「奇遇ですね。私の婚約者と同じ名前だ」

ねむたん

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クラウゼヴィッツ侯爵家の食卓は、普段と変わらぬ優雅な雰囲気に包まれていた。

銀の食器が柔らかな燭光を反射し、香ばしい肉の香りが漂う。だが、今夜の食卓は、静かすぎる。

リリエットが席についた瞬間、家族全員の視線が彼女に集まった。

「……何かしら?」

問いかけると、母が穏やかに微笑みながらナプキンを広げた。

「いいえ、ただ少し気になってね」

「何が?」

「クラウディオ様との観劇のことよ」

その瞬間、兄のエドガーがナイフを置き、腕を組んだ。

「どうだった?」

リリエットはナイフとフォークを手に取りながら、少し間を置いた。

「……楽しかったわ」

率直な感想だった。驚くほど、自然に会話が弾んだし、彼のエスコートも完璧だった。

しかし、その言葉を聞いても、家族の表情は晴れない。

「本当に?」

兄は疑わしげに目を細めた。

「楽しかったのはいいことだが……お前は、本当にそれでいいのか?」

「……どういう意味?」

「今さら、やつの態度が軟化したからって、すぐに許すつもりはないだろう?」

「そんなこと、すぐに決められるわけないわ」

リリエットは落ち着いた声で答えた。

「でも、私は婚約を続けると決めたの。だから、ちゃんと向き合おうとしているだけよ」

「……それで、お前はどう思ってるんだ?」

今度は父が口を開いた。その表情には、娘を気遣う親としての優しさが滲んでいる。

「クラウディオは変わろうとしているのか? それとも、ただ一時的なものか?」

「それは……分からないわ」

リリエットは、素直にそう答えた。

「でも、今のところ彼は誠実であろうとしているように見えるわ。観劇の間も、話をしていて違和感はなかったし……本当に、初めてきちんと話したような気がしたの」

「はぁ……」

エドガーは大きくため息をついた。

「お前がそれでいいなら、俺は何も言わない。だが……忘れるなよ、リリエット。あいつは今までお前を散々傷つけてきたんだ」

「……ええ、分かっているわ」

母が優しく娘の手に触れる。

「リリエット、もしつらくなったら、無理をしなくてもいいのよ」

「そうだ。いくらでも良い縁は作れるのだから」

父も穏やかに言い添える。

リリエットは微笑んだ。

「ありがとう、お父様、お母様」

そう言ったものの、心の奥にある迷いは消えなかった。

温かい食事を前にしながら、リリエットの胸の中には、冷たく静かな波が揺れていた。




リリエットは静かな寝室で目を閉じていた。喉が渇く。身体が妙に重い。熱があるのだろうとぼんやりと思った。

「まったく……お前はいつも無理をする」

エドガーの声が頭上から降ってくる。

気がつけば、彼の膝の上に頭を預けていた。

「……ごめんなさい」

掠れた声で呟くと、兄はため息をつく。

「何を謝るんだ。お前が悪いわけじゃない」

そう言いながらも、その指は優しく髪を梳いてくれる。子どもの頃と変わらない手つきだった。

「……分からないの」

リリエットは、自分でも驚くほど素直に口を開いた。

「私、どうしたらいいのか分からないのよ……」

兄の膝の上で、拳をぎゅっと握る。

「婚約を続けると決めたのは私。向き合おうとしたのも私。でも……それなのに、どうして、こんなに苦しいのかしら」

「それは当然だろう」

兄の声は低く、しかし優しかった。

「お前は、ずっと冷たくされ続けてきたんだ。それをたった一度の観劇や数回の会話で帳消しにできるわけがない」

リリエットは、まぶたの裏ににじむ涙を堪えるように息を吸った。

「……私は、間違ってる?」

「違う」

兄は即座に否定した。

「お前の決断は、お前のものだ。誰にも否定する資格はない」

優しく、しかし強い言葉だった。

「けれど、お前自身が無理をする必要もないんだ」

「……」

「お前はいつも、相手のことばかり考える。クラウディオのことだって、許そうと努力している。でもな、リリエット……お前が幸せにならないなら、そんな努力に意味はない」

兄の言葉が、心にじんと響く。

「お兄様……」

「いいから、今は何も考えずに休め」

彼はそう言って、そっと彼女の額に手を置いた。

リリエットは瞼を閉じる。

兄の膝の上は、思いのほか心地よかった。

静かな部屋の中で、熱に浮かされた意識はゆっくりと沈んでいった。
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