恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンチノック・スターチスの誤算

20.

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 黄色と紫と黒色をぐちゃぐちゃに混ぜて煮込んだら、きっとこんな色になるかもしれない。目がチカチカする程の違和感と不快感。相反する色たちは、一体化しろと力技でかき混ぜられても泥にしかならない。目の前に広がる彩りは、その事実を証明するかのような色だった。
 そういえば絵の具の全色を、均等にパレットに出して混ぜたら黒になるんだっけ。いつだったか、美術の時間に先生に教えられたことをふいに鳴海は思い出した。思い出したが、それだけだった。いくら見た目が黒に近いからって、それは限りなく黒に似ているだけの、別の何かだ。この世の黒は黒でしかない。鳴海にとっての唯一が、彼以外にあり得ないのと同じように。
 混ざりきらなかった絵の具の一部が、目の前で跳ねる。まるで生き物みたいに互いにぶつかり合いながら、混沌とした世界を創っていたその色彩は、ゆるゆると透明になっていった。穏やかな視界になったのは一瞬で、夜明けの太陽が水平線を染めるように、強烈なオレンジが鳴海の眼球を刺す。
 目を細めたが、閉じはしなかった。一瞬だって、隙を見せるつもりはない。鳴海は既に戦闘モードだった。
 世界が強烈な暖色に飲み込まれた直後、ぐらりと体が傾いた。まるで徐々に組み立てられるジグソーパズルのように、黒のピースがひとつずつ繋がりながら闇を作る。体重を預けられる場所はどこにもなく、鳴海の体は宇宙空間のように無責任な黒の世界に放り出された。
 あちこちが、気が遠くなるほどの漆黒で埋め尽くされていたが、不思議と怖くはなかった。確実に座る場所のある畳の上で、襖に隔たれた世界で、決して手の届かない絵の中に入ってしまった想い人を恨んで蹲っていた時より、ずっとマシだったから。
 最後のピースが嵌った瞬間、足元から絵の具を筆で走らせているかのように、荒々しいスピードで彩りが生まれた。描かれたその世界には、古めかしい長屋の二間が広がっている。襖を外し、元々二部屋あったのを一つに繋いでいるのだろう。花婿と花嫁が行儀良く着席している座布団の前に、鮮やかな朱色の盃が用意されている。サッカーボールのように蹴っ飛ばしてやりたくなったが、それより何より、しなければならないことがある。鳴海は両足を前後に揺らし、反動で勢いをつけ件の部屋に飛び込んだ。
〝どうして……〟
 咲だとかいう女が、驚いた顔で鳴海を見た。
 私服の時は地味な印象だったが、白無垢は却って素朴な顔立ちの方が映えるらしい。腹立たしい程美しく化粧を施されたその顔を一瞥してから、隣に座る男にすぐ視線を移す。程良い筋肉と骨格で精密機械に製造されたのかとでも思えるような、絶妙な肉づきと美しく靭やかな骨格の上から、漆黒の紋付袴を身にまとっていた。
 怒っているのだと鳴海が主張する前に、いかにも鹿爪らしい顔でじろりと睨めつけられる。言うことを聞かなかった飼い犬を躾けるような視線だった。
 鳴海は腕を組んで、改めて件の二人を見下ろす。華やかな睫毛の奥に潜む大きな瞳は闇に濁り、常人ならば裸足で逃げたくなる程の眼力だった。

