17 / 36
第四章 救いの糸
ep.16 帰る場所
しおりを挟む
頬が冷たかった。
ここは……?
暗い。
あの浴室? それとも、あの檻の中……?
「——やったな」
耳鳴りがする。
遠くから話し声が聞こえ、ギルバートは我に返った。
床に手をつく。指先が震えた。体を起こそうとすると、肋骨が痛んだ。
息を吸おうとして咳き込む。
「立てるか?」
ギルバートは顔を上げた。
大人たちが見下ろしている。けれど、差し伸べられる手はなかった。
「魔力が不安定だな。すぐにフィニアスのところに行ったほうがいい」
「……いいえ。大丈夫です」
男は顔を顰めた。
「いや。行くべきだ。街中で暴走されたら犠牲者が出る」
ギルバートは顔を伏せ、唇を噛み締めた。
そしてもう一度、顔を上げる。痛みを呑み込み、微笑みをつくる。
「……そうですね。動けるようになったら、ここを出ます」
彼らはまだ納得していないようだった。
けれど、ギルバートが体を起こし、座り込むと、目配せをしあって背を向けた。
「——危険種相手に五人とはぶっ飛んだ仕事だと思ったが」
「——やれてしまうものなんだな」
男たちの影が戸外の逆光に消えていく。
そのとき、一人が踵を返した。
「君。……大丈夫か?」
ギルバートは答えられない。
男は、外套のポケットから紙切れを取り出し、何かを書き記した。
「俺じゃ役に立たないかもしれないが。ここに俺の友人がいる。もし、困ったことがあれば……彼を訪ねてみても、いいかもしれない」
紙片をギルバートに渡すと、彼は急ぎ足で光の中へ消えていった。
ギルバートは、手の中の紙切れに目を落とす。
中央機構。
すべての魔導士の登録と管理を行っている機関だと、耳にしたことがあった。
◆◇◆
ギルバートは脇腹を押さえ、立ち上がった。
「……っ」
悲鳴が漏れそうになる。
壁に寄り掛かりながら、彼は廃屋を出た。
雑草が顔を出す砂利道を歩いた。彼は、灰色の石で組まれた古い屋敷を見上げる。
かつて貴族の家柄だったことを示すような、装飾の施されたアーチや窓枠の意匠は、風雨にさらされ、くすんでいる。
その佇まいは、彼の記憶にある生家と寸分たがわぬ寂しさがあった。
ここを訪れようと決めたわけではない。
引き寄せられるように足が向かっただけだ。
……引き返そう。
ここはかつて、自分を売った家だ。
彼が屋敷に背を向けようとした、まさにその時だった。扉が軋む乾いた音がして、女と少年が姿を現した。
ギルバートは肩を震わせた。
女の表情が凍り付く。
「……ギル、バート?」
記憶よりも年老いた女の顔。だが、ギルバートを見るその視線は変わっていなかった。
まるで、他人を見るような目。
——母だ。
その隣にいるのは、弟だった。かつて病弱だった身体は、今ではすっかり健康そうで、口元には笑みさえ浮かんでいる。
胸の奥に走る軋みを、ギルバートは否定したかった。
「……今さら、なに?」
母のその鋭い声を聞いた瞬間、ぞっとするような冷たさが背筋を這い上がった。
母が弟を背に隠す仕草を、もう見たくない。
ギルバートは、外套の襟を引き寄せた。風で前髪が目にかかる。
「邪魔するつもりは、ありませんでした。……ただ、見たかっただけなんです」
静かに頭を下げた。
たった一歩、引くだけなのに、足が重かった。
母の返事はない。
ギルバートは、目を背けるようにその場を立ち去った。
屋敷からしばらく歩いたところに、小さな林がある。
木々の影は長く伸びて、夕暮れの光を不規則に遮っていた。
ギルバートは、木に寄り掛かり、背中からずるりと滑るように膝を折った。
力が抜けた、というより、もう立っていられなかった。
額を腕に押し付け、呼吸を整えようとする。
喉が、焼けつくように熱かった。
呪印の痛み、肋骨の痛み、開いた傷の痛み——どれも今さらになって、体中を軋ませる。
期待したわけじゃなかったのに。
もう、どこからどこまでが自分なのか、輪郭がわからなくなっていく。
——帰ろう。
どこへ、と問いかけた瞬間、ふと、木漏れ日の下のあのベンチが脳裏をよぎった。
そこに座る人の横顔がかすめて、彼はそれを振り払った。
ここは……?
暗い。
あの浴室? それとも、あの檻の中……?
