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8巻
8-3
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レニーアは、これといって装飾のない簡素なデザインの純白のドレスに袖を通し、黒髪は流れるままに任せて着替えを終えた。
彼女はゴルネブ土産の包みを手に取ってくるりと踵を返すと、ドアの左右で待機していたファウファウ達に声を掛ける。
「二人に会いに行く」
ファウファウは再び心臓が跳ねるのを感じた。
「はい、お嬢様」
ファウファウと同僚のエルルが声を揃えて返事をして開いた扉を、レニーアは肩で風を切って進む。
あどけない少女の容姿には似つかわしくない傲岸不遜な態度だが、見る者が自然と従ってしまう迫力だから、使用人や屋敷勤めの騎士達が反発する事はほとんどない。
陽がよく当たり、市街を見下ろせるバルコニーは、ジュリウスとラナのお気に入りの場所であった。
ほどなくしてレニーアがバルコニーに姿を見せた時、神造魔獣の父母となった二人は、奇行ばかりの娘を温かな眼差しで迎える。その眼差しは、レニーアに対する愛情が失われていない事を何よりも雄弁に語っていた。
対するレニーアは、日頃の無関心とは異なる何かしらの感情を瞳に宿していた。
ファウファウはレニーアから受ける違和感の正体を悟った。
一体どうしてかは、神ならぬファウファウには分からなかったが――レニーアが大神級の魂を持つ以上、神々でもそう簡単には分からないのだが――問題児のお嬢様は、両親と会う事に緊張しているらしい。
祖父母や他の縁者にとどまらず、近隣の領主らと会った時も、緊張の〝き〟の字もなかったお嬢様が、今になってどうして緊張を? と、ファウファウは疑問を抱く。
「お帰り、レニーア。相変わらず元気そうだね」
そう声をかけても、鉄仮面のように表情を変えない娘に、ジュリウスは何度目になるかも分からぬが、失望と落胆の色を滲ませる。これはジュリウスがまだレニーアとの会話を期待している証拠でもあった。
十六年以上レニーアを育ててきたというのに、まだ娘が親しみのこもった微笑みを返してくれるのではないかと信じているのだから、大したものだ。
「レニーア、こちらへおいでなさい。さあ、魔法学院のお話を聞かせてくださいな。お友達は出来たのかしら?」
ラナも夫と同じようにレニーアに対して慈愛に満ちた眼差しを向けて、過去幾度となく無視されてきた問い掛けを口にする。
しかし、その声と瞳には、今度こそはという希望と信念が宿っていた。母の強さと言えるかもしれない。
常ならば、レニーアは両親に顔だけ見せて、さっさと部屋に戻るか、外出してしまうのだが、今日は皆の予想を裏切る反応を見せる。
むすっとした顔のまま、両親の間に置かれている椅子に近づき、静かに腰掛けたのである。
いや、そればかりか――
「お土産だ……です」
そう言って、左手に持っていた包みをテーブルの上に置いたではないか。
これには領主夫妻の傍らに控えていたメイド長達や、レニーアの背後に立っていたファウファウ、何よりも領主夫妻が隠し切れぬ驚きに襲われる。
ラナなどは、感激のあまり琥珀色の瞳にうっすらと涙さえ浮かべている。
レニーアは、イリナに一緒に選んでもらった土産の包みを自らの手で開き、母には真珠のブローチを、父には海辺に棲息する霊鳥の羽を使った羽ペンセットを、それぞれの手元に置いた。
だが、父母がぽかんとした表情で土産に視線を落としている様子を見て、レニーアは内心で〝失敗したか〟と唸る。
余人からすれば親不孝者の放蕩娘の気まぐれにしか見えないが、レニーアにとっては一大事。これに両親がどう反応するかが目下の最重要課題なのだ。
内心では両親が喜ぶかどうか不安と期待の荒波に揉まれている。
レニーアの唇がへの字に動く寸前、ジュリウスとラナは自分達の娘が不安そう――彼らにはそう見えた――な顔をしている事に気付き、慌てて口を開いた。
「れ、レニーアがお土産を買ってきてくれるなんて、初めての事だね。つい驚いてしまったよ、なあ、ラナ」
「そう、そうね、あなた。こんなに素敵なものを買ってきてくれるなんて思ってもみなかったから、お母さん、驚いてしまったわ。とても綺麗な真珠ね」
父母の反応にレニーアは内心で安堵して、夏季休暇が終わったらイリナを褒めてやろう――などと、どこまでも上から目線で考えていた。
ジュリウスは目頭が熱くなるのを感じながら、これまた珍しくレニーアが夏季休暇前に寄越した手紙の文面を思い出して、娘との会話を試みた。
レニーアとの親子の会話の平均記録はだいたい二言ほどだ。今こそ最長記録を更新する最良の機会だろう。
「そうだ、レニーア。今年は魔法学院の交流戦に出場するそうだね。昨年は見送ったのに、どういう風の吹き回しだい? それにゴルネブへも学友達と一緒に行ったのだったね。新しい友達が出来たのかな」
ジュリウスは娘とまともに会話した経験がほとんどない為、レニーアの表情と雰囲気の変化を注意深く観察しながら言葉を選んで話し掛ける。
父が会話に苦労しているように、娘であるレニーアもまたドランから釘を刺されていたので、一つ一つの言葉に気を遣いながら返答しなければならなかった。
