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第三章 姉弟の願い
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同日、午後十八時四十九分。
俺は注意深く時間を確認しながら、遅れないように再び学校までやってきた。
夕方に帰宅してから家で少し休んできたのだが、その際に例のアプリケーションにはメールが届いていて、色々と指示が書かれていた。
決勝戦の開催場所は南校であること。開始時刻は通常通り十九時で、直前の十五分間にサインインをすること。サインインをしたら、開始までは美術室にて待機すること。
いつもはこんな連絡は入ってこないのに、何だろうか。やはり決勝戦だからか? だとしてもどうして美術室。
よくわからないこともあったが、ただそれはさておき、開催場所が南校だというのは嬉しい偶然だった。ホログラムの装飾が加わるとはいえ、ホームステージであることには変わりないので、地の利が活かせると思われる。戦いの運気が良好である証と受け取っておこう。
校門の前にたどり着いた俺は、一呼吸置いてから校内に足を踏み入れた。
瞬間、ひらひらした赤の装飾服に包まれて、夜の世界の俺になる。そういえば一部改変はしたものの、この優璃好みのゴシック人形のような服装は、そのうちちゃんと設定し直しておかなくてはいけないな。まったく、あんな性格で似合わない趣味しやがって。寓話のヒロインのような、可愛らしい夜の自分でも目指していたのだろうか。
俺はそんなことを考えながら、昼間とは違い下駄箱を素通りして、そのまま館内に入り、美術室の方へと向かった。土足入館みたいで最初のうちは変な気分だったが、もうだいたい慣れたものだ。周りの光景はまだ通常通りの薄暗い夜の学校だが、既にホログラムによる装飾は施されているはずである。ここでは砂や埃さえも、架空のもの。土足なんて関係ない。夜の世界での痕跡は、一切昼の世界には残らないのだ。
俺は廊下を歩いて階段を上っていると、その吹き抜けの空間を伝って、上方の踊り場に気配を感じた。
「こんばんは。ちゃんと遅れずにきたわね」
首を上げると、窓から差すリボンのような月明かりに照らされて、見慣れた独特の休息態勢をとる女性の姿があった。その口から発せられるのは、今となっては聞き慣れた声だ。
「く……じゃない。ミューか」
「そうそう。間違えないで、ちゃんとその名前で呼びなさいよ。昼間の私と、今の私は別人なんだから」
「あ、ああ……わかってるけど……。でもなあ、知っちゃうとかーなりインパクトあるんだよなあ」
彼女も今は、この世界であるべき姿になっているため、目元は隠され、装飾服を纏っている。ついこの間まで俺がここで会っていたミューと、何ら変わりはない。
でも、もう俺は、彼女が九条羽望だと知っている。透けるはずのないグラスの向こうに、俺を見下ろす九条の双眼が透けている。思いの外、複雑な気分だった。
「そう? 私は別に、そうでもないけど」
「さいですか」
俺はゆっくりと踊り場まで上り切り、彼女と同じ目線に立った。
「本当は、ばれたらまずいんだっけ?」
「前はそういう時もあったみたいだけど、今ではそんなに。アリア先輩が、秘密の方が面白いとか言っている程度よ」
「……さいですか」
要はどうでもいいってことか。必然的にそんな解釈に落ち着き、俺は嘆息した。
しかしミューは壁から背を離し、歩き出して言う。
「でも、ルールだからね。ちゃんと守るのよ。いいわね」
はあ、ルールねえ。まったくもって、律儀な性格だ。彼女のあとに続いて歩き始めつつ、俺は頭に感想を浮かべる。
そして二人で縦に並び、絶妙な間隔を空けながら進んでいく。近すぎず遠すぎず、互いに戸惑わないくらいの、過不足のない距離だ。
周囲には、自分とミューの足音以外に耳をつくものはない。同じ速さで歩いていると、ミューの方が俺よりもわずかに多い歩数を刻んでいることに意識が向いた。
ふと、俺はまた、口を開く。
「なあ、ところでさ。アリア先輩の正体、お前は知っているのか?」
「どうしたのよ。突然」
ミューは前を向いたまま答える。
「いや、東校戦のとき、あんな風に俺を助けたから……何者かと思って」
「昼間の先輩のことなら、私は知らないわ。あの人がとても強いのは知っていたけれど、それは一年生のとき、あなたのお姉さんたちに鍛えてもらったからだって言っていたわ」
「ああ……なるほど」
優璃と愉快な仲間たち直伝か。それを聞いて納得した。最強を誇っていた時代の強さを、アリア先輩はたった一人、継承しているということだったのだ。
