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40.現実を逃れて
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「お嬢様、紅茶が入りました」
「ありがとう、すぐ行くわ」
ライラが今住んでいるのは王都から少し離れた場所にある二階建ての屋敷。山裾に立つ二階建ての屋敷は以前住んでいたプリンストン侯爵家の半分もないが、ライラ達4人で暮らすには大きすぎるほど。広いテラスのついた応接間やグランドピアノがおける大きな音楽室、ライラとサラの部屋以外に客室が5部屋もある。
(もしお父様の庶子達が住むところがなくなったらここにって思って準備したけど⋯⋯広すぎたなぁ)
ノアとデレクは王都での騒ぎが落ち着くまでは母屋に住んでいたが、今は敷地内にある離れに居を構えていて、涼しい夜にはベンチに座って酒を酌み交わす姿が見られることもある。
鉄柵で周囲を囲み常緑樹で目隠しをした敷地は物見高い見物客の視線を遮ってくれた。
ライラがここを気に入った理由は広い庭と小さな池。
緩やかなカーブを描くアプローチが庭の奥まで続き、途中には色とりどりの花が植えられた花壇とベンチやガゼボが設置されている。敷地の奥にある小さな池には白い欄干の橋がかかり、澄んだ水を覗き込む天使像は穏やかな笑みを浮かべている。
近くに馬を走らせるのに最適の広場があるのもここを選んだ理由のひとつで、ライラは時折ノアやデレクと一緒に馬を走らせる。自然の障害物を飛び越えてノア達に大目玉を喰らったり、ウサギを追いかけて山に入り込んで迷子になったりしている。
デレクが広い庭の手入れの途中で捕まえた虫を持って走り出し、ノアの怒鳴り声が聞こえてくるのは我が家の定番。
デレク秘蔵の酒を屋敷のあちこちに隠しまくったノアは今、デレクから訓練と称したしごきに耐えつつ口を貝にしている。
調子に乗ったデレクの食事を野菜だけにして、最高の笑顔でサムズアップしているサラに平身低頭のデレクは翌日サラの好物のケーキを買いに行かされる。
(弱肉強食の頂点は⋯⋯サラかな?)
今までは暑い季節になると果物やナッツを使ったソルベットが定番だったが、初夏を迎えた王都では最近ホイップクリームを凍結させたグラス・ア・シャンティが流行っているらしい。
先週の休みにカフェで初めて食べたサラが興奮しながら話してくれた。
『すごく美味しかったんですよ。甘くて冷たくて⋯⋯』
『今度、カフェに行ってみませんか? カフェ・オ・レと言って、ある国でコーヒーの毒性を消すため考えられれた飲み方が美味しい店が⋯⋯』
『アインシュペナーは昔、馬車の御者が暖を取るために飲んでたっすよ。
コーヒーにほぼ同量の生クリームが載っててグラスに入れて飲むのが⋯⋯』
外出したがらないライラを心配してみんなが色々声をかけてくれるが、まだ人混みの中に出る気になれずにいた。
(3人に払う給与とここの維持費を稼がなくちゃなんだけど)
数年は暮らしていけるだけの資金は運良く残ったが、それ以降の生活を考えると早急に手を打たなくてはと思いつつまだ何も手につかないでいる。
会社から手を引く前に3人には紹介状と退職金を渡したが、まるで何もなかったかのように今まで通りで⋯⋯デレクの尻を叩きながらサラが家政を取り仕切り、ノアが護衛と執事を兼任している。
来客や手紙・交渉ごとを担当するノアと力仕事の方がいいと駄々を捏ねるデレクの攻防。
庭の隅で育てているハーブの横にデレクが苦手なトマトをこっそりと植えたサラが教えてくれたデレク攻略法は⋯⋯。
『では、ターニャ様に招待状をお送りしましょうか?』
この屋敷に来てからデレクが働き者になった理由が分かった瞬間だった。
王都ではハーヴィーとライラの純愛と正義の物語が本になり、劇場でも演じられているとミリセントの手紙に書かれていた。
政略で結ばれた2人が力を合わせて会社の不正を暴こうと奮闘する中で、事故死した婚約者の遺志を貫く主人公の悲恋を描いているという。その後、私財を投げ打って会社を立て直し身を引く主人公⋯⋯。
そのお芝居のお陰でライラは女神か聖女のような扱いになっているらしく、グッズや記念品が売れまくっているそう。