「今年はある方が出場するから私も出る事にした――しました。ゴルネブへはイリナと、他に交流戦に出場する者共……ではなくて、学友達と、一緒に行ってきました。ベルン村のドランさんと、イリナとアルマディアの妾ふ、あー、クリスティーナと、アピエニア家のネルネシアとディシディア家のファティマ、それと小生意気な深紅りゅ……まあ、奴は別にいいか」
レニーアの口から出て来たのはアークレスト王国有数の家名であったが、ジュリウスらはその事に気付く余裕もなく、ここまで詳細に語ってくれる娘に、溺れるほどに感動している様子。
レニーアは慣れない言葉遣いに四苦八苦しながら、なんとかジュリウスへの返答を終えた。
零れ落ちそうになった涙をハンカチで拭ったラナが、喜びで顔を輝かせながら、愛娘に話し掛ける。
「そう、レニーアにそんなにお友達が出来るなんて、こんなに嬉しい事はないわ。魔法学院の代表に選ばれたのは大変な名誉ですけれど、あまり張り切って危険な事はしないでね。貴女が怪我をしたらと思うと、私達は胸が張り裂けてしまいそうな気持ちになるの」
普段のレニーアならば、〝この世で私に傷を付けられるのはドラン様だけだ〟くらいの事は口にするのだが、今日はむぐぐ、と口の中で小さく唸るだけに留まった。
ただ、そんなレニーアの態度の変化は、全部が全部ドランに釘を刺されたからというわけではなかった。
確かにこのジュリウスとラナが結ばれていなければ、人間としてのレニーアも生まれてはいない。そうなれば、彼女は前世ではついぞ話し掛ける事も出来なかったドランと再会する事もかなわなかっただろう。
恋焦がれるように崇敬していたドランと再会出来たのは、他ならぬ人間の父母らのお蔭である。そう考えて、レニーアは邪悪な神造魔獣なりにジュリウスらに本物の感謝を抱くようになったのである。
「交流戦に出る以上、負けはせん。ではなく、負けない……です。心配はいらん……いらない、です」
度々つっかえながら苦労して喋るレニーアを見ても、周りのメイドや執事達は何が起きているのか理解出来ずに呆然と見守るだけだった。
――おかしい。前にこの屋敷に戻られた春の休暇の時には、こんなに変わってしまわれる予兆はまるでなかったはず。何か悪霊にとり憑かれてしまったのか、それとも別の誰かと脳を取り換えられてしまったのか。
グルオフやファウファウ達がそんな決して口に出来ないような事を考えてしまうほど、彼らにとって今のレニーアの態度は異常なものだった。
「ラナ、レニーアがこうして私達と話をしてくれるのは嬉しくて仕方がないが、この子は今日帰ってきたばかりだ。そろそろ休ませてあげよう」
「そうね、あなた。少し浮かれていました。レニーア、またお夕食の時にお話の続きを聞かせてくださいね」
母の懇願するような声に、レニーアは細い首を縦に振る。
「構わん……わないです」
レニーアは自分の為に淹れられたお茶を一息に飲み干し、そそくさと席を立った。
普段とはかけ離れた態度を取った事で、彼女の精神的な疲労は極めて甚大であり、大きな溜息を吐きたいのをなんとか堪えて、両親に一礼して背を向ける。
両親が涙ぐみながらレニーアの背に視線を向けている事には気付かず、彼女はファウファウとエルルを引き連れて自室に戻った。
レニーアの心には、かつて感じた事のない重い疲労感と、奇妙な温もりのようなものが広がっていた。
こつこつと床を踏む規則的な音が廊下に響く。
レニーアは廊下の向こうからやってきた若い騎士に突然声を掛けた。
「おい」
騎士は、見ているファウファウが可哀想になるくらいに体を震わせて、直立不動の姿勢を取る。
ブラスターブラスト男爵家令嬢の悪評は、何もその無愛想で冷徹な態度だけにとどまらない。時折臣下の騎士相手に行う模擬戦や、はぐれ魔獣や妖魔を相手に振るう無慈悲な暴力も含まれている。
表には出ていないが、かつてレニーアは領内に出没した魔獣や猛獣、野盗の類を相手に誰にも知られぬ所で殺戮と破壊の嵐を巻き起こしていた。
「は、レニーア様、どういった御用でございましょうか」
鉄の棒を通されたように背筋を伸ばす若い騎士を、レニーアはふん、とつまらなさそうに一瞥した。
孝行する相手は両親だけだから、それ以外の者に対してはこれまで通りの不遜な態度で通すつもりらしい。
それでも、以前に比べれば相手を意思のある存在とみなして接している分、かなりマシになっているのだが。
「騎士ギラル、領内に何か問題はあるか? 魔獣が出没したとか、どこぞの野盗や傭兵共が無法を働いているだとか、そういう問題だ」
レニーアが迷う素振りもなく若い騎士の名前を言い当てた為、当のギラルばかりでなくファウファウ達も今日何度目になるのか驚く。
しかし、別にこの騎士がレニーアにとって特別な存在というわけではなく、彼女の優れた記憶力をもってすれば、興味のない相手の名前や物事であっても、一度耳にしただけで忘れないのである。
レニーアの魂は破壊と忘却を司る大女神によって作り出されたが、大女神から継承しているのは破壊の衝動だけで、忘却については継承していない。故に、これといって記憶力が劣る事はなかった。
誰かを名前で呼ぶのはレニーアにとって珍しい事だが、魔法学院でそうする機会が増えた為、彼女自身が気付かぬうちに実家に帰ってきても自然とそうしていたのだ。
「はっ! 私が分かる範囲でよろしければ……」
ギラルは暫し呆然としていたが、はっと我に返って返事をした。
「構わん。話せ」
