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アンチノック・スターチスの誤算
18.
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つい昨日のことなのに、遥か昔に訪れたような、妙な時間軸の上にいる気分だった。
死に装束を連想させる入り口も、二昔前の喫茶店を思わせるカウンターの公衆電話も。店内を飾るドライフラワーのいびつさも、そこだけ違和感を覚える最新式のレジスターも。
寂れた場末のバーというより、閉店の決まった飲食店に侵入しているかのような、独特の埃っぽい空気を感じる。実は狐に化かされていて、昨日ここであった出来事はすべて幻だった。そう説明されても納得できるくらい、その空間の時は止まったままだった。
確信があったのは、トイレのドアに起きる霊現象にだけ、子供のいたずらのような可愛げがあったということ。
いや、そもそもこの店の霊障にはすべて、悪意などどこにもなかった。客をささやかな嫌がらせで追い返し、ここに自分がいるということを、唯一動かせるつくりであるトイレの鍵を使って知らしめる。すべては、姉にその存在訴えるための苦肉の策で、全力で寂しさを伝えようとしている弟の悲痛な叫びでもあった。
カタン。圭吾がドアに近づいただけで、鍵の外れた音がする。ギィ、と錆びた音を立てて、木製のドアがゆっくりと開いた。民家をお店に改造しているので、トイレとは言っても、二、三個室を常備している一般的な飲食店のそれとは違う。ドアノブカバーには、古めかしいチェックのデザインが施されており、その扉を開けたらすぐに洋式の便座が視界に入る。生成色の、一回り小さいそれにはウォッシュレットなどという気の利いたものはついておらず、付属品は大、小のわかりやすい方向が記されたレバーがひとつだけ。便座は一段上に設けられており、そこを利用するなら、タイルで貼られた床に足を踏み入れる必要がある。一歩歩くだけでカランと音がなりそうな便所スリッパが目に入ったが、どうやら使う必要はなさそうだった。
透明なラップをぐしゃりと歪めた時のように、空気に僅かな歪みが走る。
圭吾は待った。それはきっと、待っていれば形を持つものだと知っていたから。
〝……お兄ちゃん、僕が見えるの?〟
歪みは、まるで圭吾が捏ねたり伸ばしたりでもしたかのように、目の前で徐々にシルエットを作り出す。そうして、ボロボロの布切れを纏った儚げな少年が目の前に現れた。
「見えるよ。半透明だけど」
少年は、小さな手で顔を覆って、その場で崩れるようにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
幽霊相手に間の抜けた質問だなと思ったが、少年は小さく首を縦に振った。
〝お姉ちゃんには、僕が見えないの……ううん、見えてても、知らんぷりしてるのかもしれない〟
「どうして?」
〝僕が、死んじゃったから〟
細い肩は、僅かに震えていた。
〝お姉ちゃん、風車持ってきてくれるって、約束してくれたのに。僕が、お姉ちゃんを待たずに、死んじゃったから〟
感情に言葉が追いつかず、必死に食らいつきながら話しているという印象だった。クリアファイルのように文字通り透き通ったその肌を見遣り、圭吾は彼が半透明であることから推測される死因を改めて思い返していた。
「殺されたのか」
〝ううん……お腹が空きすぎて、死んじゃったの〟
緩く首を振って、少年は答えた。
〝僕が神様へのいけにえに選ばれて、あの池に縛り付けられてから、何にも食べてなくて……でも、僕が死んだってわかりにくい死に方をしたから、神主様が、僕の首をみんなの前ではねたの。お姉ちゃんは、ちょうどその後に来たから、僕が殺されたと思ったみたい。それで、みんなを呪って死んじゃって、今も苦しんでるから……僕は殺されたんじゃないって、教えてあげないと〟
「殺されたようなもんじゃないか」
シナプスを経由せずに、思わず口から言葉が出てしまった。きちんと思考を巡らせていたら、もう少し歯に衣着せた言い方ができたのかもしれない。けれど、何もかも後のまつりだ。
圭吾は静かに、青色に変化したとろ火のような怒りと向き合っていた。
「君は、よってたかって殺されたんだよ」
生きる意志のあった者から食事と寝床を奪い、太陽が照りつける乾いた池の真ん中磔にしておいて、殺すつもりがなかっただなんて無理がある。最初から、その村の人々は自身の安寧のために子供の命を金のように支払い、あわよくばお釣りを手に入れようと画策していた。
「君は、誰かを恨んだっていい死に方をしたんだ……」
それは、圭吾がもしまっとうな大人であれば、間違いなくわざわざくちにしなかったであろう言葉だ。痛みをわかったような顔で寄り添うつもりもなかったが、胃袋ごとひっくり返りそうな程煮え滾る感情が、肺をも焼き尽くさんばかりに圭吾の腹の中で蠢いている。
どこから溢れてきたのかもわからない頬を静かに伝う涙に、恐る恐る触れた手はひんやりとしていた。
死んでしまった彼の、小さくて儚い指だった。
〝他の子に、それをやってたの……止められなかった。僕の番になったからって、誰かが悪者になったりしないよ〟
圭吾は、ぐっと息を殺した。まるで大人のような声で、何ひとつ恨みもせず、こんなふうに笑う誰かのことを思い出したから。
