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2話
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今日も、か。
私、城戸綾香はスマートフォンをカバンの中に放り投げた。
弟の城戸芳佳が引き込もるようになり、もう三ヶ月になる。昼休みに実家の母から連絡が来る。今日も、弟は姿を見せなかったようだ。
私が東京で教鞭をとり、もう四年になる。その中で引き込もってしまった生徒を何人も見てきた。高校生という多感な時期、ほんのちょっとした事で心に傷を負い自らの殻に篭ってしまうというのは決して珍しいものではない。
しかし、どうしても解せなかった。引き込もってしまった生徒達と弟の姿が重なるようには思えなかったのだ。
元々、芳佳は非常に明るい人間であった。髪の毛を染めていたり、校則を無視しピアスやネックレスをつけることはあっても、注意すればほんの少しの反発の後に従う、やんちゃだが素直な子供といった感じだ。成績は決して優秀ではなかったが、それなりにこなしていたことも知っている。
五限目の授業。私が受け持つ科目は生物である。
「それでは、日直さん、号令」
起立、礼、着席、と流れ作業のような挨拶を終え、教科書を開く。
今日の講義は、遺伝物質についてだ。俗にいうDNAやRNAのことである。とはいえ、狭く、浅く、触りだけだ。高校二年生の授業であまり難解な部分まで教えることはない。しかし、だからと言って、見下し、適当な授業をするつもりはない。これをきっかけに、生物関係の大学に進学する学生がいるかもしれないのだ。
うっすらとチョークの後が残った黒板に、大きく見出しを書く。大きすぎるような気もするが、最後列の生徒のことを考えるとこれぐらいがちょうどいいだろう。
「じゃあ、まず遺伝物質とは何かについて説明しますね。遺伝物質とは、皆さんが知るDNAと呼ばれるもので、これはデオキシリボース、リン酸、塩基から構成されていて……」
生徒たちの視線が注がれる。決して、レベルの高い学校ではない。しかし、基本的にどの子も真面目なのが、この高校の利点であると私は思っていた。
――――滞りなく授業を終える。生徒たちからの質問もなく、そのままホームルームを開始した。スムーズな流れに、生徒たちから歓声がこぼれた。ほんの数分とはいえ、学校という拘束から早く解放されることがどれほど嬉しかったかを、ふと思い出し、笑いがこぼれた。
「……よし」
ホームルームを手早く終え、職員室に戻り、授業の内容をまとめたものや学校行事などを記した印刷物をクリアファイルに仕舞い、外に出る。今日は曇天である。昨日の大雨よりはましだが、やはり梅雨時というだけあって、酷く蒸す。今年は猛暑になると天気予報士が言っていたが、そうなるだろうなと予期させる気候だ。
紫陽花の咲き乱れる教員用駐車場に停めてあった愛車に乗り込むと、電話をかける。
2度のコールの後に聞き慣れた声がした。
「綾香?」
「お母さん、今平気?」
大丈夫よといつもの優しい口調が返ってくる。
「単刀直入だけど……どう?」
「変化は、ないわね」
進展はなし。相変わらず、こちらの声に応じないということか。
「実はこの前ね、携帯電話の機種を替えに行ったのよ」
母がぽつりと呟く。確か以前帰省した時にバッテリーの保ちが悪いとぼやいていたことを思い出す。
「その時に、ふと気になって、芳佳の通信量を見てみたんだけど、ほら、お店ならばそれが見れるでしょう?」
そういった機器類に関しては詳しくないため、何とも言えないが、そういうものなのだろう。小さく、電話越しに相槌を打つ。
「そうしたら……私達からの着信だけで、何のデータも受信していなかったのよね」
「……ええと、つまりスマートフォンを、自分から一切利用していないってこと?」
決してそちら方面に聡いわけではないが、理解はできる。
年頃の高校生がスマートフォンを全く利用しないなどということがあるのだろうか。
「うちはインターネット環境がリビングとお父さんの部屋しかないでしょ?」
新しい家ならともかく、古い建物であるが故だ。
「おかしいと思わない? インターネットも携帯も使わずにあの子、いったい何をして二か月も過ごしているのか? 確かに、あの子の部屋にも本はあるけど、でもそれほど多くはないし。ゲーム機などもリビングで。少なくとも三か月もの期間をつぶせるようなものは無いはずよね」
引きこもりになった児童は何人か見てきた。それぞれの原因は様々で、勉強疲れや苛め、両親との関係などだった。ただ、いずれも共通していたのが、ネットの世界への逃避だった。朝から晩まで休むこともなく、画面の向こうにいる人々と会話をし、それを生きがいにしていたのだ。
辛い現実から離れ、仮想現実の楽園へと逃げ込む。そうやって彼らは自らの平穏を築いていたのだ。
しかし、芳佳は違う。それが出来ない環境にある。だとしたら彼はいったい何をしているのか。
「お母さん、芳佳を見たのはいつ?」
最悪のパターンを想定し問う。しかし、返事はそれを退けるものであった。
「昨日の夜よ。浴室から音がして、覗きにいくと芳佳がいたわ。ずいぶんと痩せていたけど」
ほっと息を吐く。自ら命を絶つ、という行動に走っていなくてよかったと心から思う。
「それからね、気になって、ちょこちょことあの子の部屋に行ったんだけど、声がするのよ、誰かと会話をするような声が」
電話という線も考えたが、携帯電話に使用履歴はないのだ。となると、おそらくは独り言となるのだろう。精神的に参っているという事なのだろうか。
「……近いうちに一度そっちに戻るから、お母さんもあんまり気に病まないでね」
「分かったわ、ありがとう、綾香」
にこやかな口調だが、決してそれは本心からのものではないのだろう。
