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3話
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ゆさゆさと身体を揺さぶられる。
いったい誰だと寝ぼけ眼で軽く睨むと、そこにはやつがいた。半開きのカーテンからは月光が差し込んでおり、室内をぼんやりと照らしている。
「こんばんは」
「……こんばんは、じゃねえよ。何時だと……二時じゃねーか」
祖父の形見である壁掛け時計が示すのは、思い切り丑三つ時。いったいこんな時間になんだというのだ。
「いや、ちょっと遊びに行こうかなって」
切れ長の目を細めて、そう囁く。遊びに行くって、こんな時間に何を言っているのだ。
「お前な……明日、学校あるだろう」
そう、俺と違って、こいつはしっかりと学校に通っている。こんな時間に遊んでいたら学業に支障が出る、なんて真面目に言うのがこいつのはずだ。
「今日は金曜日……正確には昨日だが、まあいいか。とにかく、明日は休み」
呆れたと言わんばかりの口調で、やれやれと肩をすくめる。無駄にオーバーなリアクションが腹立たしい。
「だからって、なんでこんな時間に」
「だって、昼間じゃ嫌がるだろう?」
それはそうだ。昼間など、間違っても外に出たくない。理由は……まだ分からないけれど。
「だからって……なあ」
外に出たくないという思いは強かった。たとえ、こんな時間でも。
「いいから、行くぞ」
「あ、おい」
か細い指が俺の腕をつかむ。梅雨明け間近の蒸し暑い夜で火照っていた身体にひんやりとした感触が心地いい。連れられるままに玄関まで向かい、置かれていたサンダルに足を突っ込み、外に出る。シンとした静寂が迫ってくる、と思ったがそんなことはなく、カエルたちの合唱が響いている。所々に設けられた電灯や自動販売機からの光に虫が群がっている。
こいつは俺の手を引いたまま、ぐんぐんと歩を進めていく。一体、小さな身体のどこにこんな力があるのかと問いたくなるほど力強い。
向かっている方向は、八坂山の方であるようだ。この地域は八坂山を中心としており、この地域は巨大なアーケード商店街で有名である。
引っ張られながら夜空を見上げる。ガラス越しでない空を見るのは久しぶりであったが、さして変わり映えのしないどんよりとした闇が広がっているだけだ。星々がきらめいているなんてこともなく、まるであざ笑う口元のような半月が雲一つない夜空から顔をのぞかせていた。
気が付くと、カエルの鳴き声は、ピリリという笛を吹いたような虫の声に変わっていた。どうやら山の周囲にある森林地帯に入ったようだ。
「ずいぶん虫が鳴いているな……」
虫の鳴き声が求愛であるという事は知っている。ただ、こんな大合唱をするのは秋ではなかっただろうか。
「夏でも昆虫は求愛のために鳴くんだ」
思考を読まれたのか、それとも無意識のうちに声が出ていたのか。
「へえ……」
虫の鳴き声に混ざって。水のせせらぎが聞こえてくる。どうやら、山の中腹を流れる三珠川付近に向かっているようだ。三珠川はこの市の名前ともなっている大きな川で、太平洋にまで続いている。この辺りはその中流にあたる場所であったはずだ。
そして無数のちらほらと、地面に突き刺さるように生える植物が目立ち始める。
月明かりの下で、赤やピンクに色づき、今にも咲き出しそうな蕾を携えている。
なんの花であったか。見覚えがあっても、名前が出てこない。誰かに教わった気がするのだが。
「今日は、なんでこんなところに?」
周囲を見渡すと、暗闇に慣れたという事もあってか周囲が良く見えた。森林地帯を抜け出し、河原に出ているようだ。足元には、川の流れで丸みを帯びた小石がごろごろと転がっている。
「懐かしいなと、思ってな」
「懐かしい?」
こんな夜中にこいつと出かけたりしたことがあっただろうか。
「覚えていないのか? 昔、こんな風に遊んだことがあっただろう。もっとも、夜中ではなく夕方、しかもここではなかったが」