〝僕は、お姉ちゃんを助けたい。それが叶うなら、他に何もいらない〟
凛とした声でそう告げる少年の頭を、柔らかく撫でる。
あの人ならきっと、こんなところで悲しみに足を止めたりはしない。できることがあるかもしれないなら、今――動くべきだ。
「……お姉さんは、どこに?」
〝多分、池の方……昨日雨が降ったから、様子を見に行ってるんだと思う〟
「わかった」
小さな手をしっかりと握り、圭吾は改めて目を閉じた。理不尽で何ひとつ納得のいかない過去も、昇華しきれない怒りも。すべてここへ置いてゆくと決めた。
連綿と連なる木々が、所狭しと好き放題生い茂る根の袂にその池はあった。
恭介がその一部を血で囲い簡略的に作った結界は、昨晩局所的な雨に見舞われたにも関わらず、綺麗に残っていた。池には、池と呼ぶことができる程度の雨水が溜まっていた。雨量の割にあまり水嵩がないのは、よほど土が乾いていたからなのだろう。
池の傍らに跪き、粘度の高くなった土に触れた。わかりにくいが、一部だけ少し盛り上がっている。指で穿るようにして探ると、中から布の欠片のようなものが見えた。
それは、はるか昔に何かしらの形を持っていた、けれど今は朽ち果ててしまった布製の玩具と推測できる欠片だった。
「触らないで」
まるで、切っ先をすらりと喉元に向けられたような声が鼓膜に響く。不躾に敵意をぶつけられるのには慣れていた。恭介は親指と人差し指の腹を擦り合わせて、泥土を落とす。
琴線に、触れてしまったのだと思った。
「警戒されるってことは、やっぱりここに呪具があるんだな」
「ずかずかと踏み込んで欲しくないだけよ。そこには弟が眠っているから」
「眠っているのは弟だけじゃない」
「……何が言いたいの?」
うんざりとした声で、女が髪をかきあげた。その隙に、恭介はちらりとその顔を見遣る。とり憑いている期間が長いのか、半分程別人格の形相だった筈のそれは、表情筋をすべて削ぎ落としたかのように無になっていた。
このままじゃ駄目だ、という焦りが背中を這い上がった。悪霊に乗っ取られたこの人を、助けることさえも難しくなる。
「……たくさんの子供が、被害にあった」
「私達が、特別不幸じゃないって? 皆が味わった悲劇だから、等しく許せっていうの?」
狂ったように、女が笑った。口元は緩まないまま、金切り声に近い、酷く不快な声だけが響く。
恭介は真顔のまま口を開いた。
「あんたのためだ」
使い回された、安っぽい台詞。今どき、刑事ドラマで犯人を説得するシーンにだって起用されないだろう。女は、冷めた目で恭介を睨めつけた。それでも恭介は後ろに下がらなかった。
「許せないって気持ちは、怒りに直結する。怒りって、何か知ってるか? 地獄で味わう苦痛のひとつだ。誰かを憎んで、怒りを覚えた瞬間、それは地獄の入り口に立ってるのと同じだ。あんたはずっと、ひとりで地獄の中にいるんだ」
「つまらない理論ね」
「何かを憎んでいる間は、本人だって苦しい。あんたがそれを捨てない限り、地獄は続くし、弟にも会えない」
ピクリ、と女が止まった。ビードロみたいな無機質な瞳に、僅かに光が走る。
「何言ってるの……?」
「ずっと傍にいるのに、あんたは気づいてないんだ。恨みつらみは目を曇らせる。一番近くにいる大事なものが、見えなくなるんだ」
「適当なこと言わないで!」
ビリリ、と鼓膜が揺れる。無表情の女が、レコードを爪で引っ掻いたような声で泣き叫んだ。
「弟は死んだのよ! この池で! 馬鹿な大人の身勝手で殺されたの! 積もり積もった怨霊に飲まれて、魂だって浮いちゃこないわ! 生贄を捧げ続けないと、この土地の呪いから、弟の魂を助けることなんかできないのよっ……!」
「先輩!」
胸ぐらを掴まれ女の訴えを聞いている最中、待ち焦がれた彼が現れた。その右手は、幼い子供の手を握っているのだろう。恭介には見えないけれど、腰より下の位置に、卵一個分程の空間をあけた形で何かを捕まえている。
チカ、と池の表面に光が走った。水面に映るそれを見て、恭介はゆっくり息をつく。
「しの」
名前を呼ばれて、圭吾は僅かに頷いた。長くはないが、それなりに傍にいたからわかる。
恭介には、おそらく切り札がある。
確証など何もなかったが、圭吾は上司の戦略に委ねることにした。
「もし、血が止まらなかったらさ」
ぐ、と腹に力を込めて、恭介がニヤリと笑う。
「お前が焼いてくれよ」
「先輩……っ!」
テーピングの一部が剥がれているガーゼを毟り取り、腹に爪を立てて塞がりかけていた傷口を破った。じゅくじゅくと溢れる血液は徐々に夥しい量になり、池へぼたぼたと落ちる。
瞬間、濁っていた水面が透き通り、朝日を浴びた海のように美しく光り輝いた。
恭介の血液には浄化の作用がある。いつだったか烏丸が言っていたことを思い出した。その効果を利用して、妹に取り憑いた邪霊を体内に取り込み、浄霊を行うことで土屋の家でどうにか居場所を守り続けているということも。
昨日だってそうだ。その血液で囲った場所は、まるで神域のように清く守られていた。
恭介は、おそらくその力で、池の怨念の一部を浄化したのだ。
眩しさに閉じてしまいそうになった目を圭吾が必死で凝らすと、池の中に人の影が見えた。
繋がった、と圭吾は気づいた。
この山は結界で覆われている。何かしらの歪みや隙間を作らなければ、外部からの侵入は難しい。けれど恭介の血液によって一箇所だけ極端に浄化されたことで、今そこに歪みが出来たのだ――避難通路のような、か細い一本道が。