(多分、ターニャ王女の策略だろうと思うんだけど⋯⋯益々王都に行きたくなくなるわ)
お昼過ぎ、庭いじりするには少し暑すぎるからこの後どうしようかと悩んでいると、郵便が届いたと言ってノアがやってきた。
「態々ありがとう、誰からかしら?」
「王都の弁護士でソニア・ギブソン様だそうです」
「女性の弁護士なんて珍しいわね」
ノアに渡されたペーパーナイフを使って封を切ると中には便箋ともう一つ、以前よく見かけていたのと同じ薄緑色をした封筒が入っていた。
(この封筒って⋯⋯まさかね)
ギブソン弁護士の手紙にはハーヴィーが亡くなる3か月前に遺言状と手紙を託されたと書かれていた。
「やっぱり⋯⋯ハーヴィーは私に隠し事をたくさんしてたみたい。またビックリ箱が届いたわ。サソリの卵って言った方がイメージぴったりな気がするけど」
驚いたライラが呟くと目を丸くしたノアが封筒を指差した。
「ええ? それって、ハーヴィー様からですか?」
「遺言状はこの手紙を読んだ後、時間のある時に弁護士事務所まで来て欲しいって。それまでは内密にする約束になってるからって」
「それはまた念の入った方法ですね。どんな意味があるんでしょうか?」
「さあ、なにかしら⋯⋯うーん、さっぱり分からないわ」
ライラが開封する勇気が持てず悩んでいると空気を読んだノアがそっと部屋を出て行った。
(ノアの髪、結構伸びてる)
いつもと同じ背筋を飛ばした頼り甲斐のある背中に心がざわついた。
親愛なるライラへ
君がこの手紙を受け取ったなら、私はもう遠くに行っているんだろう。
初めて会った日、ライラは私にとって特別な存在になるってすぐに気がついたんだ。
次に会う日が待ちきれなくてこっそり屋敷を抜け出して会いに行ったら、木漏れ日の中から天使の声が聞こえてきて驚いたのを今でも覚えてる。
⋯⋯天使がどさりと落ちてくるとは思わなかったけどね。
目が覚めたら真っ赤に泣き腫らした目をしたライラがいて、二度と泣かさないって心に決めたんだ。だから、君が今泣いてない事を心から祈ってる。
あの日までどこにいても寂しくて仕方なかったのに、ライラに出会ってからは毎日が楽しくて本当に幸せだった。
嬉しい時はライラの笑顔を思い出して、悲しい時はライラの笑い声を思い出して勇気をもらっていたって知ってたかな?
大変な仕事をライラだけに任せるのは申し訳ないって思うけど、ライラにしかできないって知ってるから。全てを託していけるライラがいてくれて私は幸運だった、本当にありがとう。
いつものように⋯⋯ぷんぷんと拗ねてから、仕方ないねって笑ってくれると良いんだけど。
私にとって愛は辛くて悲しいものだったけれど、ライラとの間にあったのは生まれて初めて知った家族の愛⋯⋯だったと思う。心が暖かくなって前に向く力をもらえて、肩の力を抜いて休憩できて。
その時間があったから最後まで前を向いているつもりなんだ。私の弱い心は逃げ出せって言うけれど⋯⋯最後まで彼にはまっすぐ前を見る私だけを知っていてほしいから。
私が弱気を見せられるのはライラしかいないから、最後に全部お願いしていこうと思う。
君がひとりじゃないって知っているから、安心して甘えさせてもらうね。多分、私の最後の賭け⋯⋯レートはかなり低いけど、それでも一度だけ⋯⋯僕の前で本当の姿を見せてほしくて。
ライラ、僕の唯一の家族でたったひとりの信頼できる同士。
彼はきっと『お嬢様、大丈夫ですか?』って私の分も言ってくれるから。
勇気を出して、どうか幸せに。
最後にひとつ⋯⋯いつものように弱音を聞いてもらえるなら⋯⋯ライラの事も愛してた。
ずっと一緒にいたかった。
「酷いわ⋯⋯⋯⋯もしかしたら私だって、ハーヴィーの事も。今更気付かせるなんて⋯⋯わざと置いていくなんて」
はらはらとライラの目から涙が流れた。ハーヴィーの死を知ってから初めて流した涙は、彼が好きだと言ってくれた笑顔と一緒にキラキラと輝いていた。
「ハーヴィーはきっと一番大切なものを大切な人にプレゼントできたんだよね」
初夏の日差しが翳りはじめるまでテラスに座ってハーヴィーを思い出していた。
『ごめん、頼む!』
『最初は挨拶と自己紹介だろ?』
『ライラは間抜けだなぁ』
『ライラ、笑ってくれるかな』