ばしゃりと水飛沫の舞う音が聞こえてくる。
「お、おい、昨日の雨で増水してるかもしれないから危ないぞ」
「大丈夫だ。ここは水たまりだよ」
確かに少し離れたところにある橋の位置から考えると、本流ではないようだ。とはいえ、この暗闇で水遊びは恐ろしく感じる。
「ほら、おいで」
再び手を掴まれ、水たまりに引きずられる。
「ちょっと、おい!」
ずぼっという感触と共に、脛まで迫る冷たい感触。こいつはちゃっかりズボンのすそをまくっているのに、俺にはその猶予すら与えなかったようだ。
「濡れたろうが、このやろう!」
水を掬い、思い切りかける。小さな悲鳴と共に、大きな水音が一つ。どうやら避けようとして転んだらしい。
「むう……おのれ、やったなデカブツ!」
「誰がデカブツだ!」
お互いに水を掛け合う。月光で水滴がきらきらと輝き、非現実的な場所に、物語の世界に入ってしまったかのような錯覚を受ける。
――――どれほど水を掛け合っただろうか。上から下までびしょ濡れになり、髪からぽたぽたと水が滴っている。しかも、長いこと引きこもりをしていたせいもあって、体力がずいぶんと落ちているようだ。息がひどく乱れている。
「はあ…はあ……上がるか」
「……そうだな」
のろのろと水たまりから上がり、衣服を絞るが、とてもではないが絞り切れない程に水分を孕んでしまっていた。
これは家に帰ったら着替えなくては、そうしないと眠ることもままならない。
ふと、脳裏に映像が走る。こんなことが前にもあったような気がする。そうだ、あれはいったいどこで、いつ、だれとだ。
紅の空、滴る水滴、川のせせらぎ、蝉の鳴き声、色とりどりの背の高い花。そして隣にいたのは、隣にいたのは……。
「ぐうっ……!」
鈍痛が走る。頭が万力で締め付けられているようだ。
意識が乱れる。視界が歪み、呼吸すら途切れ途切れになる。一体何が、何が俺の身体に起こっている。立っているのか倒れているのかさえ分からなくなる。
もう、無理だ。そう思ったが矢先、耳元で小さく、優しげな声が響いた。
――――お休みなさい。
いったい誰だと寝ぼけ眼で軽く睨むと、そこにはやつがいた。半開きのカーテンからは月光が差し込んでおり、室内をぼんやりと照らしている。
「こんばんは」
「……こんばんは、じゃねえよ。何時だと……二時じゃねーか」
祖父の形見である壁掛け時計が示すのは、思い切り丑三つ時。いったいこんな時間になんだというのだ。
「いや、ちょっと遊びに行こうかなって」
切れ長の目を細めて、そう囁く。遊びに行くって、こんな時間に何を言っているのだ。
「お前な……明日、学校あるだろう」
そう、俺と違って、こいつはしっかりと学校に通っている。こんな時間に遊んでいたら学業に支障が出る、なんて真面目に言うのがこいつのはずだ。
「今日は金曜日……正確には昨日だが、まあいいか。とにかく、明日は休み」
呆れたと言わんばかりの口調で、やれやれと肩をすくめる。無駄にオーバーなリアクションが腹立たしい。
「だからって、なんでこんな時間に」
「だって、昼間じゃ嫌がるだろう?」
それはそうだ。昼間など、間違っても外に出たくない。理由は……まだ分からないけれど。
「だからって……なあ」
外に出たくないという思いは強かった。たとえ、こんな時間でも。
「いいから、行くぞ」
「あ、おい」
か細い指が俺の腕をつかむ。梅雨明け間近の蒸し暑い夜で火照っていた身体にひんやりとした感触が心地いい。連れられるままに玄関まで向かい、置かれていたサンダルに足を突っ込み、外に出る。シンとした静寂が迫ってくる、と思ったがそんなことはなく、カエルたちの合唱が響いている。所々に設けられた電灯や自動販売機からの光に虫が群がっている。
こいつは俺の手を引いたまま、ぐんぐんと歩を進めていく。一体、小さな身体のどこにこんな力があるのかと問いたくなるほど力強い。
向かっている方向は、八坂山の方であるようだ。この地域は八坂山を中心としており、この地域は巨大なアーケード商店街で有名である。