何かしら文句を喚き散らしながらその影は、絵の具で下書きに色をのせてゆくみたいに、少しずつその輪郭を現した。ゆらり。大きく池が波打ち、やがて水族館のイルカショーでよく見たような水しぶきが起きて、誰かが飛び出した。
「無茶するなっつったろーが! クソガキが!」
「智也さん……!?」
初対面であれば間違いなく尻込みしそうな勢いで悪態をつきながら現れたのは、かつて烏丸の手によって誘拐された恭介奪還の折に一度だけ会ったことがある――敵なのか味方なのかよくわからないが、とりあえず烏丸を目の敵にしているということだけは理解できた――彼だった。飛び出した勢いでゴロゴロと地面に転がった後、膝をついて自力でブレーキを掛ける。口の中に入っただろう藻を吐き捨てて、ぐい、と口元を手首で乱暴に拭った。よく見ればその両手足は傷だらけで、あちこちにできた切り傷の多くには血も滲んでいる。ボロボロの着物の表面についている何かがキラキラ輝いており、キュービックジルコニアなどのイミテーションジュエリーを思わせたが、よくよく見れば粉々になった硝子の破片だった。
「お前、いざとなったら思い切りがすごいな」
「恭介!」
間をあけず、後を追うように二人の大人が池から現れた。ぺったりと体に貼り付く長い髪をかきあげて、カラフルな絵の具で彩られたそれを結び直している男――だか女だかぱっと見では判別しにくい方――は初対面だったが、顔面蒼白になっている切れ長一重の金髪野郎とは面識があった。ゼロコンマの瞬発力で倒れている恭介に駆け寄り、これまたジャケットを手品のように素早く脱ぎ、その体に優しく掛ける。どう楽観的に見ても決して浅くはない傷口からどくどくと流れる血に顔を顰め、ギリ、という音がこちらまで聞こえてくるんじゃないかと思う程に歯を食いしばった。
「……いろいろ、思うところはあるが」
「はい」
烏丸の指示に従わず、二人でどうにかしようとして、この有様だ。叱られる準備はとうにしていたので、圭吾は素直に次の言葉を待った。
「俺が、大人げなかったのが元凶だ。やらなきゃいけないことがあるから、恭介を頼む」
「烏丸さん……」
そう言い置いて、烏丸はすぐ恭介のもとを離れた。
もう、振り向きもしなかった。未練など残してしまっては、いつまでたってもその場所から動くことはできないとわかっていたから。
粉々になった金魚鉢の近くで、二匹のまだら模様のそれが、苦しそうに喘いでいる。肩を大きく上下に揺らしながら、智也は僅かに思案した。
「可哀想だな」
絵師は憐れむような言葉を発し、懐から一枚の紙と筆を取り出して、サカサカと何かを描きなぐった。描かれた水墨画の絵に金魚をのせ、仕上げに、自身の首を引っ掻いて簡易的に血液を採取し、絵の上に垂らす。じわじわと金魚が絵の中に溶け込み、やがて金魚鉢の中を泳ぐ二匹の金魚の絵になった。
「一時期的に俺が保管してやるよ」
「……お前はいくつ隠し芸を持ってるんだよ」
金魚の無事が保証されたのを見届け、智也は改めて自身の惨状を見遣る。切り傷は池の水が滲みてあちこち痛いし、粉砕された硝子の破片は、ボロ布と化した着物に、スパンコールのようにへばりついている。それでもしっかり抱えて離さなかったそれが無事であることに、ほっと息を付く。気を抜くと笑ってしまいそうな膝にぐっと力を込めて、智也はそれを、壊してしまわぬよう優しく握った。
日が傾いている。山の夕暮れは思いの外早い。逢魔が時に飲み込まれかけているその空間に、約束を果たすべき子供はいた。
成人男性の自分を視界に入れた途端不安そうに怯えるその姿は、ろくな大人に出会ってこなかったことが原因だろう。
(ごめんな。俺だってろくな大人じゃないけど)
――約束くらいは果たせるんだよ。
もたつく足を前に動かし、近づき過ぎない位置で膝をつく。
「……お前の、姉ちゃんから預かった」
左手は、掌を上にして地べたに置いた。武器も悪意も隠し持っていないことを、証明する必要があった。
約束のそれを握っていた右手を、子供の目の前に翳す。緩やかな夕凪が、ボロボロの羽をカラカラ、カラと回した。
〝かざ、ぐるま……〟
「これを渡してやれなかったことが、心残りだったんだ。受け取ってやってくれ」
弾けるようにして、子供が駆け寄ってきた。智也の右手に縋りつき、その玩具に触れる。
〝あ……ああ……〟
ささくれ立った柄の古い木も。味噌汁を零してしまった時にできた、てっぺんの羽の茶色い染みも。姉の一番お気に入りだった着物を切って飾った、左下の羽も。その重さのせいで、少しぎこちなく回るその動きも。
〝お姉ちゃんの、風車だ……〟
弟が、泣き出しそうな顔で笑った。空気の一部が歪んで光り、子供の体を包み込む。
その瞬間、女が弾けたように顔をあげた。
「どうして……」
〝お姉ちゃん!〟
女が、たった今歩くことを覚えた小鹿のように、ふらふらと覚束無い足取りで弟に近づいた。まるで触れてしまった途端弾けて消えてしまうシャボン玉のように、震える指をゆっくりと伸ばして弟の形を確かめる。
「今まで、どこにいたのよ……! ずっと……ずっと探していたのよ……!!」
〝ごめんね、お姉ちゃん……でも僕、ずっと近くにいたよ〟
「……っ」
〝お姉ちゃんに、見つけてもらえて嬉しい……〟
