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第二章 ヴィオレット
第五話
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机の上の箱に手を伸ばして、一番小さいサイズの付箋を剥がす。
他の大きさのものよりだいぶ減りが激しい。
なんでこのサイズがよく出るのかといえば、一枚の書類に対して貼る枚数があまりにも多いからで、なんでそんなに貼るのかといえば、不備が多過ぎるからである。
毒々しい赤色のペンで間違いを指摘し、すでに付箋に占拠されつつある書類に、駄目押しの一枚を貼った。
研究者としては優秀なんだろうけど、少しはチェックするこちらの身にもなってほしい。
特に今見ている書類を出してきたセオは本当にひどい。
名前以外まともに書いてないんじゃないかと思う。
わざとなのか。
「ヴィオレット様」
心の中で悪態をついていると本人がやってきた。
セオは今年三年目の研究員で、アニエスの幼なじみでもあるらしい。
濃い青色の髪と目をした優男で、やることなすこととにかく軽い。
あまり良い印象がないので、心の中では呼び捨てにしている。
「こちらの申請書なのですが、受け取りをお願いできますでしょうか」
丁寧な口調で差し出してきたのは、一昨日が締切のものだ。
「そちら提出期限はとっくに過ぎておりますので、受理致しかねます」
事務的な口調で返せば、セオが考え込むようにして顎に手を当てる。
「俺ね、三日前出張に行ってたの」
「それが何か」
「時差がね、すごくてね。それで期限に間に合わなかったんだと思う」
真剣な顔で何を言い出すのかと思えば呆れてしまう。
「セオさんが行かれたのは、ここから二時間程度の研修所で、日帰りでしたよね」
「だからさ、朝起きるのがいつもより早かったんだよ。そういうときって段々時間の感覚が狂ってこない?」
本当に口が回る男だ。
「研修は午後からでしたよね」
「いやー、俺寝起き悪くてさ。俺にもかわいく起こしてくれる女の子がいればいいんだけどなー。寝てる俺に乗っかってきて、こらー起きなさーいって」
くねくねとして気持ちが悪い。
「アニエスに頼んだらいいじゃないですか」
私が名前を出した途端、セオの動きが止まる。
「⋯⋯あいつは、馬乗りになってフライパンで殴ってきそうだからなぁ」
「⋯⋯ふっ」
想像できて、つい吹き出してしまった。
アニエスはセオの五歳下になるが、普段から彼女の方が強いらしい。
私はため息をついて手を差し出す。
これ以上無駄話をしていると仕事が進まない。
「また、貸しですからね」
「ありがとうございます! ヴィオレット様!」
研究所で秘書として働き始めて数ヶ月。
最初はお茶出しや伯父の雑用の手伝いだけだったのが、ちょうど事務員の一人が結婚退職したので、秘書と兼務で事務の仕事もすることになった。
毎日が忙しく、季節はあっという間に過ぎていく。
「ヴィオレットさん、説明会の資料の追加分届けてもらってもいい?」
事務長から頼まれて、私は、はいと返事をして分厚い封筒を受け取る。
今日は学生たちを対象に研究所を開放する日だ。
就職希望者には研究所業務の説明会も一緒に行われる。
事務棟を出て、会場になっている研究棟を目指した。
ここの研究所はやたらと広いので、迷わないように道案内の矢印を追っていく。
すると、道の途中に眼鏡の男の人が地図を片手に立ち尽くしているのが見えた。
迷子の学生だろうか。
「あの、お困りですか?」
「え! あ、はい、すみません。研究所の説明会に来たのですが迷って⋯⋯」
なぜか男の声が途切れ、私の顔をまじまじと見てくる。
なんだろうと思ってこちらもじっと見ていると、なんとなく見覚えがあるような気がしてきた。
私より少しだけ高い背、黒に近い濃灰色の髪と瞳。
その辺りはぼんやりとだったが、この眼鏡を掛けたシルエットが記憶に引っかかる。
