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金継ぎの青 下:ブルー編
夢を渡って
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青井はうたた寝の最中だった。だからきっと、ここは夢の中だ。
柔らかい陽射しのあたる美しい庭で、二人はひなたぼっこをしている。
「そう……これが貴方の幸福なのね」
驚いて隣を見ると、ブロンドの美女が微笑んでいる。優しそうな人だ。しかし面識が無い、困ったな。名前が呼べない。
「いいのよ、可愛い子ね。初めまして。私はリリス。貴方の名前は?」
「……青井、清一」
「アオイくんね。知ってるわ。あの子が選んだお嫁さん♡まだ若いのに、心の中はおじいちゃんみたいに穏やかなのねえ」
赤い夜会用ドレスに身を包んだ彼女は、機嫌良さそうに手を伸ばして青井の頬を撫でる。恥ずかしい気持ちより心地よい感覚が勝った。何となく逆らってはいけない気がする……。大人しく目を細めて撫で繰りまわされていると、女は徐々にはしゃぎ出す。
「やだあ、すっごい可愛いじゃない?食べちゃだめよね?駄目よねえ……。」
「?あ、その……それ、どうぞ……?」
「違うの。ケーキじゃないのよ♡でもありがとう、頂くわ。精気が吸えないなら、今回のお代はその髪を貰おうかしら」
「お代って……」
「渡し賃のことよ♡でもいいの。どうせ忘れてしまうのだから」
アイアンテーブルに置かれていた茶菓子の皿を彼女に渡す。リリスはネコのような笑顔でケーキを一口、青井に優しく話しかけた。
「素敵な庭園ねえ。ここは貴方のご実家?」
「あ、はい……。実家というか、貰われた家、というか……。」
見事な薔薇の庭園に、顔の霞んだ子どもたちが現れてかくれんぼを始める。青井は八つで孤児になり、この教会に保護された。美しく生い茂る薔薇は、シスターの管理しているものだ。まだスプリンクラーが壊れていない。一番綺麗立った頃の庭だ。
「あの方がお母様?」
リリスの白いレースの手袋が向けられる方向には、小さな背を丸めたシスターがいる。何か手入れで苦労しているのだろうか。長くそこから動こうとしない。陽光に柔らかく包まれる庭園の中で、そこだけ寒々しく見えた。
「あの、すみませんが」
「いいのよ。お構いなく。……行ってあげて頂戴な」
赤く縁取られた唇の弧に背を押され、青井は駆けだした。母さん、母さん。何があったのかな。また病気の薔薇がでたのかな。それとも虫がうまくとれないのかな。……ぼくがなんとかしてあげられるだろうか。
「かあさん!」
どうしたの。小さい掌が修道服の背に触れる。シスターは振り向かない。痛んだ薔薇に添え木をしているようだ。
「お前がうちに来た年です。この苗を植え付けたわ。春の日だった」
シスターの声がさざ波のように揺れる。庭園の外では轟々と音を立てて、何もかもが燃え落ちている。覚えているとも。青井はそこから連れ出され、この教会に引き取られた。
「お前はいつもいいこでした。いい息子であろうとしてくれた。私はそれが、とても……。そうでなくても。お前は大事な息子だと、言っていればよかったのに」
バラ園で子どもたちが戯れる声がする。すぐに声は少年期のそれになり、誰かがひとり庭を出て行った。学校にいくのだろうか。お祝いの写真を撮るために、近所の写真館から人が来ている。
「みんなうれしそう」
「そうね。良い日でした。こんなふうに天気もよくて」
シスターの隣にしゃがみ込むと、土の湿った匂いが鼻孔を突いた。くたびれた修道服に、皺だらけの小さな手。
母の手はあかぎれて痛々しかった。青井の小さな手がそれに重ねられる。
「いたい?」
「いいえ……大丈夫よ」
薔薇の生け垣の向こうで、大きな声が聞こえる。いつの間にか星空になっていた。修道院の入り口には下品な言葉が悪戯書きされ、ゴミの袋が投棄されている。弟が、誰かを罵る声が響く。母が泣く声も合わさって、青髪の男がひとり、庭園を出て行った。きっとそして、二度と戻らなかった。……戻ることはできなかった。