喉が潰れそうな声をあげて、女はその場で泣きじゃくった。会えて良かったと、素直に智也は思った。
心残りがあるのとないのとでは、大きな違いがある。
たとえ――これが長くは続かない、儚い瞬間だとしても。
「そこまでだ」
烏丸の声はシビアだった。悍ましい程冷徹で、氷をひしゃげてできた残骸のように色がなかった。
(そうだよ。お前はそれで良い)
「罪には罰がついてくる。須くだ。言っていることはわかるな?」
女は一度、強く弟を抱きしめてから言った。
「わかっています……」
「弟は、このまま俺が浄霊をする。まっすぐにあの世へ連れて行ってやるから安心しろ。だがあんたは、罪のない人間を三度、自殺に追い込んでる。殺したとまでは言わないが、明確な意図があった。たとえ法で裁けなくても、あらゆる罪には重さがある」
烏丸は温度を感じさせない声で、シンプルに事実を伝える。
「あんたの魂は重たい。弟と一緒に、上にあげることはできない」
「……」
女は、静かに事実を受け止め頷いた。
カラカラ、カラ。
歪な音を立てて、風車が風に踊る。
弟は俯き、小さな手で姉の服をぎゅうっと掴んだ。
まるで、その時が近づいていることを悟っているかのように。
「……随分、聞き分けが良いんだな」
烏丸が言った。嫌味のように聞こえるが、言葉通りの棘はあまり感じられない声だった。
「ずっと、地獄にいたのね……」
絶対に、忘れないでいようと思っていた。腹を焦がすような怒りも、理不尽に使い捨てられたことへの恨みも。
けれど、途中からその感情は、どこへぶつけるべきものか分からなくなっていた。恨みの対象はもうこの世にはいないし、守りたかった筈の弟も見失ってしまった。最早、許さないという気持ちからの怒りは熱を失い、薪を食い尽くした炎は弱り、腹が立っているということを忘れないために、自身を焚き付ける必要があった。
気づかないうちにその魂は火傷まみれになっており、あちこちにできたケロイドが、じくじくと痛んだがやめられなかった。
これだけ怪我をしたのだから、今更間違っていたなんて――認めることが怖かったのだ。
「お兄ちゃん」
女が、か弱い声で智也を呼んだ。
智也は立ち上がりかけて、結局その場から動かなかった。女に取り憑いている姉の年齢を思い出したのだ。子供が相手なら、視線は近いままの方が怖がらせずに済むような気がした。
「約束を、守ってくれてありがとう……」
引きちぎれてしまいそうな声だった。
智也は、つられて泣きそうになり下唇を噛む。本当に、それ以上をことを願いもしていなかった、無欲な子供の言葉だった。
女は、烏丸の方に向き直り、深々と頭を下げる。
「弟を、頼みます……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
女の顔がどろりと形を変えた。夏に出しっぱなしにしていたアイスクリームのように、その体から抜けた魂は徐々に液体へと崩れてゆく。弟は二歩、三歩姉へと近づき、姉だったそれが、池に融けるまでをじっと見届けていた。その瞳は、宇宙のように静かだった。
太陽が、大きな口を持つ怪物に飲み込まれたみたいに、一瞬にして辺りは夕闇に覆い尽くされる。
弟は、ゆっくりと振り向き、烏丸にだけ聞こえる小さな声で何事かを言っているようだった。
「……お前は、それでいいんだな」
弟は、花が開いたように笑った。それが答えだった。
懐から札を取り出し、掴んだ指に霊力を込める。オレンジとピンクをぐるりとかき混ぜたような淡い光が放たれ、弟の体を包み込んだ。
その光ごと闇夜に閉じ込めるみたいに突如、弟の体は忽然と消えてしまった。
残された風車が、烏丸の足元に転がっている。
「……彼は何て?」
抜け殻になった女の体を抱き起こしながら、ついでのように絵師が聞いた。その体は温かく、指先だけ氷水に突っ込んだかのように凍えきっている。呼吸は浅く、明らかに衰弱しており顔色も悪かったが、悪霊の魂は抜けきっているようだった。侵され続けた心身にしばらく疲れは残るだろうが、何日か養生すればそれも回復するだろう。
烏丸は、チベットスナギツネのように目を細め、闇に飲まれた池の畔をしばらく眺めていた。
「姉と一緒が良いんだと」
ぽつりと、質問への答えが返された。
「何ひとつ悪さをせず、誰も恨まなかったという大きな徳を抱えてどこぞの金持ちの子供に生まれ変わるより、姉の罪を一緒に背負い、その徳をこの池の怨念や姉の罪の浄化に使って、何千年先にでもいいから、また兄妹で生まれ変わりたいってさ」
「……人殺しの罪は重いぞ」
絵師が淡々と言った。きっと承知の上だ。烏丸は、わかっていて弟の願いの方を叶えた。
きっとあの二人は、二人でいることが一番の幸せなのだろう。環境や、時代に関係なく。例え人間になれず、動物や虫に生まれ変わるという業を背負っても。
それは二人きりの世界で二人だけが味わえる、普遍の幸福なのだ。
「……どうするんだ」
何だか大事に取っておいたカスタードプリンのカラメル部分をぺろりと食べられたような気持ちになって、智也が憮然とした声で言った。
「何が」
「お前……姉に『弟はあの世に届けてやる』なんて偉そうに啖呵切ってたくせに」
責めるような口調になってしまったが、長い付き合いだからわかる。烏丸は善人ではない。世論や理屈や道徳などで、この男を動かすことはできない。憐れな魂が望んだ場所へ、一番心地いい形に進む方を、無責任に選択するのが烏丸忠則という男なのだから。