「あの、レストランの店員さんですよね」
その言葉を聞いてようやく思い出した。
そうだ、お客さんが私の陰口を言ってるのを聞いてしまったときに、心配して声をかけてくれた人だ。
「あのときは、ありがとうございました」
頭を下げてお礼を言う。
「いえ、僕は何も」
「あ、説明会の場所ですよね。私も今から行くのでご案内します」
「ありがとうございます。助かります」
物腰柔らかな人だ。
学生にしては落ち着いている気がする。
黙って歩くのもなんなので何か話題をと思っていたら、相手の方から話しかけられた。
「こちらで働いているんですね。僕は魔法学校の四年生なんです」
四年生というとアニエスと同じ十六歳だが、さすがにその年齢には見えない。
そう思ったことに気付かれてしまったのか、
「浪人したり留年したりで、年は今年で十九歳になります」
と、苦笑いで教えてくれる。
「じゃあ、私と同い年ですね」
「そうなんですね。そっか、みんなもう就職する年なんですよね」
男がしみじみと呟いた。
魔法学校の学生ということは研究員志望なんだろうか。
浪人、留年と言っていたし、難しいような気もする。
あんな適当人間に見えるセオでも、魔法学校を相当優秀な成績で卒業したらしい。
そんな失礼なことを考えていると、あっという間に目的の場所に到着した。
「ここが説明会の会場です」
「ありがとうございました」
会釈をして、資料を渡しに行くために先に部屋に入ろうとすると、
「あの」
男に呼び止められる。
「はい?」
「お名前を教えてもらってもいいですか」
「え? ヴィオレットです」
反射的に答えてしまう。
「ありがとうございます。僕はニコラです」
「あ、はい」
気の抜けた返事をして、扉をくぐった。
すべての職種の合同説明会のため、部屋にはすでに大勢の学生がひしめき合って座っていた。
壇上にいる所長に追加資料を渡して部屋を後にしようとすると、前の方の席についたニコラさんと目が合った。
軽く頭を下げて部屋を出る。
さてと、事務棟に戻って仕事の続きをしよう。
── ─
「ぎゃー! もうこんな時間! 終わらないいい」
事務員のマノンさんが時計を見て悲鳴を上げた。
目の前にあるのは申請書類の分厚い束。
完全に仕上がって、後は先方に渡すだけだったのに、先ほど研究員が来て「それ最終版じゃなかった」と言いながら、悪びれる様子もなく、その『最終版』とやらを置いていったのだ。
今日中に送らないと間に合わないのに。
「こっちのチェックやりますよ」
私はまだ手がつけられていない書類を指す。
「ヴィオレットさん助かる」
マノンさんが泣きそうになりながら手を合わせてきた。
他の人たちも手が空いたところで助けに来てくれてなんとかギリギリのところで完成する。
「皆さんありがとうございました! 送ってきます!」
マノンさんがお礼を叫びながら駆け出していくのを、みんなで拍手をしながら見送った。
「みんなお疲れさま。帰りましょう」
事務長の声を合図に帰り支度を始め、順に帰宅の途につく。
私も鞄を持って研究所の門を出たところで後ろから名前を呼ばれた。
「ヴィオレットさーん!」
振り返るとマノンさんが走ってくる。
「お疲れさまです。間に合いましたか」
「お陰様でセーフ! 途中まで一緒に帰ろ!」
「はい」
マノンさんは私より五歳年上で、事務の仕事を始めてすぐのときに指導係をしてくれた先輩だ。
「本当に助かったよ。ありがとね」
「いえ、そんな。いつも助けてもらってますから」
そう言うと、マノンさんがにこにこと笑みを返してくれる。
「ヴィオレットさんが来てくれて本当よかったよ。いや、最初は所長の姪っ子が来るって聞いて、しかも超美人だしちょっとびびってたんだけど、全然違って取っつきやすくてびっくりした」
「いえ、ありがとうございます」
「困ったことがあったら言ってね」
「マノンさんも、私にできることがあればなんでも言ってください」
そこでなぜかマノンさんに髪をくしゃくしゃっとされて、またささっととかされた。
