あやかしも未来も視えませんが。

猫宮乾

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―― 第二章 ――

【029】奥様の帰還

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 その夜帰宅した偲は、真奈美から文を受け取ると、息を呑んで何度も文面に視線を走らせていた。それから実に嬉しそうに破顔した。

「そうか……やっと許してくれる気になったのか」

 そう言って偲が食堂へと歩きはじめたので、澪と共に出迎えた時生もその後をついていく。椅子に座ってから、食事が始まってすぐ、偲は赤ワインの入るグラスに手を伸ばした。

「よかったですね」

 時生が微笑を向けると、ゆっくりと頷いてから、不意にじっと偲が時生を見た。

「家内が帰ってくるからといって、時生が出て行く必要はない。出て行こうなどとは考えるなよ? 澪も、それに俺も皆も、そちらの方が寂しくなってしまうからな」

 内心を見透かされたような心地になり、時生は焦って顔を背ける。
 すると偲が喉で笑った。

「俺もだんだん時生が考えることが分かるようになってきたようだな」

 それを聞いていた澪が目をまん丸に開いた。

「時生がいなくなっちゃうのはダメだぞ!」

 二人の声に、時生は照れくさくなり、微苦笑しながら小さく頷いた。
 それから、聞いてよいのか少し迷ったが、窺うように偲を見て、尋ねることに決める。

「ところでどうして奥様は、今まで出ておられたんですか?」

 さきほど『許してくれる』と、偲が話していたことが気に掛かっていた。

「ああ……実は俺がな、『決して開けないで欲しい』『部屋に入ってこないで欲しい』と言われたのを破って、中を覗いてしまったんだ。三日も出て来なかったものだから、心配してしまってな」

 思い出すように偲が遠くを見るような顔をした。

「それがよほど辛かったようでな……その日のうちに、家内は出て行ってしまったんだ」
「そうだったんですか……」
「明日は休みを取るから、俺も出迎える。その時に、改めて紹介する」

 偲はそう述べると、時生を見て柔和な笑みを浮かべた。


 ――明くる日。
 朝から時生は、緊張していた。ここにいる事を、奥様にも許して頂きたいという想いがある。上手くご挨拶できるだろうかと考えながら朝食に臨み、昼の十時にお帰りになるという話を、時生は聞いた。

 澪は本日、偲の部屋にいる。時生は一人自室で、そわそわしながら待っていた。
 時計をチラチラと見れば、もうすぐ午前十時だったので、そろそろ一階に降りようかと考える。ゆっくりと立ち上がり、時生は部屋を出た。

 そして玄関へ向かうと、そこには真奈美と小春の姿があった。
 玄関に花を飾っている。

「奥様がお好きなのよ、このお花」

 視線に気づいた真奈美の説明に、時生もまた綺麗な花だなと考えながら頷いた。

「なにか手伝いますか?」
「大丈夫よ」

 そうこうしていると、澪を抱き上げた偲が訪れた。本日は二人とも着物姿だ。
 壁の時計は、既に十時の十分前を指している。

 ガラガラと玄関の扉が開く音がしたのは、その時ことだった。
 慌てて時生はそちらに視線を戻し、剃髪した男性二名が黒い台にのった巨大な鶴を運んできたのを見た。非常に大きい。奥様の持ち物だろうかと、まじまじと時生はそれを見る。

静子しずこ……! よく帰ってきてくれたな!」

 偲がいつになく高揚した声を放つ。

「お母様!」

 澪の声も弾んでいる。
 時生は何度か瞬きをした。目の前には男性二名と鶴しかおらず、扉は外から入ってきた渉が閉めたところである。もしや、あやかしなのだろうかと、時生は考える。それならば、己には視えない。

「ただいま戻りました」

 するとかろやかな女性の声がその場に響いた。時生は首を傾げ、その声がした方を見る。鶴である。白い羽には黒い模様があり、頭部は赤く、嘴は黄色だ。よく見ると、その嘴が動いた。

「貴方、ごめんなさいね……? 澪も、心配をかけたわね……」
「いいや、静子。俺が悪かった。二度と覗くような真似はしない」
「いいのです、わたくしも人の姿を象って、本当の自分の姿を偽っていたのがよくなかったのですから。私、これからは嘘偽りない、この鶴の姿で常におります」
「俺はどんな姿であろうとも、静子の心根に惚れているんだ。だから、ありのままでいてくれてよい。もう出て行ったりしないでほしい。澪のためにも、なにより俺のためにも」

 そういえば、と、時生は思い出した。
 以前確かに偲は、『鶴だ』と話していた。まさか、奥様とは、鶴なのだろうか。時生は目を疑いつつも、眦に光るものを浮かべている澪と偲、そして巨大な鶴を見る。

 すると真奈美が気づいた様子で、時生の腕を引くと小声で言った。

「奥様は、鶴女房伝承のもととなった鶴見つるみ家のご息女で、鶴の血を引いておられるの。先祖返りで、その血がとても濃く出ておられるそうで、私も最初は驚いたけれど、鶴の姿が本質なのですって。旦那様とお見合いなさった時は、人間のお姿をなさっておいでだったから、鶴の姿が本体であることを、旦那様も最近までご存じなかったそうなのよ。私も最初は驚いたけれど、奥様はお優しい方だから、心配はいらないわ」

 それを聞いて、時生はおずおずと頷いた。

「そうだ、静子。紹介する。こちらは新しく家に来た高圓寺時生といって、澪の面倒を見てくれているんだ」
「まぁ、そうですの。宜しくお願い致します。澪がご迷惑をおかけしていなければいいのだけれど」

 そこへ優しげな声が二つ、時生へと向けられた。
 時生は慌てて頭を下げる。

 こうして、この日から礼瀬家には、静子が帰還したのだった。


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