烏丸はチェシャ猫のように笑って、大げさに肩を竦めながら言った。
「大人は嘘をつくんだよ」
死に装束を連想させる入り口も、二昔前の喫茶店を思わせるカウンターの公衆電話も。店内を飾るドライフラワーのいびつさも、そこだけ違和感を覚える最新式のレジスターも。
寂れた場末のバーというより、閉店の決まった飲食店に侵入しているかのような、独特の埃っぽい空気を感じる。実は狐に化かされていて、昨日ここであった出来事はすべて幻だった。そう説明されても納得できるくらい、その空間の時は止まったままだった。
確信があったのは、トイレのドアに起きる霊現象にだけ、子供のいたずらのような可愛げがあったということ。
いや、そもそもこの店の霊障にはすべて、悪意などどこにもなかった。客をささやかな嫌がらせで追い返し、ここに自分がいるということを、唯一動かせるつくりであるトイレの鍵を使って知らしめる。すべては、姉にその存在訴えるための苦肉の策で、全力で寂しさを伝えようとしている弟の悲痛な叫びでもあった。
カタン。圭吾がドアに近づいただけで、鍵の外れた音がする。ギィ、と錆びた音を立てて、木製のドアがゆっくりと開いた。民家をお店に改造しているので、トイレとは言っても、二、三個室を常備している一般的な飲食店のそれとは違う。ドアノブカバーには、古めかしいチェックのデザインが施されており、その扉を開けたらすぐに洋式の便座が視界に入る。生成色の、一回り小さいそれにはウォッシュレットなどという気の利いたものはついておらず、付属品は大、小のわかりやすい方向が記されたレバーがひとつだけ。便座は一段上に設けられており、そこを利用するなら、タイルで貼られた床に足を踏み入れる必要がある。一歩歩くだけでカランと音がなりそうな便所スリッパが目に入ったが、どうやら使う必要はなさそうだった。
透明なラップをぐしゃりと歪めた時のように、空気に僅かな歪みが走る。
圭吾は待った。それはきっと、待っていれば形を持つものだと知っていたから。
〝……お兄ちゃん、僕が見えるの?〟
歪みは、まるで圭吾が捏ねたり伸ばしたりでもしたかのように、目の前で徐々にシルエットを作り出す。そうして、ボロボロの布切れを纏った儚げな少年が目の前に現れた。
「見えるよ。半透明だけど」
少年は、小さな手で顔を覆って、その場で崩れるようにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
幽霊相手に間の抜けた質問だなと思ったが、少年は小さく首を縦に振った。
〝お姉ちゃんには、僕が見えないの……ううん、見えてても、知らんぷりしてるのかもしれない〟
「どうして?」
〝僕が、死んじゃったから〟
細い肩は、僅かに震えていた。
〝お姉ちゃん、風車持ってきてくれるって、約束してくれたのに。僕が、お姉ちゃんを待たずに、死んじゃったから〟
感情に言葉が追いつかず、必死に食らいつきながら話しているという印象だった。クリアファイルのように文字通り透き通ったその肌を見遣り、圭吾は彼が半透明であることから推測される死因を改めて思い返していた。
「殺されたのか」
〝ううん……お腹が空きすぎて、死んじゃったの〟
緩く首を振って、少年は答えた。
〝僕が神様へのいけにえに選ばれて、あの池に縛り付けられてから、何にも食べてなくて……でも、僕が死んだってわかりにくい死に方をしたから、神主様が、僕の首をみんなの前ではねたの。お姉ちゃんは、ちょうどその後に来たから、僕が殺されたと思ったみたい。それで、みんなを呪って死んじゃって、今も苦しんでるから……僕は殺されたんじゃないって、教えてあげないと〟
「殺されたようなもんじゃないか」
シナプスを経由せずに、思わず口から言葉が出てしまった。きちんと思考を巡らせていたら、もう少し歯に衣着せた言い方ができたのかもしれない。けれど、何もかも後のまつりだ。
圭吾は静かに、青色に変化したとろ火のような怒りと向き合っていた。
「君は、よってたかって殺されたんだよ」
生きる意志のあった者から食事と寝床を奪い、太陽が照りつける乾いた池の真ん中磔にしておいて、殺すつもりがなかっただなんて無理がある。最初から、その村の人々は自身の安寧のために子供の命を金のように支払い、あわよくばお釣りを手に入れようと画策していた。
「君は、誰かを恨んだっていい死に方をしたんだ……」
それは、圭吾がもしまっとうな大人であれば、間違いなくわざわざくちにしなかったであろう言葉だ。痛みをわかったような顔で寄り添うつもりもなかったが、胃袋ごとひっくり返りそうな程煮え滾る感情が、肺をも焼き尽くさんばかりに圭吾の腹の中で蠢いている。
どこから溢れてきたのかもわからない頬を静かに伝う涙に、恐る恐る触れた手はひんやりとしていた。
死んでしまった彼の、小さくて儚い指だった。
〝他の子に、それをやってたの……止められなかった。僕の番になったからって、誰かが悪者になったりしないよ〟
圭吾は、ぐっと息を殺した。まるで大人のような声で、何ひとつ恨みもせず、こんなふうに笑う誰かのことを思い出したから。
〝僕は、お姉ちゃんを助けたい。それが叶うなら、他に何もいらない〟
凛とした声でそう告げる少年の頭を、柔らかく撫でる。
あの人ならきっと、こんなところで悲しみに足を止めたりはしない。できることがあるかもしれないなら、今――動くべきだ。