引っ張られながら夜空を見上げる。ガラス越しでない空を見るのは久しぶりであったが、さして変わり映えのしないどんよりとした闇が広がっているだけだ。星々がきらめいているなんてこともなく、まるであざ笑う口元のような半月が雲一つない夜空から顔をのぞかせていた。
気が付くと、カエルの鳴き声は、ピリリという笛を吹いたような虫の声に変わっていた。どうやら山の周囲にある森林地帯に入ったようだ。
「ずいぶん虫が鳴いているな……」
虫の鳴き声が求愛であるという事は知っている。ただ、こんな大合唱をするのは秋ではなかっただろうか。
「夏でも昆虫は求愛のために鳴くんだ」
思考を読まれたのか、それとも無意識のうちに声が出ていたのか。
「へえ……」
虫の鳴き声に混ざって。水のせせらぎが聞こえてくる。どうやら、山の中腹を流れる三珠川付近に向かっているようだ。三珠川はこの市の名前ともなっている大きな川で、太平洋にまで続いている。この辺りはその中流にあたる場所であったはずだ。
そして無数のちらほらと、地面に突き刺さるように生える植物が目立ち始める。
月明かりの下で、赤やピンクに色づき、今にも咲き出しそうな蕾を携えている。
なんの花であったか。見覚えがあっても、名前が出てこない。誰かに教わった気がするのだが。
「今日は、なんでこんなところに?」
周囲を見渡すと、暗闇に慣れたという事もあってか周囲が良く見えた。森林地帯を抜け出し、河原に出ているようだ。足元には、川の流れで丸みを帯びた小石がごろごろと転がっている。
「懐かしいなと、思ってな」
「懐かしい?」
こんな夜中にこいつと出かけたりしたことがあっただろうか。
「覚えていないのか? 昔、こんな風に遊んだことがあっただろう。もっとも、夜中ではなく夕方、しかもここではなかったが」
ばしゃりと水飛沫の舞う音が聞こえてくる。
「お、おい、昨日の雨で増水してるかもしれないから危ないぞ」
「大丈夫だ。ここは水たまりだよ」
確かに少し離れたところにある橋の位置から考えると、本流ではないようだ。とはいえ、この暗闇で水遊びは恐ろしく感じる。
「ほら、おいで」
再び手を掴まれ、水たまりに引きずられる。
「ちょっと、おい!」
ずぼっという感触と共に、脛まで迫る冷たい感触。こいつはちゃっかりズボンのすそをまくっているのに、俺にはその猶予すら与えなかったようだ。
「濡れたろうが、このやろう!」
水を掬い、思い切りかける。小さな悲鳴と共に、大きな水音が一つ。どうやら避けようとして転んだらしい。
「むう……おのれ、やったなデカブツ!」
「誰がデカブツだ!」
お互いに水を掛け合う。月光で水滴がきらきらと輝き、非現実的な場所に、物語の世界に入ってしまったかのような錯覚を受ける。
――――どれほど水を掛け合っただろうか。上から下までびしょ濡れになり、髪からぽたぽたと水が滴っている。しかも、長いこと引きこもりをしていたせいもあって、体力がずいぶんと落ちているようだ。息がひどく乱れている。
「はあ…はあ……上がるか」
「……そうだな」
のろのろと水たまりから上がり、衣服を絞るが、とてもではないが絞り切れない程に水分を孕んでしまっていた。
これは家に帰ったら着替えなくては、そうしないと眠ることもままならない。
ふと、脳裏に映像が走る。こんなことが前にもあったような気がする。そうだ、あれはいったいどこで、いつ、だれとだ。
紅の空、滴る水滴、川のせせらぎ、蝉の鳴き声、色とりどりの背の高い花。そして隣にいたのは、隣にいたのは……。
「ぐうっ……!」
鈍痛が走る。頭が万力で締め付けられているようだ。
意識が乱れる。視界が歪み、呼吸すら途切れ途切れになる。一体何が、何が俺の身体に起こっている。立っているのか倒れているのかさえ分からなくなる。
もう、無理だ。そう思ったが矢先、耳元で小さく、優しげな声が響いた。
――――お休みなさい。
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