恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンチノック・スターチスの誤算

21.

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 白を基調とした壁にピッタリとくっつけられたオフホワイトの長椅子へ、うなだれるようにして体を預ける。背もたれ代わりに壁に凭れ、何とはなしに真っ白な廊下を隅から隅まで眺めた。
 医師の白衣や看護師の制服なども含め病院の色調に白が多いのは、清潔感や信頼感、そして僅かな威厳を患者に与えるためだとどこかで聞いたことがある。しかし改めて視界に入るそれらの膨張色は、圭吾の精神に良い影響を与えてくれる気配はなかった。
 輸血は間に合い、手当も済んだが、一向に目覚める気配のない想い人が、この白く冷たい壁を隔てた向こう側にいる。
 長い夜が、始まろうとしていた。

「圭吾!」
 姿勢を少しも動かさず床に描かれた中央線をぼんやりと見ていた圭吾の耳に、鈴を鳴らしたように軽やかな声が響いた。それを発した人間がどんな顔をしているのか、想像することがひどく容易い表情豊かな声だった。
「城脇……」
 トーンの明るい栗色の髪は、今日も変わらず宗教画の天使に描かれていても違和感がない程柔らかく美しい。少女と紛う愛らしい顔をばつが悪そうに歪め、その童顔からは想像しにくい長身を持て余すように、すとんと圭吾の隣に腰をおろした。
「そっちも大変だったみたいだね。事情はたっ君から聞いたけど、恭ちゃんは……」
「出血は多かったけど、命に別状はないらしい。今はゆっくり眠ってるよ」
 どのような言葉を選んだら不謹慎じゃない聞き方になるのか鳴海の中でささやかな会議が行われているうちに、圭吾が言葉尻を勝手に拾って答える。欲しかった情報を見事に当てはめた、模範解答のような報告だった。
「……そっか」
 鳴海は脚を組み替えて、そう返答するに留める。

 ――今回は、互いが互いの想い人のことで精一杯だった。

 たとえ命が無事だったとしても、無傷で済んだものなんかひとつもないし、結果手に入れたものへの薄暗い喜びや、失ったものへの拭えない執着もある。それらすべてをリアルタイムで共有できなかった友人に一片の誤解もなく打ち明けることは無理だったし、自分が無理だと思うことを相手に強要する趣味はない。世の中に溢れる個々にはそれぞれ、その人なりの考え方や価値観、判断基準があり、それら全ての中枢はもれなく個人的な感情へと紐付いている。
 引きちぎって無理につなぎ合うくらいなら、寄り添うだけでも構わない。最低限の安否さえ確認できれば十分だった。後のことは、圭吾と恭介の二人がわかちあえばそれで良い。
「お前こそ、大丈夫なのか?」
「何が」
 膝に抱えたマシュマロみたいに形の定まらないリュックに頬杖をついた姿勢のまま、鳴海はパチパチと瞬きをした。今回、身体的には唯一無傷でいられたメンバーは鳴海のみだったので、何の無事について確認されているのかがわからないらしい。
「仮にとはいえ、むかさりの中に入ったんだろ。おかしなところはどこもないのか」
「あー! それか!」
「それかって、お前な‥…」
「多分へーき。あの絵を描いてくれたひとのお陰だろうね。少し疲れたけど、何ともないよ」
 口でいくら言っても、猜疑心の塊であるところの圭吾を安心させることは難しい。とりあえず肩や手をぐるぐると動かして視覚的に問題がないということを伝えたが、圭吾から返ってきたのは、まったくもって伝え甲斐のないローテンションだった。
 一体何故こいつは突然手だの足だのを動かしているんだとでも言いたげな顔で、興味を失くしたテレビ番組のチャンネルを変える時のように、味気なく視線を逸らされる。
 何だよもう! と声をあげた鳴海のテンションにまったく付き合う素振りも見せず、圭吾は再び小麦粉を固めたみたいに真っ白な床へと視線を戻した。
 そこだけ切り取れば、まるで日常の一部のような空気だった――が、突如ひたり、と思考の裏側に悍ましい何かが張り付いて、圭吾の前頭葉がビリビリと戦慄く。
 場違いなほど明るい鳴海の声を聞いたのが、トリガーだったのかはわからない。あの時はそれどころじゃなかったから一旦後回しにしていたことが、不意に頭を擡げて圭吾の記憶中枢を揺さぶった。
「……なぁ」
「なぁに?」
 
