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エリスが王宮を去ったその日、王太子アドリアンは奇妙な感覚に包まれていた。
いつも通りの日常のはずだった。朝は侍従に起こされ、王宮の広間で政務をこなし、午後には貴族たちと会談をする。レイナが何気なく寄ってきて、軽やかに微笑みながら話しかけてくる。何も変わっていない——はずなのに、妙な違和感がつきまとっていた。
「アドリアン?」
レイナの声で我に返る。
「何だ?」
「ぼんやりしてるわよ。珍しいわね」
彼は無意識に指で机の縁をなぞっていたことに気づき、さっと手を引いた。
「……少し考えごとをしていた」
「エリスのこと?」
レイナは柔らかく微笑んだが、その表情の奥にはわずかな戸惑いが混じっていた。
「婚約解消が保留になって、彼女が一度公爵家に戻ったのはいいけれど……あなた、彼女のこと、どう思ってるの?」
アドリアンは言葉に詰まった。
「どうって……俺の婚約者だった女性だ」
「だった?」
「……いや、婚約は保留になっているから、まだ婚約者か」
言葉を訂正しながら、自分でもはっきりしない感情が胸の奥にあることに気づく。
エリスは、ずっとそばにいた。いつも冷静で、必要な場面で的確に言葉を紡ぎ、王太子妃としての役割を果たしていた。彼女の存在は空気のように当たり前で、それを深く考えたことはなかった。
だからこそ、彼女がいなくなっても生活は変わらないはずだった。
それなのに——。
ふと、机の上を見やる。そこには先日エリスが整理した書類が整然と並んでいた。彼女はこうした小さなこともきちんとこなしていた。アドリアンがレイナと話している間も、彼女は黙々と王太子妃としての役割を果たしていたのだ。
今になって、初めて気づく。
エリスは、ただそこに「いる」だけの存在ではなかった。
「ねえ、アドリアン。あなた、本当にエリスのことを何とも思っていなかったの?」
レイナの問いかけに、アドリアンはまた言葉を失う。
「……わからない」
「わからない?」
自分の口から出たその言葉に、自分自身が一番驚いた。
***
エリスが公爵家へ戻った翌日、久々の自室で目を覚ました。
窓の外には美しい庭園が広がり、王宮とはまた違う静けさがそこにあった。小鳥のさえずりと、揺れるカーテン。王宮の格式ある生活とは異なる、少し緩やかな空気。
エリスは目を覚ましながら、ふと考えた。
——私は、何をすればいいのかしら?
王太子妃としての役割を果たす必要がなくなった今、エリスには「しなければならないこと」がなかった。
「王太子妃」として生きてきた彼女にとって、それは初めてのことだった。
婚約が解消されたわけではない。けれど、今の彼女は王宮にいるべきではないと言われ、戻ってきた。その意味を、今一度考えなければならないのだろう。
そのとき、扉をノックする音がした。
「エリス様、近衛騎士のルイス様がお見えです」
***
エリスは応接室へ向かった。
ルイス・グラント——王太子付きの近衛騎士であり、アドリアンの信頼する側近の一人。婚約解消の話し合いの場にも立ち会い、常に冷静に状況を見極めていた人物だった。
「エリス様、ご無事で何よりです」
「ご足労いただき恐縮ですわ、ルイス」
ルイスは静かに頷き、持参した書類をテーブルに置く。
「殿下からの正式な伝言です。公的な要件ではありませんが、殿下が『今の状況をどう考えているのか知りたい』と」
「……殿下が?」
エリスは少しだけ意外に思った。婚約を解消したいと申し出たのは彼女の方であり、アドリアンはその申し出に動揺しながらも、すぐに反論できなかった。
彼は今になって、何を考えているのだろう。
ルイスは一度視線を落としてから、問いかけるように言った。
「エリス様は……今の状況をどうお考えですか?」
エリスは静かに目を伏せた。
「婚約を続ける理由はないと思っていました」
「では、殿下に未練はない?」
「未練……」
自分の中に「未練」という言葉が適切かどうか、エリスはわからなかった。ただ、王宮での日々が終わった今、自分が何をすればいいのか迷っていることは確かだった。
「私は、王太子妃としての役割を果たしていただけでしたわ」
「……本当に、それだけですか?」
ルイスの静かな問いかけに、エリスは少し考えた。
彼女はアドリアンを愛していたわけではない。けれど、彼と過ごしてきた時間がまったくの無意味だったわけでもないはずだ。
彼は今、何を考えているのだろう。
ルイスは穏やかに言った。
「エリス様、王宮に戻る意思はございますか?」
エリスは答えなかった。ただ、自分の胸の奥で微かにくすぶる感情が、何なのかを確かめようとしていた。
