婚約者と運命の花

逢坂積葉

文字の大きさ
14 / 22
第二章 ヴィオレット

第九話

しおりを挟む
 私はジルさん以外に対しては、まともだったんだろう。
 事務のみんなもアニエスからも特におかしいと言われることもなく、むしろ、最近明るいねと喜ばれるくらいだった。
 ジルさんが所長に進言していないのか、伯父さんからもたしなめられるようなことはなかった。
 私が所長の姪だから強く言えないのかもしれない。
 セオに至っては理由はわからないが、私を助長するような行動をする。
 マリエルがたまに現れたが、何を話したのかほとんど覚えていない。
 ニコのことは私の方が避けていた。
 どうしてかわからないけど、会いたくなかった。
 もう止まることなんてできないのだ。
 私が運命の人だってわかってもらうまで。
 マリエルに絶望を見せるまで。

 ただ、ジルさんの私を見る目だけがどんどん冷たくなっていった。

 季節が巡り、また春が来る。
 そして、私は一通の書類を受け取った。

 入館許可申請書

 外部の人間が研究所内に入るための申請書だ。
 提出してきたのはジルさん。
 そして、入館予定者に書かれていた名前は、

 『イリス』

 ジルさんの婚約者だ。
 私は素知らぬ顔で書類のチェックを進めていく。
 その中で、入館予定日を刻み込むように記憶した。
 チェック済みのサインをして、他の書類とまとめて事務長に提出する。
 私が考えていたのはただ一つのこと。
 
 早く、
 彼女にも教えてあげないと。

── ─

 ジルさんの婚約者が来る日。
 その日は朝から暖かく、いい一日になりそうな気がした。
 私は伯父さんに仕事を頼まれて休日出勤をすることになってしまったが、研究所にいる口実ができたことにむしろ喜ぶ。
 本来なら休みのセオに、ジルさんの婚約者が来たら知らせてもらうことと、ついでにジルさんを呼び出す理由を作ってくれるようにお願いする。
 何かに突き動かされるように、急かされるように事を進めていった。

「ヴィオレット」

 所長室の整理をしていると、伯父さんに気付かれないようにセオが小声で私を呼ぶ。

「伯父さん、ちょっと喉乾いちゃったから飲み物買ってくる。伯父さんもいる?」

「ああ、ありがとう。適当に頼む」

 奥で蔵書を運んでいる伯父さんに声をかけてから部屋を出ると、廊下でセオが待っていた。

「来たよ。森の方に向かってるみたいだった。あいついつもと雰囲気が違ってびびったよ」

「そんなことはいいわよ。何か呼び出せる口実は見つかったの」

 私が冷めた口調で言うと、セオが肩を竦める。
 この一年でセオの態度は砕けたものに変わっていた。
 もう共犯者のようなものだ。

「はいはい。じゃ、所長が呼んでるって言っといてよ。こっちは適当にやるから」

 そう言ってセオが所長室に入っていくのを見届けて、私は急いで外に向かう。
 そして、奥の道に並んで歩く二人の後ろ姿を見つけた。

「ジルさーん所長が呼んでまーす」

 小走りでジルさんに駆け寄ると、明らかに不機嫌な顔を向けられるが構わない。
 今日、私が話をしたいのは婚約者の方だ。

「所長室でお待ちですよ」

 マリエルのような声音。
 マリエルのような仕草。
 いつの間にかマリエルのような媚びた態度が体に染み付いてしまった。
 大丈夫。
 こうすれば何もかも手に入る。
 マリエルがそうしてきたように。
 そうすれば⋯⋯。

