さようなら竜生 外伝

永島ひろあき

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夜の子供達

月は夜の空に輝かない

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 自警団の女傑ダマキは、夜月が視界から消えたのを確かめてから、大きく深呼吸をして小屋の中へと入った。今もまぶたを閉じればあのおぞましい程に美しいダンピールの顔が蘇り、ダマキの正気を失わせようとしてくる。
 頬の内側を噛み、その痛みで正気を取り戻してから、ダマキはベッドの上に腰かけている幼馴染を見た。
 窓という窓のカーテンは下ろされて、陽光が差し込むのを拒絶している。血を吸われた影響により、カズノが陽光に苦痛を感じるようになっていた為だ。

「ダマキ、夜月さんを追い返したのね?」

 夜月との会話は声を低く押し殺したものだったが、小屋の中のカズノには聞こえていたらしい。会話の詳細なところまで分かるものではないだろうが、吸血鬼化の進行によって聴力も増しているカズノには、細部まで聞こえていたに違いない。
 ダマキは穏やかだがどこか不穏なものを感じさせるカズノの声に、不安とわずかな怯えを抱きながらそうした理由を答えた。

「ええ、村長はやたらとあのダンピールを買っているけれど、何の為にこの村に来たのかさえ分からないような奴よ。凄腕だからといって、信用していい相手ではないわ」

 小屋の柱にもたれかかりながら告げるダマキに、カズノは顔を俯かせる。長い髪が掛って、彼女の横顔をダマキの瞳から隠した。

「そうね、そうダマキの言う通り。あの人を信用するのも頼るのにも、私達はあの人について知らない事が多いわ。ダマキが心配性なのも、少しはあると思うけど、ふふふ」

 カズノの笑い声がダマキの良く知るものであったから、ダマキは肩に入っていた余計な力を抜く事が出来た。まだ一度血を吸われただけで、バンパイアになったわけではないのだが、それにも関わらずカズノの傍に居るとまるで冬の荒野に立っているかのように、体と心が寒さを覚えてしまう。
 これでカズノが完全にバンパイアになってしまったら、いったいどうなってしまうのだろうと、ダマキは想像するだけでも恐ろしくて仕方がない。

「いつの間にか小屋に入って来ていた小間使いを見つけて、追っ払ったっていう腕前は認める他ないと思う。それに、昔からバンパイアを狩るのにはダンピールが最適だって言われているからね。
 だからこんな時に村に居た彼を頼りたくなるのも分かる。これで彼が名うてのバンパイアハンターか何かだったら、あたしも少しは譲歩したかもだけれど」

「そうかもしれないわね。でも村の誰もあの人の事を知らなかった。あれだけ綺麗で、あれだけ強いダンピールなら噂になっていてもおかしくはないのに。あの人が一体どこから来て、何を目的にしているのか、どこへ行こうとしているのか。私、それが知りたいわ」

 まるで恋する乙女のように切なる響きを交えて口にするカズノを、ダマキは止めるべきだとも、諌めるべきだとも思ったが、それを言葉にする事は出来なかった。それはダマキも同じ想いを抱いていたからかもしれない。
 夜の月と名付けられたダンピールの若者が、何を目的としているのか。どこからやってきたのか。どこへ向かおうとしているのか。
 ダマキとカズノだけでなくザグフ達ですら知りたいと思うそれらに、答えが与えられる時は来るのかどうか。それは運命と未来の流れを読み解くすべを知らぬ彼女らには、分からないものだった。



「生まれと育ちは北の大陸だ」

 と夜月が答えたのは、途中で合流したニックと輸送隊の三人組に質問されたからだ。何気ない日常会話の体裁で話を振った結果である。相手が夜月であるから返答はないものと思っていた四人だが、意外にも夜月はきちんと答えていた。
 これには質問した四人の方が驚いて声を失った程である。夜月はそんな四人の反応は気にも留めず、村の西側にある防護柵を目指して進み続けている。
 夜月は普通に歩いているだけである筈なのに、少し速度を緩めるとあっという間に置いて行かれそうになる。これもバンパイアの血の成せる技だろうか。
 四人の中で最も若く恐れを知らないチーモが、好奇心を隠しきれずに質問を重ねた。

「北の大陸って海の向こうだろう? すげえな。おれの周りに海を越えた事のある奴なんて、一人もいないぜ。おれが子供の頃から大陸間の交流が頻繁になったけど、こっちの大陸の真ん中よりのここらじゃ、あんまり縁がないから」