いつも通りの日常のはずだった。朝は侍従に起こされ、王宮の広間で政務をこなし、午後には貴族たちと会談をする。レイナが何気なく寄ってきて、軽やかに微笑みながら話しかけてくる。何も変わっていない——はずなのに、妙な違和感がつきまとっていた。
「アドリアン?」
レイナの声で我に返る。
「何だ?」
「ぼんやりしてるわよ。珍しいわね」
彼は無意識に指で机の縁をなぞっていたことに気づき、さっと手を引いた。
「……少し考えごとをしていた」
「エリスのこと?」
レイナは柔らかく微笑んだが、その表情の奥にはわずかな戸惑いが混じっていた。
「婚約解消が保留になって、彼女が一度公爵家に戻ったのはいいけれど……あなた、彼女のこと、どう思ってるの?」
アドリアンは言葉に詰まった。
「どうって……俺の婚約者だった女性だ」
「だった?」
「……いや、婚約は保留になっているから、まだ婚約者か」
言葉を訂正しながら、自分でもはっきりしない感情が胸の奥にあることに気づく。
エリスは、ずっとそばにいた。いつも冷静で、必要な場面で的確に言葉を紡ぎ、王太子妃としての役割を果たしていた。彼女の存在は空気のように当たり前で、それを深く考えたことはなかった。
だからこそ、彼女がいなくなっても生活は変わらないはずだった。
それなのに——。
ふと、机の上を見やる。そこには先日エリスが整理した書類が整然と並んでいた。彼女はこうした小さなこともきちんとこなしていた。アドリアンがレイナと話している間も、彼女は黙々と王太子妃としての役割を果たしていたのだ。
今になって、初めて気づく。
エリスは、ただそこに「いる」だけの存在ではなかった。
「ねえ、アドリアン。あなた、本当にエリスのことを何とも思っていなかったの?」
レイナの問いかけに、アドリアンはまた言葉を失う。
「……わからない」
「わからない?」
自分の口から出たその言葉に、自分自身が一番驚いた。
***
エリスが公爵家へ戻った翌日、久々の自室で目を覚ました。
窓の外には美しい庭園が広がり、王宮とはまた違う静けさがそこにあった。小鳥のさえずりと、揺れるカーテン。王宮の格式ある生活とは異なる、少し緩やかな空気。
エリスは目を覚ましながら、ふと考えた。
——私は、何をすればいいのかしら?
王太子妃としての役割を果たす必要がなくなった今、エリスには「しなければならないこと」がなかった。
「王太子妃」として生きてきた彼女にとって、それは初めてのことだった。
婚約が解消されたわけではない。けれど、今の彼女は王宮にいるべきではないと言われ、戻ってきた。その意味を、今一度考えなければならないのだろう。
そのとき、扉をノックする音がした。
「エリス様、近衛騎士のルイス様がお見えです」
***
エリスは応接室へ向かった。
ルイス・グラント——王太子付きの近衛騎士であり、アドリアンの信頼する側近の一人。婚約解消の話し合いの場にも立ち会い、常に冷静に状況を見極めていた人物だった。
「エリス様、ご無事で何よりです」
「ご足労いただき恐縮ですわ、ルイス」
ルイスは静かに頷き、持参した書類をテーブルに置く。
「殿下からの正式な伝言です。公的な要件ではありませんが、殿下が『今の状況をどう考えているのか知りたい』と」
「……殿下が?」
エリスは少しだけ意外に思った。婚約を解消したいと申し出たのは彼女の方であり、アドリアンはその申し出に動揺しながらも、すぐに反論できなかった。
彼は今になって、何を考えているのだろう。
ルイスは一度視線を落としてから、問いかけるように言った。
「エリス様は……今の状況をどうお考えですか?」
エリスは静かに目を伏せた。
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「では、殿下に未練はない?」
「未練……」
自分の中に「未練」という言葉が適切かどうか、エリスはわからなかった。ただ、王宮での日々が終わった今、自分が何をすればいいのか迷っていることは確かだった。
「私は、王太子妃としての役割を果たしていただけでしたわ」
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彼女はアドリアンを愛していたわけではない。けれど、彼と過ごしてきた時間がまったくの無意味だったわけでもないはずだ。
彼は今、何を考えているのだろう。
ルイスは穏やかに言った。
「エリス様、王宮に戻る意思はございますか?」
エリスは答えなかった。ただ、自分の胸の奥で微かにくすぶる感情が、何なのかを確かめようとしていた。
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