バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第二章

06 猫の世話係と図書館巡り(3)

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「お前は、あの男の前で二度と口を開くな」

 とリーヤがエルを小声でどやしつけているのを背後に聞きながら歩を進めたワタルとキリヤは、突然視界が開けて目の前に広がった光景に思わず感嘆の声を漏らした。
 先程の本の谷よりはるかに高い天井、祈りの間よりも広い部屋の壁、その高い位置に大きな窓がいくつも穿たれていた。ここは塔の端に位置するのだ。
 さんさんと降り注ぐ日射しの眩しさに目が慣れるまで少々時間を要した。

「ここでは、新しい舟を製造しています。でたらめに本をつなぎ合わせても舟はできますが、先ほど申し上げたように、本によって頁への水の染み方に差が出る。小麦の生産所で量産している本ならば、個体の差は微々たるものですが、それ以外の本は、やはり熟練の舟大工が後々のメンテナンスの利便性なども考えたうえで、最適な組み合わせを考えて組み立てる必要がある。
 コミューンにおける舟の利用は限定的です。まず、漁師が漁に出かけるための舟。これは数名から十数人規模の大きさで作る。大きな舟を作ればそれだけ資材を消費しますし、メンテナンスにも手間がかかる。本はあらゆる意味で貴重ですから、気紛れに大型舟を作るわけにはいかない。今そこで大工が製造しているのも、近場で小規模な漁をするための小人数乗りの舟です」

 部屋の中央に置かれた作りかけの舟――先の尖ったボート型の小舟だ――を、数名の大工が取り囲んでいた。まだ舟体を底の部分から側面にかけての枠組みを作り上げている段階で、舟というよりは何かの骨格のように見える。舟の周辺には材料である本が積み上げられて低い壁を作っている。

「魚なんて久しく口にしてないなあ。一体どこに流れていってるんだい」とリーヤ。

「漁獲量は年々減少しています。原因はわかりませんが、この舟で漁師が出かけて行くとして、以前よりうんと遠くまで遠征しなければ魚が捕れないといいます。そのため、舟も長い舟旅に耐えられるよう、増強する必要があります。そうまでして捕れた魚は、コミューン内で公正に分配されます。気長に配給を待つしかありませんね。長老様は」
 と言いかけて猫の世話係は口をつぐんだ。

「長老様? ゲンヤのことか?」

「前の長老様です。魚がお好きだった。死期が迫っているのが明白になり、せめて好物を口にしていただこうという案が使徒から出されたそうです。しかし、前の長老様は、民の誰一人としてそのような特別扱いは受けていないのだから、と断られたとか。ご立派な方でした。人の上に立つお方というのは、ああでなくては」

 それに比べてあなたは、と明らかに非難がましい潤んだ目で猫の世話係に睨まれて、リーヤは口をつぐんだ。作りかけの舟の周辺で作業をしている舟大工からも鼻をすすりあげる音が聞こえた。

 ゲンヤの長老就任式があったのは朝方、今は昼であるが、当然先の長老の訃報は就任式に出席した職人代表によって民に知れ渡っている。
 コミューンでは亡くなった者を忍ぶ式典、所謂葬式というものは行わない。それは、亡くなったのが集落の長であっても、変わらない。喪に服し悲しみに浸ることは許されるが、気を紛らわせるために通常通りの作業をすることを好む者が多い。亡くなった者に対しては、虚勢を張ってでも「お前が居なくても大丈夫だ」という態度をとり、安らかに眠らせることを是としているからだ。

「舟大工は、漁師も兼ねている場合が多い。長期の漁に出たら、出先で舟をメンテナンスしなければなりませんからね。彼らは長老――前の長老様が体調不良であるという噂を聞いて、せめて好物を食べて頂こうと、いつもより遠くまで漁に出かけ、危うく命を落としかけた。長老様は、彼らの労を心からねぎらい、感謝しておられたが、自分のために命を危険にさらすようなことは、二度としてはならないと厳しく戒められたのだ。誰か一人のためではなく、全ての民が幸せになるよう常に考え、行動せよ、と」