 海の向こうに興味があるのはチーモばかりではない。油断なく愛用の弓を肩にかけた髭もじゃのシルコも、魔本を左脇に抱えているゾーニも北の大陸からやってきた異邦人の話に耳を傾けている。
 輸送隊の面々以上に大陸を歩き回っているニックも、生まれ育った大陸を離れた事はないのに加えて、とある事情から夜月に興味がある為、思わず恵まれた好機を逃すまいと口を開いた。

「そういえば君がどうしてこの村に足を運んだのか、聞いていなかったな。わざわざ海を渡って来たのだから、それ相応の理由がある……なんて勝手に考えてしまうが、差し障りのない範囲で教えてもらえると助かる、というよりは嬉しい」

「何の事はない。ただの観光と墓参りだ」

 夜月の淡々とした答えにぎょっと目を見開いて驚きを示したのは、シルコだった。観光とはいやはや、この青年になんと似合わない行為であるだろう。
 それに比べれば墓参りはまだ理解が及ぶ。死者を埋葬した場所は生が死と触れる数少ない場所だ。その狭間の場所に、このダンピールの青年が居る事はひどく自然な事のように思われた。

「観光に墓参りだあ? なんだ、じゃあ、ジュウオ村の近くにお前さんの先祖の墓でもあんのか? 平民はともかく貴族階級のバンパイアの墓所は城じみた派手さだっていうが、そんなもんあったか?」

 極自然と夜月のバンパイアの親が、並のバンパイアではないと信じ込んでいるのが分かるシルコの発言に、チーモもゾーニも異論を唱えない。月光の化身のような男の親が、並である筈がない、と頭から思い込んでいたのである。そしてそれはきっと正しい。

「墓参りの場所はここではない。バンパイアの母はこの地を離れて北の大陸で父と出会い、子を産んでからはこちらを訪れた事はなかった。子であるおれもこの地に足を踏んだのは今回が初めてだ。
 身内で一度くらい顔を見た事のない祖先の墓参り位はしておこう、母の生まれ故郷を見てみよう、という話になり、そうしておれは今ここに居る」

「それはまた、お前さんもたまたま面倒事に巻き込まれたってわけかい。ここら辺が墓参り先の近道だったのか? 朱塗りの大地に近づく程、ダンピールへの風当たりは強ええだろうから、苦労したんじゃねえのか」

「身をもって体験している最中だ」

 そりゃそうだな、とシルコは思わず呟いた。得体のしれないダンピールをカズノの傍には置いておけない、と拒絶されたばかりであるし、時折見かける村人達も輸送隊とニックはともかく、夜月に関しては恍惚と蕩けながらも恐怖を隠しきれずにそそくさと逃げ出している。

「バンパイアとその系譜に連なるものへの風当たりの強さは、土地の歴史を考えれば当たり前だが、その割に君達はおれに対して遠慮がない。恐怖はないわけではなさそうだがな」

 今度は夜月からの質問だ。最初からやけに友好的だったニックもそうだが、輸送隊の面々にしても夜月に対して、村人よりも遥かに胸襟を開いた態度で接してきている。夜月の問いには魔本の表紙をなぞりながら、ゾーニが答えた。

「こんな状況だ。あんたの尋常じゃない腕前に頼っているのもある。それに親がバンパイアなら、この村で誰よりもバンパイアを知っているのはあんただろう。自分達が生き残る為にも、その次に犠牲者をなるべく減らす為にも、あんたには協力した方がいいって、三人で顔を突き合って相談した結果だ」

「筋は通っているな」

 と口にしたのはニックである。女物の黒薔薇の帽子が特徴の傭兵は、自分以外にも夜月の味方が増えたのが嬉しいのか傍目にも上機嫌だ。

「しかし、君らは荷物の傍を離れても大丈夫なのか? 配送先の集落の人々が輸送隊の荷物をちょろまかそうとする、なんてのは残念ながら珍しい事ではないだろうに」

 辺境の中でも特に厳しく余裕のない生活を営んでいる開拓村で、村人達が自発的に手伝いを申し出て来た時には、絶対に断れ、目の届かないところで荷物を盗まれるぞ、と輸送隊の新人は上司から耳にタコが出来るくらいに繰り返し言い聞かされる。
 シルコ達もそれは重々承知しているが、今回は荷物を盗まれる心配はなかった。

「生憎と物資はもう配り終わったんでな。持ち込めた物資が予定より大きく減っちまったし、村長が配分をさっさと決めて、村人がそれに素直に従ったお陰さ。状況が状況だし、配分で揉めている場合じゃないって、全員が考えていたんだろうな」

