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第三章 姉弟の願い
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俺は悩んだ。悩んで悩んで数日が過ぎた。ただ、数日が過ぎても、俺の思索に進展はなかった。あれやこれや考えては「いやないな」とボツにして振り出しに戻り、それを何度か繰り返すうち、ついには何も浮かばなくなった。早くも陥った思考の袋小路にて、進む先をなくしてしまった。
もちろん、俺をこんな風に悩ませるものは他でもない。先日、アリア先輩から仰せつかった宿題である。実のところ、予選の最終戦にて、華麗に俺を助け出したアリア先輩の素性についても大いに気になってはいるのだが、今は宿題の方が優先だ。
それは、じきに行われるゲームの決勝、願いを叶える権限を賭けた最後の戦いに際し、ミューを説得するというものだ。端的に言えば、ミューにも勝利を目指して一緒に戦ってほしいと頼むわけである。
確かに先日の様子を思うと、ソラとルナはまあいいとしても、ミューだけは素直に協力してくれそうにない感じであった。別れ際の彼女の放つ雰囲気には、何かいかようにも表現のし難い、複雑な心持ちが滲み出ているように思えた。こちらから何らかのアプローチをしない限り、事は望む方向には進展しないと思われる。
見たところアリア先輩は、頑なにチーム全員の結束を重要視している。もしミューが戦う俺たちを止めようとするのなら、先輩だってそれを無下にはしないだろう。もしそうなれば、決勝で勝ちを目指しにゆくという話自体、覆りかねない。
アリア先輩は言っていた。決勝は、南校が五人で立ち向かわなかったら、到底勝てない戦いだと。
今ならば俺も、そう思う。南校の次に人数が少ない東校相手ですら、俺一人で突っ込めばあのザマなのだ。以前の俺は、決勝のことはそのときに考えようなんて思っていたけれど、あれ以上の相手に単独で立ち向かう手段は皆無だと、今は思い知っていた。
ところでその相手についてだが、更新された端末のスケジュールには、西校と表記されていた。まあ、これは妥当な結果だと言える。西校は、現状では四校の中で最も多い、約二十の人員を有しているのだから。
つまり南校は、次の決勝の舞台で、実に戦力差四倍という強敵と対峙することになったのだ。
勝率は、極めて低い。南校がしっかりチームで連携し、満を持して挑んだとしても、当然のように負けは濃厚。勝利への道は、茨の道だ。
というわけであるからして、仮にアリア先輩の宿題がなかったとしても、ミューの説得は俺にとって、避けては通れないハードルだろう。頭数は少しでも多い方が良い。ミューの存在が戦力にどれだけ寄与するかはわからないが、いないよりはいる方がいい。これは事実だった。
しかし、浮かばない。いくら悩んでも、やはり案は浮かばない。何も浮かびやしないのだ。
俺の目的、銀杏の樹の広場を守るという願いのために協力してくれ。そう言って頭を下げたとしても、ミューが快く首を縦に振るさまは想像しにくい。なぜなら彼女は、個人の勝手な思惑で学校を変えてはならないと考えているからだ。正式な権限をもってしてもなお、それは良くないことだと彼女は主張するらしい。機械的で、杓子定規で、融通の利かない思考である。
だけれども、いくらクソ真面目な考えであれ、彼女の主張は正論だ。だからこそ論破するのは難しい。俺の願いが、一種のわがままであるという自覚も、もちろんあったから。
では、どうするのか。どうすればよいのか。
ロジカルに攻めるのは分が悪い。あの性格だし、逆にねじ伏せられかねない。ならばいっそ、ここはもう開き直って、真摯に懸命に、情に訴える熱弁を垂れるのはどうだろう。しかしそれはそれで、あの無愛想で無感動で無表情なミューの心を動かせるような文言は思いつかない。なおさら全く見当もつかないものだ。
女心と秋の空……をこの場合に思い浮かべるのは誤用だろうが、彼女の心が度し難いという意味では同様だ。それを推し量ることができない俺には、彼女の説得は荷が重いと感じざるを得ない。
あー……本当に、何かいい方法はないだろうか。せめてヒントだけでも、近くに落ちていてくれると助かるんだけど。
手詰まり過ぎて、叫びたくなる。頭の中を、思考がぐるぐると回る。ついでにミューも、ぐるぐる回る。俺も回る。回り続ける。
そうやって回る頭を必死に抱え続けたが、とうとうついに、何も進展がないまま決勝の当日を迎えるまでに至った。俺の思案は、全くもって至るべきところまで至ってはいないが、でも当日はやってきてしまった。
勝負本番を本日の夜に控え、ただいま時刻は三時過ぎ。午後の授業を順調にすっぽかし、俺はお気に入りの場所で、一本の大樹の幹を拠り所として腰掛けながら、秋の空を見上げている。
透明な空は、さきほど思考に上ったミューの心のようにミステリアスな色をして、紅に染まる兆候をほんのりと香らせた、境の曖昧な青と白のコントラストを描く。視界にちらつく扇の葉たちは、褪せ始めた色を寂しげに揺らして、傘のように俺を覆う。吹き抜ける冷涼な風が、わずかに髪を揺らして去っていく。
この小さく簡素な空間では、全てが調和し、芸術的なまでの隔離世界を形成していた。
ここにいると、俺はいっそう強く感じる。どうしてもこの場所を失いたくない。この場所を包み込む消滅の運命を、看過してしまいたくない。文化祭のあと、この場所がいよいよ消えてゆくという未来を、想像したくない。
文化祭がこの銀杏の樹との送別祭になるなんて、絶対に嫌だ。
そんなことを思ってしまうと、胸の片隅では妙に気持ちがざわついて、巡る不安が、背後からしっとりと絡みついてくる。まるで肺が微かに縮んだような息苦しさが、一雫の悲壮と寂寥をもたらしてくる。冷えた手で心臓を握られているように、怖くなる。
だから、俺は諦めたくない。失うなんて耐えられない。切れかかった命綱に縋り付いてでも、一縷の望みを追い続ける。今夜の決勝のために、南校が全力を出すことを考える。ミューを説得する術を考え続ける。
大切な銀杏の樹の存在を双肩に受けながら、俺はまた頭を回し始めた。
「さて……どーすりゃいーんですかねー」
零れた俺の呟きは、葉の擦れる音に混ざって、風でどこかに運ばれていく。そのゆく先を探るようにして、ゆっくりと視線を空から落とした。
澄んだ声音が耳をついたのは、そんなときだった。
「そうね。あなたはまず、ちゃんと授業に出るべきじゃないかしら」
背後からだった。俺は幹から背を離し、横へ乗り出すようにして声のする方向を見た。
「サボりもあんまり度が過ぎると、見逃してあげる気もなくなりそうよ」
視線の先、少し離れた通路の傍。立っていたのは、九条だった。