レニーアが領主の娘としての自覚を持ったからこのような質問をしているのだと思うほど、ギラルもファウファウもおめでたくはない。
だが同時にレニーアがどういう意図で発した質問なのかも、分からなかった。
まさかレニーアが親孝行の一環として何か自分の手で解決出来る問題がないか探しているなど、彼女らには夢のまた夢なのだから。
†
夕闇が降りた市街に無数の明かりが灯り、満天の星の一部が地上で輝きを放っているかのような光景が広がる時刻。
レニーアは両親と夕食を共にする為、食堂へ足を向けた。
贅と魔法技術とを凝らしたガロア魔法学院の大食堂とは比べるべくもないが、給仕の為に控える使用人達の列や、銀製の食器類などを見れば、貴族の食卓なのだと分かる。
上座に父が座り、父から見て右手側に母、その向かい側の席にレニーアは腰を下ろした。
食卓に並ぶ料理の主だったものは、母ラナが手ずから作ったものである。
もちろんブラスターブラスト家でもお抱えの料理人を雇っているのだが、レニーアが実家に帰ってきている間は、決まってラナが料理をするのだった。
採れたての野菜にオオカワイカのイカ墨ソースを和えたサラダ、干し葡萄やくるみを交ぜて香ばしく焼いた各種のパン、すり下ろした芋とブラスト貝のスープ、茸や野菜、穀物の詰め物をして丁寧に丸焼きにしたホロホロ鳥、泡立てた果実酒のソースを載せた川魚、シャルケのソテー。
次々と並べられる母の手料理を、レニーアはフォークやスプーンで黙々と口に運ぶ。
これまで彼女は料理の感想など口にした事がない。
前世においては食事を必要としない存在であった為、人間に生まれ変わってからというもの、なんと無駄の多い方法でしか栄養を得られないのだと悲嘆に暮れていたほどである。
だがこうして母の料理を口にしていると、ガロアやゴルネブの街で食した品々とは違う何かを感じる。
これまでレニーアが口にしてきたのは、ほぼ全てが美味と呼べるものであったが、それらとは確実に違う何かを彼女の舌と心は感じているのだ。
特別に美味というわけではないが、母ラナの料理の方が、しっくりとくる。幼い頃から食していたから食べ慣れているだけか、とレニーアは考えた。
しかし、ラナの料理とその他の料理とで決定的な違いがあるとすれば、それはこれがジュリウスとレニーアの為だけに作られた料理であるという事だ。
ガロア魔法学院やゴルネブで口にした料理は、どれも不特定多数の為に作られた料理であって、たった二人だけの為に時間と想いを込めて作られた料理は他にない。
レニーアがラナの料理から感じた〝何か〟とは、ラナの愛情以外の何ものでもなかったのである。
こころなしか、これまでよりもよく味わって食べている様子のレニーアに、ラナとジュリウスはお互いの顔を見つめ、にっこりと嬉しそうに笑った。
ナイフとフォークを動かしている間は、会話をせずに食事を進めるのがブラスターブラスト家の流儀である。
ジュリウスらがレニーアから魔法学院での生活について話を聞き始めたのは、食後にグルオフが淹れたスオム茶で咽喉を潤してからだった。
「そろそろ落ち着いたかい、レニーア」
「うむ……ではなく、その、はい」
ぐぎぎ、と音を立てそうなほどに歪んだ表情で言葉遣いを改めるレニーア。
ラナは愛しい娘の急な心境の変化に笑みを零す。
「レニーア、無理に口調を改める必要はないのよ。私達に遠慮をしなくていいの」
私が遠慮しているのはドラン様だ、とレニーアは口の中でだけ呟いて、母に頷き返す。
こういう寛容なところは評価してやってもいいな、とレニーアは前々から両親に対して他の者よりは高い評価を与えていた。
「分かった」
本人が許可したのだから、口調を戻してもドラン様はお叱りになるまい――そう考えて、レニーアはようやくいつもの無表情に戻り、肩の力を抜いた。
ジュリウスとラナは娘の可愛らしい努力に微笑する。
領主夫妻にとって、今日ほど娘の振る舞いで笑みを浮かべた日はなかった。
「さっそくだがレニーア、魔法学院での生活はどうだい。去年はイリナというお嬢さんの名前を聞いたが、他は特に何もないという事だったね」
「うむ」
「ゴルネブに遊びに行ったそうだが、去年と比べると随分友達が増えたのだね。彼らは良くしてくれているかい?」
「ああ」
なんとも簡素極まりないレニーアの返事だが、こうして反応があるだけでも大変な進歩なのだった。
ジュリウスとラナは、ようやく親子の会話が出来ていると感慨もひとしおである。
長く奉公しているグルオフなどは、この夫妻がレニーアの誕生をどれだけ喜び、そして心を通わせられない事をどれだけ悲しんでいたかを知っているだけに、胸に熱いものが込み上げていた。
「レニーア、貴女が先程聞かせてくれたお友達の名前の中で、ファティマさんやネルネシアさん、クリスティーナさんのお名前は、私達も存じ上げているわ。けれど、ベルン村のドランさんという方は初めて耳にするお名前だったわ。それに、貴女の口から殿方のお名前が出てくるのも初めてよ。一体どんな方なのかしら?」
ラナは一人の母親として、また領主の妻としてこの質問をせずにはいられなかったのだ。
意図せずして、それは大いにレニーアの反応を呼び起こした。
涙ぐんでいた古参の使用人達や、ジュリウスとラナまでもが大きく目を見開くほど、はっきりとレニーアの雰囲気と表情が変わった。
この場の誰もが見た事がないほど柔らかく、優しいものに。
――まさか、レニーアに恋人でも出来たのではないか?