 髭をいじりながらしみじみと語るシルコに、ニックはなるほどと相槌を返した。確かに、バンパイアの脅威がすぐそこにまで迫っている上に、外に助けも呼べない状況では村の中でいざこざを起こしている場合ではあるまい。
 非常時であるが故にいつもつきまとう面倒事が避けられたのは、皮肉としか言いようがない。夜月と輸送隊とでお互いの情報を交換したところで、ニックが話題を『今』に変えた。

「ところで夜月、カズノさんから離れて何処に向かっているのだ? このままだと村を囲う柵に突き当たるぞ」

 そう問う間に動物避けの柵が見えてきたが、夜月は足を止めずに音も立てずに進み続ける。彼に追従するのは彼自身の薄い影とニック、輸送隊の面々。
 夜月は構わず柵を越えて、少し先に広がっている森を目指してゆく。ジュウオの村の周囲にはザグフ達に追いやられた邪妖精や魔獣の類がたむろしている上に、夜月達はまだ遭遇していなかったが、ザグフの配下が放った魔物やゴーレムの類も闊歩していた。
 シルコ達は柵の前で足を止め、夜月にやや遅れてニックが柵を飛び越える。

「お、おい、村の外に出ちまうのか?」

 まさか村から離れるわけはないだろうとは思うものの、突拍子もない夜月に行動にはシルコだけでなく、ゾーニもチーモも驚いていた。ニックもそれは同じだったが、目の前の青年が一度守ると口にした相手を置いて逃げるとは露程も考えていなかった。
 夜月を追いかけながら、ニックはシルコ達を振り返る。既に夜月の姿は木々の合間に消えかけている。

「おれが彼の後に付いて行く。君らは村の中に戻れ。出来ればカズノさんのところにいって、自警団と上手くやるか、荷馬車に戻るんだ。夜まで襲撃はないだろうから、英気も養っておけよ」

 シルコ達の返事を待たず、ニックは歩くのから走るに変えて、木々と茂みの間に垣間見える夜月のコートを追った。
 森の中を五分走ったのか、十分走ったのか。その間、ニックは魔物や邪悪な妖精共に襲われる事もなかった。
 ニックはその理由を理屈ではなく直感で悟っていた。温かな血の流れる生命とあれば、怒りと憎悪で襲い掛かる魔物の類が息を潜めているのは夜月を恐れているからに他ならない。夜の支配者たるバンパイアの血を引くあの青年が恐ろしく恐ろしくて仕方がないのだ。

「ふう、ふう、いた。なんだ、木の陰に誰かいるのか?」

 夜月はひと際大きな木の根元で足を止めていた。彼の背の陰になっていて分かりにくかったが、根元に開いた大きな洞に力なくうずくまる人影があった。
 赤いコートとその下のベストとシャツをなお赤い血で染めた、黄金の髪と瞳の女――ザグフの館に侵入した追手だ。
 左の肩口から胸の中央まで深い切り傷が走り、止まらぬ血が周囲へ濃厚な血の匂いを漂わせている。
 ダンピールと今も流れ続ける温かな血……危険極まりない組み合わせに、知らずニックの咽喉が音を立てて唾を飲み込んだ。

「“おれ”に斬られた傷か。それでは塞がるまい」

 夜月に見下ろされている追手は、みじろぎしかできなくなった体でも切れ長の瞳にはまだ力があり、夜月に対してただでは死なないという覚悟の分かる光を宿している。
 紫色に変色した唇が振るえながら動いた。言葉一つを発するごとに追手の生命が零れ落ちて行く。

「使命を……果たせないと、は……無念だ。だが、ただでは……」

 ニックは追手の紡ぎ出した言葉に秘められた覚悟に、ぞっと背筋を凍らせた。なにかある、おそらくは彼女の死と引き換えに発動する類の自爆魔法か呪詛だろう。
 いつも懐に呪い避けの魔法具を忍ばせてはいるが、それだけで凌げる自信はない。ニックは夜月に急ぎ逃げるように、と声をかけようとした時、夜月の右手にはあの柄尻から切っ先まで赤一色の長剣が握られていた。

「よづ……」

「っぁ!?」

 ニックが夜月の名前を呼ぶよりも早く、赤い一閃が追手の左肩口から胸の中央までを撫でる。既に一度斬られた箇所をそっくりそのままなぞるように斬りつけ、夜月は一体何がしたかったのか。
 一度振るっただけで長剣は消え、夜月は再び追手を見下ろしている。ニックはその傍らにまで駆けより、流石に問いたださずにはいられなかった。