「あれ……サボり仲間」
「失礼なこと言うと今すぐ教室へ連れ帰るわよ。私は違うって前に話したでしょう」
俺が顔を見せると、九条は無表情で辛辣な言葉を放ち、近くの壁に立ったままもたれた。
互いの声だけがぎりぎり聞こえる絶妙な距離が、俺と彼女を隔てている。
「何かお悩み事? 普段から悩みなんてなさそうなのに」
「……お前もなかなか失礼だな」
「あら、ごめんなさい」
冷めた上辺だけの謝罪だ。謝る気なさ過ぎ。
俺は捻った身体を元に戻し、九条が視界の端に収まるように、改めて座り直した。
「なんなら相談に乗ってあげようか?」
「……相談? 九条が?」
「ええ、私が。テストで良い点が取りたいとか、彼女が欲しいとか。何でも結構よ」
「……何だよそれ。前者はまだいいとしても、もう一つの方は……」
九条なりの冗談のつもりだろうか。相変わらず無表情なのが気になるが。
そりゃあ確かに、彼女は頭が良いからテストの方は対応可能かもしれないけど、でも色恋沙汰の方は……どうかな。あんまり九条についてのそういう噂は聞かないし、それ以前に、俺が九条に対して彼女が欲しいと相談する絵面も、相当嫌だろう。
「何よ。経験はなくても知識はあるわよ。恋愛相談くらい簡単だわ」
経験ねーのかよ。じゃあダメだろ。
「いやあ……。ま、まあ、それはさておき。テストの点はそこまでひどくないし、彼女の方も間に合ってるから」
「彼女いないのに間に合ってるの?」
「るせーよほっとけ。別に彼女がいなくても、四六時中それで頭悩ませたりはしないんだ」
「ふうん、そうなんだ。じゃあ、何で悩んでるの?」
九条はあまり興味なさそうに、片手で反対の肘を抱えながら聞いてきた。
けれどもそこで、俺は思い直す。
この悩みは相談できない。夜な夜な学校で行われているあのゲームのことについては、関係者以外には口外無用だ。ミューの説得がどうのなんてこと、九条には言えない。
だいいち、ミューの件について九条の意見を参考にするなんて、それこそ俺が彼女に恋愛相談をしているみたいではないか。確かに相手は女だけれども、ちょっと……それはない。
だから俺は彼女の質問に対し、真実ではないが嘘でもない、当たり障りのない答えを返した。
「前にも話したことだよ。ここがなくなってしまうのを、どうにかできないものかなって」
対して九条は、テンポ良く反応する。
「あら、何か方法でも見つけたのかしら」
「…………」
鋭いな、と俺は思った。
九条は、俺のどの部分からこういう心情を読み取っているのだろう。まさか俺の頬が独りでに微笑んでいるわけでも、ひきつっているわけでもない。そこまでわかりやすい性格のつもりはないし、なるべく態度や表情には出さないようにしているのに。
俺が黙っていると、さらに彼女は続けた。どうやら否定するまでもなく、彼女は納得をしてしまったようであった。
「署名でも集めることにした?」
「まさか」
署名なぞ、既に却下された提案だ。一番合理的ではあるが、今回の件に関してはあまり現実的ではない。俺がここを好んでいることと、この場所の存続のために署名が集まることは、背反事項だ。決して同時に成立しない。
「じゃあたとえば、生徒会なんかよりももっと頼りになりそうな、秘密組織でも味方につけたとか。たとえばそこで、心強い協力者にでも出会ったとか。それこそあなたのお姉さんのような人なら、どんなことでもできてしまいそうよね」
なぜだろう。いつになく今日の九条は饒舌だ。俺の口よりも、三倍くらい軽やかに彼女の口は動いている。
俺はその事実に少しだけ違和感を覚えたが、しかしどちらかと言えばそれよりも、わざわざ実の姉が引き合いに出されたことの方へ意識がいった。何だ、嫌がらせかと。
そりゃあまあ、アリア先輩は優璃の後輩らしいし、だから師匠に似たんだろうけど。よもや九条の冗談が、意外にも事実に近かったのはおかしな話だ。
「……何かしら方法があったとしても、それで万事上手くいくことが保証されたわけじゃない。色々問題はあるんだよ」
九条の嫌味なギャグセンスに食いついて唇を尖らせてもよかったのだが、今回は、あまり露骨にするのはやめておいた。感づかれない程度の声量減衰に留める。
だが、なおも彼女は再三問うた。
「そうなの。たとえば頭の硬い厄介な同級生が、その先輩に反対してたりとか?」
そしてまた、違和感は膨れた。直前には注意を向け損ね、消えかけていた妙な引っ掛かりが、また現れたのだ。
はは、そうさ。確かにミューさえ上手く首肯させられれば、あとは正々堂々戦うだけなんだけどな。って、いや、さすがにおかしくないか。
九条がさきほどから、ずっと俺を見つめている。さらに、こちらがそれに気づいても、彼女はあからさまな正視をやめなかった。
当然、俺は訝しむ。
「九条……お前さっきからどうしたんだ? 珍しくよく喋るし、変なこと言って……」
俺がたまらず疑問を返すと、途端に九条はわざとらしく遮って言った。このときの彼女の言葉は、俺の耳に実によく通った。
「ねえ、だったら……私が頷けば、その問題とやらも少しは減るんじゃないのかしらね」
ああ、やはりおかしい。今日の九条はどうにもおかしい。やたらとこちらの内情を知っている気がしてならない。見覚えのある休息態勢で佇みながら、凛とした瞳で俺を射抜いている。
それは久しからず、どこかで感じた感覚だった。だからだろうか。一度認知してしまったら、逃れようもなく、彼女は別の彼女に重なった。
「…………もしかして、お前……」
九条は黙ったまま、視線だけで、何かを訴えかけてくる。
俺はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「……ミュー、なのか?」
答えはすぐに返ってきた。
「やっと気づいた? 随分と時間がかかったわね。今日、私の方は、初めからそのつもりであなたに会いにきたんだけど。名前は何だったかしらね。リフィア先輩の弟くん」
自分で聞いておきながら、そして予想通りの回答が返ってきたにも関わらず、俺は驚く他になかった。
九条が、ミュー? そのつもりで会いにきた? 本気で言っているのか。
必死に動揺を隠そうとするが、しかしどうしても、いくらか表情に表れざるを得ない。
確かに今思えば、両者はとてもよく似ている。背格好や口調もそっくりだし、雰囲気も近い。冷静に考えれば、ミューと九条が同一人物であるという事実を肯定する要素は数多あれど、否定する要素は一切ないように思えた。
そしてこれは、逆もまた然り。何かをきっかけとして、彼女には俺とレイがよく重なって見えたのかもしれない。彼女は頭が良い。俺が今になって気づいた事柄に、もっと早く気づいていた可能性は、十分にある。
……いつからだ? もしかして、最初から?