万が一にもないと思っていたその可能性が脳裏をよぎり、不意を突かれたジュリウスとラナの心臓が一瞬動きを止める。
「ドランさ……んは特別だ。あの方だけは他の有象無象共とは何もかもが違う。私などが百万いようとまるで届かぬ絶対の力の主。あの方は私にとって凡夫が言うところの〝天意の体現者〟だ。あの方の言葉と意思は絶対に遵守すべきもの。ドランさんに言われたからこそ、私も二人にか、か、かか、感謝しようという気になったのだ」
うっとりと蕩けるようにドランを賛美するレニーアを、ジュリウス達は得体の知れない生物を前にしたような目で見つめる。
ただ、ドランに言われたから自分達に感謝を示したとも解釈出来るレニーアの言葉で、ジュリウス夫妻の顔に痛切な色が浮かんだのを、レニーアは見逃していた。
「そう……貴女にとってそのドランさんという男の子は、驚くほど特別なのね、愛しいレニーア」
「当然だ。あの方は別格だ。私の世界の色を変えた御方。この世で唯一無二の存在なのだから」
レニーアは終始うっとりとした調子で呟き、おまけに顔は赤く火照って熱に浮かされているかのようだ。
ここまで心酔した様子を見せられると、以前のレニーアを知る者なら、薬物か魔法を用いて洗脳されているのではないかと疑いたくなるだろう。
「うむ。だが……まあ、ドランさんのお言葉がきっかけとはいえ、二人に対してかん、かん、感謝をだな、しているというのは本当だぞ? 二人が結ばれていなければ、私がこうして生を受ける事もなく、ドランさんとお会い出来なかったのだから。だから……うん、二人には感謝している。……わ、私を産んでくれて、その、あり、あああ、ああり、ありがとう……お父さん、お母さん」
レニーアは自分でも理解出来ないほど顔や耳が熱くなるのを感じた。
いてもたってもいられなくなり、騒々しい音を立てて椅子から立ち上がると、使用人達の制止の声を無視し、両親を置き去りにして食堂を後にした。
ジュリウスとラナはしばし呆然と風にさらわれるように去っていった娘の背を見つめていたが、彼女が去り際に口にした言葉を思い出して、二人揃ってぼろぼろと涙を零し始める。
「あなた、あなた、レニーアが、あの子が私の事をお母さんと……あなたの事をお父さんと呼んでくれましたよ!」
「ああ、そうだ、そうだよ、ラナ。レニーアが……これまで一度も私達の事をそう呼んではくれなかったあの子が、私達の事を親として認めてくれたのだ。今日はなんて素晴らしい日なのだろう!」
「ええ、本当に。それにしてもあなた、ドランさんという殿方の事を語る時のレニーアは、本当に幸せそうでしたね」
男親と女親とでは心情が異なるのか、本当に嬉しそうにドランの事を口にするラナに対し、ジュリウスはどこか複雑な表情だ。
「ああ、そうだね。喜ぶべきなのだろうけれど、父親としては素直に祝福出来ないよ。ただ、ブラスターブラスト家を相続させる為の養子を迎えなくても済むかもしれないと考えれば、当主としては歓迎すべきか」
「でも、そのドランさんは平民の方だそうですから、身分が違うと横槍を入れられてしまうかもしれません」
「だが、レニーアは自分が百万いても届かないと言っていたからね。話半分だとしても、それだけの実力の主なら、我がブラスターブラスト家の親族の者達もいずれ納得してくれるだろう。もっとも、レニーアの片想いかもしれないし……あの子の性格では難しいだろうね」
こうしてドランは、彼のあずかり知らぬところで、レニーアの父母らに最大の婿候補として名前を記憶されたのだった。
その日の夜。
ブラスターブラスト領内の交通の要所の一つにある旅籠で、女将とむさ苦しい男共が酒を酌み交わしていた。
代々の当主達が交通網の整備に尽力したお蔭で、領内の街道には旅籠や宿場町が形成され、人々の憩いの場になっている。
一方で、大小無数存在する旅籠の中には、宿泊客を標的にした強盗を裏の稼業とする悪党共も紛れていた。
就寝中の宿泊客を殺害して荷物を奪ったり、身包みを剥いで人買いに売り捌いたり、あるいは宿泊客が宿を出た後で密かに追いかけて人目のない場所で殺害するなど、それなりの数の犠牲者が出ている。
昨今ブラスターブラスト家は、こういった悪徳旅籠の排除に追われているが、悪党共に横の繋がりがない為、一網打尽にするのが難しいのが悩みの種であった。
『鴉の止まり木亭』というこの旅籠も、そうした宿泊客を狙って外道働きをする悪徳宿の一つだった。
今日は行商人の夫婦と十歳になる娘が客として訪れたのだが、さっそくこの夫婦と娘を縄で拘束して地下室に放り込んでしまった。
妻と娘は非公認の娼館に、夫は労働力として人買いに売り飛ばす予定だ。
行商人が乗ってきた馬車や馬は貴重な品だし、積み荷も一杯積んであったから、それなりの金額に化ける事だろう。
その前祝いに、彼らは酒を酌み交わしていた。
がぶがぶと安酒を呷り、女将や他に何人かいる女達と淫らな行為に耽っていた男達が、行商人の妻や娘の味見をしようと下卑た笑みを浮かべて立ち上がったその時、異変は起きた。
彼女はゴルネブ土産の包みを手に取ってくるりと踵を返すと、ドアの左右で待機していたファウファウ達に声を掛ける。
「二人に会いに行く」
ファウファウは再び心臓が跳ねるのを感じた。
「はい、お嬢様」
ファウファウと同僚のエルルが声を揃えて返事をして開いた扉を、レニーアは肩で風を切って進む。
あどけない少女の容姿には似つかわしくない傲岸不遜な態度だが、見る者が自然と従ってしまう迫力だから、使用人や屋敷勤めの騎士達が反発する事はほとんどない。
陽がよく当たり、市街を見下ろせるバルコニーは、ジュリウスとラナのお気に入りの場所であった。
ほどなくしてレニーアがバルコニーに姿を見せた時、神造魔獣の父母となった二人は、奇行ばかりの娘を温かな眼差しで迎える。その眼差しは、レニーアに対する愛情が失われていない事を何よりも雄弁に語っていた。
対するレニーアは、日頃の無関心とは異なる何かしらの感情を瞳に宿していた。
ファウファウはレニーアから受ける違和感の正体を悟った。
一体どうしてかは、神ならぬファウファウには分からなかったが――レニーアが大神級の魂を持つ以上、神々でもそう簡単には分からないのだが――問題児のお嬢様は、両親と会う事に緊張しているらしい。
祖父母や他の縁者にとどまらず、近隣の領主らと会った時も、緊張の〝き〟の字もなかったお嬢様が、今になってどうして緊張を? と、ファウファウは疑問を抱く。
「お帰り、レニーア。相変わらず元気そうだね」
そう声をかけても、鉄仮面のように表情を変えない娘に、ジュリウスは何度目になるかも分からぬが、失望と落胆の色を滲ませる。これはジュリウスがまだレニーアとの会話を期待している証拠でもあった。
十六年以上レニーアを育ててきたというのに、まだ娘が親しみのこもった微笑みを返してくれるのではないかと信じているのだから、大したものだ。
「レニーア、こちらへおいでなさい。さあ、魔法学院のお話を聞かせてくださいな。お友達は出来たのかしら?」
ラナも夫と同じようにレニーアに対して慈愛に満ちた眼差しを向けて、過去幾度となく無視されてきた問い掛けを口にする。
しかし、その声と瞳には、今度こそはという希望と信念が宿っていた。母の強さと言えるかもしれない。
常ならば、レニーアは両親に顔だけ見せて、さっさと部屋に戻るか、外出してしまうのだが、今日は皆の予想を裏切る反応を見せる。
むすっとした顔のまま、両親の間に置かれている椅子に近づき、静かに腰掛けたのである。
いや、そればかりか――
「お土産だ……です」
そう言って、左手に持っていた包みをテーブルの上に置いたではないか。
これには領主夫妻の傍らに控えていたメイド長達や、レニーアの背後に立っていたファウファウ、何よりも領主夫妻が隠し切れぬ驚きに襲われる。
ラナなどは、感激のあまり琥珀色の瞳にうっすらと涙さえ浮かべている。
レニーアは、イリナに一緒に選んでもらった土産の包みを自らの手で開き、母には真珠のブローチを、父には海辺に棲息する霊鳥の羽を使った羽ペンセットを、それぞれの手元に置いた。
だが、父母がぽかんとした表情で土産に視線を落としている様子を見て、レニーアは内心で〝失敗したか〟と唸る。
余人からすれば親不孝者の放蕩娘の気まぐれにしか見えないが、レニーアにとっては一大事。これに両親がどう反応するかが目下の最重要課題なのだ。
内心では両親が喜ぶかどうか不安と期待の荒波に揉まれている。
レニーアの唇がへの字に動く寸前、ジュリウスとラナは自分達の娘が不安そう――彼らにはそう見えた――な顔をしている事に気付き、慌てて口を開いた。
「れ、レニーアがお土産を買ってきてくれるなんて、初めての事だね。つい驚いてしまったよ、なあ、ラナ」
「そう、そうね、あなた。こんなに素敵なものを買ってきてくれるなんて思ってもみなかったから、お母さん、驚いてしまったわ。とても綺麗な真珠ね」
父母の反応にレニーアは内心で安堵して、夏季休暇が終わったらイリナを褒めてやろう――などと、どこまでも上から目線で考えていた。
ジュリウスは目頭が熱くなるのを感じながら、これまた珍しくレニーアが夏季休暇前に寄越した手紙の文面を思い出して、娘との会話を試みた。
レニーアとの親子の会話の平均記録はだいたい二言ほどだ。今こそ最長記録を更新する最良の機会だろう。
「そうだ、レニーア。今年は魔法学院の交流戦に出場するそうだね。昨年は見送ったのに、どういう風の吹き回しだい? それにゴルネブへも学友達と一緒に行ったのだったね。新しい友達が出来たのかな」
ジュリウスは娘とまともに会話した経験がほとんどない為、レニーアの表情と雰囲気の変化を注意深く観察しながら言葉を選んで話し掛ける。
父が会話に苦労しているように、娘であるレニーアもまたドランから釘を刺されていたので、一つ一つの言葉に気を遣いながら返答しなければならなかった。
「今年はある方が出場するから私も出る事にした――しました。ゴルネブへはイリナと、他に交流戦に出場する者共……ではなくて、学友達と、一緒に行ってきました。ベルン村のドランさんと、イリナとアルマディアの妾ふ、あー、クリスティーナと、アピエニア家のネルネシアとディシディア家のファティマ、それと小生意気な深紅りゅ……まあ、奴は別にいいか」
レニーアの口から出て来たのはアークレスト王国有数の家名であったが、ジュリウスらはその事に気付く余裕もなく、ここまで詳細に語ってくれる娘に、溺れるほどに感動している様子。