私、城戸綾香はスマートフォンをカバンの中に放り投げた。
弟の城戸芳佳が引き込もるようになり、もう三ヶ月になる。昼休みに実家の母から連絡が来る。今日も、弟は姿を見せなかったようだ。
私が東京で教鞭をとり、もう四年になる。その中で引き込もってしまった生徒を何人も見てきた。高校生という多感な時期、ほんのちょっとした事で心に傷を負い自らの殻に篭ってしまうというのは決して珍しいものではない。
しかし、どうしても解せなかった。引き込もってしまった生徒達と弟の姿が重なるようには思えなかったのだ。
元々、芳佳は非常に明るい人間であった。髪の毛を染めていたり、校則を無視しピアスやネックレスをつけることはあっても、注意すればほんの少しの反発の後に従う、やんちゃだが素直な子供といった感じだ。成績は決して優秀ではなかったが、それなりにこなしていたことも知っている。
五限目の授業。私が受け持つ科目は生物である。
「それでは、日直さん、号令」
起立、礼、着席、と流れ作業のような挨拶を終え、教科書を開く。
今日の講義は、遺伝物質についてだ。俗にいうDNAやRNAのことである。とはいえ、狭く、浅く、触りだけだ。高校二年生の授業であまり難解な部分まで教えることはない。しかし、だからと言って、見下し、適当な授業をするつもりはない。これをきっかけに、生物関係の大学に進学する学生がいるかもしれないのだ。
うっすらとチョークの後が残った黒板に、大きく見出しを書く。大きすぎるような気もするが、最後列の生徒のことを考えるとこれぐらいがちょうどいいだろう。
「じゃあ、まず遺伝物質とは何かについて説明しますね。遺伝物質とは、皆さんが知るDNAと呼ばれるもので、これはデオキシリボース、リン酸、塩基から構成されていて……」
生徒たちの視線が注がれる。決して、レベルの高い学校ではない。しかし、基本的にどの子も真面目なのが、この高校の利点であると私は思っていた。
――――滞りなく授業を終える。生徒たちからの質問もなく、そのままホームルームを開始した。スムーズな流れに、生徒たちから歓声がこぼれた。ほんの数分とはいえ、学校という拘束から早く解放されることがどれほど嬉しかったかを、ふと思い出し、笑いがこぼれた。
「……よし」
ホームルームを手早く終え、職員室に戻り、授業の内容をまとめたものや学校行事などを記した印刷物をクリアファイルに仕舞い、外に出る。今日は曇天である。昨日の大雨よりはましだが、やはり梅雨時というだけあって、酷く蒸す。今年は猛暑になると天気予報士が言っていたが、そうなるだろうなと予期させる気候だ。
紫陽花の咲き乱れる教員用駐車場に停めてあった愛車に乗り込むと、電話をかける。
2度のコールの後に聞き慣れた声がした。
「綾香?」
「お母さん、今平気?」
大丈夫よといつもの優しい口調が返ってくる。
「単刀直入だけど……どう?」
「変化は、ないわね」
進展はなし。相変わらず、こちらの声に応じないということか。
「実はこの前ね、携帯電話の機種を替えに行ったのよ」
母がぽつりと呟く。確か以前帰省した時にバッテリーの保ちが悪いとぼやいていたことを思い出す。
「その時に、ふと気になって、芳佳の通信量を見てみたんだけど、ほら、お店ならばそれが見れるでしょう?」
そういった機器類に関しては詳しくないため、何とも言えないが、そういうものなのだろう。小さく、電話越しに相槌を打つ。
「そうしたら……私達からの着信だけで、何のデータも受信していなかったのよね」
「……ええと、つまりスマートフォンを、自分から一切利用していないってこと?」
決してそちら方面に聡いわけではないが、理解はできる。
年頃の高校生がスマートフォンを全く利用しないなどということがあるのだろうか。
「うちはインターネット環境がリビングとお父さんの部屋しかないでしょ?」
新しい家ならともかく、古い建物であるが故だ。
「おかしいと思わない? インターネットも携帯も使わずにあの子、いったい何をして二か月も過ごしているのか? 確かに、あの子の部屋にも本はあるけど、でもそれほど多くはないし。ゲーム機などもリビングで。少なくとも三か月もの期間をつぶせるようなものは無いはずよね」
引きこもりになった児童は何人か見てきた。それぞれの原因は様々で、勉強疲れや苛め、両親との関係などだった。ただ、いずれも共通していたのが、ネットの世界への逃避だった。朝から晩まで休むこともなく、画面の向こうにいる人々と会話をし、それを生きがいにしていたのだ。
辛い現実から離れ、仮想現実の楽園へと逃げ込む。そうやって彼らは自らの平穏を築いていたのだ。
しかし、芳佳は違う。それが出来ない環境にある。だとしたら彼はいったい何をしているのか。
「お母さん、芳佳を見たのはいつ?」
最悪のパターンを想定し問う。しかし、返事はそれを退けるものであった。
「昨日の夜よ。浴室から音がして、覗きにいくと芳佳がいたわ。ずいぶんと痩せていたけど」
ほっと息を吐く。自ら命を絶つ、という行動に走っていなくてよかったと心から思う。
「それからね、気になって、ちょこちょことあの子の部屋に行ったんだけど、声がするのよ、誰かと会話をするような声が」
電話という線も考えたが、携帯電話に使用履歴はないのだ。となると、おそらくは独り言となるのだろう。精神的に参っているという事なのだろうか。
「……近いうちに一度そっちに戻るから、お母さんもあんまり気に病まないでね」
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にこやかな口調だが、決してそれは本心からのものではないのだろう。
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