「君の思いどおりにはならないよ」

 言ってやりたいことは山程あったしいろいろ考えもしたが、選択したのはシンプルな言葉だった。
 咲の肩がピクリと動く。白粉の塗りたくられた顔が、僅かに強張ったように見えた。
〝どういう意味だよ〟
 固まって何も言わない咲の代わりに、一之進が鳴海を問い詰める。無意識に新妻を守る夫のような彼の行動は鳴海の心に大いなる引っかき傷を作ったが、長居していられない空間で後回しにできそうな喧嘩に時間を割きたくはない。新郎新婦然とした二人を早々に引き剥がして、願わくば一之進と手を繋いで二人きり、さっさと元の世界に戻るという崇高で気高い目標の前では、あらゆる鳴海の感情は些末であり、逐一構ってやる程の価値もなかった。
 鳴海は、両手を背中に回して指を組む。背筋を正し、講釈を垂れる実業家の開いた講演会ように、畳の上をゆっくりと歩きながら改めて咲に確認をした。
「あの山に閉じ込められている悲運の婚約者をむかさりに描いてほしい……っていうのが君の描いた筋書きだったっけ? この子だろうな、っていうあたりはついたけど、せいぜい五~六才くらいだったみたいだよ。昔は成人も結婚も今より早かったとは思うけど、あんな子供と婚約者だなんて、ちょっと無理があるんじゃないかな。勿論、性的嗜好は本人の自由だし、君がペドフィリアなら俺の口出すことじゃないけど」
 鳴海は肩を竦め、美しく笑った。
 濁った水の上辺だけを切り取ったような、薄っぺらな笑みだった。
「違うよね?」
〝……どうしてよ〟
「いたいけな少年の顔が、いちくんとそっくりだなんて笑っちゃうよ!」
 手を叩きそうな勢いで、明るく吐き捨てる。それは咲の仕掛けた三文芝居に送られた、野次のような言葉だった。
「君が誰に当てこすりしたってどうでもいいけど、俺の大事な人を巻き込まないで」
 その声は冷たく、深海に届く僅かな光のように薄暗い。
 追い詰められた小動物が毛を逆立てて威嚇する時は、もしかしたらこんな心情なのかもしれない。この男には、咲の企てた身を守る術も嘘も、何ひとつ通じない。咲は怖気づきそうな気持ちを奮い立たせ、わなわなと震える唇を噛んでから口を開いた。