「じゃあ私こっちだから。また明日!」
「はい、お疲れさまでした」
他の大きさのものよりだいぶ減りが激しい。
なんでこのサイズがよく出るのかといえば、一枚の書類に対して貼る枚数があまりにも多いからで、なんでそんなに貼るのかといえば、不備が多過ぎるからである。
毒々しい赤色のペンで間違いを指摘し、すでに付箋に占拠されつつある書類に、駄目押しの一枚を貼った。
研究者としては優秀なんだろうけど、少しはチェックするこちらの身にもなってほしい。
特に今見ている書類を出してきたセオは本当にひどい。
名前以外まともに書いてないんじゃないかと思う。
わざとなのか。
「ヴィオレット様」
心の中で悪態をついていると本人がやってきた。
セオは今年三年目の研究員で、アニエスの幼なじみでもあるらしい。
濃い青色の髪と目をした優男で、やることなすこととにかく軽い。
あまり良い印象がないので、心の中では呼び捨てにしている。
「こちらの申請書なのですが、受け取りをお願いできますでしょうか」
丁寧な口調で差し出してきたのは、一昨日が締切のものだ。
「そちら提出期限はとっくに過ぎておりますので、受理致しかねます」
事務的な口調で返せば、セオが考え込むようにして顎に手を当てる。
「俺ね、三日前出張に行ってたの」
「それが何か」
「時差がね、すごくてね。それで期限に間に合わなかったんだと思う」
真剣な顔で何を言い出すのかと思えば呆れてしまう。
「セオさんが行かれたのは、ここから二時間程度の研修所で、日帰りでしたよね」
「だからさ、朝起きるのがいつもより早かったんだよ。そういうときって段々時間の感覚が狂ってこない?」
本当に口が回る男だ。
「研修は午後からでしたよね」
「いやー、俺寝起き悪くてさ。俺にもかわいく起こしてくれる女の子がいればいいんだけどなー。寝てる俺に乗っかってきて、こらー起きなさーいって」
くねくねとして気持ちが悪い。
「アニエスに頼んだらいいじゃないですか」
私が名前を出した途端、セオの動きが止まる。
「⋯⋯あいつは、馬乗りになってフライパンで殴ってきそうだからなぁ」
「⋯⋯ふっ」
想像できて、つい吹き出してしまった。
アニエスはセオの五歳下になるが、普段から彼女の方が強いらしい。
私はため息をついて手を差し出す。
これ以上無駄話をしていると仕事が進まない。
「また、貸しですからね」
「ありがとうございます! ヴィオレット様!」
研究所で秘書として働き始めて数ヶ月。
最初はお茶出しや伯父の雑用の手伝いだけだったのが、ちょうど事務員の一人が結婚退職したので、秘書と兼務で事務の仕事もすることになった。
毎日が忙しく、季節はあっという間に過ぎていく。
「ヴィオレットさん、説明会の資料の追加分届けてもらってもいい?」
事務長から頼まれて、私は、はいと返事をして分厚い封筒を受け取る。
今日は学生たちを対象に研究所を開放する日だ。
就職希望者には研究所業務の説明会も一緒に行われる。
事務棟を出て、会場になっている研究棟を目指した。
ここの研究所はやたらと広いので、迷わないように道案内の矢印を追っていく。
すると、道の途中に眼鏡の男の人が地図を片手に立ち尽くしているのが見えた。
迷子の学生だろうか。
「あの、お困りですか?」
「え! あ、はい、すみません。研究所の説明会に来たのですが迷って⋯⋯」
なぜか男の声が途切れ、私の顔をまじまじと見てくる。
なんだろうと思ってこちらもじっと見ていると、なんとなく見覚えがあるような気がしてきた。
私より少しだけ高い背、黒に近い濃灰色の髪と瞳。
その辺りはぼんやりとだったが、この眼鏡を掛けたシルエットが記憶に引っかかる。
「あの、レストランの店員さんですよね」
その言葉を聞いてようやく思い出した。
そうだ、お客さんが私の陰口を言ってるのを聞いてしまったときに、心配して声をかけてくれた人だ。
「あのときは、ありがとうございました」
頭を下げてお礼を言う。