無言でミューと歩いていると、数分で美術室に到着した。
入り口の扉を堂々と開け、ためらいもせずに彼女が中へ入ると、ぱらぱらと知った声での挨拶が聞こえる。アリア先輩たちは、もういるみたいだった。
少し遅れて、俺も入り口をくぐる。
「あっ! 先輩! こんばんはーです!」
すると、真っ先に反応したソラが飛びついてくるのが見えた。
俺はそれを、スッと横にずれてかわす。
「あーらら」
ソラは床に突っ込みそうになったが、体勢を立て直しながらヘラっと笑っていた。
対してルナの方は、大人しく控えめに頭を下げる。「こんばんは、先輩」と言って、ペコリ。
俺は二人分まとめて「おす」と返した。
ミューのやつは、既に手頃なポジションをみつけて壁にもたれている。
そんな中、部屋の奥の方で机に座っていたアリア先輩の顔が、俺へと振り向いた。
「やあレイ。ミュウミュウと、一緒だったのかい?」
「ええ、まあ。くるときに廊下でばったり会って」
本当はミューに待ち伏せされていた気がしたけれど、そういうことにしておいた。
「じゃあ始まる前に、約束通り君の演説を聞こうかな。時間がないから手短に、でもしっかりとミュウミュウの心を動かすような、力のこもったものを期待するよ」
先輩は机からバッと飛び降りつつ、口元をニッと釣り上げて笑った。
そういやそんな話もあったな、と俺は思い出す。どうしよう、何も考えてない。でも、よく考えたら、もうこれってやらなくていいんじゃ……。
俺が戸惑っていると、横から短い発言があった。
「必要ないですよ」
ですよね。
まるで俺の心の疑問に答えたかのような、ミューの言葉。俺はそれに、内心で同意した。
「演説はいりません。私も、彼に協力することにしましたから」
アリア先輩が「ん?」とミューに視線を向ける。
「おや、なんと。こりゃあまた意外な話だねえ。だってミュウミュウは、今回の戦いには反対だったはずじゃないのかい?」
「さっきここへくるまでに、ちょっと彼と話したんですよ。仕方ないから、協力することにしました。アリア先輩も、その方が嬉しいのでしょう」
「へえ……。へええ~」
するとアリア先輩は、感心したようにへえへえ言いながら、ミューの方へと寄っていった。そして顔を逸らすミューの正面にわざと何度も回り込んで、下方から鼻と鼻が触れるくらいにまで近づく。
「ミュウミュウったら、どうしちゃったの? いつもあんなに頑固なミュウミュウがさ。もしレイの演説で駄目だったら、私が頼み倒そうかなって考えてたくらいなのに~」
声があからさまにニヤニヤしている。ミューはすっごく迷惑そうに離れようとしているが、アリア先輩が追いかけるので、さらに嫌そうにしている。
「み、ミュウミュウって呼ばないでください……」
「んっふふ~。なーにさミュウミュウ、今回はやけに素直だねえ。何かいいことでもあったの~?」
「な、なんにもないですよ。ちょっと……アリア先輩。あんまり顔、近づけないで……。抱きつくのもやめてください。あとミュウミュウって呼ばないでくださ……きゃっ!」
ついにミューは定位置を放棄して逃げようとしたが、もたれかかっていた壁の支えをなくしてふらつく。そこにアリア先輩は構わず抱きついていたものだから、二人で一緒になって床に倒れ込んだ。ミューが下、アリア先輩が上。アリア先輩に退こうとする気配はなく、倒れてもずっとミューにひっついている。
面白そうだと、横から一緒に倒れ込もうとしていたソラは、傍のルナにやんわり止められていた。
「ちょっともう! アリア先輩! 離れてください!」
ミューがむきになって、アリア先輩の顔をひっぺがそうとしている。
アリア先輩は頬を押されてのけぞったまま、俺の方へ向き直って嬉しそうに告げた。
「やったよレイ! これで晴れて、南校五人で決勝だよ! 頑張ろうね!」
俺は、苦笑いを向けるばかりだった。
おいおい……始まるまであと五分もないのに。んなことやってる場合かよ。
そう思ったけれども、目の前のじゃれ合いは、ミューがいよいよ怒って先輩に蹴りを入れるに至るまで続いた。あのミューには似つかわしくないほど感情を露わにした蹴りだったが、アリア先輩は避けもせずにそれを受けつつヘラヘラしていた。響く音を聞く限り、とても痛そうな蹴りだったが、どうなんだろうか。
そうしてひとしきり満足したらしいアリア先輩が、机の上に仁王立ちで腕を組みながら宣言する。
「さてっ! 始まるまでの残りの時間は、作戦会議かな!」