「夜月、なにをしている。介錯か? それとも……」

 ここでニックは追手の呼吸に気付いた。これまで蝋燭の火も消せないようなか細かった物が、徐々に太く安定したものに変わっているではないか。夜月に斬られた追手は絶命したかと思いきや、傷口からじゅうじゅうと音を発して、急速に傷が塞がりつつあった。

「これは、夜月、君が何かしたのか?」

「彼女はおれ達が辿りつく前から回復薬を使っていたが、それが効果を発揮していなかったのは、“治らないように斬られていた”からだ。それをおれが“治るように上書きする形で斬り直した”」

「なん、それは、まったく、君はつくづくわけのわからない規格外さだな」

「それでも失った血や体力まで補充される回復薬ではあるまい。獣避けの魔法具か結界を張る道具は持っていそうだが、夕暮れまではここを動かぬ事だ」

 追手へと向けられた言葉である。当の追手は我が身に起きた出来事に理解が追い付いていないのか、束の間、茫然としていたが、すぐに我を取り戻すと夜月を睨み返した。もっとも、まともに彼の顔を睨みつけたものだから一瞬で眼力を半減させたが。

「お前はザグフの館に居た……いや、同じだが違うのか?」

 追手は目の前の夜月がザグフの館で戦ったダンピールと同じ顔であると理解したが、同時に拭いきれない違和感を覚えていた。

「あちらよりも硬派……だな?」

「好きに考えろ。お前は朱塗りの大地からの追手だな。既にザグフの一派と一戦交えたか」

「追手、それなら共闘も出来るんじゃないか?」

 ザグフを討伐する為の追手ならば陶然、それが可能な実力者であるに決まっている。その追手と手を組めれば希望が増す、と考えたニックが声色を明るくしたが、追手はそれを冷たく否定した。

「私はあくまで使命の為に造反者たるザグフを滅ぼすべくこの地に来たのだ。我が使命は我らの手のみによって、果たされなければならない。お前達と手を組む等、論外だ。ザグフの牙を受けた者は哀れだが、私が奴を灰にすればその者も救われよう」

「融通が利かないなあ。カズノさんに同情するだけまだ良心的なのか? その使命感には敬服するが、ザグフに挑んだ結果がその状況だろう。ここは一時的にでも使命感に蓋をして、おれ達と協力した方が合理的じゃないか?」
 おれや村の人達は頼りにならないとしても、この夜月は凄腕中の凄腕だぞ。並のダンピールではない。爵位持ちのバンパイアを相手にしてもそうそう引けは取らない。君だって、その体で味わわされたばかりだから、納得だろ」

「……ふん、確かに私の知るいかなダンピールよりも恐ろしく、麗しい。だが、あちらにも居たような輩を安易には信じられん」

 ニックはザグフの館で追手と夜月が戦った経緯を知らないから、追手の言い分には理解の及ばぬ所が多い。それでも追手がこちらとの共闘を渋っているのは明白であった。

「協力や共闘という言葉がひっかかるのならば、おれ達を利用すると考えて貰って構わないが、どうだ?」

 まだ食い下がってくるニックに、追手は毒気が抜かれたように苦笑いを浮かべた。

「お前はあきらめが悪いな。私がバンパイアではないとはいえ、朱塗りの大地に住まう貴き方々の息の掛った者と分かれば、この大陸の住人でそのような態度を取れる者は極めて少ないだろうに。
 一度目はしくじったが、二度目はしくじらん。三度も奴に挑む必要がないよう、こちらも必殺を期す。バンパイアではない私がバンパイアを討つ追手に選ばれたのには、ソレが出来るだけの力があるが故なのだから」

 確かに追手の言う通りではある。追う者が追われる者より弱くては、追跡者としての役目を果たせまい。夜月には追手の持つ黄金剣ではザグフの全身鎧には及ばないと断言されたが、彼女にはまだ切り札が残されている口ぶりだ。
 ニックと追手の会話を黙って聞いていた夜月は、彼にとっては十分な情報収集が出来たのと、時間が迫っている事から話を切り上げに掛った。

「間もなく陽が落ちる。そうなれば奴が来る。おれはザグフを滅ぼすが、お前は好きにするがいい」

 追手は洞の中で力なく横たえていた体を起こし、まだ青い顔色のまま夜月を見る。今度は睨むというよりも見定める視線を向けている。向こうの夜月に奇妙な気配の持ち主と呼ばれた追手には、こちらの夜月に何か感じるものがあるのだろうか。