 猫の世話係は新米使徒達に背を向けて肩を小刻みに震わせていたし、大工達に至っては、両手に顔を埋めて、肩を震わせながら嗚咽を漏らしていた。
 青ざめたリーヤが平謝りに詫びを述べ、危険に身を晒し貴重な魚をコミューンにもたらしてくれる漁師や舟大工にはいつも感謝していると繰り返し述べると、大工達はようやく大きな音を立てて鼻をすすりあげ、作業を再開したが、その後新米使徒達にに向けられる赤く充血した目は冷ややかだった。

「立派なお方だった。長老様は。まだお元気な頃は、使徒を一人従えただけで、ここを度々訪問されたものだ。大工や漁師の仕事がどのようなものか、熱心に耳を傾けてくださった。我々の仲間が命を落とすことがなくなるようにと、使徒と様々案を練っておられた」

 大工の一人が、ワタル達の誰とも目を合わさずにそう言った。

 次に移動した部屋には、筏タイプやボートタイプの小型舟が置かれていた。先ほどの部屋より窓の数が多く開放的で、風が吹き抜けていくのが感じられた。部屋の隅には端から端までロープが張られ、舟から破り取られたと思しき本の頁が洗濯ばさみで留められ風になびいていた。

「ここは、舟のメンテナンス室。そこにある四角く平たい舟は、一般の民もたまに目にすることがある代物だ。残念なことに、ね」

 猫の世話係が指さすものが何か、ワタルには一目でわかった。それに乗り込んだのは、ほんの昨日の出来事であったが、全く実感が湧かなかった。どこまでも続く水、また、水――櫓をこぐ単調なリズムと、波が舟に押し寄せる音、ユッコの父の首の骨が折れる音、遠くに聳え立つ塔――あれは全て夢ではなかったか、とワタルは思う。いや、夢であってほしいと望んでいた。

「舟を使用した後は、水の染み込んだ頁を取り除いたうえで、よく乾燥させる。これを怠ると、舟は沈みかねない。無論、航海中はこの限りではないが。破り取った頁は、乾かせば燃料として再利用できる。本というのは、全く無駄にするところがないのです」


 造船所の見学を終えて図書館に戻る道すがら、猫の世話係はずっと不機嫌だった。この後、リーヤ、エル、キリヤの三人には「不本意ながら、私が文字の読み書きを教えることになっている」のが大いに不満らしく「まったく、猫の世話だけでは不満だとでもいうのか」とか「貴重な書物を害虫被害から守っているのは一体誰だと」などと不平不満をこぼし続けていた。

「そういえば、お前の父上は舟大工ではないのか」とキリヤが問うと、エルは
「うん。僕も親父を探したけど、いなかったね。さっき顔を合わせた舟大工達も、見たことのない人達だった。親父をはじめ、僕のいた居住区では、皆殆ど仕事の話をしないんだ。おかしいな。今度親父に会ったら訊いてみよう」と首を捻った。それを聞きつけた猫の世話係が階段の途中で立ち止まって言った。

「造舟所といっても広いので、全てをお見せしたわけではない。それに、エル殿の父上は大工というよりは――いや、とにかく、あなた方のような新米に全てをお見せするわけにはいかないのだ。例え親子と言えども、部外者には漏らせない情報もあるのだとわきまえていただきたい」

 それ以降、一行は無言で図書館内を行進し、写字室まで戻って来た。

「ワタル殿は司書であらせられるから、わざわざ他の司書の手を煩わせ文字を教わる必要などないのですから、ここからは別行動です。パウ殿からの伝言で、見学が済んだら『世界が滅びた時のための書』のある部屋まで来てほしいとのことでした。ワタル殿は正式な資格を持つ司書であらせられるのだから、図書館内で迷子になる心配もないので、わざわざ他の司書の付き添いを要して他の司書の仕事の邪魔をするようなこともなく、大変結構なことですな、正式な司書というのは」

 という猫の世話係の長々しい嫌味に送り出され、ワタルは情けない面をしている他の新米使徒達と別れた。
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