〝……優しい、人だったのよ〟

 それは、綿を無理矢理引きちぎっているかのように、ぎすぎすとした声だった。
〝霊現象のせいでバーの売上が落ちてるって、店長からの依頼がきて……生活にも困ってるかもしれないって、すぐに飛んで行ったわ。思いもしなかったのよ。その依頼が、実は建前だったなんて……結局彼は、本当に霊能力がある人を見極めるための篩にかけられて、それにしたばっかりに……見ず知らずの死んだ弟の、弔いなんかのために消化されたのよ〟
「殺されちゃったの?」
 心の底からどうでも良かったが、ある程度話を聞いてあげなければ先に進みそうもない。鳴海は史上最低限の相槌と歴代最短で終わるだろう質疑応答だけ付き合う心づもりで雑に先を促した。
〝あの女は、直接手を掛けるなんて馬鹿なことはしない。その人が、一番つらいだろう瞬間の、未来を見せる力があるの。それを見て、絶望した彼が自ら死んだのよ……あの女に殺されたようなものだわ〟
「それって、半分は彼にも責任があるんじゃないの?」
 そうだよね殺されたようなものだよ! という同意を求められていることはわかっていた。そうやってこの場を収めた方が、或いは早くにこの話が終着したかもしれない。けれど鳴海の唇は、凡そ理想的であり聞こえの美しいそれらの賛同を発することはなかった。母に捨てられ、父親には便利な道具としかみられないという家庭環境の中で、自らを殺すという選択肢を選ばずに歯を食いしばって生きてきた友人を知っていたから。
 それは、簡単なことではなかった筈だ。死んでしまった赤の他人を責める権利など鳴海にはないが、致し方なかった道を流されるままに選んだ人間を、おためごかしに賛美することはできない。
〝あんたに、何がわかんのよ……!〟
「わかんないよ。でも、君にだってわからない。彼にとっての悪役は、君の悪役じゃない。公私混同で恨みをぶつけたって、そこに敵はいないし、何も倒せないよ」
〝だったら何なのよ!〟
 金属を爪で引っ掻いたような、聞くだけで鳥肌の立つ声だった。
〝彼の魂はもう、あの池の呪いに飲み込まれて浮いちゃこないわ! だったら私だって、あの女の大事なものを奪ってやるのよ! むかさりから出られなくなった弟の霊を想って、いつかの私みたいに嘆き悲しめばいいわ……!〟
 もとより、正論の通じる相手ではないことは重々承知していたので、鳴海は静かにその叫び声を受け止める。畳の目まで細かく描かれた空間は疑いようもなく本物の長屋に思えたが、よくよく見ると、水を染み込ませたように、何箇所か小さな滲みが広がっていた。
 新郎を完成まで描いていないこの作品の世界は、思うより歪で不安定なのかもしれない。最初に告げられたタイム・リミットの信憑性はほぼなくなった。時間はない、と考えて動いた方が賢明だ。
「……弟は、きっとここに来ないよ」
〝どうして、そんなこと言えるのよ……〟
「恭ちゃんが関わったから。あの人たちは、誰が相手でも全力で助けようとするもの。今頃成仏でもしてるんじゃないかな」
 ざっくり分類すれば打算的な男に区分されるだろう烏丸だとか圭吾だとかの約二名がいるが、結局のところその二人の判断基準ないし行動理念は、恭介を軸に回っている。彼がどうにかしたいと手を伸ばした先にあるものは、何のかんのと言いながら一緒に引き上げるお人好しなのだ。そんな彼らが関わったのであれば、呪いの池だって、悲運の姉弟だって、きっとどうにかするだろう。
「君の思いどおりにはならないよ」
 再三、鳴海が言った。全てにおいて鳴海の推測に他ならない言葉の数々だったが、実質、待てど暮らせど弟の霊はこの世界に召喚されていない。手の内がバレてしまったのなら尚更、咲の望んだ人物がキャンバスに描かれることはないだろう。
 だらり、と咲の肩から力が抜ける。まるで、彼女を突き動かし続けるためにエネルギーを注いでいた細い糸が、ぷつんと切れてしまった操り人形のように動かなくなった。
〝……信頼しているのね〟
「助けを求めて来たひとを、途中で見捨てたりしないって知ってるだけだよ。君のこともね」
〝私……?〟
「お人好しのいち君が君のことを助けようと思ってその手を取った以上、見なかった振りはできないってこと」
 鳴海は軽やかに笑って、一之進の方を見た。だよねいち君! と全力でその瞳が言っている。一之進は着ていた羽織を脱いで、咲の肩に掛けた。ピシリ、と鳴海がひび割れた氷のように凍てついた表情になったが、文句は言わずに只管耐える。何ひとつ愉快ではないこの時間を可及的速やかに終わらせるために、一之進がどの女の肩に羽織を掛けようが寛大な心でもって黙認し、一旦飲み込むことに徹すと決めたのだった。
〝元婚約者の名前と、生前住んでいた場所はわかるか?〟
〝……ええ〟
〝絵描きに伝えるよ。むかさりの絵、ちゃんと完成してもらおうぜ。生きている人間と死んだ者を描くことはタブーとされているが、あんたは〟
 言いかけて、その先を躊躇う。そういえば、咲がどのようにして亡くなったのかを、改めて聞いたことはなかった。
〝……馬鹿なことしたわ〟
 力なく、咲が笑う。
「そう思うよ。好きじゃないひとと結婚だなんて、絶対幸せになる訳ないじゃん」
〝そっちじゃねぇと思うぞ〟
 少なくとも、リシンクが間に合う某かを後悔している声ではなかった。

 それはもう、咲のものではなくなっている――今更どうしようもない、何かだ。

〝自殺した魂は、重たいって本当ね。ちっとも上にあがれる気がしないわ〟
〝命を落とした場所で、その死に様を何度も繰り返すって聞くからな。冥婚が終わった後に、二人が一緒にいられるかはわからねェけど〟
 一之進は柔らかな声で言った。他の人にそんなふうに話しかけないでよ、と鳴海が口を塞ぎたくなるくらいの、泣きたくなる程優しい声だった。
〝夢だったんだろ、婚約者との結婚。一番綺麗にしたその格好は、本当に好きな人に見てもらった方が良い〟
 大きく筆を走らせる音が耳を掠める。幻聴だろうかと鳴海が視線を音の方に投げた瞬間、くす玉の紐を引っこ抜いたかのように、真っ白の紙吹雪がその部屋一面を埋め尽くした。それらは魚の大群のように意志をもって大きな塊を作り、一之進の足元から包み込む。
 赤、緑、黄色、青、ピンク、そして、金色と銀色も少し。呆けている一之進の体から緩やかに色彩が奪われてゆき、真っ白の紙吹雪が少しずつ色を取り戻した。鳴海が手を伸ばし、色を失いかけた一之進の腕をぎゅうっと掴む。架け橋となったそこを伝って、鳴海の腕や足にも純白の紙吹雪が纏わりついた。癖のある髪にまだ黒色があるうちに、鳴海は優しく引き寄せて、その胸に抱きしめる。
「一之進」
 指先でこめかみに掛かる後れ毛を払い、耳にキスをするような近さで囁いた。
「帰るよ」
 それは、絶対服従以外の選択肢がない程の、圧倒的な声だった。


