響いてきたので、顔を向ける。

「あら、誰だろうね?」

 揚げ物をしている小春が首を動かす。

「僕、出てきます」
「病み上がりなのに悪いわねぇ」

 申し訳なさそうに眉を下げた小春に微笑を返し、時生は立ち上がる。確かに体力は少し落ちているかもしれないが、既に十分動ける。最初の小さな仕事としては丁度良いだなんて思いながら、時生は玄関へと向かった。

「はい、どちら様ですか?」

 声をかけながらひょいと顔を覗かせ、直後時生は硬直した。
 そこには馬車の御者を伴っている、父・隆治の姿があったからだ。瞬時に時生は青褪める。手足の指先がさっと冷たくなり、全身から血の気が失せていく。

「随分な挨拶だな、時生。父を忘れたというのか?」
「……お、お父様……」

 過去に、そう呼べば、『お前の父であるつもりなどない』として蔑むような眼差しを向けられたこともあったが、他に相応しい言葉が思いつかなかった。

「礼瀬様のお宅にご迷惑をおかけしているとは驚いた。すぐに戻るように。迎えにきた」
「っ」
「帰るぞ」

 いつになく穏やかな声の父は、時生に向かってそう述べた。
 実際、迷惑をかけているのは間違いないと、時生も考えている。

「迷惑なんかじゃないぞ!」

 その時、声がしたから時生は目を丸くする。反射的に顔を向ければ、真奈美の腕から抜け出して、澪が走ってくるところだった。澪はそのまま、時生に飛びついた。慌てて時生が抱き留める。

「時生、行くな!」

 澪はぎゅっと時生に抱きつくと、隆治を睨んだ。

「時生を連れていくな!」
「――これはこれは、子供の躾け一つ満足に出来ていないとはな」

 すると呆れたように、隆治が嘆かわしいという顔で息を吐いた。
 そこに早足で真奈美が追いついてくる。

「そちらこそ連絡もなく急なご来訪の上、こちらの主人の許しもなく、随分と勝手な物言いをなさるのではありませんか? お引き取りください」

 彼女もまた、臆した様子もなく、隆治を睨んでいる。
 すると茶色いステッキを持っていた隆治が眉をつり上げ、それを振り上げた。
 前へと出ていた真奈美に、躊躇無く隆治がそれを振り下ろそうとする。真奈美にもそれには呆気にとられた様子で、動くことが出来ないようだった。時生は息を呑み、澪の体を離すと、慌てて割って入る。

 鈍い音を立てて、時生のこめかみの当たりをステッキが殴りつける。

「行くぞ」

 時生がふらついた時、その腕を隆治が強引に取った。
 こめかみから、なにかぬめる感触がする気がし、床を見れば、ぽたりと紅い血が落ちたのが見え、澪の泣く声と、真奈美の叫ぶ声が響いたけれど、意識がぐらついていた時生はそのまま足をもつれさせるようにして、腕を引かれるがままに玄関から連れ出された。

 正面には高圓寺家の家紋が入った馬車があり、ふらついている時生の体を御者が持ち上げて馬車に乗せる。その隣に隆治が乗ると、扉がすぐに閉められた。

 それから馬車が走り出したのを理解した時生は、痛みというよりも、脳震盪を起こしていて、意識を手放した。

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