婚約者と運命の花

逢坂積葉

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第二章 ヴィオレット

第八話

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 昼休み、研究棟の入り口でそわそわと待っていると、目的の人物が歩いてくるのが見えて心が沸き立つ。

「ジルさん、こんにちは。お昼休みのところ申し訳ないのですが、一箇所だけ至急サインしてほしいところがあって」

 書類を差し出すと、ジルさんは、「わざわざすみません」と相変わらずの無表情で言ってペンを走らせた。
 隣にいたセオが横歩きで素早く離れていく。
 アニエスに何か言い含められているのかもしれない。

「ありがとうございます」

 見上げるようにして、上目遣いでジルさんを見つめる。
 可愛く見えるように。
 私のことを見てくれるように。
 ジルさんは、セオがいなくなったことに気付いて視線を遠くに向けて探し始めた。

「これからお昼ですか」

「はい」

「セオさん先に食堂に行かれたのかもしれません。すみません、私が呼び止めてしまったから」

「いえ」

 ジルさんの返事は短く、愛想のかけらもないが気にならない。
 話ができるだけで、心が喜びに満ちていく。

「私も食堂に行くので、追いかけましょうか」

 ジルさんは一瞬躊躇ったように見えたが、

「そうですね」

 と、言って歩き始めた。
 まだ時間はある。
 これから、私が運命の人だって気付いてもらえばいいんだ。

 食堂に入るとセオが列の真ん中あたりに並んでいるのが見える。
 こちらに気付くとひらひらと手を振ってきた。
 順番を抜かすわけにもいかないので、ジルさんと最後尾に並ぶ。
 先を譲られたので顔を横に向けながら、

「ジルさんは今日は何を食べるんですか」

 と、笑顔で尋ねた。

「日替わりにします」

「じゃあ、私もそうしようかな」

 列が動いて前に進むと、カウンターの向こうに実習中のマリエルがいるのが見えた。
 わかっていて、わざわざ今日来ている。

「ジルさん、今日の日替わりはハンバーグみたいですよ」

「そうですか」

 ジルさんが答えた瞬間、顔を上げたマリエルと目が合った。
 マスクをしているので表情ははっきりとはわからないが、彼女の目が細まりかけたところで一気に見開かれる。
 私の隣に並ぶジルさんを見つけたようだ。

「ジルさんお箸をどうぞ」

「すみません。お構いなく」

 マリエルに心の底からの笑みを送ってから目をそらす。
 会計を済ませて、セオが座るテーブルに向かった。
 混み合っていて、ほとんどの座席が埋まっている。
 辺りを見回して席を探すふりをしながら、

「すみません、相席してもいいですか」

 と、セオに尋ねる。
 いつも散々お世話をしているのだ、借りを返してもらおう。
 目の奥で圧をかけると、セオは、「どうぞどうぞ」と向かいの席を勧めてくれてジルさんと並んで座った。
 私とセオが会話をして、時々ジルさんに話を振ると短く簡潔な答えが返ってくる、そんなことを繰り返して、食事を終える。
 三人で連れ立って帰るときに、ちらりとマリエルを見ると、怨念のこもっていそうな目でこちらを見ていた。
 スッと胸がすくような思いがして、足取りが軽くなる。
 食堂を出たところで二人と別れて、いつになく晴れやかな気分のまま事務棟に戻ると、

「ヴィオレットさん、なんかいいことあった?」

 と、マノンさんにニヤニヤと声をかけられた。

「ごはんが美味しかったです」

 誤魔化すように言えば、「最近元気そうだから良かったわ」と安心したように笑われた。

── ─

 あくまでも仕事を逸脱しない範囲でジルさんに近付く。
 今日も少し話ができたことに満足しながら帰り道を行くと、

「ヴィオレットさん」

 途中で待ち伏せるように立っているマリエルに捕まった。
 心がざわめかなかったことにある種の達成感のようなものを覚える。

「あら、マリエルじゃない。こんにちは」

 強気な口調で相対すれば、マリエルがニヤリと笑った。
 嫌な感じだ。

「ねぇ、ヴィオレットさん。あの人のこと狙ってるんですか」

 マリエルが前置きなしに切り込んでくる。

「あなたに関係ないと思うんだけど」

「あの人、婚約者いますよね」

 ナイフの切っ先を喉元に突きつけられたような気分。
 それでも怯まない。

「だから、あなたに関係ないじゃない」

「ま、そうですよね。別に私には関係ないことです」

 あっさりと引き下がるマリエルに違和感を覚える。
 ふいにマリエルが視線を移して、高く上げた手を誰かに向かって振りだした。
 つられてその先に顔を向けると、こちらに歩いてくる人が見える。

 ⋯⋯ニコだ。

「ニコラさーん」

 マリエルに呼びかけられたニコは、私が居ることに気付くと目を瞠る。

「こんにちは。久しぶり。二人知り合いだったんだ」

 ニコが驚いたように言ってきた。
 それはこちらも同じだ。

「⋯⋯久しぶり」

 状況が飲み込めないが、マリエルとニコはここで待ち合わせをしていたのだろうか。
 以前悪しざまに言ったときには知り合いという感じがしなかったがどういうことだろう。

「ニコラさん、迎えに来てもらってありがとうございます」

 困惑する私に見せつけるように、マリエルがニコにくっついていく。

「実習中はニコラさんが送ってくれることになって」

 聞いてもいない事情を、親切ごかして教えてきた。
 それから、ニコの方にも私との関係を説明している。

「マリエルさんもあのお店で働いてたんだ」

 ニコが初めて知ったという顔をした。
 では、二人はどこで知り合ったんだろう、疑問に思っているとニコが答えをくれた。

「友達の妹さんなんだ。それで送ってほしいって頼まれて。ほら、まわりでまだ学生なのって僕くらいだから頼みやすかったのかな」

 違う。
 きっと、友人同士だと知ったマリエルが、お兄さんに頼んだんだ。

「ヴィオレットさんも一緒に帰りますか?」

 マリエルの声に、生ぬるい空気に撫でられるような気持ちの悪さを感じて、無理やり笑顔を浮かべながら首を振る。

「私、寄るところがあるから。マリエル実習がんばってね」

 返答を待たずに踵を返して、急いで二人から離れた。
 心にあったはずの光はもう消えていて、ただ目をそらしていただけの闇がまた見えてくる。
 その闇に飲まれて何も見えなくなっていく。
 早く、
 早く。
 もっと、
 もっと急がないと。
 早く手に入れて、
 それで──。

── ─

「ジルさん、この書類をセオさんに」

 事務棟に来ているジルさんに頼みかけて、やめる。

「いえ、自分で渡すので研究棟まで行きます。直接渡さないとちゃんと見ないから」

 言い訳して、正当性があるように見せながらジルについていく。
 無言で歩いていくその後ろを追いかける。

「ジルさん、私の名前知っていますか」

 何かに支配されているように口が動いた。

「はい?」

「ヴィオレットっていうんですよ」

「⋯⋯知っていますが」

 ジルさんが怪訝そうな顔を向けてくる。
 私のものではない白い光が傷口を破って、そこから暗闇があふれていく。
 止まらない。
 動き出してしまった。
 もしかしたら、本当は落ちているのかもしれない。
 もう、暗すぎてわからない。
 
 ゆっくりと口を開いて、
 呪いのように言葉を紡ぐ。

「私が運命の人だって思いませんか」
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