「先程の斬撃といい、今の斬撃といい、お前は一体何者だ。ただのダンピールに出来る事ではない。事によればザグフよりもお前の方が恐ろしい敵なのかもしれん」

「おれにお前と戦う理由はないが、敵と思うのならば好きに思うがいい。こちらも相応に対応するまで」

「……余計な敵は作らない方が賢明のようね。ひとつ聞くわ、お前はどうしてこの場所が分かった? 半分とはいえバンパイアの血を引く以上、血の匂いには敏感だから?」

 追手は右手の指に小さな緑色の芥子粒のようなものを持っており、それを虫でも潰すように潰す。同時に周囲にミントを思わせる芳香が広がって、血の匂いを消し去る。

「空間の歪む気配がした。何が現れるかまでは分からなかったので、こうして直に目で確かめに来ただけだ。質問には答えた。おれは村に戻る」

「この傷が癒えれば私も村に行く。ザグフを滅ぼし、陛下に背を向けた報いを与えねばならん。……奇妙な人間と奇妙なダンピール、私の事はアシュと憶えておけ」

 本名ではなく、ザグフ討伐の任務に際して与えられた偽名だろう。名前を利用した呪詛や魔法攻撃を防ぐ為に、偽名を用いるのは珍しくもない。
 それでも追手――アシュが名前を名乗ったのは、その体で味わった斬撃と触れた長剣、そして夜月の体に流れる血に、彼女が何かを察したからかもしれない。
 既に背を向けていた夜月は、アシュを振りかえらずに短く答えた。彼らしいそっけなさと冷淡さである。

「夜月だ」

「おれには興味ないだろうが、ニックだ。夜月、君は歩くのが速いな」

 慌てて夜月を追いかけるニックの姿が消えてから、アシュは再び洞の内側へ背中を預けた。そうして暗い洞の内側を見つめながら虚空に向けて言の葉を紡ぎ出す。

「夕暮れまでに傷は塞がるだろうけれど、問題はない?」

 アシュ以外にはもう誰もいない。夜月もニックも村に到着している頃合いだ。しかし、無い筈の答えがアシュには届いていた。

“ああ、問題ない。ザグフのあの鎧は想像を上回る品だったが、私が必ず仕留めて見せよう”

 アシュと同じ年頃の自信に満ち溢れた女の声だ。アシュは腰に下げた黄金剣の柄を撫でる。今回のような造反したバンパイアを狩る使命と共に与えられた宝剣は、アシュにとって自身の生命以上に重要な品だ。

因牙いんが黄封おうほうでは、口惜しいけれどあの鎧とは相性が悪いようね。でもダスタの月針げっしんならば」

“必ずや。問題はあのダンピールだ。二重存在ドッペルゲンガーではあるまいが……”

「私が感じたのは、ダスタが感じたモノを共感したから。ダスタは彼に何を感じたの?」

“……私が感じたのは、ああ、言葉にするのは難しいな。だが、敢えて言葉にするのならば……あの、夜の月と名を与えられた男に感じたのは……畏怖、であろうな”

 ともすれば朱塗りの大地を治める陛下に対する以上の、とダスタは自分とアシュ以外には決して明かせぬ感想を口にするのだった。



 そして夜が来た。一人の女性の運命を大きく分ける夜。
 夜の支配者の跳梁跋扈を戒める太陽の姿は地平線の彼方に消えて、いとし子を寿ぐ為に月が空への階段を上り始めている。
 カズノが監禁――保護されている小屋の周囲には武装した自警団を引きつれたダマキと輸送隊の面々、それとニックと夜月の姿がある。
 あちらこちらに篝火が焚かれて、人間達の視界を確保しようと涙ぐましい努力がされている。ザグフ一派の数は未知数。質に置いては何をかいわんや。夜月の存在がなければ、到底カズノを守りきれるとは思えない戦力差だ。

 ザグフらの到来を知らせたのは、急激に下がり始めた気温と小屋の中から聞こえてきたカズノの呟きだ。
 聞こえる筈のない小さな呟きは、その場に居た全員の耳に届き、夜月とニック以外の全員の心臓を凍りつかせた。