「……お姉さんは、どこに?」
〝多分、池の方……昨日雨が降ったから、様子を見に行ってるんだと思う〟
「わかった」
小さな手をしっかりと握り、圭吾は改めて目を閉じた。理不尽で何ひとつ納得のいかない過去も、昇華しきれない怒りも。すべてここへ置いてゆくと決めた。
連綿と連なる木々が、所狭しと好き放題生い茂る根の袂にその池はあった。
恭介がその一部を血で囲い簡略的に作った結界は、昨晩局所的な雨に見舞われたにも関わらず、綺麗に残っていた。池には、池と呼ぶことができる程度の雨水が溜まっていた。雨量の割にあまり水嵩がないのは、よほど土が乾いていたからなのだろう。
池の傍らに跪き、粘度の高くなった土に触れた。わかりにくいが、一部だけ少し盛り上がっている。指で穿るようにして探ると、中から布の欠片のようなものが見えた。
それは、はるか昔に何かしらの形を持っていた、けれど今は朽ち果ててしまった布製の玩具と推測できる欠片だった。
「触らないで」
まるで、切っ先をすらりと喉元に向けられたような声が鼓膜に響く。不躾に敵意をぶつけられるのには慣れていた。恭介は親指と人差し指の腹を擦り合わせて、泥土を落とす。
琴線に、触れてしまったのだと思った。
「警戒されるってことは、やっぱりここに呪具があるんだな」
「ずかずかと踏み込んで欲しくないだけよ。そこには弟が眠っているから」
「眠っているのは弟だけじゃない」
「……何が言いたいの?」
うんざりとした声で、女が髪をかきあげた。その隙に、恭介はちらりとその顔を見遣る。とり憑いている期間が長いのか、半分程別人格の形相だった筈のそれは、表情筋をすべて削ぎ落としたかのように無になっていた。
このままじゃ駄目だ、という焦りが背中を這い上がった。悪霊に乗っ取られたこの人を、助けることさえも難しくなる。
「……たくさんの子供が、被害にあった」
「私達が、特別不幸じゃないって? 皆が味わった悲劇だから、等しく許せっていうの?」
狂ったように、女が笑った。口元は緩まないまま、金切り声に近い、酷く不快な声だけが響く。
恭介は真顔のまま口を開いた。
「あんたのためだ」
使い回された、安っぽい台詞。今どき、刑事ドラマで犯人を説得するシーンにだって起用されないだろう。女は、冷めた目で恭介を睨めつけた。それでも恭介は後ろに下がらなかった。
「許せないって気持ちは、怒りに直結する。怒りって、何か知ってるか? 地獄で味わう苦痛のひとつだ。誰かを憎んで、怒りを覚えた瞬間、それは地獄の入り口に立ってるのと同じだ。あんたはずっと、ひとりで地獄の中にいるんだ」
「つまらない理論ね」
「何かを憎んでいる間は、本人だって苦しい。あんたがそれを捨てない限り、地獄は続くし、弟にも会えない」
ピクリ、と女が止まった。ビードロみたいな無機質な瞳に、僅かに光が走る。
「何言ってるの……?」
「ずっと傍にいるのに、あんたは気づいてないんだ。恨みつらみは目を曇らせる。一番近くにいる大事なものが、見えなくなるんだ」
「適当なこと言わないで!」
ビリリ、と鼓膜が揺れる。無表情の女が、レコードを爪で引っ掻いたような声で泣き叫んだ。
「弟は死んだのよ! この池で! 馬鹿な大人の身勝手で殺されたの! 積もり積もった怨霊に飲まれて、魂だって浮いちゃこないわ! 生贄を捧げ続けないと、この土地の呪いから、弟の魂を助けることなんかできないのよっ……!」
「先輩!」
胸ぐらを掴まれ女の訴えを聞いている最中、待ち焦がれた彼が現れた。その右手は、幼い子供の手を握っているのだろう。恭介には見えないけれど、腰より下の位置に、卵一個分程の空間をあけた形で何かを捕まえている。
チカ、と池の表面に光が走った。水面に映るそれを見て、恭介はゆっくり息をつく。
「しの」
名前を呼ばれて、圭吾は僅かに頷いた。長くはないが、それなりに傍にいたからわかる。
恭介には、おそらく切り札がある。
確証など何もなかったが、圭吾は上司の戦略に委ねることにした。
「もし、血が止まらなかったらさ」
ぐ、と腹に力を込めて、恭介がニヤリと笑う。
「お前が焼いてくれよ」
「先輩……っ!」
テーピングの一部が剥がれているガーゼを毟り取り、腹に爪を立てて塞がりかけていた傷口を破った。じゅくじゅくと溢れる血液は徐々に夥しい量になり、池へぼたぼたと落ちる。
瞬間、濁っていた水面が透き通り、朝日を浴びた海のように美しく光り輝いた。
恭介の血液には浄化の作用がある。いつだったか烏丸が言っていたことを思い出した。その効果を利用して、妹に取り憑いた邪霊を体内に取り込み、浄霊を行うことで土屋の家でどうにか居場所を守り続けているということも。
昨日だってそうだ。その血液で囲った場所は、まるで神域のように清く守られていた。
恭介は、おそらくその力で、池の怨念の一部を浄化したのだ。
眩しさに閉じてしまいそうになった目を圭吾が必死で凝らすと、池の中に人の影が見えた。
繋がった、と圭吾は気づいた。
この山は結界で覆われている。何かしらの歪みや隙間を作らなければ、外部からの侵入は難しい。けれど恭介の血液によって一箇所だけ極端に浄化されたことで、今そこに歪みが出来たのだ――避難通路のような、か細い一本道が。
何かしら文句を喚き散らしながらその影は、絵の具で下書きに色をのせてゆくみたいに、少しずつその輪郭を現した。ゆらり。大きく池が波打ち、やがて水族館のイルカショーでよく見たような水しぶきが起きて、誰かが飛び出した。