「私があなたを特定したのは、レイとしてのあなたが、権限を使ってこの場所を守りたいと言ったときからよ。まあ偉そうに言ったけれど、ほんの数日前ってことね。ともあれ私はもともと、椎名馨が同じ願いを抱いていることを知っていた。そんなことを願うのは、全校生徒を探してもあなたくらいのものよ。だから、レイの正体が椎名馨であることがわかったし、同時に椎名馨がリフィア先輩の弟であることもわかった。そしてついでに、リフィア先輩という人物が、あの椎名優璃であることもわかったわ」
俺が固まったままで思考を巡らせていると、九条はこちらの内心の疑問にすらすらと答えた。まるで心を読み取ったかのようだった。
「…………」
何か話そうとするのだが、如何せん頭がついてこない。何と開口したらいいのかわからない。
俺がゲームの参加者であることが知られている。そして姉である優璃も同様であったことを、九条は推察した。
あれ、正体って、ばれちゃいけないルールじゃなかったっけ。そして実はミューだとわかった彼女に対して、俺はどう振る舞えばいいのだろう。
ぐるぐるしていた頭が、混乱で余計にぐるぐるしてきた。
辺りには沈黙が落ちる。ただでさえ静かなこの場所が、さらに閑寂を上塗りしたように静まり返り、夕刻が近づいていっそう冷えた風だけが吹き付ける。秋に染まりかけた銀杏の葉が、鈴のような音を立てた。
そうして俺が黙っていると、彼女は一言、吹く風と同じくらい唐突に言った。
「協力、してあげるわよ」
単調に響く声音の意味が、すぐにはわからなかった。
「…………協力?」
やっとのことで捻り出した言葉は、情けなくもオウム返しだ。久しぶりに口が仕事をした気がする。しかし頭はまだ仕事をしない。
「そう、協力。あなたの願いを叶えるための、その協力。仲良しごっこが好きなアリア先輩率いる南校は、チーム全員が同意しないことをやろうとはしないわ。だから西校との決勝も、誰か一人でも首を横に振ったならば、真剣に勝ちを狙って戦うことはない。でも今回、アリア先輩本人は乗り気よね。もちろん、ソラとルナも言わずもがな。私さえ賛成すると言えば、南校はあなたのための戦いに本気になるでしょう。まあ、なったところで戦力なんて知れたものだけれど」
「ど、どうして……どうして協力しようと思う……?」
以前、アリア先輩が言っていた。ミューは風紀委員か何かでもやっているのかもしれないと。だが、違った。ミューは生徒会副会長だ。冷めた性格で妙に正義感ばかり強い、九条羽望だったというわけだ。九条は、ミューは、個人的な願いのため優勝権限を行使することに反対である。
その彼女が、どうして俺のわがままで勝手な願いに協力すると進んで言うのか、疑問でないはずがなかった。
「いえ、協力と言うよりは、邪魔をしないって感じかしらね。別に、私がいれば西校に対する勝率が大きく上がるわけでもないし」
「答えになってない。なら俺は、どうして邪魔をしないのかと聞き直すだけになる」
九条に俺を止める理由はあれど、後押しする理由などないはずだった。
俺の質問に対し、彼女は壁にもたれるのをやめ、スッと直立して答えた。
「私……あなたに興味があるのよ」
…………は?
さらりとと述べられた九条の言葉は、非常に突飛なものだった。俺はその、意外性溢れる発言に面食らう。
彼女は続けた。
「私はね、あなたと直接話す前から、あなたのことを知っていたの。もちろんあなたのお姉さんが有名だからってのもあったけれど、でもそれはまた、別の話。私はあなたと知り合うもっと前から、そこに座るあなたを見たことがあった」
彼女は淡々と語る。俺を見て。それ以外、目立った動きは一切ない。呼吸や瞬きまで、やめてしまったのかと疑うほどだ。
そんな風に見つめられ、俺は自然と顔を逸らしてしまう。
「見たことがあったって……ああ、あの渡り廊下からか」
「そう。私はよくあそこを通るもの」
ごまかすつもりで俺がその渡り廊下の方を眺めると、彼女も同調するように首を捻った。二つの視線が校舎の隙間を縫いつつ重なる。
「それでね、見たのよ。広場の樹の下に座るあなたを。樹の下に座って景色を見ながら、とても満足そうな表情をしているあなたを」
見られていたらしい。いつの間に、見られていたんだろう。きっともう、ずっと前のことなのだろう。俺には、いつのことだかわからない。
「それは……いいけどさ。興味ってのが、いまいち意味がわからない。ただ、見ただけなんだろう?」
他人を遠くから一瞥しただけ。普通、そんなんで興味なんてわくのだろうか。しかも俺は、ここではいつも、ただ座っているだけだ。対して九条は、大多数の人間が興味を持つであろう珍しいことにも、しれっと無関心を貫きそうな性格をしているのに、本当にそんなことがあるのだろうか。
悪いがとても信じられない。裏があるのかとでも邪推してしまう。
「ええ、見ただけよ」
だが、彼女は即座に肯定した。いつも通り口調は平坦だが、声はとても澄み切っていた。聞けば、それが嘘ではないことが感じ取れる。珍しくも口数多く語る彼女は、そういう空気を作り出していた。
「信じられないかもしれないけど、でも……見ただけで十分だったのよ。だって……そこに座るときのあなたは、その表情は、明らかに私の知らない感情を湛えていたのだもの」
「知らない、感情……?」
「とても晴れやかだった。満たされていた。嬉しそうだった。あなたは自覚なんてしていなかったのかもしれないけれど、少なくとも私にはそう見えた。私が生まれてから今に至るまで、一度も感じたことのない無垢な幸福を、享受しているように見えたの」
いつの間にか、九条は視線を戻し、また俺を正視していた。
「端的に言えば、私は羨ましかったのかもしれない。憧れたのかもしれない。きっと私は、ただ知りたかったの。興味というのは、そういうことよ」
「興味……でも、だからって、それと俺への協力と、関係があるのか?」
「以前話したときに、あなた言っていたじゃない。この場所が大切なんだって。あれを聞いて、私は思ったの。私の知らない感情の正体……それは大切っていう感情なのかなって。なくしたくない。守りたい。傍にありたい。そんな想いなのかなって」
以前、俺は確かに九条にそう言った。あの渡り廊下で、彼女にそんな想いを話した。改めて言われると、ちょっと恥ずかしいことを言ったかな、なんて思うけれど、でも紛れもなく本心だ。
けれど、あのとき彼女は、俺の言葉を否定したはずだった。よく覚えている。
「待てよ、九条。お前はあのとき、そんなものは鬱陶しい、お荷物だって言ったんだぞ」
そんな彼女の返答は、俺を恐怖すらさせたのだ。
「ええ、確かにそう言ったわ。今も、そういう想いが、私の中にはちゃんと存在している。憧れたのはたぶん本当だけれど……実のところ、よくわからないの」
淡々と語るのは相変わらずだ。だがここにきて俺は、自分を見つめる九条の瞳に、わずかな揺らぎを見た気がした。
彼女はその瞳に、俺をしかと映し、続ける。
「だから、私は今夜の勝負で、それを判断することにしたわ。どうしても諦めきれない大切なもののために、本気で戦うあなたを見て、その感情が本物かどうか、価値あるものなのかどうか、判断することにした」
