「奇遇ですね。私の婚約者と同じ名前だ」

ねむたん

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クラウゼヴィッツ侯爵家の応接室は、重苦しい沈黙に包まれていた。豪奢な調度品に囲まれながらも、そこにいる誰もが緊張を隠せない。

リリエットは、そっと膝の上で手を組んだ。目の前にはクラウディオ、その隣にはヴェステンベルク伯爵夫妻。両親と兄は彼女の隣に座り、表情を硬くしていた。

先に口を開いたのはクラウディオだった。

「まずは……謝罪を申し上げます」

彼は静かに立ち上がり、深く頭を下げた。

「私はこれまで、婚約者であるリリエットに対してあまりにも冷たい態度を取り続けてきました。理由はどうあれ、彼女を傷つけたことに変わりはありません。そして夜会での失態……私は、婚約者である彼女を認識せず、他の女性と勘違いし、軽率な言葉をかけました。弁解の余地はありません」

一息置き、彼はリリエットへと視線を向ける。その瞳には、今までにない真剣な色が宿っていた。

「しかし、私は、婚約の継続を望んでいます」

応接室の空気が一気に張り詰める。

「は……?」

兄のエドガーが低く唸るように声を漏らした。その視線は鋭く、今にもクラウディオの襟首を掴まんばかりだった。

「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」

「分かっています」

クラウディオは怯まずに答えた。

「私は今まで、リリエットを見ていませんでした。彼女の存在を、婚約者という肩書きだけで捉えていた。その結果が、今の状況を生んだのです」

「それなら、なぜ今さら婚約を続けたいと言うの?」

母が冷ややかに問いかける。その隣で父も厳しい視線を向けていた。

「リリエットを失いたくないからです」

静かに告げられたその言葉に、リリエットの指先がわずかに震えた。

「今になって、そんなことを言うなんて……」

セシルが苛立たしげに呟く。

「兄様はずっとリリエットを避けてきたじゃない。今さら、彼女の何が変わったっていうの?」

「変わったのは、私の方だ」

クラウディオの声は、どこか自嘲気味だった。

「今になって初めて、彼女がどれほど素晴らしい女性なのかを知った。そして、それに気づくのが遅すぎたことを、心から悔いている」

リリエットは、膝の上で組んだ手を強く握った。

彼の言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ揺らぐ。だが、それが何の感情なのか分からなかった。

「……ふざけるな」

今度こそ、兄が席を立った。

「お前のその身勝手な言葉が、どれだけリリエットを傷つけてきたと思っている?」

その怒りはもっともだった。兄だけではない。父も、母も、セシルも、皆が怒りと呆れを隠そうとしない。

「リリエット、お前はどうしたい?」

父が静かに問いかけた。その声には、親としての気遣いが滲んでいた。

「私たちは、クラウディオ殿とは婚約を破棄することもやぶさかではない。無理に結論を急がなくてもいいが……お前の気持ちが何よりも大事だ」

リリエットはゆっくりと顔を上げた。

視線の先には、自己嫌悪に沈むクラウディオの姿があった。

今の彼は、いつもの完璧な貴族の姿ではない。肩を落とし、自分の過ちに向き合おうとしている。

――こんな彼を見るのは、初めてかもしれない。

胸の奥に迷いが生まれる。

今ここで「婚約破棄」を選べば、すべてが終わる。

けれど――それでいいのだろうか。

リリエットは、ゆっくりと唇を開いた。

「……もう少しだけ、考えさせてください」

兄も、父も、母も驚いたように彼女を見つめた。

クラウディオもまた、僅かに目を見開く。

「私にも、まだ整理がついていないの」

彼女は静かに続けた。

「だから、今すぐに答えを出すのは難しいわ」

部屋の中に、再び沈黙が落ちる。

そして、父が深く息を吐き出した。

「……分かった」

エドガーはまだ納得していない様子だったが、何も言わなかった。母も、静かに目を閉じている。

「ならば、今すぐ結論を出すのはやめよう」

そう告げる父の声には、娘を思う親としての温かさがあった。

「だが、クラウディオ殿。これだけは言っておく」

父は鋭い視線をクラウディオに向けた。

「次に彼女を傷つけるようなことがあれば、そのときは容赦なく婚約破棄だ」

クラウディオは、それを真正面から受け止めた。

「……承知しました」

リリエットは、そっと息を吐いた。

話し合いは終わった。

けれど、彼女の中の迷いは、まだ消えていなかった。
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