レニーアは慣れない言葉遣いに四苦八苦しながら、なんとかジュリウスへの返答を終えた。
零れ落ちそうになった涙をハンカチで拭ったラナが、喜びで顔を輝かせながら、愛娘に話し掛ける。
「そう、レニーアにそんなにお友達が出来るなんて、こんなに嬉しい事はないわ。魔法学院の代表に選ばれたのは大変な名誉ですけれど、あまり張り切って危険な事はしないでね。貴女が怪我をしたらと思うと、私達は胸が張り裂けてしまいそうな気持ちになるの」
普段のレニーアならば、〝この世で私に傷を付けられるのはドラン様だけだ〟くらいの事は口にするのだが、今日はむぐぐ、と口の中で小さく唸るだけに留まった。
ただ、そんなレニーアの態度の変化は、全部が全部ドランに釘を刺されたからというわけではなかった。
確かにこのジュリウスとラナが結ばれていなければ、人間としてのレニーアも生まれてはいない。そうなれば、彼女は前世ではついぞ話し掛ける事も出来なかったドランと再会する事もかなわなかっただろう。
恋焦がれるように崇敬していたドランと再会出来たのは、他ならぬ人間の父母らのお蔭である。そう考えて、レニーアは邪悪な神造魔獣なりにジュリウスらに本物の感謝を抱くようになったのである。
「交流戦に出る以上、負けはせん。ではなく、負けない……です。心配はいらん……いらない、です」
度々つっかえながら苦労して喋るレニーアを見ても、周りのメイドや執事達は何が起きているのか理解出来ずに呆然と見守るだけだった。
――おかしい。前にこの屋敷に戻られた春の休暇の時には、こんなに変わってしまわれる予兆はまるでなかったはず。何か悪霊にとり憑かれてしまったのか、それとも別の誰かと脳を取り換えられてしまったのか。
グルオフやファウファウ達がそんな決して口に出来ないような事を考えてしまうほど、彼らにとって今のレニーアの態度は異常なものだった。
「ラナ、レニーアがこうして私達と話をしてくれるのは嬉しくて仕方がないが、この子は今日帰ってきたばかりだ。そろそろ休ませてあげよう」
「そうね、あなた。少し浮かれていました。レニーア、またお夕食の時にお話の続きを聞かせてくださいね」
母の懇願するような声に、レニーアは細い首を縦に振る。
「構わん……わないです」
レニーアは自分の為に淹れられたお茶を一息に飲み干し、そそくさと席を立った。
普段とはかけ離れた態度を取った事で、彼女の精神的な疲労は極めて甚大であり、大きな溜息を吐きたいのをなんとか堪えて、両親に一礼して背を向ける。
両親が涙ぐみながらレニーアの背に視線を向けている事には気付かず、彼女はファウファウとエルルを引き連れて自室に戻った。
レニーアの心には、かつて感じた事のない重い疲労感と、奇妙な温もりのようなものが広がっていた。
こつこつと床を踏む規則的な音が廊下に響く。
レニーアは廊下の向こうからやってきた若い騎士に突然声を掛けた。
「おい」
騎士は、見ているファウファウが可哀想になるくらいに体を震わせて、直立不動の姿勢を取る。
ブラスターブラスト男爵家令嬢の悪評は、何もその無愛想で冷徹な態度だけにとどまらない。時折臣下の騎士相手に行う模擬戦や、はぐれ魔獣や妖魔を相手に振るう無慈悲な暴力も含まれている。
表には出ていないが、かつてレニーアは領内に出没した魔獣や猛獣、野盗の類を相手に誰にも知られぬ所で殺戮と破壊の嵐を巻き起こしていた。
「は、レニーア様、どういった御用でございましょうか」
鉄の棒を通されたように背筋を伸ばす若い騎士を、レニーアはふん、とつまらなさそうに一瞥した。
孝行する相手は両親だけだから、それ以外の者に対してはこれまで通りの不遜な態度で通すつもりらしい。
それでも、以前に比べれば相手を意思のある存在とみなして接している分、かなりマシになっているのだが。
「騎士ギラル、領内に何か問題はあるか? 魔獣が出没したとか、どこぞの野盗や傭兵共が無法を働いているだとか、そういう問題だ」
レニーアが迷う素振りもなく若い騎士の名前を言い当てた為、当のギラルばかりでなくファウファウ達も今日何度目になるのか驚く。
しかし、別にこの騎士がレニーアにとって特別な存在というわけではなく、彼女の優れた記憶力をもってすれば、興味のない相手の名前や物事であっても、一度耳にしただけで忘れないのである。
レニーアの魂は破壊と忘却を司る大女神によって作り出されたが、大女神から継承しているのは破壊の衝動だけで、忘却については継承していない。故に、これといって記憶力が劣る事はなかった。
誰かを名前で呼ぶのはレニーアにとって珍しい事だが、魔法学院でそうする機会が増えた為、彼女自身が気付かぬうちに実家に帰ってきても自然とそうしていたのだ。
「はっ! 私が分かる範囲でよろしければ……」
ギラルは暫し呆然としていたが、はっと我に返って返事をした。
「構わん。話せ」
レニーアが領主の娘としての自覚を持ったからこのような質問をしているのだと思うほど、ギラルもファウファウもおめでたくはない。
だが同時にレニーアがどういう意図で発した質問なのかも、分からなかった。