「それで、俺に協力をするってことか」
「そういうことね」
つまり、九条は俺を試すつもりなのだ。俺のわがままが、願いが、信念が……価値あるものならばこの場所は残るだろうと、彼女は言うのだ。
彼女の提案を聞いて、俺は率直に嬉しいと思った。まさか、向こうの方からそんなことを言ってくるだなんて、夢にも思っていなかったから。だから、自然と顔が綻んだ。
「願ってもないことだな。俺のわがままを大目に見てくれるなんて、嬉しいよ」
「驚いたわ。露骨に試されておいて、怒るどころか、まさか素直に喜ぶなんて。意外ね」
「そりゃ喜ぶさ。九条が協力してくれるって言うんだからな」
すると彼女の表情には、俺の破顔につられたようにして、一瞬だけ感情が現れた。
「あなたは正直ね。自分の心に正直で、やっぱり羨ましいわ。なんて……自由な生き方なのかしら」
九条は少しだけ目を伏せる。長いまつげが揺れる瞳を隠す。その姿には少しだけ、寂しげな印象を受けた。
「自由?」
「そう、自由。私はそういうの、苦手だもの」
俺は、彼女にもらった評価の意味がよく分からずに首を傾げた。問い返して良いものかどうか迷ったが、彼女の唇も、同じく迷うように動いていることに気づく。結局、俺は何も尋ねずに彼女を見ているだけだった。
やがて彼女は、はっとしたように唇を強く噤み直し、機敏に回れ右をする。長い黒髪が、風で淑やかな波を描いた。深い呼吸を一つ置き、ゆっくりと足を前に踏み出す。
話は終わったのだろうか。
「……ねえ」
けれども、数歩だけ歩いてから、九条は立ち止まって再び俺を呼んだ。こちらを振り向かずに、背を向けたままで。
「前に私、こんなことも、言ったじゃない? あなたと私は、きっとそのうち出会っていたって」
内容は違うが、それもまた、以前やり取りした件に該当するものだった。
「……ん? あ、ああ。俺が授業サボるからって、言ってたやつな」
九条の表情は見えない。
「それもあるんだけどね……けれど、本当のことを言うと、仮にあなたがサボり魔じゃなくても、私はいつかあなたに声をかけるつもりだったのよ。もちろん、私たちの間に共通の友人がいなくてもね」
共通の友人とは、隆弥や朝比奈さんのことだろうか。思えば俺と九条が初めて言葉を交わしたのは、あの二人を含めて四人で会話をしたときだった。そういう記憶がある。
「あのさ、九条。俺は回りくどいのが苦手だよ。何が言いたい?」
「……私とあなたは、やっぱり出会う運命だったわ。百パーセントね」
単調な声音が、それにはとても似つかわしくないような、大それたことを伝えてきた。運命とは、また随分と仰々しい。まさか九条が、そんなものを夢見るロマンチストには見えないが。
「それは、わかんないだろ。百パーセントは言い過ぎだ。それにだいいち、そういう話は過去の事柄に対してする話じゃない」
俺ははっきりと、否定を返した。
「まあ、かもね。まともなこと言うじゃない」
否定は難なく、背を向けたままの彼女に受け入れられる。すると彼女はさらに、次なる質問を投げかけてきた。
「じゃあ、未来についにはどう?」
同時に今度は横を向き、視線だけを俺に合わせた。もう、その瞳は揺らいではいなかった。
「未来?」
過去の次は未来か。九条にしては、妙に実益のない話に興じているように思える。
「常に未来は確率で定義される。先のことを考えるとき、ものをいうのは確率なのよ。未来のこと……たとえばそう、あなたがこの場所を守れるかどうか、とかね」
そこまで言われると、ようやく俺は、彼女がどんなことを言おうとしているのか分かってきた。去り際に、わざわざ長い前置きまでして会話を先導し、いったい何を言おうとしているのか、ということが。
「……意地悪だよなあ、お前」
そう返す他にない。
対して九条は「そうね、本当に」なんて答えながら、軽く頷いて見せる。
彼女は他でもない、今夜の勝負の話をしようとしているのだ。今夜の西校との戦いが、どんなものなのか。そんな話だ。続く言葉は、簡単に想像がついた。
「高くはないわよ。冷静に考えて、私たちの勝率は極めて低い」
んなこと俺だってわかっている。言われなくてもわかっているさ。でもだからこそ、今の彼女の対して、どうしても肯定は述べたくなかった。あえて明るく、あっけらかんとして振る舞うことに努める。
そうするのはたぶん、現実への些細な抵抗だった。
「でも、協力してくれるんだろ?」
「言ったじゃない。私の参加が及ぼす影響なんてほとんどないわ。私が参加したって、南校が勝つ可能性は、低いまま。そうね……良くて五パーセントってところよ」
「いやいや、どんな分析だって。つーかさ、まさに今から戦うってのに、普通そういうこと言います? 性格悪くないすか?」
「ええ、悪いけど。それが何か?」
うわ……開き直ったよこの人。俺が頑張って身振り手振りを織り交ぜつつ、嫌味に受け取らないよう振舞っているのに。何それ、あてつけ? 嫌がらせか?
そりゃあもちろん、九条の言うことは事実である。だけれども、これにはさすがに、唇も尖るというものだ。
「お前な」
しかし、俺が文句を言おうとしたそのとき、九条はまた目を逸らした。「……あっ」と何かに気づいたような溜息をついて、急に斜め下に瞳を向けた。
「えっと、違うわ……ごめんなさい。その……嫌がらせで言ってるんじゃ、ないのよ」
曲げた人差し指の甲を唇に当て、少々語尾をすぼめるように言う。
「嫌がらせ以外に、何があんだよ。こういうときは、励ますもんだろう? 普通」
「だから、嫌がらせじゃないってば。まあ、私の性格は悪いけど、でも違うの。可能性が低いからこそ……私にとっては意味があるって、思うのよ」
そんな九条は、平素クールではきはきとした彼女にはあまり重ならない、恥ずかしがっているような、バツが悪いような様子で下を向いていた。前髪で表情が少し隠れるが、もどかしそうに言葉を選んでいるのが分かった。
それから少しして、彼女はゆっくりと話し始めた。慎重に言葉を紡いでゆく。
「私だったら、とてもそんな低い可能性に縋ろうなんて思えない。可能性の壁を覆せない。でも、あなたは違うのよね。この場所を、守ると言う。なんだかその言葉には、力を感じるわ。あなたの想いが本当なら、確率を通り越してでも、数奇な未来を引き寄せるんじゃないかって……そう思ったから、今日私は、ここへきたの」
俯き気味の彼女を、広場に差し込む太陽の光が照らす。彼女の頬は少し赤かった。
俺が何も答えないでいると、彼女は静寂に耐えきれなくなったようで、また口を開く。いつもの落ち着いた口調と比べると、珍しいくらい早口に。
「そ、それだけ言っておこうと思って……。ほら、あなたの言う通り、励ましてるでしょ。激励よ、激励! 上手く言えないけど……一応、応援してるつもりよ」
どうやら、恥ずかしがっているみたいだ。それが彼女の赤面の理由だった。毒舌副会長ももしかすると、そういうところは女の子らしいのかもしれなかった。可愛らしいところもあるらしい。
「……はは。あっはは。そっかそっか」