 ――未来を見た。それ程遠くはない未来だ。

 成人を迎えることができた圭吾が、迎えることが叶わなかった二人の命を嘆いていた。恭介と、鳴海の命だ。
 恭介のそれは、呪いを解くのが間に合わなかったのが死因だったが、鳴海に関しては曖昧な部分が多い。恭介を助ける方法を調べていると、随分前に、玄関先で鳴海が言っていた時の記憶が断片的にリフレインされる。あの時もっと話を聞けば良かったと、大人の圭吾は言っていた。
 手掛かりはそれだけだったが、何をすれば良いのかは逆にわかりやすかった。しなかったことを後悔していた、というのはつまり――後悔そのものを潰せば間違いなく時間軸の行き先は変わる、ということだ。
「前に、先輩を助ける方法見つけたかもしれない、って言ってたよな」
「あー……」
 視線を反らしながら、鳴海が答えた。
 耕していない畑に突如種を撒かれたような、準備の整っていない声だった。
「あれ、具体的にどういう方法だったんだ」
「えー……それ聞いちゃう? まだしっかりと調べてないし、今聞くメリットないと思うんだけど」
「いいから」
 気乗りしない鳴海の声に、丸め込まれることもなく圭吾は食い下がった。
 知っていれば、守れるかもしれない。
 あの日のひび割れた後悔を、ひとつひとつ覆す必要があった。すべては、未来を変えるため。ルートを意図的に外さなければ、あの悲しい夏の日につながってしまうのだから。
「聞かせてくれ」
「……わかった」
 引かない圭吾の強い覚悟が伝わり、鳴海は膝の上に載せたリュックを抱え直す。
 こうなったら、この男はてこでも動かないことを知っている。確信がないうちは、余計な期待を持たせるのも酷だと思い黙っていたが、話さなければこの病院を出ることはおろか、待合室の椅子から立ち上がることさえ許してもらえないだろう。

 鳴海にはずっと、考えていたことがあった。

 けれどまだ、誰かに話したりはしていない。それは、改めて口にすることは憚るような、子供の思いつきのような発想だった。
「あのさ、恭ちゃんの呪いが向けられてるのがさ……寿命とかじゃなく、心臓そのものなら、用意しちゃえば良いんじゃないかなって」
「何を」
「心臓を」
「……は?」
 訪問客に出す茶菓子用のケーキが何かのように鳴海が軽々しく言うので、圭吾は一瞬聞き間違えたのかと思った。華やかな睫毛に飾られた大きな目が、酷く純粋な色を纏ってこちらをじっと見つめている。
 彼は、至って真面目な顔をしていた。
「心臓移植だよ」
 改めて、鳴海が言った。臓器に行為を表す単語がつくだけで、鳴海の言葉に生々しさが生まれる。
 圭吾は暫く押し黙った。鳴海の提案は、下処理もなしには飲み込めなかった。
「……先輩は別に、心臓に病気がある訳じゃない。健康そのものの心臓を取り出して、わざわざ別の心臓を移植することを承諾してくれる、まともな医者なんかいる訳ないだろ」
「それって」
 飲み込む前に並べた圭吾の御託を、鳴海の一言が薙ぎ払う。
「健康そのものの心臓を取り出して別の心臓を移植してくれる、まともじゃない医者が見つかれば良いってだけの話でしょ?」
 圭吾はひとり、混乱を極めていた。鳴海の口調はずっと明るい。放課後に、駅のホームで電車が来るまでの雑談を友人としているかのような、他意も打算も策略も、何もない声だった。
「……第一、今移植を必要としていて、順番を待っている患者がどれだけいると思ってるんだ? いくら口八丁に煙を巻いても、心臓に明確な疾患のない先輩の番なんて、三年以内に回ってくる訳がない」
 殊日本においては、登録されたドナーの数に対し、待機しているレシピエントの頭数はバランスが取れない程の大きな差がある。
 二つなくても健康上問題がない臓器が人間にはあるといくらその道の権威に諭されようと、好き好んで自身の健康な体から腎臓を、或いは脳が機能しなくったばかりの愛しい誰かの体から、何かをひとつ引っこ抜こうと考える人間は少ない。
いつ回ってくるかもわからないその末尾に名前を連ねて、期限のある心臓を交換しようだなんて得策とは思えなかった。
 何より。
「それなんだけどさ。海外は、日本より移植手術の数が多いらしいよ。何でも、死刑囚の心臓を、ドナーのストックに回してる国もあるみたい」
「城脇」