視線を落とすと、さっきまで背を伸ばしていた手元の薔薇は、虫食いだらけの病気持ちになってしまっていた。それでもシスターは丁寧に虫をとり続ける。もう掘り出して、新しい苗を植えたらいいのに。言うこともできなくて、不満げにズック靴の爪先にある土をいじった。
「薔薇、きたなくなっちゃった」
「……そうね。きっと、とても……頑張ったのでしょう」
病気の部分を切り取らなければ今日明日にも立ち枯れてしまいそうだ。
興味深げに眺める子どもの横で、彼女は意を決したように剪定鋏を握り締める。
「……ずっと貴方に言いたかった。あのとき、帰ってきなさいと言えれば良かった……」
学生服の裾を弄る。擦れたソールから地表の温度が伝う。
「ホントの母さんじゃないのに?……迷惑かけられないよ」
「ずっと私はそのつもりでしたよ。お前にとっては、それが足枷になってしまったけれど」
ぱちん、ぱちんと病に冒された枝葉が優しく切り取られる。
就職祝いの革靴に、雨粒が落ちた。涙だと気づくのにはもう暫くかかる。
「俺に帰ってこいって……もう言いたくない?」
「言いたいですよ。でもきっと、もう少しだけ、お前は忘れていたほうがいいのです」
声が遠い。隣にいるのに触れない。蹲る青井の隣で、老女が大事な記憶ごと枝葉を切り取っていってしまう。
「たくさん頑張りました。こんなになるまで」
ぱちん。パチン。ぱちん。
「この葉は重いでしょう」
ぱちん。ぱちん。
「この枝も苦しかったろうに」
ぱちん。
「全部私が覚えておくから……元気になるまで、私たちごと忘れてしまいなさい。もういい年なのだから、自分の人生を考えなければね」
庭は明るい。彼女が籠に集めた枝や葉だけが、闇を吸ったように黒々と煌めいては陰る。それらは全て繋ぎ合わさると、シスターの手の中で群青の薔薇を形作った。
「預かっておきますから」
シスターは言う。ははが言う。おかあさんが言う。だれが、僕の、俺の、……だれ?
いつか。貴方が取りにいらっしゃい。
青井は泣いた。必ず行くと、だれかに叫んだ。
かつての庭は遠くに失せる。そろそろ時間よと女の声がして、子どもは呼ぶ声のする方へと走り出していた。
柔らかい陽射しのあたる美しい庭で、二人はひなたぼっこをしている。
「そう……これが貴方の幸福なのね」
驚いて隣を見ると、ブロンドの美女が微笑んでいる。優しそうな人だ。しかし面識が無い、困ったな。名前が呼べない。
「いいのよ、可愛い子ね。初めまして。私はリリス。貴方の名前は?」
「……青井、清一」
「アオイくんね。知ってるわ。あの子が選んだお嫁さん♡まだ若いのに、心の中はおじいちゃんみたいに穏やかなのねえ」
赤い夜会用ドレスに身を包んだ彼女は、機嫌良さそうに手を伸ばして青井の頬を撫でる。恥ずかしい気持ちより心地よい感覚が勝った。何となく逆らってはいけない気がする……。大人しく目を細めて撫で繰りまわされていると、女は徐々にはしゃぎ出す。
「やだあ、すっごい可愛いじゃない?食べちゃだめよね?駄目よねえ……。」
「?あ、その……それ、どうぞ……?」
「違うの。ケーキじゃないのよ♡でもありがとう、頂くわ。精気が吸えないなら、今回のお代はその髪を貰おうかしら」
「お代って……」
「渡し賃のことよ♡でもいいの。どうせ忘れてしまうのだから」
アイアンテーブルに置かれていた茶菓子の皿を彼女に渡す。リリスはネコのような笑顔でケーキを一口、青井に優しく話しかけた。
「素敵な庭園ねえ。ここは貴方のご実家?」
「あ、はい……。実家というか、貰われた家、というか……。」
見事な薔薇の庭園に、顔の霞んだ子どもたちが現れてかくれんぼを始める。青井は八つで孤児になり、この教会に保護された。美しく生い茂る薔薇は、シスターの管理しているものだ。まだスプリンクラーが壊れていない。一番綺麗立った頃の庭だ。
「あの方がお母様?」
リリスの白いレースの手袋が向けられる方向には、小さな背を丸めたシスターがいる。何か手入れで苦労しているのだろうか。長くそこから動こうとしない。陽光に柔らかく包まれる庭園の中で、そこだけ寒々しく見えた。
「あの、すみませんが」
「いいのよ。お構いなく。……行ってあげて頂戴な」
赤く縁取られた唇の弧に背を押され、青井は駆けだした。母さん、母さん。何があったのかな。また病気の薔薇がでたのかな。それとも虫がうまくとれないのかな。……ぼくがなんとかしてあげられるだろうか。
「かあさん!」
どうしたの。小さい掌が修道服の背に触れる。シスターは振り向かない。痛んだ薔薇に添え木をしているようだ。
「お前がうちに来た年です。この苗を植え付けたわ。春の日だった」
シスターの声がさざ波のように揺れる。庭園の外では轟々と音を立てて、何もかもが燃え落ちている。覚えているとも。青井はそこから連れ出され、この教会に引き取られた。
「お前はいつもいいこでした。いい息子であろうとしてくれた。私はそれが、とても……。そうでなくても。お前は大事な息子だと、言っていればよかったのに」
バラ園で子どもたちが戯れる声がする。すぐに声は少年期のそれになり、誰かがひとり庭を出て行った。学校にいくのだろうか。お祝いの写真を撮るために、近所の写真館から人が来ている。
「みんなうれしそう」
「そうね。良い日でした。こんなふうに天気もよくて」
シスターの隣にしゃがみ込むと、土の湿った匂いが鼻孔を突いた。くたびれた修道服に、皺だらけの小さな手。
母の手はあかぎれて痛々しかった。青井の小さな手がそれに重ねられる。
「いたい?」
「いいえ……大丈夫よ」
薔薇の生け垣の向こうで、大きな声が聞こえる。いつの間にか星空になっていた。修道院の入り口には下品な言葉が悪戯書きされ、ゴミの袋が投棄されている。弟が、誰かを罵る声が響く。母が泣く声も合わさって、青髪の男がひとり、庭園を出て行った。きっとそして、二度と戻らなかった。……戻ることはできなかった。
視線を落とすと、さっきまで背を伸ばしていた手元の薔薇は、虫食いだらけの病気持ちになってしまっていた。それでもシスターは丁寧に虫をとり続ける。もう掘り出して、新しい苗を植えたらいいのに。言うこともできなくて、不満げにズック靴の爪先にある土をいじった。
「薔薇、きたなくなっちゃった」
「……そうね。きっと、とても……頑張ったのでしょう」
病気の部分を切り取らなければ今日明日にも立ち枯れてしまいそうだ。
興味深げに眺める子どもの横で、彼女は意を決したように剪定鋏を握り締める。
「……ずっと貴方に言いたかった。あのとき、帰ってきなさいと言えれば良かった……」
学生服の裾を弄る。擦れたソールから地表の温度が伝う。
「ホントの母さんじゃないのに?……迷惑かけられないよ」
「ずっと私はそのつもりでしたよ。お前にとっては、それが足枷になってしまったけれど」
ぱちん、ぱちんと病に冒された枝葉が優しく切り取られる。
就職祝いの革靴に、雨粒が落ちた。涙だと気づくのにはもう暫くかかる。
「俺に帰ってこいって……もう言いたくない?」
「言いたいですよ。でもきっと、もう少しだけ、お前は忘れていたほうがいいのです」
声が遠い。隣にいるのに触れない。蹲る青井の隣で、老女が大事な記憶ごと枝葉を切り取っていってしまう。
「たくさん頑張りました。こんなになるまで」
ぱちん。パチン。ぱちん。
「この葉は重いでしょう」
ぱちん。ぱちん。
「この枝も苦しかったろうに」
ぱちん。
「全部私が覚えておくから……元気になるまで、私たちごと忘れてしまいなさい。もういい年なのだから、自分の人生を考えなければね」
庭は明るい。彼女が籠に集めた枝や葉だけが、闇を吸ったように黒々と煌めいては陰る。それらは全て繋ぎ合わさると、シスターの手の中で群青の薔薇を形作った。
「預かっておきますから」
シスターは言う。ははが言う。おかあさんが言う。だれが、僕の、俺の、……だれ?
いつか。貴方が取りにいらっしゃい。
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