まさかレニーアが親孝行の一環として何か自分の手で解決出来る問題がないか探しているなど、彼女らには夢のまた夢なのだから。
†
夕闇が降りた市街に無数の明かりが灯り、満天の星の一部が地上で輝きを放っているかのような光景が広がる時刻。
レニーアは両親と夕食を共にする為、食堂へ足を向けた。
贅と魔法技術とを凝らしたガロア魔法学院の大食堂とは比べるべくもないが、給仕の為に控える使用人達の列や、銀製の食器類などを見れば、貴族の食卓なのだと分かる。
上座に父が座り、父から見て右手側に母、その向かい側の席にレニーアは腰を下ろした。
食卓に並ぶ料理の主だったものは、母ラナが手ずから作ったものである。
もちろんブラスターブラスト家でもお抱えの料理人を雇っているのだが、レニーアが実家に帰ってきている間は、決まってラナが料理をするのだった。
採れたての野菜にオオカワイカのイカ墨ソースを和えたサラダ、干し葡萄やくるみを交ぜて香ばしく焼いた各種のパン、すり下ろした芋とブラスト貝のスープ、茸や野菜、穀物の詰め物をして丁寧に丸焼きにしたホロホロ鳥、泡立てた果実酒のソースを載せた川魚、シャルケのソテー。
次々と並べられる母の手料理を、レニーアはフォークやスプーンで黙々と口に運ぶ。
これまで彼女は料理の感想など口にした事がない。
前世においては食事を必要としない存在であった為、人間に生まれ変わってからというもの、なんと無駄の多い方法でしか栄養を得られないのだと悲嘆に暮れていたほどである。
だがこうして母の料理を口にしていると、ガロアやゴルネブの街で食した品々とは違う何かを感じる。
これまでレニーアが口にしてきたのは、ほぼ全てが美味と呼べるものであったが、それらとは確実に違う何かを彼女の舌と心は感じているのだ。
特別に美味というわけではないが、母ラナの料理の方が、しっくりとくる。幼い頃から食していたから食べ慣れているだけか、とレニーアは考えた。
しかし、ラナの料理とその他の料理とで決定的な違いがあるとすれば、それはこれがジュリウスとレニーアの為だけに作られた料理であるという事だ。
ガロア魔法学院やゴルネブで口にした料理は、どれも不特定多数の為に作られた料理であって、たった二人だけの為に時間と想いを込めて作られた料理は他にない。
レニーアがラナの料理から感じた〝何か〟とは、ラナの愛情以外の何ものでもなかったのである。
こころなしか、これまでよりもよく味わって食べている様子のレニーアに、ラナとジュリウスはお互いの顔を見つめ、にっこりと嬉しそうに笑った。
ナイフとフォークを動かしている間は、会話をせずに食事を進めるのがブラスターブラスト家の流儀である。
ジュリウスらがレニーアから魔法学院での生活について話を聞き始めたのは、食後にグルオフが淹れたスオム茶で咽喉を潤してからだった。
「そろそろ落ち着いたかい、レニーア」
「うむ……ではなく、その、はい」
ぐぎぎ、と音を立てそうなほどに歪んだ表情で言葉遣いを改めるレニーア。
ラナは愛しい娘の急な心境の変化に笑みを零す。
「レニーア、無理に口調を改める必要はないのよ。私達に遠慮をしなくていいの」
私が遠慮しているのはドラン様だ、とレニーアは口の中でだけ呟いて、母に頷き返す。
こういう寛容なところは評価してやってもいいな、とレニーアは前々から両親に対して他の者よりは高い評価を与えていた。
「分かった」
本人が許可したのだから、口調を戻してもドラン様はお叱りになるまい――そう考えて、レニーアはようやくいつもの無表情に戻り、肩の力を抜いた。
ジュリウスとラナは娘の可愛らしい努力に微笑する。
領主夫妻にとって、今日ほど娘の振る舞いで笑みを浮かべた日はなかった。
「さっそくだがレニーア、魔法学院での生活はどうだい。去年はイリナというお嬢さんの名前を聞いたが、他は特に何もないという事だったね」
「うむ」
「ゴルネブに遊びに行ったそうだが、去年と比べると随分友達が増えたのだね。彼らは良くしてくれているかい?」
「ああ」
なんとも簡素極まりないレニーアの返事だが、こうして反応があるだけでも大変な進歩なのだった。
ジュリウスとラナは、ようやく親子の会話が出来ていると感慨もひとしおである。
長く奉公しているグルオフなどは、この夫妻がレニーアの誕生をどれだけ喜び、そして心を通わせられない事をどれだけ悲しんでいたかを知っているだけに、胸に熱いものが込み上げていた。
「レニーア、貴女が先程聞かせてくれたお友達の名前の中で、ファティマさんやネルネシアさん、クリスティーナさんのお名前は、私達も存じ上げているわ。けれど、ベルン村のドランさんという方は初めて耳にするお名前だったわ。それに、貴女の口から殿方のお名前が出てくるのも初めてよ。一体どんな方なのかしら?」
ラナは一人の母親として、また領主の妻としてこの質問をせずにはいられなかったのだ。
意図せずして、それは大いにレニーアの反応を呼び起こした。
涙ぐんでいた古参の使用人達や、ジュリウスとラナまでもが大きく目を見開くほど、はっきりとレニーアの雰囲気と表情が変わった。
この場の誰もが見た事がないほど柔らかく、優しいものに。
――まさか、レニーアに恋人でも出来たのではないか?