「来た。来たわ。あの方がいらした。私の血を吸って、同胞の末席に加えてくださるのよ。ああ、ああ、私の血を吸って、すぐに吸ってください」

 カズノの呟きは急激に熱を帯びてザグフへ縋るように言葉を口にしてゆく。夜月やダマキと昼間に出会った時には、まだザグフへの恐怖があった筈なのに、今はもうザグフへの渇望と求愛が彼女の心を支配してしまっている。
 ダマキは悲痛そのものの顔で小屋を振り返り、小屋へと続く道から聞こえてきた蹄の音に表情を鬼神のそれへと変える。自警団の面々もダマキの殺意を浴びて、各々の武器を構え直す。
 ニックと夜月は泰然と構えている。ここら辺は経験値と事情の差であろう。

 重厚な灰色の馬鎧を纏った真っ赤な眼の吸血馬に、同じく灰色の全身鎧を纏ったバンパイアの騎士達が整然と左右に列を成し、道を進んでいる。
 最後尾にひと際巨大な吸血馬に跨る紫色の全身鎧――ザグフの姿があった。マサケやビエマの姿は見えない。彼らはザグフの動けぬ昼間の守りであり、夜となればザグフと同じバンパイアの騎士達と交代となる。

 待ち構えるダマキ達の姿に気付き、ザグフが鬱陶しげに左手を上げた。彼の傍らに控えていた騎士の一人が、両手に抱えていた赤いハープの弦に指を鳴らして巧みに演奏を始める。
 とうていこの状況には相応しくない行動に、ダマキやシルコ達が咄嗟に行動に移れずにいる間も演奏は続き、演奏者の技量の高さをうかがわせる演奏と名曲の調べが聞く者の心を解きほぐしてゆく。

 その証拠に次々と自警団とゾーニ達の瞼が閉じ始め、抗い難い誘惑に負けて次々とその場で崩れ落ちて行く。船乗りたちを惑わすセイレーンの如く、ハープの音色は耳にした者の意識を奪う魔性の調べだったのだ。
 一曲が奏で終わった時、変わらず立っていたのは魔法具の守りを得ていたダマキとニック、そして夜月のたった三人だけ。

 ザグフが右手を振ると全四騎の騎士達は半月の形に布陣して、三人を囲いこむ。それぞれが長い円錐形のランスを構えている。先程の演奏者もハープをランスに持ち替えて、包囲の一角に加わっている。
 ダマキは魔法具の耐性を越えて多少眠りの調べが届いてしまったようで、ふらふらと足元のおぼつかない様子だ。長剣を抜いたニックがダマキを庇うように前へ出る。夜月はけんの体勢である。
 迎え撃つ三名の愚か者を前に、ザグフは馬を進めて配下達の後ろから声を届かせた。

「私の牙を受けた女を守らんとする気概のある者はこれっぽっちか。いや、このような辺境の地に三人も居たと評価すべきだろうな。そして、やはり話の通り、“お前”も居たか」

 ザグフの兜の奥の瞳は小屋の扉の前に立つ夜月を見ている。彼は、雇い入れた夜月に追手であるアシュの追撃を命じたのではなかったか。
 ダマキは夜月がザグフと繋がりがあったのか、と眠気を振りはらい、眦を険しくして夜月を睨む。ニックは聞き流しながら周囲の騎士達をどう斬り捨てるか、と戦いに意識を集中している。

「“おれ”はそちらについたか。アレは勤勉な性質ではあるまい。給料を払うだけ無駄だ」

「ふはははは、そこまで言わせるか。お前とアレがどのような関係か、興味がないわけではないが、私の邪魔をするならば心臓を抉りだしてやろう。ダンピールでは我らのように灰にはならぬゆえ、骸は獣共の餌として捨て置くか」

「好きに語れ。灰になっては二度と口を利けなくなる。口を動かせるのは今の内だけだ」

「ほう、口の利き方を知らぬところは同じか。さて、今は何処を彷徨っておるやら。それともお前がアレそのものなのか?」

 きっとザグフは兜の奥で、これから味わう血と戦いの高揚から笑みを浮かべていただろう。だが、夜月とザグフの会話にひたすら不快感だけを積み重ねていたダマキが、ここで我慢の限界を迎えた。

「べらべら、べらべらと、さっさと灰に還れ、吸血鬼!」

 ダマキは腰裏に括りつけていた短槍を抜き、ザグフを狙って連続して投げつける。流麗な投擲の姿勢は、人体を貫通するのに十分な速度と正確な狙いを短槍に与えた。
 風を貫く鋭い音が連続し、合計六本の短槍は半月陣を成す騎士達のランスが叩き落とす。
 ダマキの攻撃を機に、騎士達は一気呵成に攻めに転じた。吸血馬は蹄の一掻きで最高速度へと到達し、容赦のない突撃がダマキとニックを串刺しにし、五体をバラバラにするだろう。