パタンと小さな音がしてドアが開き、寄木細工の床を歩くコツコツという音が聞こえてきた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ありがとう、すぐ行くわ」
ライラが今住んでいるのは王都から少し離れた場所にある二階建ての屋敷。山裾に立つ二階建ての屋敷は以前住んでいたプリンストン侯爵家の半分もないが、ライラ達4人で暮らすには大きすぎるほど。広いテラスのついた応接間やグランドピアノがおける大きな音楽室、ライラとサラの部屋以外に客室が5部屋もある。
(もしお父様の庶子達が住むところがなくなったらここにって思って準備したけど⋯⋯広すぎたなぁ)
ノアとデレクは王都での騒ぎが落ち着くまでは母屋に住んでいたが、今は敷地内にある離れに居を構えていて、涼しい夜にはベンチに座って酒を酌み交わす姿が見られることもある。
鉄柵で周囲を囲み常緑樹で目隠しをした敷地は物見高い見物客の視線を遮ってくれた。
ライラがここを気に入った理由は広い庭と小さな池。
緩やかなカーブを描くアプローチが庭の奥まで続き、途中には色とりどりの花が植えられた花壇とベンチやガゼボが設置されている。敷地の奥にある小さな池には白い欄干の橋がかかり、澄んだ水を覗き込む天使像は穏やかな笑みを浮かべている。
近くに馬を走らせるのに最適の広場があるのもここを選んだ理由のひとつで、ライラは時折ノアやデレクと一緒に馬を走らせる。自然の障害物を飛び越えてノア達に大目玉を喰らったり、ウサギを追いかけて山に入り込んで迷子になったりしている。
デレクが広い庭の手入れの途中で捕まえた虫を持って走り出し、ノアの怒鳴り声が聞こえてくるのは我が家の定番。
デレク秘蔵の酒を屋敷のあちこちに隠しまくったノアは今、デレクから訓練と称したしごきに耐えつつ口を貝にしている。
調子に乗ったデレクの食事を野菜だけにして、最高の笑顔でサムズアップしているサラに平身低頭のデレクは翌日サラの好物のケーキを買いに行かされる。
(弱肉強食の頂点は⋯⋯サラかな?)
今までは暑い季節になると果物やナッツを使ったソルベットが定番だったが、初夏を迎えた王都では最近ホイップクリームを凍結させたグラス・ア・シャンティが流行っているらしい。
先週の休みにカフェで初めて食べたサラが興奮しながら話してくれた。
『すごく美味しかったんですよ。甘くて冷たくて⋯⋯』
『今度、カフェに行ってみませんか? カフェ・オ・レと言って、ある国でコーヒーの毒性を消すため考えられれた飲み方が美味しい店が⋯⋯』
『アインシュペナーは昔、馬車の御者が暖を取るために飲んでたっすよ。
コーヒーにほぼ同量の生クリームが載っててグラスに入れて飲むのが⋯⋯』
外出したがらないライラを心配してみんなが色々声をかけてくれるが、まだ人混みの中に出る気になれずにいた。
(3人に払う給与とここの維持費を稼がなくちゃなんだけど)
数年は暮らしていけるだけの資金は運良く残ったが、それ以降の生活を考えると早急に手を打たなくてはと思いつつまだ何も手につかないでいる。
会社から手を引く前に3人には紹介状と退職金を渡したが、まるで何もなかったかのように今まで通りで⋯⋯デレクの尻を叩きながらサラが家政を取り仕切り、ノアが護衛と執事を兼任している。
来客や手紙・交渉ごとを担当するノアと力仕事の方がいいと駄々を捏ねるデレクの攻防。
庭の隅で育てているハーブの横にデレクが苦手なトマトをこっそりと植えたサラが教えてくれたデレク攻略法は⋯⋯。
『では、ターニャ様に招待状をお送りしましょうか?』
この屋敷に来てからデレクが働き者になった理由が分かった瞬間だった。
王都ではハーヴィーとライラの純愛と正義の物語が本になり、劇場でも演じられているとミリセントの手紙に書かれていた。
政略で結ばれた2人が力を合わせて会社の不正を暴こうと奮闘する中で、事故死した婚約者の遺志を貫く主人公の悲恋を描いているという。その後、私財を投げ打って会社を立て直し身を引く主人公⋯⋯。
そのお芝居のお陰でライラは女神か聖女のような扱いになっているらしく、グッズや記念品が売れまくっているそう。
(多分、ターニャ王女の策略だろうと思うんだけど⋯⋯益々王都に行きたくなくなるわ)