ただ、そうとわかったら俺は自然と笑えた。なんだ、案外性格だって悪くないじゃないか。
「……も、もう行くわ。決勝は、十九時からよ!」
俺が笑っていると、九条は早々とまた背を向けた。さっさと歩き出してしまって、今度こそ、ここから立ち去るみたいだ。
だから俺は、最後に一言、彼女に向けて言葉を選んだ。彼女がそうしたように、俺も慎重に、そしてゆっくりと、素直な言葉を紡いで届けた。
「なあ九条、ありがとう。頑張って守るよ。だからさ、今度九条がこの場所にきたら、そのときは俺が前に言ったように、ここに座って広場の景色を見てみろよ。この樹の根元、広場の中心に座ってさ。そうしたらきっと驚くよ。九条の知りたいことも、わかるかもしれない」
九条は立ち止まらずに、右手をひらりと舞わせて返事をした。了承なのか拒否なのか、俺は都合の良いように受け取る。
そして俺が空を見やると、彼女の紅潮に誘われたように、差し込む光は夕焼けに移り変わろうとしていた。宵を過ぎて夜を迎えるまで、あともう少しという合図だ。
もう少しで、決戦の時がくる。この場所の運命を決める決戦。全てはそこで決まるのだ。
去ってゆく彼女の足音が、俺の耳に届く。ゆっくり土地を踏みしめていくその音が、俺の中では自ずと、戦いへのカウントダウンと重なっていた。
もちろん、俺をこんな風に悩ませるものは他でもない。先日、アリア先輩から仰せつかった宿題である。実のところ、予選の最終戦にて、華麗に俺を助け出したアリア先輩の素性についても大いに気になってはいるのだが、今は宿題の方が優先だ。
それは、じきに行われるゲームの決勝、願いを叶える権限を賭けた最後の戦いに際し、ミューを説得するというものだ。端的に言えば、ミューにも勝利を目指して一緒に戦ってほしいと頼むわけである。
確かに先日の様子を思うと、ソラとルナはまあいいとしても、ミューだけは素直に協力してくれそうにない感じであった。別れ際の彼女の放つ雰囲気には、何かいかようにも表現のし難い、複雑な心持ちが滲み出ているように思えた。こちらから何らかのアプローチをしない限り、事は望む方向には進展しないと思われる。
見たところアリア先輩は、頑なにチーム全員の結束を重要視している。もしミューが戦う俺たちを止めようとするのなら、先輩だってそれを無下にはしないだろう。もしそうなれば、決勝で勝ちを目指しにゆくという話自体、覆りかねない。
アリア先輩は言っていた。決勝は、南校が五人で立ち向かわなかったら、到底勝てない戦いだと。
今ならば俺も、そう思う。南校の次に人数が少ない東校相手ですら、俺一人で突っ込めばあのザマなのだ。以前の俺は、決勝のことはそのときに考えようなんて思っていたけれど、あれ以上の相手に単独で立ち向かう手段は皆無だと、今は思い知っていた。
ところでその相手についてだが、更新された端末のスケジュールには、西校と表記されていた。まあ、これは妥当な結果だと言える。西校は、現状では四校の中で最も多い、約二十の人員を有しているのだから。
つまり南校は、次の決勝の舞台で、実に戦力差四倍という強敵と対峙することになったのだ。
勝率は、極めて低い。南校がしっかりチームで連携し、満を持して挑んだとしても、当然のように負けは濃厚。勝利への道は、茨の道だ。
というわけであるからして、仮にアリア先輩の宿題がなかったとしても、ミューの説得は俺にとって、避けては通れないハードルだろう。頭数は少しでも多い方が良い。ミューの存在が戦力にどれだけ寄与するかはわからないが、いないよりはいる方がいい。これは事実だった。
しかし、浮かばない。いくら悩んでも、やはり案は浮かばない。何も浮かびやしないのだ。
俺の目的、銀杏の樹の広場を守るという願いのために協力してくれ。そう言って頭を下げたとしても、ミューが快く首を縦に振るさまは想像しにくい。なぜなら彼女は、個人の勝手な思惑で学校を変えてはならないと考えているからだ。正式な権限をもってしてもなお、それは良くないことだと彼女は主張するらしい。機械的で、杓子定規で、融通の利かない思考である。
だけれども、いくらクソ真面目な考えであれ、彼女の主張は正論だ。だからこそ論破するのは難しい。俺の願いが、一種のわがままであるという自覚も、もちろんあったから。
では、どうするのか。どうすればよいのか。
ロジカルに攻めるのは分が悪い。あの性格だし、逆にねじ伏せられかねない。ならばいっそ、ここはもう開き直って、真摯に懸命に、情に訴える熱弁を垂れるのはどうだろう。しかしそれはそれで、あの無愛想で無感動で無表情なミューの心を動かせるような文言は思いつかない。なおさら全く見当もつかないものだ。
女心と秋の空……をこの場合に思い浮かべるのは誤用だろうが、彼女の心が度し難いという意味では同様だ。それを推し量ることができない俺には、彼女の説得は荷が重いと感じざるを得ない。
あー……本当に、何かいい方法はないだろうか。せめてヒントだけでも、近くに落ちていてくれると助かるんだけど。
手詰まり過ぎて、叫びたくなる。頭の中を、思考がぐるぐると回る。ついでにミューも、ぐるぐる回る。俺も回る。回り続ける。
そうやって回る頭を必死に抱え続けたが、とうとうついに、何も進展がないまま決勝の当日を迎えるまでに至った。俺の思案は、全くもって至るべきところまで至ってはいないが、でも当日はやってきてしまった。
勝負本番を本日の夜に控え、ただいま時刻は三時過ぎ。午後の授業を順調にすっぽかし、俺はお気に入りの場所で、一本の大樹の幹を拠り所として腰掛けながら、秋の空を見上げている。
透明な空は、さきほど思考に上ったミューの心のようにミステリアスな色をして、紅に染まる兆候をほんのりと香らせた、境の曖昧な青と白のコントラストを描く。視界にちらつく扇の葉たちは、褪せ始めた色を寂しげに揺らして、傘のように俺を覆う。吹き抜ける冷涼な風が、わずかに髪を揺らして去っていく。
この小さく簡素な空間では、全てが調和し、芸術的なまでの隔離世界を形成していた。
ここにいると、俺はいっそう強く感じる。どうしてもこの場所を失いたくない。この場所を包み込む消滅の運命を、看過してしまいたくない。文化祭のあと、この場所がいよいよ消えてゆくという未来を、想像したくない。
文化祭がこの銀杏の樹との送別祭になるなんて、絶対に嫌だ。
そんなことを思ってしまうと、胸の片隅では妙に気持ちがざわついて、巡る不安が、背後からしっとりと絡みついてくる。まるで肺が微かに縮んだような息苦しさが、一雫の悲壮と寂寥をもたらしてくる。冷えた手で心臓を握られているように、怖くなる。
だから、俺は諦めたくない。失うなんて耐えられない。切れかかった命綱に縋り付いてでも、一縷の望みを追い続ける。今夜の決勝のために、南校が全力を出すことを考える。ミューを説得する術を考え続ける。
大切な銀杏の樹の存在を双肩に受けながら、俺はまた頭を回し始めた。
「さて……どーすりゃいーんですかねー」
零れた俺の呟きは、葉の擦れる音に混ざって、風でどこかに運ばれていく。そのゆく先を探るようにして、ゆっくりと視線を空から落とした。