 ニックは冷静に見ていた。彼は左手一杯に小さな石を何十個も握っていた。クリキンとの戦いで使った火精石のチョークで魔法陣を描いた小石だ。それを迫りくる吸血馬達の鼻先へと投げつけ、たちまち空中に咲いた炎の花が吸血馬達の顔面を撫でて、馬鎧越しに皮膚を焼く。
 バンパイア同様不死身の吸血馬は顔面を焼かれようと瞬く間に再生するが、瞳と耳を焼かれた衝撃が彼らの四本の足を乱し、最高速度に達していたが為に吸血馬同士の衝突は凄まじいものになった。

 衝突した吸血馬達の首が折れるか、あるいは当たった箇所の肉の爆ぜる無残な姿を見せる中、騎乗していた騎士達は鞍から空中に飛び上がり、軽やかな動きで地面に降り立つ。
 バンパイアの反射神経と身体能力ならではの軽業に、意表を突かれるダマキの傍らをニックが駆け抜けた。

「おおお!」

 咆哮と共に振り下ろされたニックの長剣は、不思議な銀色の煌めきを纏っていた。不死を誇るバンパイアや一部のアンデッド対策に、祝福を施した銀を粉末状にしたものを長剣に塗してあるのだ。
 着地直後を狙われた一人の騎士は、銀の煌めきを纏う長剣に鎧を破られ、肩口深くにまで刃を受ける。治る筈の傷が治らぬ異常事態と、齎される尋常ならざる苦痛に、騎士は堪らず苦しみの声を上げる。

「ぐうう、小賢しい、人間めが」

「小細工をしないとバンパイアとは到底戦えなくてね」

 騎士が風を巻いてランスを薙ぎ払い、ニックはかろうじて長剣を引き抜いて後方に飛び下がるのが間に合う。左半身を赤く染め始めた騎士が、憎悪に瞳を輝かせてランスを右手一本で腰だめに構える。
 この時点で吸血馬達の火傷は治り、平静を取り戻しつつあったが、再び騎乗して戦う選択肢はなかった。
 ランスを構える騎士の体がぐっと沈みこみ、そこにダマキの短槍が飛来する。騎士は鬱陶しげに右肩を揺らすだけで首を狙った短槍を弾き飛ばし、その隙に懐まで迫っていたニックの長剣を右に動いて避けた。

 ランスで突くにはあまり近いが、横から殴りつければニックの全身の骨を砕くのには十分な破壊力がある。騎士はそうしようとし、そして二人の同胞が夜月の振るった赤い長剣によって首を跳ね飛ばされ、灰になる場面を見てしまった。
 たかがダンピールに、と騎士の脳裏が驚愕に占められた瞬間をニックは逃さなかった。引き戻された長剣が渾身の力で突き出され、鎧ごと騎士の心臓を貫いて背中から血にまみれた切っ先が飛び出す。

 長剣の刃を通じて騎士の断末魔の苦痛と身じろぎを感じたニックの顔が曇るが、それでも長剣を握る手の力が弛む事はない。程なくして鎧の内側から大量の灰が零れ出し、ニックはそれからようやく長剣を引き抜いた。
 夜月がまたたく間に二人の騎士を滅ぼしたから、残るは一人と吸血馬が四頭。それを片づければ後は首魁のザグフだけだ。ニック自身、あまりに順調過ぎて幻術でもかけられているのではないかと疑う程だが、事態は更に都合よく回った。

 最後の騎士が夜月に気圧されて動けずにいる中、頭上の月がひときわ強く輝いたその瞬間、騎士の心臓を背後から月の光を集めて作ったような大きな針が貫いたのである。
 騎士ばかりではない。主達の仇を討とうと鼻息を荒くしていた吸血馬達も、同じようにほとんど真上から光の針に貫かれて、断末魔の声を上げながら灰と変わる。
 ザグフにも光の針は襲い掛かっていたが、流石にザグフは左腕を振るって光の針を全て弾き飛ばして無傷だ。
 ニックは夜月の視線が小屋の屋根の上に向けられているのに気付き、同じようにそちらを向き、見つけた。蝙蝠の翼のように赤いコートの裾を広げて銀色の髪と銀色の瞳、そして銀色の槍を持ったあの追手の女性、アシュが屋根の上に立っているのを。

