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第三話

名もなき少年(3)

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 少年は頭の潰れた犬を見た。どれだけ見ても、殺したことに罪悪感はなかった。記憶が追加された瞬間こそ、忌避感や戸惑いを含め胸を悪くしたが、そんなものは今や影も形もなかった。むしろ喜びが後に座っていた。

 少年にとって犬は仇敵だった。同じ個体ではないが、追い回されたことは一度や二度ではない。挑んで返り討ちにされ、怪我が治るまで必死に逃げたことも記憶に新しい。そんな相手を狩れたのだ。喜びが湧くのも当然だった。

 とはいえ、危なかった。もう少し、ほんの僅かでも記憶が追加されるのが早ければ、おそらく犬を殺せはしなかった。そのときは、自分が犬や鼠、虫たちの餌になっていただろう。想像して、少年は身震いする。

(色々と幸運が重なったな)

 もし記憶がすべて上書きされていたら、道徳心や倫理観、衛生観念が足を引っ張ったに違いない。悲鳴を上げて路地から飛び出し、悪意ある者たちに殺されるか売られるかしていただろう。

(順応する時間なんて与えられなかっただろうからな……)

 恐ろしい結末を避けられたことに安堵の息を漏らしたところで、話し声が耳に入った。遠くで何人か大声を出し合っている。

(三人、いや四人だな)

 耳を澄まして間もなく、悲鳴と笑い声が上がった。少年は慌てて立ち上がり、犬の死骸を背負う。そこでふと、似たようなことが定期的に起きていたことに気づく。知識を得る前は理解が及んでいなかった。ここには、人を相手に狩りを行う連中がいるのだと。そして、それを咎める者を見たことはない。

(とんでもねぇな。合法かよ。いや、法律とかあんのか?)

 襲われている者を救う気など更々なかった。むしろ囮になる者がいて好都合だと少年は足を速める。少し歩けば外壁の小穴に辿り着く。そこから外に這い出れば目の前が森。身を隠しやすいうえに小川まであるので、少年は頻繁に訪れている。

 犬と遭遇することもあるが、貧民街と同じくらい稀だった。おそらく貧民街に迷い込む犬は群れから追い出された個体なのだろうと少年は推測する。ここで犬を殺した以上、森でまた遭遇するとは思えない。記憶にある遭遇頻度が参考になる。

(とりあえず、外にさえ出られれば……。ああ、しかし、腹減ったなぁ)

 気づけば涎が出ていた。普段なら獲物に躊躇せずかぶりつき、毛皮も気にせず貪り食っていただろう。だが今はもう、そんな野性的過ぎる食事をする気にはなれない。

(本当に何もわかってなかったんだな、俺。まぁ、言葉も話せないくらい馬鹿だったから仕方ないけど、体は大丈夫なのかね? ちょっと考えられん食生活だったみたいだが……まさかすぐに死ぬとかないよな?)

 振り返ってみても、狩った獲物を煮たり焼いたりして食べた記憶がなかった。火を通さねば寄生虫や病気の危険性があると知った今も、従来通りそのままかぶりつき、まずは飢えを満たした方が良いのではないかという考えが拭えない。

(いや、やっぱり駄目だ。火は通そう。しかし、参ったな。何が怖ろしいかって、こんなもんを美味そうって思っちまってることなんだよな。調理前だぞ。なんて、今更か。おかしいのは食生活に限ったことでもないしなぁ)

 自分の頑丈さに呆れながらも警戒は怠らない。幸いにも外壁までの距離は近く、人通りもほぼない。そういったこともあり、少年は人目につくことなく外壁の小穴から外に這い出ることができた。





 森の中にある小川の側に辿り着いた少年は、犬の解体を始めていた。知識も経験もまともな道具もないが気にしなかった。そもそも上手くできると思っていない。とりあえず毛皮と肉が分けられればそれで構わなかった。

(魚を捌いた記憶はあるから、それに倣って、なるべく可食部が減らないように……駄目なら駄目で、毛皮ごと焼いて食えばいいし)

 何も持たないが故に、妥協は簡単だった。川辺で尖った薄い石を拾い上げると、躊躇いなく犬の腹に突き刺し力任せに裂いていく。

「うわ、きっつ」

 想像以上に切れ味が悪い。凝固した血の塊や内臓がこぼれ出ることよりも、そちらの方が苦痛だった。肉質も硬く、かなりの力を要する。

「あー、クソ。全然上手くいかねぇ」

 妥協はしているが、上手くできないとやはりイラついた。日本人の記憶の中に、アジを捌いた経験があるが、まるで勝手が違う。遅々として進まない。
 いつの間にか、大量の汗を搔いていた。ぽたぽたと顔を伝って流れ落ちていく。
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