澄んだ声音が耳をついたのは、そんなときだった。
「そうね。あなたはまず、ちゃんと授業に出るべきじゃないかしら」
背後からだった。俺は幹から背を離し、横へ乗り出すようにして声のする方向を見た。
「サボりもあんまり度が過ぎると、見逃してあげる気もなくなりそうよ」
視線の先、少し離れた通路の傍。立っていたのは、九条だった。
「あれ……サボり仲間」
「失礼なこと言うと今すぐ教室へ連れ帰るわよ。私は違うって前に話したでしょう」
俺が顔を見せると、九条は無表情で辛辣な言葉を放ち、近くの壁に立ったままもたれた。
互いの声だけがぎりぎり聞こえる絶妙な距離が、俺と彼女を隔てている。
「何かお悩み事? 普段から悩みなんてなさそうなのに」
「……お前もなかなか失礼だな」
「あら、ごめんなさい」
冷めた上辺だけの謝罪だ。謝る気なさ過ぎ。
俺は捻った身体を元に戻し、九条が視界の端に収まるように、改めて座り直した。
「なんなら相談に乗ってあげようか?」
「……相談? 九条が?」
「ええ、私が。テストで良い点が取りたいとか、彼女が欲しいとか。何でも結構よ」
「……何だよそれ。前者はまだいいとしても、もう一つの方は……」
九条なりの冗談のつもりだろうか。相変わらず無表情なのが気になるが。
そりゃあ確かに、彼女は頭が良いからテストの方は対応可能かもしれないけど、でも色恋沙汰の方は……どうかな。あんまり九条についてのそういう噂は聞かないし、それ以前に、俺が九条に対して彼女が欲しいと相談する絵面も、相当嫌だろう。
「何よ。経験はなくても知識はあるわよ。恋愛相談くらい簡単だわ」
経験ねーのかよ。じゃあダメだろ。
「いやあ……。ま、まあ、それはさておき。テストの点はそこまでひどくないし、彼女の方も間に合ってるから」
「彼女いないのに間に合ってるの?」
「るせーよほっとけ。別に彼女がいなくても、四六時中それで頭悩ませたりはしないんだ」
「ふうん、そうなんだ。じゃあ、何で悩んでるの?」
九条はあまり興味なさそうに、片手で反対の肘を抱えながら聞いてきた。
けれどもそこで、俺は思い直す。
この悩みは相談できない。夜な夜な学校で行われているあのゲームのことについては、関係者以外には口外無用だ。ミューの説得がどうのなんてこと、九条には言えない。
だいいち、ミューの件について九条の意見を参考にするなんて、それこそ俺が彼女に恋愛相談をしているみたいではないか。確かに相手は女だけれども、ちょっと……それはない。
だから俺は彼女の質問に対し、真実ではないが嘘でもない、当たり障りのない答えを返した。
「前にも話したことだよ。ここがなくなってしまうのを、どうにかできないものかなって」
対して九条は、テンポ良く反応する。
「あら、何か方法でも見つけたのかしら」
「…………」
鋭いな、と俺は思った。
九条は、俺のどの部分からこういう心情を読み取っているのだろう。まさか俺の頬が独りでに微笑んでいるわけでも、ひきつっているわけでもない。そこまでわかりやすい性格のつもりはないし、なるべく態度や表情には出さないようにしているのに。
俺が黙っていると、さらに彼女は続けた。どうやら否定するまでもなく、彼女は納得をしてしまったようであった。
「署名でも集めることにした?」
「まさか」
署名なぞ、既に却下された提案だ。一番合理的ではあるが、今回の件に関してはあまり現実的ではない。俺がここを好んでいることと、この場所の存続のために署名が集まることは、背反事項だ。決して同時に成立しない。
「じゃあたとえば、生徒会なんかよりももっと頼りになりそうな、秘密組織でも味方につけたとか。たとえばそこで、心強い協力者にでも出会ったとか。それこそあなたのお姉さんのような人なら、どんなことでもできてしまいそうよね」
なぜだろう。いつになく今日の九条は饒舌だ。俺の口よりも、三倍くらい軽やかに彼女の口は動いている。
俺はその事実に少しだけ違和感を覚えたが、しかしどちらかと言えばそれよりも、わざわざ実の姉が引き合いに出されたことの方へ意識がいった。何だ、嫌がらせかと。
そりゃあまあ、アリア先輩は優璃の後輩らしいし、だから師匠に似たんだろうけど。よもや九条の冗談が、意外にも事実に近かったのはおかしな話だ。
「……何かしら方法があったとしても、それで万事上手くいくことが保証されたわけじゃない。色々問題はあるんだよ」
九条の嫌味なギャグセンスに食いついて唇を尖らせてもよかったのだが、今回は、あまり露骨にするのはやめておいた。感づかれない程度の声量減衰に留める。
だが、なおも彼女は再三問うた。
「そうなの。たとえば頭の硬い厄介な同級生が、その先輩に反対してたりとか?」
そしてまた、違和感は膨れた。直前には注意を向け損ね、消えかけていた妙な引っ掛かりが、また現れたのだ。
はは、そうさ。確かにミューさえ上手く首肯させられれば、あとは正々堂々戦うだけなんだけどな。って、いや、さすがにおかしくないか。
九条がさきほどから、ずっと俺を見つめている。さらに、こちらがそれに気づいても、彼女はあからさまな正視をやめなかった。
当然、俺は訝しむ。
「九条……お前さっきからどうしたんだ? 珍しくよく喋るし、変なこと言って……」
俺がたまらず疑問を返すと、途端に九条はわざとらしく遮って言った。このときの彼女の言葉は、俺の耳に実によく通った。
「ねえ、だったら……私が頷けば、その問題とやらも少しは減るんじゃないのかしらね」
ああ、やはりおかしい。今日の九条はどうにもおかしい。やたらとこちらの内情を知っている気がしてならない。見覚えのある休息態勢で佇みながら、凛とした瞳で俺を射抜いている。
それは久しからず、どこかで感じた感覚だった。だからだろうか。一度認知してしまったら、逃れようもなく、彼女は別の彼女に重なった。
「…………もしかして、お前……」
九条は黙ったまま、視線だけで、何かを訴えかけてくる。
俺はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「……ミュー、なのか?」
答えはすぐに返ってきた。
「やっと気づいた? 随分と時間がかかったわね。今日、私の方は、初めからそのつもりであなたに会いにきたんだけど。名前は何だったかしらね。リフィア先輩の弟くん」
自分で聞いておきながら、そして予想通りの回答が返ってきたにも関わらず、俺は驚く他になかった。
九条が、ミュー? そのつもりで会いにきた? 本気で言っているのか。
必死に動揺を隠そうとするが、しかしどうしても、いくらか表情に表れざるを得ない。
確かに今思えば、両者はとてもよく似ている。背格好や口調もそっくりだし、雰囲気も近い。冷静に考えれば、ミューと九条が同一人物であるという事実を肯定する要素は数多あれど、否定する要素は一切ないように思えた。
そしてこれは、逆もまた然り。何かをきっかけとして、彼女には俺とレイがよく重なって見えたのかもしれない。彼女は頭が良い。俺が今になって気づいた事柄に、もっと早く気づいていた可能性は、十分にある。
……いつからだ? もしかして、最初から?