「今日は休みで、私用で来ています」

 低い声で拒絶されるが、心が麻痺しているように何も感じない。
 いつからこんな風になったのか。

「でも急ぎの用事みたいですよ」

 引き下がることはできない。
 やらないといけない。
 教えてあげないといけない。
 ジルさんは私から視線をそらして婚約者の手を取った。

「ごめんイリス。ちょっとだけ付き合ってくれる」

 一緒に行くつもりだろうか。
 それでは困る。

「あら、ジルさん。部外者は研究棟には入れないでしょう」

 そこで婚約者のイリスさんを初めてまともに見た。
 胸に渦巻くあらゆる感情。
 そのすべてを自分から切り離すようにして、声をかける。

「私がお相手して差し上げ」

「必要ありません」

 ジルさんの鋭い声が私を制して、庇うようにイリスさんを連れて歩いていった。
 おそらく、二人はラウンジに向かったのだろう。
 別の道でジルさんをやり過ごして、私もそちらに向かう。
 ガラス張りの建物の中でソファに座ってくつろぐ彼女が見えた。
 ふわふわした、甘いお菓子みたいな子。
 心に押し寄せてくる強い力。
 私の中で存在を否定されるみたいに押し潰されてしまったものはなんだろう。

「こんにちはジルさんの婚約者さん」

 笑顔を貼り付けて、イリスさんを見つめる。

「こんにちは。私のことご存じなんですね」

 思っていたよりも一段低い落ち着いた声。

「私は所長の姪で秘書をしてるの。ジルさんが今日あなたを連れてくると申請してたから見てみたいと思って」

「そうなんですか」

 向かいのイスに座らせてもらう。
 困ってもいない、動じてもいないような雰囲気に少し圧される。

『ジルさんの運命の人はヴィオレットだったのよ!』

 アニエスの言葉を思い出して、自分を奮い立たせた。

「私のいとこがあなたと同じ学校にいるんだけど、あなたがジルさんと婚約したことを自慢してたって。でもあのジルさんだもの自慢したくなるわよね。⋯⋯お見合いのときにジルさんと初めて会ったんでしたっけ」

「はい」

 淡々とした返事。
 そして何を話しても、「そうなんですか」と言葉以上の意味を持たない相槌が返される。
 なぜもっと動揺しないのだろう。
 もっと、驚いて、悔しがって、辛そうな顔を見せればいいのに。
 マリエルにされた私がそうだったように。
 でも⋯⋯、大丈夫。
 私には確信がある。
 
「あのね⋯⋯、私の名前ヴィオレットというの」

 そこで、初めて彼女の表情が動いた。
 達成感に笑みが浮かぶ。

「私が運命の人だと思うの」

 これで、私のものになる。
 マリエルを越えるものを手にすることができる。
 そうすれば、取り戻すことができる。
 けれど、

「そうでしょうか」

 イリスさんから返ってきたのは、私が期待していたような負けを認める言葉ではなかった。
 どうして、
 どうして、
 どうして。
 私は負けてしまったのに。
 私は簡単に認めてしまったのに。
 マリエルは他に何を言っていただろうか。
 自分で傷をこじ開けて、思い出す。

「ジルさんは優しいから言い出せなかったのよ。あなたは偽物。本当の運命のスミレは私なのよ」

 それでも、彼女に諦めたような気配は感じられなかった。
 これ以上ここにはいられない。
 なぜ私の方がこんな気持ちになるんだろう。
 無理やり笑みを作って彼女に背を向ける。
 ラウンジを出て、誰の目にも触れない場所に隠れた。
 壁にもたれてずるずると落ちていく。
 私の中にはびこるあらゆる気持ちが立ち上がって、その名前を晒していく。

 屈辱、喪失、嫉妬、劣等感、後悔。

 マリエルに勝ちたい。
 雪辱を果たしたい、ただそれだけ。

 そして、イリスさんに感じているのは、たぶん羨望。
 そうありたかったと思う、憧れにも似た気持ち。

 マリエルを見返して、それでどうしたかったんだろう。

 私の中の誰かが叫んでいるのに、その声の意味を聞き取ることができない。

 教えてほしい。

 私は何が欲しかったんだろう。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?