ちらりとミューの方を見ると、既にいつもと変わらない様子だが、それとなくアリア先輩から一番離れた位置取りをしているのがわかった。
「いえーい! 作戦会議ー!」
ソラが無駄に囃し立てる。
「このメンバーでの決勝戦は初めてだね。記念すべき初優勝を狙うわけだ。それでまずルールの確認だけど、決勝ではどちらのチームにもフラッグが用意される。各々が陣地にあるフラッグを守りながら戦うんだ。今までみたいに、片方が守って片方が攻めるのとは違う。対して、目的は今までと同じく、相手チームのフラッグを奪取することだ。いいね」
アリア先輩は、つらつらとルールを語り始めた。
どうやら決勝は、予選とルールが違うみたいだ。守りつつ攻めることが前提。チームとしては、最低でもそれなりの頭数が必要になるだろう。
しかし繰り返すが、南校は五人だ。その五人が、最低限の頭数を満たしているかと言えば、不安は消えない。
「私たちの陣地はここ、美術室だ。敵陣の方も既に決まっていて、私たちみたいに待機していることだろう。互いに陣地の場所は知らされない。そこで大事なのは、いち早く敵陣の正確な位置をつかむこと。自陣の位置を敵に知られないこと。この二つだ。敵のフラッグをいつでも狙えて、でも自陣に戻れば安全地帯。そんな展開にもっていくことができれば、これ以上の理想はないよ」
アリア先輩は、予選とルールの違う決勝の立ち回りについても詳しい様子だった。二年前、優璃やその仲間と一緒によく決勝へ出ていたからだろう。
「というわけで、我々のチームは人少なだが、でも最低二組には分かれなければならないね。敵陣を探る偵察組と、自陣を守る防衛組に」
俺とソラとルナとミュー。それぞれに目配せをして、先輩は言った。
「はーい! 分かれるなら、三人と二人だと思いまーす。一人で動くのは危険だし」
「うんうん。単独行動はリスクが大きすぎるから、やめた方がいい。その通りだね」
先輩が分かりやすく俺の方を見ながら、ソラの提案に賛成する。
嫌味かちくしょう。そう思ったが、からかわれても反論はできない。そそくさと話の流れに乗るのみだ。
「そ、その通りですよね。じ、じゃあ、まずはとりあえず、偵察と防衛の分け方を決めませんか」
「そうだねえ。うん、そうしようか~」
俺が誤魔化すのを見て、アリア先輩はまだニヤニヤしている。ミューをからかったあとは俺か……。今日は随分と機嫌がよろしそうで何より。
「ま、偵察組に二人、防衛組に三人だね。二人の方がはぐれにくいし、出来るだけ慎重に動いて、戦闘は避ける方針で。防衛組の方は、敵がたまたまここへきた場合にそいつを必ずしとめなきゃならないから三人……って感じかな」
「はいはーい! 私! 私、偵察組! やりたいでっす! はりきって敵、探すよー!」
人数の分け方がアリア先輩から提案されると、すかさずソラが元気良く立候補をした。
「ソラか。うんまあ、ソラはじっとしてるの苦手だしねー。そう言うと思ってたけど」
「いいと思いますよ。あと、俺も偵察組にします。俺も今はじっとしてられないから、できるだけ動きたいんで」
「ほう、そうなのかい」
「防衛組、任せていいですか」
「おー、いいよいいよー。なんだ、すんなり決まっちゃったね」
ルナとミューは黙っていたが、こちらの話は聞いていたようだ。異議がないのは、了承ということだろう。
結論、俺とソラが偵察組。残りのアリア先輩、ルナ、ミューが防衛組だ。
わずか五人の作戦会議はすぐに完了する。ものの五分もかからなかった。実際のところは運も絡むし、あとはゲームが始まってからの状況次第だろう。
そうしてゲーム開始が目前となると、アリア先輩とソラはそわそわして、カウントダウンなんかをし始めた。
「アリア先輩! もうすぐ十九時ですよ! 十九時!」
「いよいよだなー! わくわくするなー! お、ソラ! あと十秒だぞ!」
「はーい! いきますよー! 九!」
「八!」
「七!」
「六!」
ぴょんぴょん跳ねながら、二人は交互に大声で数える。ごー! よーん! と言って戯れる。
「さーん!」
ていうか、こんなにうるさくして、敵にはばれないのだろうか。開始前とはいえ、流石に少し不安になる。
「にー!」
無邪気なカウントダウンが、段々とゲームの開始まで迫る。直前までくると俺もつられてそわそわし、心臓の鼓動が早くなった。
「いーち!」
いよいよだ。いよいよ始まる。大切なものを、あの場所を守る戦いが始まる。一瞬たりとも気は抜かない。勝ちにいくんだ。
「「ぜーろー!」」
アリア先輩とソラが揃って手を振り上げる。俺が最後のカウントを聞いた直後、みるみるうちに世界が変わり出していくのがわかった。