「いえ、僕は何も」
「あ、説明会の場所ですよね。私も今から行くのでご案内します」
「ありがとうございます。助かります」
物腰柔らかな人だ。
学生にしては落ち着いている気がする。
黙って歩くのもなんなので何か話題をと思っていたら、相手の方から話しかけられた。
「こちらで働いているんですね。僕は魔法学校の四年生なんです」
四年生というとアニエスと同じ十六歳だが、さすがにその年齢には見えない。
そう思ったことに気付かれてしまったのか、
「浪人したり留年したりで、年は今年で十九歳になります」
と、苦笑いで教えてくれる。
「じゃあ、私と同い年ですね」
「そうなんですね。そっか、みんなもう就職する年なんですよね」
男がしみじみと呟いた。
魔法学校の学生ということは研究員志望なんだろうか。
浪人、留年と言っていたし、難しいような気もする。
あんな適当人間に見えるセオでも、魔法学校を相当優秀な成績で卒業したらしい。
そんな失礼なことを考えていると、あっという間に目的の場所に到着した。
「ここが説明会の会場です」
「ありがとうございました」
会釈をして、資料を渡しに行くために先に部屋に入ろうとすると、
「あの」
男に呼び止められる。
「はい?」
「お名前を教えてもらってもいいですか」
「え? ヴィオレットです」
反射的に答えてしまう。
「ありがとうございます。僕はニコラです」
「あ、はい」
気の抜けた返事をして、扉をくぐった。
すべての職種の合同説明会のため、部屋にはすでに大勢の学生がひしめき合って座っていた。
壇上にいる所長に追加資料を渡して部屋を後にしようとすると、前の方の席についたニコラさんと目が合った。
軽く頭を下げて部屋を出る。
さてと、事務棟に戻って仕事の続きをしよう。
── ─
「ぎゃー! もうこんな時間! 終わらないいい」
事務員のマノンさんが時計を見て悲鳴を上げた。
目の前にあるのは申請書類の分厚い束。
完全に仕上がって、後は先方に渡すだけだったのに、先ほど研究員が来て「それ最終版じゃなかった」と言いながら、悪びれる様子もなく、その『最終版』とやらを置いていったのだ。
今日中に送らないと間に合わないのに。
「こっちのチェックやりますよ」
私はまだ手がつけられていない書類を指す。
「ヴィオレットさん助かる」
マノンさんが泣きそうになりながら手を合わせてきた。
他の人たちも手が空いたところで助けに来てくれてなんとかギリギリのところで完成する。
「皆さんありがとうございました! 送ってきます!」
マノンさんがお礼を叫びながら駆け出していくのを、みんなで拍手をしながら見送った。
「みんなお疲れさま。帰りましょう」
事務長の声を合図に帰り支度を始め、順に帰宅の途につく。
私も鞄を持って研究所の門を出たところで後ろから名前を呼ばれた。
「ヴィオレットさーん!」
振り返るとマノンさんが走ってくる。
「お疲れさまです。間に合いましたか」
「お陰様でセーフ! 途中まで一緒に帰ろ!」
「はい」
マノンさんは私より五歳年上で、事務の仕事を始めてすぐのときに指導係をしてくれた先輩だ。
「本当に助かったよ。ありがとね」
「いえ、そんな。いつも助けてもらってますから」
そう言うと、マノンさんがにこにこと笑みを返してくれる。
「ヴィオレットさんが来てくれて本当よかったよ。いや、最初は所長の姪っ子が来るって聞いて、しかも超美人だしちょっとびびってたんだけど、全然違って取っつきやすくてびっくりした」
「いえ、ありがとうございます」
「困ったことがあったら言ってね」
「マノンさんも、私にできることがあればなんでも言ってください」
そこでなぜかマノンさんに髪をくしゃくしゃっとされて、またささっととかされた。
「じゃあ私こっちだから。また明日!」
「はい、お疲れさまでした」
応援ありがとうございます!
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