「無茶するなっつったろーが! クソガキが!」
「智也さん……!?」
初対面であれば間違いなく尻込みしそうな勢いで悪態をつきながら現れたのは、かつて烏丸の手によって誘拐された恭介奪還の折に一度だけ会ったことがある――敵なのか味方なのかよくわからないが、とりあえず烏丸を目の敵にしているということだけは理解できた――彼だった。飛び出した勢いでゴロゴロと地面に転がった後、膝をついて自力でブレーキを掛ける。口の中に入っただろう藻を吐き捨てて、ぐい、と口元を手首で乱暴に拭った。よく見ればその両手足は傷だらけで、あちこちにできた切り傷の多くには血も滲んでいる。ボロボロの着物の表面についている何かがキラキラ輝いており、キュービックジルコニアなどのイミテーションジュエリーを思わせたが、よくよく見れば粉々になった硝子の破片だった。
「お前、いざとなったら思い切りがすごいな」
「恭介!」
間をあけず、後を追うように二人の大人が池から現れた。ぺったりと体に貼り付く長い髪をかきあげて、カラフルな絵の具で彩られたそれを結び直している男――だか女だかぱっと見では判別しにくい方――は初対面だったが、顔面蒼白になっている切れ長一重の金髪野郎とは面識があった。ゼロコンマの瞬発力で倒れている恭介に駆け寄り、これまたジャケットを手品のように素早く脱ぎ、その体に優しく掛ける。どう楽観的に見ても決して浅くはない傷口からどくどくと流れる血に顔を顰め、ギリ、という音がこちらまで聞こえてくるんじゃないかと思う程に歯を食いしばった。
「……いろいろ、思うところはあるが」
「はい」
烏丸の指示に従わず、二人でどうにかしようとして、この有様だ。叱られる準備はとうにしていたので、圭吾は素直に次の言葉を待った。
「俺が、大人げなかったのが元凶だ。やらなきゃいけないことがあるから、恭介を頼む」
「烏丸さん……」
そう言い置いて、烏丸はすぐ恭介のもとを離れた。
もう、振り向きもしなかった。未練など残してしまっては、いつまでたってもその場所から動くことはできないとわかっていたから。
粉々になった金魚鉢の近くで、二匹のまだら模様のそれが、苦しそうに喘いでいる。肩を大きく上下に揺らしながら、智也は僅かに思案した。
「可哀想だな」
絵師は憐れむような言葉を発し、懐から一枚の紙と筆を取り出して、サカサカと何かを描きなぐった。描かれた水墨画の絵に金魚をのせ、仕上げに、自身の首を引っ掻いて簡易的に血液を採取し、絵の上に垂らす。じわじわと金魚が絵の中に溶け込み、やがて金魚鉢の中を泳ぐ二匹の金魚の絵になった。
「一時期的に俺が保管してやるよ」
「……お前はいくつ隠し芸を持ってるんだよ」
金魚の無事が保証されたのを見届け、智也は改めて自身の惨状を見遣る。切り傷は池の水が滲みてあちこち痛いし、粉砕された硝子の破片は、ボロ布と化した着物に、スパンコールのようにへばりついている。それでもしっかり抱えて離さなかったそれが無事であることに、ほっと息を付く。気を抜くと笑ってしまいそうな膝にぐっと力を込めて、智也はそれを、壊してしまわぬよう優しく握った。
日が傾いている。山の夕暮れは思いの外早い。逢魔が時に飲み込まれかけているその空間に、約束を果たすべき子供はいた。
成人男性の自分を視界に入れた途端不安そうに怯えるその姿は、ろくな大人に出会ってこなかったことが原因だろう。
(ごめんな。俺だってろくな大人じゃないけど)
――約束くらいは果たせるんだよ。
もたつく足を前に動かし、近づき過ぎない位置で膝をつく。
「……お前の、姉ちゃんから預かった」
左手は、掌を上にして地べたに置いた。武器も悪意も隠し持っていないことを、証明する必要があった。
約束のそれを握っていた右手を、子供の目の前に翳す。緩やかな夕凪が、ボロボロの羽をカラカラ、カラと回した。
〝かざ、ぐるま……〟
「これを渡してやれなかったことが、心残りだったんだ。受け取ってやってくれ」
弾けるようにして、子供が駆け寄ってきた。智也の右手に縋りつき、その玩具に触れる。
〝あ……ああ……〟
ささくれ立った柄の古い木も。味噌汁を零してしまった時にできた、てっぺんの羽の茶色い染みも。姉の一番お気に入りだった着物を切って飾った、左下の羽も。その重さのせいで、少しぎこちなく回るその動きも。
〝お姉ちゃんの、風車だ……〟
弟が、泣き出しそうな顔で笑った。空気の一部が歪んで光り、子供の体を包み込む。
その瞬間、女が弾けたように顔をあげた。
「どうして……」
〝お姉ちゃん!〟
女が、たった今歩くことを覚えた小鹿のように、ふらふらと覚束無い足取りで弟に近づいた。まるで触れてしまった途端弾けて消えてしまうシャボン玉のように、震える指をゆっくりと伸ばして弟の形を確かめる。
「今まで、どこにいたのよ……! ずっと……ずっと探していたのよ……!!」
〝ごめんね、お姉ちゃん……でも僕、ずっと近くにいたよ〟
「……っ」
〝お姉ちゃんに、見つけてもらえて嬉しい……〟
喉が潰れそうな声をあげて、女はその場で泣きじゃくった。会えて良かったと、素直に智也は思った。
心残りがあるのとないのとでは、大きな違いがある。
たとえ――これが長くは続かない、儚い瞬間だとしても。
「そこまでだ」