 なるほど似てなくはないな、とは絵師の初見の感想であった。
 封じ込められていた呪いの池から次々と開放された魂魄は、悲しいかな全てにおいて須く成仏できるという訳でもないらしい。己の手でその人生を終わらせた者の霊魂は、たとえ自身であれ人殺しの罪を持つ。その重たさは無常にも大きな足枷をとなり、最期に過ごしたその場所に引き戻されるのだ。
 その男が命を絶ったのは、どうやらこの池の畔らしい。寂しげな笑みを称えて、深々と頭を下げた。まだ一言も口を聞いていないが、優しい男だとわかる。
〝助けていただき、ありがとうございました〟
 礼儀正しく頭を下げられた。分度器で直接測った訳ではないが、目算でも九十度くらいは折り曲げていると思う。もとを正せば彼が原因でもないし、諸悪の根源ですらないが、自身の非を認め、迷惑を被ったであろう人間に躊躇いなく頭を下げることができる人種らしい。
 真っ直ぐに生きている清廉な魂こそ、簡単にぺしゃんこにされるだなんて嫌な世の中だ。絵師は、傍観者の立ち位置のままそう思った。
「あんたが、咲の婚約者だな」
 会釈のように頭を改めて下げ、男は柔和に笑った。それを肯定と受け取り、絵師は軽やかに筆を走らせる。
「咲から依頼を受けた。想い人とのむかさりを描いてくれと言われたんだ」
 手は止めず、視線も動かさずに絵師は告げた。
「俺は死者と生者のむかさりは描かない。言っていることはわかるな。咲は死んだ」
 木の実を搾ってそのまま紙に滲ませたような淡い色に、新たな絵具が載せられた。濃紺に、僅かな黒を混ぜ、パレットの端に出した紫と赤を掠めて光を作る。紋付き袴の黒は、グランドピアノのように美しい光りを作ることがある。花婿として完成させないために、敢えて描かずにいた白い無地の扇子。習わし通りに右手に持たせ、袴の結び目を十文字に描いた。
 画面を埋め尽くしてゆく新たな色が、新郎新婦の幸せな瞬間を縁取ってゆく。描くだけに留めていた招待客に、それぞれの魂魄を落とすと、薄暗かった二間の部屋は、宴会席のように明るい雰囲気へと変わった。レモンイエローにダークグレーを少し溶かして、新郎の頬の輪郭や手の甲に仕上げのハイライトを入れる。
「あんたの魂を、預かっても良いか」
 男は、顔をくしゃりと歪ませ目を伏せた。それでもしっかりと、その言葉に頷き返す。チェーンを手首に纏った右手を翳して、清らかな光を放つ彼の魂を飲み込んだ。暫く掌の上で馴染むのを待ってから、ダウジングのように絵の上へと手を翳す。菱形のアクセサリーが僅かに揺れ、その先端から極上の一滴がどろりと落ちた。
 現地で厳選したコーヒー豆を煎り、丁寧に焙煎してからフィルターに入れ、適温になるまで沸かしたお湯をとろりと注ぐ時の、高揚にも似た多幸感。絵師にとっての香しい匂いは、その色の放つ光沢であり、くすみでもあり、鮮やかさとその裏に潜む僅かな陰りでもあった。それらはすべて、その人の生きた証だ。こうして閉じ込めることで、見事な色彩になる。
 絵師は満足そうに笑んで、最後のそれを飲み込む瞬間を見届けた。
(――ああ)
 この世に、華やかな彩りはたくさんあるが、やはりひとの魂が一番美しい。
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