「——やったな」
耳鳴りがする。
遠くから話し声が聞こえ、ギルバートは我に返った。
床に手をつく。指先が震えた。体を起こそうとすると、肋骨が痛んだ。
息を吸おうとして咳き込む。
「立てるか?」
ギルバートは顔を上げた。
大人たちが見下ろしている。けれど、差し伸べられる手はなかった。
「魔力が不安定だな。すぐにフィニアスのところに行ったほうがいい」
「……いいえ。大丈夫です」
男は顔を顰めた。
「いや。行くべきだ。街中で暴走されたら犠牲者が出る」
ギルバートは顔を伏せ、唇を噛み締めた。
そしてもう一度、顔を上げる。痛みを呑み込み、微笑みをつくる。
「……そうですね。動けるようになったら、ここを出ます」
彼らはまだ納得していないようだった。
けれど、ギルバートが体を起こし、座り込むと、目配せをしあって背を向けた。
「——危険種相手に五人とはぶっ飛んだ仕事だと思ったが」
「——やれてしまうものなんだな」
男たちの影が戸外の逆光に消えていく。
そのとき、一人が踵を返した。
「君。……大丈夫か?」
ギルバートは答えられない。
男は、外套のポケットから紙切れを取り出し、何かを書き記した。
「俺じゃ役に立たないかもしれないが。ここに俺の友人がいる。もし、困ったことがあれば……彼を訪ねてみても、いいかもしれない」
紙片をギルバートに渡すと、彼は急ぎ足で光の中へ消えていった。
ギルバートは、手の中の紙切れに目を落とす。
中央機構。
すべての魔導士の登録と管理を行っている機関だと、耳にしたことがあった。
◆◇◆
ギルバートは脇腹を押さえ、立ち上がった。
「……っ」
悲鳴が漏れそうになる。
壁に寄り掛かりながら、彼は廃屋を出た。
雑草が顔を出す砂利道を歩いた。彼は、灰色の石で組まれた古い屋敷を見上げる。
かつて貴族の家柄だったことを示すような、装飾の施されたアーチや窓枠の意匠は、風雨にさらされ、くすんでいる。
その佇まいは、彼の記憶にある生家と寸分たがわぬ寂しさがあった。
ここを訪れようと決めたわけではない。
引き寄せられるように足が向かっただけだ。
……引き返そう。
ここはかつて、自分を売った家だ。
彼が屋敷に背を向けようとした、まさにその時だった。扉が軋む乾いた音がして、女と少年が姿を現した。
ギルバートは肩を震わせた。
女の表情が凍り付く。
「……ギル、バート?」
記憶よりも年老いた女の顔。だが、ギルバートを見るその視線は変わっていなかった。
まるで、他人を見るような目。
——母だ。
その隣にいるのは、弟だった。かつて病弱だった身体は、今ではすっかり健康そうで、口元には笑みさえ浮かんでいる。
胸の奥に走る軋みを、ギルバートは否定したかった。
「……今さら、なに?」
母のその鋭い声を聞いた瞬間、ぞっとするような冷たさが背筋を這い上がった。
母が弟を背に隠す仕草を、もう見たくない。
ギルバートは、外套の襟を引き寄せた。風で前髪が目にかかる。
「邪魔するつもりは、ありませんでした。……ただ、見たかっただけなんです」
静かに頭を下げた。
たった一歩、引くだけなのに、足が重かった。
母の返事はない。
ギルバートは、目を背けるようにその場を立ち去った。
屋敷からしばらく歩いたところに、小さな林がある。
木々の影は長く伸びて、夕暮れの光を不規則に遮っていた。
ギルバートは、木に寄り掛かり、背中からずるりと滑るように膝を折った。
力が抜けた、というより、もう立っていられなかった。
額を腕に押し付け、呼吸を整えようとする。
喉が、焼けつくように熱かった。
呪印の痛み、肋骨の痛み、開いた傷の痛み——どれも今さらになって、体中を軋ませる。
期待したわけじゃなかったのに。
もう、どこからどこまでが自分なのか、輪郭がわからなくなっていく。
——帰ろう。
どこへ、と問いかけた瞬間、ふと、木漏れ日の下のあのベンチが脳裏をよぎった。
そこに座る人の横顔がかすめて、彼はそれを振り払った。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
すべてはあなたの為だった~狂愛~
矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。
愛しているのは君だけ…。
大切なのも君だけ…。
『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』
※設定はゆるいです。
※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて
ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」
お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。
綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。
今はもう、私に微笑みかける事はありません。
貴方の笑顔は別の方のもの。
私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。
私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。
ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか?
―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。
※ゆるゆる設定です。
※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」
※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド
悪女の最後の手紙
新川 さとし
恋愛
王国を揺るがす地震が続く中、王子の隣に立っていたのは、婚約者ではなかった。
人々から「悪女」と呼ばれた、ひとりの少女。
彼女は笑い、奪い、好き勝手に振る舞っているように見えた。
婚約者である令嬢は、ただ黙って、その光景を見つめるしかなかった。
理由も知らされないまま、少しずつ立場を奪われ、周囲の視線と噂に耐えながら。
やがて地震は収まり、王国には安堵が訪れる。
――その直後、一通の手紙が届く。
それは、世界の見え方を、静かに反転させる手紙だった。
悪女と呼ばれた少女が、誰にも知られぬまま選び取った「最後の選択」を描いた物語。
表紙の作成と、文章の校正にAIを利用しています。
愛を忘れた令嬢が平民に扮した公爵子息様に娶られる話
rifa
恋愛
今まで虐げられ続けて育ち、愛を忘れてしまった男爵令嬢のミレー。
彼女の義妹・アリサは、社交パーティーで出会ったオリヴァーという公爵家の息子に魅了され、ミレーという義姉がいることを一層よく思わないようになる。
そこでミレーを暴漢に襲わせ、あわよくば亡き者にしようと企んでいたが、それを下町に住むグランという青年に助けられ失敗し、ミレーはグランの家で保護され、そのまま一緒に暮らすようになる。
そしてそのグランこそがアリサが結婚を望んだオリヴァーであり、ミレーと婚約することになる男性だった。
やがてグランが実は公爵家の人間であったと知ったミレーは、公爵家でオリヴァーの婚約者として暮らすことになる。
だが、ミレーを虐げ傷つけてきたアリサたちを許しはしないと、オリヴァーは密かに仕返しを目論んでいた。
※アリサは最後痛い目を見るので、アリサのファンは閲覧をオススメしません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる