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愛美~前編~
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しおりを挟む「うっ」
思わず呻いて鼻を袖で覆う。嗅いだことのあるすえた堆肥臭に、初めて嗅ぐ謎の臭いが混ざった強烈な悪臭が漂ってきた。
鼻が腐るんじゃないかと心配になるほど臭い。間違いなく日常では嗅ぐことのない臭いに、変に心を惹かれてしまう。
何の臭いだろう? 死体があるとか?
そんな考えが脳裏を過ぎる。興味本位でどこから臭っているのかを探ると、どうも臭気の原因は草むらにあるようだと分かった。
さっき来たとき、こんな臭いしてたっけ?
記憶になかった。こんな激臭があったなら、そのときに気づかないはずはないと思う。けど、もしかすると風向きが影響したのではと考えが至る。さっきは後ろから風が吹いていたような気がしなくもない。
山林の前に生い茂った草むらは、地面がどうなっているか確認できないくらい密集している。かなりの広範囲だ。人の死体が置かれていたとしても分からないだろう。
まさかね。
そう思いながら、視線を巡らす。
右へ。左へ。
そこで、草むらから何かがはみ出ていることに気づいた。
破れた革靴のように見えた。
目を細め、顔を前に出してしっかり見る。
やっぱり、革靴に間違いなかった。
つま先から半分ほど靴底が剥がれていて、そこから汚れて黄ばんだ靴下が見えている。
嘘でしょ。
恐る恐る、近づいてみる。
と、不意に、靴下の先端が大きく曲がり、ガサッと革靴が草むらに引っ込んだ。
私は少し驚いて半歩ほど後ろに下がった。
草むらが音をたてて動く。
革靴が出ていた場所からこちらに近づいてくる。
私の目の前の草が掻き分けられて――。
男の顔が出た。
下膨れた輪郭。
大きな鼻と分厚い唇。垢が溜まっているような黒ずんだ肌の色。
まとまりのない、脂でべたついたような黒髪。
髭がまばらに伸びている。
丸く開かれた小振りな目。だけど瞳は、私を映していないように見える。
どこか虚空を見ている。そういう印象がある。
私は金縛りに遭ったようになってしまい、ただ男を見下ろしている。
男も、私の腰くらいの高さから、ただ私を見上げている。
男の瞳は欠片も動かない。
まるで眼球が固定されているように。
ふと、男の口の端から何かが出ていることに気づく。
食べかすのような……。
「ひっ」
私は声を吸った。背筋を冷たい手で撫でられたような悪寒が走った。
男の口の端にあったものが動いて、にゅるんっと飛び出た。
それは、蛙の脚だった。
緑色の、それなりに大きな蛙の脚が、男の唇の隙間から出てきて膝関節を伸ばしていた。
蛙は口の中で跳ねているようで、細かく、断続的に、何度も膝関節から下が伸びる。
男は相変わらず私の方を見て動かない。
それが、いきなりにっこり笑った。
蛙の脚が、もがき続ける。
ふくらはぎが収縮する。
水かきが伸びて張る。
脚の筋肉が膨らむ。
ブツッ――。
千切れた脚だけが、地面で跳ねた。ぴんっと伸びる。男はそれを手で素早く拾い上げて口の中に放り込むと、勢いよく咀嚼し始めた。きゅぅ、という柔らかな命の断末魔と、その内部にある骨が折れて割れる音が私の耳に入ってきた。
男は口の端から垂れてきた血をべろりと舐め取ると、ごくんと嚥下し草むらに顔を引っ込めた。すごい勢いで草が揺れた。男は素早く草むらを抜け出し、奥の林に姿を消した。
私は血の気が引いたようになっていた。足がブルブル震えて、胃から車中で食べたサンドイッチが上がってくる。道路の端にある林の側に走り、一気に吐瀉した。
息を切らすと、また悪臭。鼻腔にこびりついている気がする。逃げるように歩いて、それでも吐き気が消えず、吐くものがなくなるまで涙と鼻水を溢しながら嘔吐。
歩いては立ち止まりを繰り返し、臭いが届かなくなる所まで移動して、ようやく私は放心した。その場に座り込むと、ぞわぞわと恐怖が湧き起こった。
「あの山は、いるよ」
祖母の顔と声が思い出される。
「何かがだよ。祟られるんだよ。草むらにいた蛇をね、頭からガブッと食べたんだ」
男の口の端で噛み千切られた蛙の脚が、地面に落下して、跳ねる。
そこまでが脳内で再生され、私は耳を塞いで大声を出した。
「どうした!」
振り向くと、父が血相を変えて駆け寄ってきていた。釣竿とクーラーボックスを持った学も一緒だった。父と学の顔を見ると安心して涙が出てきた。私はしばらく、学にしがみついて泣いた。学がいやがって離れると、父が私を抱擁し、背中を擦り続けた。
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