烏丸の声はシビアだった。悍ましい程冷徹で、氷をひしゃげてできた残骸のように色がなかった。
(そうだよ。お前はそれで良い)
「罪には罰がついてくる。須くだ。言っていることはわかるな?」
女は一度、強く弟を抱きしめてから言った。
「わかっています……」
「弟は、このまま俺が浄霊をする。まっすぐにあの世へ連れて行ってやるから安心しろ。だがあんたは、罪のない人間を三度、自殺に追い込んでる。殺したとまでは言わないが、明確な意図があった。たとえ法で裁けなくても、あらゆる罪には重さがある」
烏丸は温度を感じさせない声で、シンプルに事実を伝える。
「あんたの魂は重たい。弟と一緒に、上にあげることはできない」
「……」
女は、静かに事実を受け止め頷いた。
カラカラ、カラ。
歪な音を立てて、風車が風に踊る。
弟は俯き、小さな手で姉の服をぎゅうっと掴んだ。
まるで、その時が近づいていることを悟っているかのように。
「……随分、聞き分けが良いんだな」
烏丸が言った。嫌味のように聞こえるが、言葉通りの棘はあまり感じられない声だった。
「ずっと、地獄にいたのね……」
絶対に、忘れないでいようと思っていた。腹を焦がすような怒りも、理不尽に使い捨てられたことへの恨みも。
けれど、途中からその感情は、どこへぶつけるべきものか分からなくなっていた。恨みの対象はもうこの世にはいないし、守りたかった筈の弟も見失ってしまった。最早、許さないという気持ちからの怒りは熱を失い、薪を食い尽くした炎は弱り、腹が立っているということを忘れないために、自身を焚き付ける必要があった。
気づかないうちにその魂は火傷まみれになっており、あちこちにできたケロイドが、じくじくと痛んだがやめられなかった。
これだけ怪我をしたのだから、今更間違っていたなんて――認めることが怖かったのだ。
「お兄ちゃん」
女が、か弱い声で智也を呼んだ。
智也は立ち上がりかけて、結局その場から動かなかった。女に取り憑いている姉の年齢を思い出したのだ。子供が相手なら、視線は近いままの方が怖がらせずに済むような気がした。
「約束を、守ってくれてありがとう……」
引きちぎれてしまいそうな声だった。
智也は、つられて泣きそうになり下唇を噛む。本当に、それ以上をことを願いもしていなかった、無欲な子供の言葉だった。
女は、烏丸の方に向き直り、深々と頭を下げる。
「弟を、頼みます……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
女の顔がどろりと形を変えた。夏に出しっぱなしにしていたアイスクリームのように、その体から抜けた魂は徐々に液体へと崩れてゆく。弟は二歩、三歩姉へと近づき、姉だったそれが、池に融けるまでをじっと見届けていた。その瞳は、宇宙のように静かだった。
太陽が、大きな口を持つ怪物に飲み込まれたみたいに、一瞬にして辺りは夕闇に覆い尽くされる。
弟は、ゆっくりと振り向き、烏丸にだけ聞こえる小さな声で何事かを言っているようだった。
「……お前は、それでいいんだな」
弟は、花が開いたように笑った。それが答えだった。
懐から札を取り出し、掴んだ指に霊力を込める。オレンジとピンクをぐるりとかき混ぜたような淡い光が放たれ、弟の体を包み込んだ。
その光ごと闇夜に閉じ込めるみたいに突如、弟の体は忽然と消えてしまった。
残された風車が、烏丸の足元に転がっている。
「……彼は何て?」
抜け殻になった女の体を抱き起こしながら、ついでのように絵師が聞いた。その体は温かく、指先だけ氷水に突っ込んだかのように凍えきっている。呼吸は浅く、明らかに衰弱しており顔色も悪かったが、悪霊の魂は抜けきっているようだった。侵され続けた心身にしばらく疲れは残るだろうが、何日か養生すればそれも回復するだろう。
烏丸は、チベットスナギツネのように目を細め、闇に飲まれた池の畔をしばらく眺めていた。
「姉と一緒が良いんだと」
ぽつりと、質問への答えが返された。
「何ひとつ悪さをせず、誰も恨まなかったという大きな徳を抱えてどこぞの金持ちの子供に生まれ変わるより、姉の罪を一緒に背負い、その徳をこの池の怨念や姉の罪の浄化に使って、何千年先にでもいいから、また兄妹で生まれ変わりたいってさ」
「……人殺しの罪は重いぞ」
絵師が淡々と言った。きっと承知の上だ。烏丸は、わかっていて弟の願いの方を叶えた。
きっとあの二人は、二人でいることが一番の幸せなのだろう。環境や、時代に関係なく。例え人間になれず、動物や虫に生まれ変わるという業を背負っても。
それは二人きりの世界で二人だけが味わえる、普遍の幸福なのだ。
「……どうするんだ」
何だか大事に取っておいたカスタードプリンのカラメル部分をぺろりと食べられたような気持ちになって、智也が憮然とした声で言った。
「何が」
「お前……姉に『弟はあの世に届けてやる』なんて偉そうに啖呵切ってたくせに」
責めるような口調になってしまったが、長い付き合いだからわかる。烏丸は善人ではない。世論や理屈や道徳などで、この男を動かすことはできない。憐れな魂が望んだ場所へ、一番心地いい形に進む方を、無責任に選択するのが烏丸忠則という男なのだから。
烏丸はチェシャ猫のように笑って、大げさに肩を竦めながら言った。
「大人は嘘をつくんだよ」
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