万が一にもないと思っていたその可能性が脳裏をよぎり、不意を突かれたジュリウスとラナの心臓が一瞬動きを止める。
「ドランさ……んは特別だ。あの方だけは他の有象無象共とは何もかもが違う。私などが百万いようとまるで届かぬ絶対の力の主。あの方は私にとって凡夫が言うところの〝天意の体現者〟だ。あの方の言葉と意思は絶対に遵守すべきもの。ドランさんに言われたからこそ、私も二人にか、か、かか、感謝しようという気になったのだ」
うっとりと蕩けるようにドランを賛美するレニーアを、ジュリウス達は得体の知れない生物を前にしたような目で見つめる。
ただ、ドランに言われたから自分達に感謝を示したとも解釈出来るレニーアの言葉で、ジュリウス夫妻の顔に痛切な色が浮かんだのを、レニーアは見逃していた。
「そう……貴女にとってそのドランさんという男の子は、驚くほど特別なのね、愛しいレニーア」
「当然だ。あの方は別格だ。私の世界の色を変えた御方。この世で唯一無二の存在なのだから」
レニーアは終始うっとりとした調子で呟き、おまけに顔は赤く火照って熱に浮かされているかのようだ。
ここまで心酔した様子を見せられると、以前のレニーアを知る者なら、薬物か魔法を用いて洗脳されているのではないかと疑いたくなるだろう。
「うむ。だが……まあ、ドランさんのお言葉がきっかけとはいえ、二人に対してかん、かん、感謝をだな、しているというのは本当だぞ? 二人が結ばれていなければ、私がこうして生を受ける事もなく、ドランさんとお会い出来なかったのだから。だから……うん、二人には感謝している。……わ、私を産んでくれて、その、あり、あああ、ああり、ありがとう……お父さん、お母さん」
レニーアは自分でも理解出来ないほど顔や耳が熱くなるのを感じた。
いてもたってもいられなくなり、騒々しい音を立てて椅子から立ち上がると、使用人達の制止の声を無視し、両親を置き去りにして食堂を後にした。
ジュリウスとラナはしばし呆然と風にさらわれるように去っていった娘の背を見つめていたが、彼女が去り際に口にした言葉を思い出して、二人揃ってぼろぼろと涙を零し始める。
「あなた、あなた、レニーアが、あの子が私の事をお母さんと……あなたの事をお父さんと呼んでくれましたよ!」
「ああ、そうだ、そうだよ、ラナ。レニーアが……これまで一度も私達の事をそう呼んではくれなかったあの子が、私達の事を親として認めてくれたのだ。今日はなんて素晴らしい日なのだろう!」
「ええ、本当に。それにしてもあなた、ドランさんという殿方の事を語る時のレニーアは、本当に幸せそうでしたね」
男親と女親とでは心情が異なるのか、本当に嬉しそうにドランの事を口にするラナに対し、ジュリウスはどこか複雑な表情だ。
「ああ、そうだね。喜ぶべきなのだろうけれど、父親としては素直に祝福出来ないよ。ただ、ブラスターブラスト家を相続させる為の養子を迎えなくても済むかもしれないと考えれば、当主としては歓迎すべきか」
「でも、そのドランさんは平民の方だそうですから、身分が違うと横槍を入れられてしまうかもしれません」
「だが、レニーアは自分が百万いても届かないと言っていたからね。話半分だとしても、それだけの実力の主なら、我がブラスターブラスト家の親族の者達もいずれ納得してくれるだろう。もっとも、レニーアの片想いかもしれないし……あの子の性格では難しいだろうね」
こうしてドランは、彼のあずかり知らぬところで、レニーアの父母らに最大の婿候補として名前を記憶されたのだった。
その日の夜。
ブラスターブラスト領内の交通の要所の一つにある旅籠で、女将とむさ苦しい男共が酒を酌み交わしていた。
代々の当主達が交通網の整備に尽力したお蔭で、領内の街道には旅籠や宿場町が形成され、人々の憩いの場になっている。
一方で、大小無数存在する旅籠の中には、宿泊客を標的にした強盗を裏の稼業とする悪党共も紛れていた。
就寝中の宿泊客を殺害して荷物を奪ったり、身包みを剥いで人買いに売り捌いたり、あるいは宿泊客が宿を出た後で密かに追いかけて人目のない場所で殺害するなど、それなりの数の犠牲者が出ている。
昨今ブラスターブラスト家は、こういった悪徳旅籠の排除に追われているが、悪党共に横の繋がりがない為、一網打尽にするのが難しいのが悩みの種であった。
『鴉の止まり木亭』というこの旅籠も、そうした宿泊客を狙って外道働きをする悪徳宿の一つだった。
今日は行商人の夫婦と十歳になる娘が客として訪れたのだが、さっそくこの夫婦と娘を縄で拘束して地下室に放り込んでしまった。
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その前祝いに、彼らは酒を酌み交わしていた。
がぶがぶと安酒を呷り、女将や他に何人かいる女達と淫らな行為に耽っていた男達が、行商人の妻や娘の味見をしようと下卑た笑みを浮かべて立ち上がったその時、異変は起きた。
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