「私があなたを特定したのは、レイとしてのあなたが、権限を使ってこの場所を守りたいと言ったときからよ。まあ偉そうに言ったけれど、ほんの数日前ってことね。ともあれ私はもともと、椎名馨が同じ願いを抱いていることを知っていた。そんなことを願うのは、全校生徒を探してもあなたくらいのものよ。だから、レイの正体が椎名馨であることがわかったし、同時に椎名馨がリフィア先輩の弟であることもわかった。そしてついでに、リフィア先輩という人物が、あの椎名優璃であることもわかったわ」
俺が固まったままで思考を巡らせていると、九条はこちらの内心の疑問にすらすらと答えた。まるで心を読み取ったかのようだった。
「…………」
何か話そうとするのだが、如何せん頭がついてこない。何と開口したらいいのかわからない。
俺がゲームの参加者であることが知られている。そして姉である優璃も同様であったことを、九条は推察した。
あれ、正体って、ばれちゃいけないルールじゃなかったっけ。そして実はミューだとわかった彼女に対して、俺はどう振る舞えばいいのだろう。
ぐるぐるしていた頭が、混乱で余計にぐるぐるしてきた。
辺りには沈黙が落ちる。ただでさえ静かなこの場所が、さらに閑寂を上塗りしたように静まり返り、夕刻が近づいていっそう冷えた風だけが吹き付ける。秋に染まりかけた銀杏の葉が、鈴のような音を立てた。
そうして俺が黙っていると、彼女は一言、吹く風と同じくらい唐突に言った。
「協力、してあげるわよ」
単調に響く声音の意味が、すぐにはわからなかった。
「…………協力?」
やっとのことで捻り出した言葉は、情けなくもオウム返しだ。久しぶりに口が仕事をした気がする。しかし頭はまだ仕事をしない。
「そう、協力。あなたの願いを叶えるための、その協力。仲良しごっこが好きなアリア先輩率いる南校は、チーム全員が同意しないことをやろうとはしないわ。だから西校との決勝も、誰か一人でも首を横に振ったならば、真剣に勝ちを狙って戦うことはない。でも今回、アリア先輩本人は乗り気よね。もちろん、ソラとルナも言わずもがな。私さえ賛成すると言えば、南校はあなたのための戦いに本気になるでしょう。まあ、なったところで戦力なんて知れたものだけれど」
「ど、どうして……どうして協力しようと思う……?」
以前、アリア先輩が言っていた。ミューは風紀委員か何かでもやっているのかもしれないと。だが、違った。ミューは生徒会副会長だ。冷めた性格で妙に正義感ばかり強い、九条羽望だったというわけだ。九条は、ミューは、個人的な願いのため優勝権限を行使することに反対である。
その彼女が、どうして俺のわがままで勝手な願いに協力すると進んで言うのか、疑問でないはずがなかった。
「いえ、協力と言うよりは、邪魔をしないって感じかしらね。別に、私がいれば西校に対する勝率が大きく上がるわけでもないし」
「答えになってない。なら俺は、どうして邪魔をしないのかと聞き直すだけになる」
九条に俺を止める理由はあれど、後押しする理由などないはずだった。
俺の質問に対し、彼女は壁にもたれるのをやめ、スッと直立して答えた。
「私……あなたに興味があるのよ」
…………は?
さらりとと述べられた九条の言葉は、非常に突飛なものだった。俺はその、意外性溢れる発言に面食らう。
彼女は続けた。
「私はね、あなたと直接話す前から、あなたのことを知っていたの。もちろんあなたのお姉さんが有名だからってのもあったけれど、でもそれはまた、別の話。私はあなたと知り合うもっと前から、そこに座るあなたを見たことがあった」
彼女は淡々と語る。俺を見て。それ以外、目立った動きは一切ない。呼吸や瞬きまで、やめてしまったのかと疑うほどだ。
そんな風に見つめられ、俺は自然と顔を逸らしてしまう。
「見たことがあったって……ああ、あの渡り廊下からか」
「そう。私はよくあそこを通るもの」
ごまかすつもりで俺がその渡り廊下の方を眺めると、彼女も同調するように首を捻った。二つの視線が校舎の隙間を縫いつつ重なる。
「それでね、見たのよ。広場の樹の下に座るあなたを。樹の下に座って景色を見ながら、とても満足そうな表情をしているあなたを」
見られていたらしい。いつの間に、見られていたんだろう。きっともう、ずっと前のことなのだろう。俺には、いつのことだかわからない。
「それは……いいけどさ。興味ってのが、いまいち意味がわからない。ただ、見ただけなんだろう?」
他人を遠くから一瞥しただけ。普通、そんなんで興味なんてわくのだろうか。しかも俺は、ここではいつも、ただ座っているだけだ。対して九条は、大多数の人間が興味を持つであろう珍しいことにも、しれっと無関心を貫きそうな性格をしているのに、本当にそんなことがあるのだろうか。
悪いがとても信じられない。裏があるのかとでも邪推してしまう。
「ええ、見ただけよ」
だが、彼女は即座に肯定した。いつも通り口調は平坦だが、声はとても澄み切っていた。聞けば、それが嘘ではないことが感じ取れる。珍しくも口数多く語る彼女は、そういう空気を作り出していた。
「信じられないかもしれないけど、でも……見ただけで十分だったのよ。だって……そこに座るときのあなたは、その表情は、明らかに私の知らない感情を湛えていたのだもの」
「知らない、感情……?」
「とても晴れやかだった。満たされていた。嬉しそうだった。あなたは自覚なんてしていなかったのかもしれないけれど、少なくとも私にはそう見えた。私が生まれてから今に至るまで、一度も感じたことのない無垢な幸福を、享受しているように見えたの」
いつの間にか、九条は視線を戻し、また俺を正視していた。
「端的に言えば、私は羨ましかったのかもしれない。憧れたのかもしれない。きっと私は、ただ知りたかったの。興味というのは、そういうことよ」
「興味……でも、だからって、それと俺への協力と、関係があるのか?」
「以前話したときに、あなた言っていたじゃない。この場所が大切なんだって。あれを聞いて、私は思ったの。私の知らない感情の正体……それは大切っていう感情なのかなって。なくしたくない。守りたい。傍にありたい。そんな想いなのかなって」
以前、俺は確かに九条にそう言った。あの渡り廊下で、彼女にそんな想いを話した。改めて言われると、ちょっと恥ずかしいことを言ったかな、なんて思うけれど、でも紛れもなく本心だ。
けれど、あのとき彼女は、俺の言葉を否定したはずだった。よく覚えている。
「待てよ、九条。お前はあのとき、そんなものは鬱陶しい、お荷物だって言ったんだぞ」
そんな彼女の返答は、俺を恐怖すらさせたのだ。
「ええ、確かにそう言ったわ。今も、そういう想いが、私の中にはちゃんと存在している。憧れたのはたぶん本当だけれど……実のところ、よくわからないの」
淡々と語るのは相変わらずだ。だがここにきて俺は、自分を見つめる九条の瞳に、わずかな揺らぎを見た気がした。
彼女はその瞳に、俺をしかと映し、続ける。
「だから、私は今夜の勝負で、それを判断することにしたわ。どうしても諦めきれない大切なもののために、本気で戦うあなたを見て、その感情が本物かどうか、価値あるものなのかどうか、判断することにした」
「それで、俺に協力をするってことか」
「そういうことね」
つまり、九条は俺を試すつもりなのだ。俺のわがままが、願いが、信念が……価値あるものならばこの場所は残るだろうと、彼女は言うのだ。
彼女の提案を聞いて、俺は率直に嬉しいと思った。まさか、向こうの方からそんなことを言ってくるだなんて、夢にも思っていなかったから。だから、自然と顔が綻んだ。
「願ってもないことだな。俺のわがままを大目に見てくれるなんて、嬉しいよ」
「驚いたわ。露骨に試されておいて、怒るどころか、まさか素直に喜ぶなんて。意外ね」
「そりゃ喜ぶさ。九条が協力してくれるって言うんだからな」