「アシュだったか。だが、髪と瞳の色が違うし、この雰囲気はバンパイアなのか?」

 ニックの呟きが届いたのか、アシュらしき女性はニックと夜月に銀色の視線を向けて少しだけ口元を緩めた。同時に鋭く尖った牙の先端が唇からわずかに覗く。

「ニック、それに夜月といったか。我が妹アシュが世話になった。礼を言うぞ。我が名はダスタ。そこの反逆者ザグフ・ガルドナを討たんが為、この地を訪れた掃除屋だ」

 左手に持った銀色の槍――森でのアシュとの会話からすれば“月針”という雅な名前の槍の穂先をザグフへと向けて、銀色のバンパイアは冷厳に告げる。対するザグフは館で対峙した追手の変化を面白がっているようだった。

「互いを姉妹と認識する多重人格。そこまではさして価値もないが、人格によって種族すら変わるとなれば珍獣中の珍獣よな。妹ならば肉も魂も人間。姉ならば肉も魂もバンパイア。ふふん、あの女王は面白い珍獣を飼っているな。
私――いや、おれがこうして血を吸いに通う隙を狙ったか。度胸は妹とやらの方があるな。ダスタとかいう追手よ」

「アシュが仕損じた貴様を私が滅ぼす。度胸は妹が上でもバンパイアを滅ぼす腕前は私が上だと証明しよう」

「下郎が、しかし、奴め。仕事をさぼっておるのか?」

 ニックやダマキ、夜月を置いてけぼりにする二人の会話は、屋根の上からダスタが跳躍した事によって中断された。空中でダスタの赤いコートの裾が蝙蝠の翼の如く羽ばたくや、彼女の体は真紅の稲妻の如く空中に複雑な軌跡を描いて、ザグフへと襲い掛かった。
 音すら追い付けぬ速さで飛翔するダスタの姿を、ダマキは追えず、ニックはかろうじて追いかけていた。

 真紅の稲妻から突き出された純銀の煌めき――月針の穂先は、ザグフへと達する前に横から割って入ってきた黒い影の持つ赤い長剣によって阻まれていた。横一文字に構えた長剣で月針を抑え、微動だにする事を許さずにいるのは紛れもなく夜月に他ならない。
 咄嗟にニックとダマキは彼らの近くに居る筈の夜月を見た。はたして、彼の姿はあった。彼自身の手で灰にしたバンパイア達の空っぽの全身鎧が、彼の足元に転がっている。
 ならば、ダスタの槍を受け止めている夜月は?
 ザグフは驚いた様子もなく、自身の盾となっている夜月に声をかけた。

「ふむ、仕事はさぼってはいなかったか。それとも出てくる場面を待ち構えていたか?」

「命じられた通り、追手の追跡をした結果がこれなんで、どっちも外れだな。しかし、ちいっと見ないうちに随分と変わったもんだな、追手さんよ」

「昼間に戦ったのはアシュ、そちらはダスタとかいうらしいぞ、用心棒」

「ご親切にどうも、雇い主殿。アシュにダスタ、灰は灰にアッシュ・トゥー・アッシュ塵は塵にダスト・トゥー・ダストのもじりか。バンパイア狩りには相応しい名前だろうが、よ!」

 ぐん、と夜月(?)の腕に力が籠り、ダスタを大きく弾き飛ばし、ダスタはバンパイアである証拠に、地に落とす影もなくふわりと夜月の傍らに降り立った。アシュを助けた方の夜月である。
 闇の彼方からユハが姿を見せて、あちらの夜月(?)の傍に控える。ザグフは作りだしたばかりのホムンクルスに関心は見せず、ダスタの傍の夜月へ視線を向けている。
 二人の夜月にこの場に居る者達は大小の動揺を覚えていたが、回答を求めて口を開いたのは片眉を上げているダスタだ。

「あちらとはどういう関係かな? 妹の恩人殿」

 夜月は溜息と共に口を開いた。彼自身、既に予期はしていたが、実際に目の当たりにすると彼にしても堪えるものがあるようだった。

「不肖の兄だ。名は夜空よぞら

 ジュウオの村から逃げ出したマサケと戦い、ザグフと一戦を交え、バンパイア化と引き換えにその傘下に加わったダンピール、それは夜月ではなく夜空という名の青年だった。
 夜空と夜月、鏡写しのように服装以外に違うところのない容姿の双子は、片方は無表情に、片方は獰猛な笑みを浮かべている。

「兄の名前はもっと敬意を込めて呼ぶんだな。不出来な弟よ」

 月とは夜の空にこそ輝きを放ち、存在を主張するもの。月が在るのに夜空は欠かせぬが、この双子はどうやらそこまで仲の良い兄弟ではないらしかった。
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