お昼過ぎ、庭いじりするには少し暑すぎるからこの後どうしようかと悩んでいると、郵便が届いたと言ってノアがやってきた。
「態々ありがとう、誰からかしら?」
「王都の弁護士でソニア・ギブソン様だそうです」
「女性の弁護士なんて珍しいわね」
ノアに渡されたペーパーナイフを使って封を切ると中には便箋ともう一つ、以前よく見かけていたのと同じ薄緑色をした封筒が入っていた。
(この封筒って⋯⋯まさかね)
ギブソン弁護士の手紙にはハーヴィーが亡くなる3か月前に遺言状と手紙を託されたと書かれていた。
「やっぱり⋯⋯ハーヴィーは私に隠し事をたくさんしてたみたい。またビックリ箱が届いたわ。サソリの卵って言った方がイメージぴったりな気がするけど」
驚いたライラが呟くと目を丸くしたノアが封筒を指差した。
「ええ? それって、ハーヴィー様からですか?」
「遺言状はこの手紙を読んだ後、時間のある時に弁護士事務所まで来て欲しいって。それまでは内密にする約束になってるからって」
「それはまた念の入った方法ですね。どんな意味があるんでしょうか?」
「さあ、なにかしら⋯⋯うーん、さっぱり分からないわ」
ライラが開封する勇気が持てず悩んでいると空気を読んだノアがそっと部屋を出て行った。
(ノアの髪、結構伸びてる)
いつもと同じ背筋を飛ばした頼り甲斐のある背中に心がざわついた。
親愛なるライラへ
君がこの手紙を受け取ったなら、私はもう遠くに行っているんだろう。
初めて会った日、ライラは私にとって特別な存在になるってすぐに気がついたんだ。
次に会う日が待ちきれなくてこっそり屋敷を抜け出して会いに行ったら、木漏れ日の中から天使の声が聞こえてきて驚いたのを今でも覚えてる。
⋯⋯天使がどさりと落ちてくるとは思わなかったけどね。
目が覚めたら真っ赤に泣き腫らした目をしたライラがいて、二度と泣かさないって心に決めたんだ。だから、君が今泣いてない事を心から祈ってる。
あの日までどこにいても寂しくて仕方なかったのに、ライラに出会ってからは毎日が楽しくて本当に幸せだった。
嬉しい時はライラの笑顔を思い出して、悲しい時はライラの笑い声を思い出して勇気をもらっていたって知ってたかな?
大変な仕事をライラだけに任せるのは申し訳ないって思うけど、ライラにしかできないって知ってるから。全てを託していけるライラがいてくれて私は幸運だった、本当にありがとう。
いつものように⋯⋯ぷんぷんと拗ねてから、仕方ないねって笑ってくれると良いんだけど。
私にとって愛は辛くて悲しいものだったけれど、ライラとの間にあったのは生まれて初めて知った家族の愛⋯⋯だったと思う。心が暖かくなって前に向く力をもらえて、肩の力を抜いて休憩できて。
その時間があったから最後まで前を向いているつもりなんだ。私の弱い心は逃げ出せって言うけれど⋯⋯最後まで彼にはまっすぐ前を見る私だけを知っていてほしいから。
私が弱気を見せられるのはライラしかいないから、最後に全部お願いしていこうと思う。
君がひとりじゃないって知っているから、安心して甘えさせてもらうね。多分、私の最後の賭け⋯⋯レートはかなり低いけど、それでも一度だけ⋯⋯僕の前で本当の姿を見せてほしくて。
ライラ、僕の唯一の家族でたったひとりの信頼できる同士。
彼はきっと『お嬢様、大丈夫ですか?』って私の分も言ってくれるから。
勇気を出して、どうか幸せに。
最後にひとつ⋯⋯いつものように弱音を聞いてもらえるなら⋯⋯ライラの事も愛してた。
ずっと一緒にいたかった。
「酷いわ⋯⋯⋯⋯もしかしたら私だって、ハーヴィーの事も。今更気付かせるなんて⋯⋯わざと置いていくなんて」
はらはらとライラの目から涙が流れた。ハーヴィーの死を知ってから初めて流した涙は、彼が好きだと言ってくれた笑顔と一緒にキラキラと輝いていた。
「ハーヴィーはきっと一番大切なものを大切な人にプレゼントできたんだよね」
初夏の日差しが翳りはじめるまでテラスに座ってハーヴィーを思い出していた。
『ごめん、頼む!』
『最初は挨拶と自己紹介だろ?』
『ライラは間抜けだなぁ』
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