 何より、鳴海の様子がおかしい。

 心臓は、ひとつの命だ。それを一個二個と数えて、まるでパズルのピースをはめるように、空いている穴にそれらを使い、シンプルに埋めようとしている。
 圭吾は再度押し黙った。脳内で様々な要因や経緯を組み立てて眼の前の鳴海の価値観や結論に至るまでの過程を紐解こうとするが、どうしても繋がらなかった。
 表情はにこやかで、そこに悪意はない。
 彼は心から、友人を助けるための方法を提起しているのだ。
「本気で言っているのか」
 言外に、責めるようなニュアンスが含まれてしまったかもしれない。
 鳴海は、目を伏せて自身の足元を見る。おろしたてのスニーカーのように、真っ白な床には塵ひとつなかった。今この場所に広がっている手入れの行き届き過ぎたそれらは、恭介を監視し、道具のように長々と使うために大金を叩いて造られた施設だと改めて思い知る。
「……勿論、死刑囚だからって、さっさと殺して心臓を取り上げて良いなんて思ってないし。恭ちゃんの体の中に、得体の知れない殺人鬼の心臓が入るなんて嫌だけど……他に方法がなくて、本当にどうしようもなくなったら、選択肢に入れても良いんじゃないかなって、思っただけ」
 弱々しい声が、ぽつりと落とされた。さっきまでの場違いに明るいそれより、ずっと人間味があるように思える。
 詰めていた息を吐いて、圭吾は壁に預けていた背を擡げた。

 ――いつか。

 鳴海の言うように、不謹慎であれ何であれ、本当にそれしか方法がなければ、圭吾はその手段を選んでしまうのだろうなという予感もあった。
 自分はきっと、烏丸以上に恭介の「生」に執着がある。
 生きていれば構わない。
 その命を守るためになら、誰かの何かが略取されたって――極端な話をすれば、恭介の四肢欠損も厭わない程に――恭介が「生きている」という結果を手に入れ、守り続けることが最重要項目にのし上がっていた。
 彼が鼓動を刻み、意志を持って圭吾に微笑みかけることのできる世界が何よりも遵守されるべきで、その絶対的優先事項がある限り、この世の汎ゆる事象は常に排除或いは後回しにされる。圭吾の中に君臨し続けるその感情はおそろしく汚い色をしていて、何かにつけヘドロのように圭吾の両手両足に巻き付いてくる、意志を持った化け物みたいだった。いつだって、どう転ぶかわからない、正体の知れない危うさがある。
 その魔物はいずれ圭吾はおろか、恭介をもぺろりと飲み込んで、瞬く間に闇へと引きずり込むかもしれない。そんな、いつまでコントロール下に置けるのかもわからない感情を飼い慣らしている。
 鳴海が無邪気に渡してきた悍ましい提案を、いつか「選択肢」として手に取ってしまう未来が訪れるかもしれない――が、今はまだ、考えたくはなかった。

「案外、近くにいるかもしれないしね」
 続きがあったのか、鳴海がぽつりと呟いた。
「何が」
「理想的なドナーだよ」

 その瞬間、圭吾は思い出していた。
 そうだ、手がかりはひとつだけじゃない。厳密にいうなら、二つあった。大人になった圭吾の口から聞いていたのだ――鳴海は恭介を助けようとして失敗し、その命を落とした、とも。

「例えば俺とか? 俺だったら、うっかり死んじゃっても、いち君と同じ世界にいけるなら……まぁいっかなって、何だかんだ満足しちゃうと思うし」
 圭吾は漸く理解した。鳴海から欠落した感覚の正体を。
 鳴海は、命を蔑ろにしているから、心臓の数を数えたのではない。

 彼の中で生と死の、垣根がなくなったのだ。

「……冗談だよ。っていうかごめん、流石に不謹慎だったよね」
 的はずれなことを詫びて、鳴海がしおらしく笑う。
 彼の中であの世とこの世が、別世界ではなくなっていた。まるで隣近所に建てられた家か何かのように、境目がなくなっていることを改めて思い知る。
 きっかけは、一之進の冥婚騒動だろう。
 一之進はおそらく、鳴海がやけにならないようにと距離を置き、突き放すことでその恋を終わらせようとしたのだ。
 何よりも、鳴海の命を守るために。
 けれど皮肉にも、その行為が鳴海に残った最後の理性を削ぎ落とした。一般的な価値観や、世間的に好まれる模範解答。鳴海の中に残っていたそれらの優等生じみた考えは丸ごと消滅し、彼は本来進みたかった道と、大事にしたかったものに従順になった。
 結果、一之進が自分のもとを離れなければそれでいい。その結論に帰したのだ――圭吾にとっての優先順位が、恭介の命そのものであるように。

「冗談だよ」
 表情が強張ったままの圭吾を覗き込むようにして、念押しのように鳴海が言った。
 それは、あらゆる柵から解き放たれた軽やかな声だった。
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