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九条は少しだけ目を伏せる。長いまつげが揺れる瞳を隠す。その姿には少しだけ、寂しげな印象を受けた。
「自由?」
「そう、自由。私はそういうの、苦手だもの」
俺は、彼女にもらった評価の意味がよく分からずに首を傾げた。問い返して良いものかどうか迷ったが、彼女の唇も、同じく迷うように動いていることに気づく。結局、俺は何も尋ねずに彼女を見ているだけだった。
やがて彼女は、はっとしたように唇を強く噤み直し、機敏に回れ右をする。長い黒髪が、風で淑やかな波を描いた。深い呼吸を一つ置き、ゆっくりと足を前に踏み出す。
話は終わったのだろうか。
「……ねえ」
けれども、数歩だけ歩いてから、九条は立ち止まって再び俺を呼んだ。こちらを振り向かずに、背を向けたままで。
「前に私、こんなことも、言ったじゃない? あなたと私は、きっとそのうち出会っていたって」
内容は違うが、それもまた、以前やり取りした件に該当するものだった。
「……ん? あ、ああ。俺が授業サボるからって、言ってたやつな」
九条の表情は見えない。
「それもあるんだけどね……けれど、本当のことを言うと、仮にあなたがサボり魔じゃなくても、私はいつかあなたに声をかけるつもりだったのよ。もちろん、私たちの間に共通の友人がいなくてもね」
共通の友人とは、隆弥や朝比奈さんのことだろうか。思えば俺と九条が初めて言葉を交わしたのは、あの二人を含めて四人で会話をしたときだった。そういう記憶がある。
「あのさ、九条。俺は回りくどいのが苦手だよ。何が言いたい?」
「……私とあなたは、やっぱり出会う運命だったわ。百パーセントね」
単調な声音が、それにはとても似つかわしくないような、大それたことを伝えてきた。運命とは、また随分と仰々しい。まさか九条が、そんなものを夢見るロマンチストには見えないが。
「それは、わかんないだろ。百パーセントは言い過ぎだ。それにだいいち、そういう話は過去の事柄に対してする話じゃない」
俺ははっきりと、否定を返した。
「まあ、かもね。まともなこと言うじゃない」
否定は難なく、背を向けたままの彼女に受け入れられる。すると彼女はさらに、次なる質問を投げかけてきた。
「じゃあ、未来についにはどう?」
同時に今度は横を向き、視線だけを俺に合わせた。もう、その瞳は揺らいではいなかった。
「未来?」
過去の次は未来か。九条にしては、妙に実益のない話に興じているように思える。
「常に未来は確率で定義される。先のことを考えるとき、ものをいうのは確率なのよ。未来のこと……たとえばそう、あなたがこの場所を守れるかどうか、とかね」
そこまで言われると、ようやく俺は、彼女がどんなことを言おうとしているのか分かってきた。去り際に、わざわざ長い前置きまでして会話を先導し、いったい何を言おうとしているのか、ということが。
「……意地悪だよなあ、お前」
そう返す他にない。
対して九条は「そうね、本当に」なんて答えながら、軽く頷いて見せる。
彼女は他でもない、今夜の勝負の話をしようとしているのだ。今夜の西校との戦いが、どんなものなのか。そんな話だ。続く言葉は、簡単に想像がついた。
「高くはないわよ。冷静に考えて、私たちの勝率は極めて低い」
んなこと俺だってわかっている。言われなくてもわかっているさ。でもだからこそ、今の彼女の対して、どうしても肯定は述べたくなかった。あえて明るく、あっけらかんとして振る舞うことに努める。
そうするのはたぶん、現実への些細な抵抗だった。
「でも、協力してくれるんだろ?」
「言ったじゃない。私の参加が及ぼす影響なんてほとんどないわ。私が参加したって、南校が勝つ可能性は、低いまま。そうね……良くて五パーセントってところよ」
「いやいや、どんな分析だって。つーかさ、まさに今から戦うってのに、普通そういうこと言います? 性格悪くないすか?」
「ええ、悪いけど。それが何か?」
うわ……開き直ったよこの人。俺が頑張って身振り手振りを織り交ぜつつ、嫌味に受け取らないよう振舞っているのに。何それ、あてつけ? 嫌がらせか?
そりゃあもちろん、九条の言うことは事実である。だけれども、これにはさすがに、唇も尖るというものだ。
「お前な」
しかし、俺が文句を言おうとしたそのとき、九条はまた目を逸らした。「……あっ」と何かに気づいたような溜息をついて、急に斜め下に瞳を向けた。
「えっと、違うわ……ごめんなさい。その……嫌がらせで言ってるんじゃ、ないのよ」
曲げた人差し指の甲を唇に当て、少々語尾をすぼめるように言う。
「嫌がらせ以外に、何があんだよ。こういうときは、励ますもんだろう? 普通」
「だから、嫌がらせじゃないってば。まあ、私の性格は悪いけど、でも違うの。可能性が低いからこそ……私にとっては意味があるって、思うのよ」
そんな九条は、平素クールではきはきとした彼女にはあまり重ならない、恥ずかしがっているような、バツが悪いような様子で下を向いていた。前髪で表情が少し隠れるが、もどかしそうに言葉を選んでいるのが分かった。
それから少しして、彼女はゆっくりと話し始めた。慎重に言葉を紡いでゆく。
「私だったら、とてもそんな低い可能性に縋ろうなんて思えない。可能性の壁を覆せない。でも、あなたは違うのよね。この場所を、守ると言う。なんだかその言葉には、力を感じるわ。あなたの想いが本当なら、確率を通り越してでも、数奇な未来を引き寄せるんじゃないかって……そう思ったから、今日私は、ここへきたの」
俯き気味の彼女を、広場に差し込む太陽の光が照らす。彼女の頬は少し赤かった。
俺が何も答えないでいると、彼女は静寂に耐えきれなくなったようで、また口を開く。いつもの落ち着いた口調と比べると、珍しいくらい早口に。
「そ、それだけ言っておこうと思って……。ほら、あなたの言う通り、励ましてるでしょ。激励よ、激励! 上手く言えないけど……一応、応援してるつもりよ」
どうやら、恥ずかしがっているみたいだ。それが彼女の赤面の理由だった。毒舌副会長ももしかすると、そういうところは女の子らしいのかもしれなかった。可愛らしいところもあるらしい。
「……はは。あっはは。そっかそっか」
ただ、そうとわかったら俺は自然と笑えた。なんだ、案外性格だって悪くないじゃないか。
「……も、もう行くわ。決勝は、十九時からよ!」
俺が笑っていると、九条は早々とまた背を向けた。さっさと歩き出してしまって、今度こそ、ここから立ち去るみたいだ。
だから俺は、最後に一言、彼女に向けて言葉を選んだ。彼女がそうしたように、俺も慎重に、そしてゆっくりと、素直な言葉を紡いで届けた。
「なあ九条、ありがとう。頑張って守るよ。だからさ、今度九条がこの場所にきたら、そのときは俺が前に言ったように、ここに座って広場の景色を見てみろよ。この樹の根元、広場の中心に座ってさ。そうしたらきっと驚くよ。九条の知りたいことも、わかるかもしれない」
九条は立ち止まらずに、右手をひらりと舞わせて返事をした。了承なのか拒否なのか、俺は都合の良いように受け取る。
そして俺が空を見やると、彼女の紅潮に誘われたように、差し込む光は夕焼けに移り変わろうとしていた。宵を過ぎて夜を迎えるまで、あともう少しという合図だ。
もう少しで、決戦の時がくる。この場所の運命を決める決戦。全てはそこで決まるのだ。
去ってゆく彼女の足音が、俺の耳に届く。ゆっくり土地を踏みしめていくその音が、俺の中では自ずと、戦いへのカウントダウンと重なっていた。
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なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
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