山科ひさき
恋愛
政略的に結ばれた婚約とはいえ、婚約者のアランとはそれなりにうまくやれていると思っていた。けれどある日、メアリはアランが自分のことを「わがままで傲慢」だと友人に話している場面に居合わせてしまう。話を聞いていると、なぜかアランはこの婚約がメアリのわがままで結ばれたものだと誤解しているようで……。

望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで

越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。 国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。 孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。 ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――? (……私の体が、勝手に動いている!?) 「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」 死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?  ――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!

【完】まさかの婚約破棄はあなたの心の声が聞こえたから

えとう蜜夏
恋愛
伯爵令嬢のマーシャはある日不思議なネックレスを手に入れた。それは相手の心が聞こえるという品で、そんなことを信じるつもりは無かった。それに相手とは家同士の婚約だけどお互いに仲も良く、上手くいっていると思っていたつもりだったのに……。よくある婚約破棄のお話です。 ※他サイトに自立も掲載しております 21.5.25ホットランキング入りありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ  Unauthorized duplication is a violation of applicable laws.  ⓒえとう蜜夏(無断転載等はご遠慮ください)

寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。

にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。 父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。 恋に浮かれて、剣を捨た。 コールと結婚をして初夜を迎えた。 リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。 ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。 結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。 混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。 もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと…… お読みいただき、ありがとうございます。 エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。 それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。

王女を好きだと思ったら

夏笆(なつは)
恋愛
 「王子より王子らしい」と言われる公爵家嫡男、エヴァリスト・デュルフェを婚約者にもつバルゲリー伯爵家長女のピエレット。  デビュタントの折に突撃するようにダンスを申し込まれ、望まれて婚約をしたピエレットだが、ある日ふと気づく。 「エヴァリスト様って、ルシール王女殿下のお話ししかなさらないのでは?」   エヴァリストとルシールはいとこ同士であり、幼い頃より親交があることはピエレットも知っている。  だがしかし度を越している、と、大事にしているぬいぐるみのぴぃちゃんに語りかけるピエレット。 「でもね、ぴぃちゃん。私、エヴァリスト様に恋をしてしまったの。だから、頑張るわね」  ピエレットは、そう言って、胸の前で小さく拳を握り、決意を込めた。  ルシール王女殿下の好きな場所、好きな物、好みの装い。  と多くの場所へピエレットを連れて行き、食べさせ、贈ってくれるエヴァリスト。 「あのね、ぴぃちゃん!エヴァリスト様がね・・・・・!」  そして、ピエレットは今日も、エヴァリストが贈ってくれた特注のぬいぐるみ、孔雀のぴぃちゃんを相手にエヴァリストへの想いを語る。 小説家になろうにも、掲載しています。  

貴方が選んだのは全てを捧げて貴方を愛した私ではありませんでした

ましゅぺちーの
恋愛
王国の名門公爵家の出身であるエレンは幼い頃から婚約者候補である第一王子殿下に全てを捧げて生きてきた。 彼を数々の悪意から守り、彼の敵を排除した。それも全ては愛する彼のため。 しかし、王太子となった彼が最終的には選んだのはエレンではない平民の女だった。 悲しみに暮れたエレンだったが、家族や幼馴染の公爵令息に支えられて元気を取り戻していく。 その一方エレンを捨てた王太子は着々と破滅への道を進んでいた・・・

【完結】探さないでください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
私は、貴方と共にした一夜を後悔した事はない。 貴方は私に尊いこの子を与えてくれた。 あの一夜を境に、私の環境は正反対に変わってしまった。 冷たく厳しい人々の中から、温かく優しい人々の中へ私は飛び込んだ。 複雑で高級な物に囲まれる暮らしから、質素で簡素な物に囲まれる暮らしへ移ろいだ。 無関心で疎遠な沢山の親族を捨てて、誰よりも私を必要としてくれる尊いこの子だけを選んだ。 風の噂で貴方が私を探しているという話を聞く。 だけど、誰も私が貴方が探している人物とは思わないはず。 今、私は幸せを感じている。 貴方が側にいなくても、私はこの子と生きていける。 だから、、、 もう、、、 私を、、、 探さないでください。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...