ゲーム開始の合図、ステージの展開だ。敷地の中心の方から、まるで波紋のような光が広がってきて、それが美術室の窓からコマ送りみたいによく見えた。
二重三重の円波動が、見慣れた南校の風貌を、人工的でディジタルな光に包み込んでいく。夜を迎えて暗がりになっていた周りは一斉に輝き始め、画素を一つ一つ書き換えるかのように、ホログラムによって再構築されていく。
そして異様に体感時間の長い数秒が過ぎ去ると、辺りは忽然と、真っ白い霧に包まれていた。
「……って、あれ? 見にくくなったけど」
「見にくくっていうか、見えませんけど。真っ白で」
はしゃいでいた二人から、妙に冷静なコメントが聞こえる。カウントダウンを終えて、途端に素に戻ったようだ。俺は二人から少し離れたところに立っていたせいか、白くぼやけた影だけが見えた。
うーん……ソラの言う通り、これは白い。真っ白だ。その原因が相当な濃霧であることはすぐに分かった。視界が数メートル程度しかない。
もちろんステージが展開された影響だろう。近場にあった柱や机を確認すると、まるで朽木を固めて作ったような、古びて廃れた風貌になっていた。
「いい趣味してるわね」
背後から足音と共に、そんなことを言われる。視界が悪くなったからだろう、ミューが部屋の隅から傍へと寄ってきたのだ。
「こりゃ、ゴーストタウンみたいだな」
「みたいっていうか、そのものよね。決勝戦のステージがゴーストタウンなんて」
「やな趣味だろ。不気味だし」
「超怖いわね」
超棒読みで怖いとか言われても困る。お化けも立ち去る超冷めた感想を言いながら、ミューはアリア先輩とソラのいる部屋の中心へ進んだ。
「チーム諸君ー。見にくいから、もっと近くへー集合ー!」
俺も続いて、号令口調のアリア先輩の周りに集まる。
すると、そこにはいつの間にかフラッグが出現していた。予選のときよりもさらに一回り大きいもので、俺たちの背丈の倍近くある。よく見ると、布の部分には南校のマーク刻まれていた。
先輩はその巨大なフラッグに寄りかかり、軽快に告げる。
「んじゃま、すっごい見にくいけど、とりあえず予定通りにいこっか。こいつが私たちのフラッグ。大事な大事なフラッグだ。私たちはこいつを守るから、レイとソラは偵察よろしく。敵から隠れながら動くなら、逆にこの霧もメリットかもね。ああ、ソラの銃は使うと居場所がばれるから、ちょっと不都合かもだけど」
「いえいえ、そんなことありませんよ! 私は隠れて狙撃もできます! サイレントモードで使えば、敵にだって見つかりません!」
「お、そんなことできるのかい。高性能だねー」
見ると、ソラはどこからともなく自慢の白い装飾銃を取り出し、シュビッと構えてポーズをしていた。今回も初めから武器を使用するようだ。
どうでもいいが、見た目が真っ白なソラにとって、このステージは保護色になり過ぎている。被って見えない。反対に真っ黒なルナと比べると、歴然たる差があった。滅多に敵には見つからなさそうだが、下手をすると俺まではぐれそうだ……。
それと、ソラの銃を目にして、俺は思い出したことがあった。これは実は、少し前から気になっていたことだった。
「ところでアリア先輩。その、武器についてなんですけど」
「ん?」
「あれって、みんな持ってるものなんですよね? 姉貴のやつは、何か使っていませんでしたか?」
普段は、切り札としてなかなか使わないもの。それでもやはり、皆がそれぞれ所持しているもののはずだ。俺は前回のゲームで、助けてもらったときにアリア先輩の武器をたまたま見た。そういったものが優璃にもあったのではないかと考えたのだ。
質問の答えは予想通りだった。
「あー……あるよ。うん、あるある。そっか。普通は色々設定しないといけないんだけど、君はリフィア先輩のアカウントをそのまんま継いでるから、すぐに使えるかもね。もしそれが使えれば、いい戦力になると思うよ」
「本当ですか! それ、どうやって使うかわかりますか? できれば偵察に出る前に」
「うんうん。ちょっと貸してみな」
アリア先輩は快く頷くと、俺の端末を覗き込んでスラスラと操作の説明をしてくれた。
今まで見聞きした限り、個人専用の武器は、このゲームで多大な威力を発揮できる。それを特に如実に物語っているのは、紛れもないソラとルナだ。もし使うことができたなら、間違いなく様々な場面で、俺が優位に立ち回るための材料になる。本来は切り札だから、そう易々とは使えない。とは言うが、俺にとっては今日こそが全てなのだ。ここで使わずして、いつ使う。
端末では操作が進む。アリア先輩の指示で、このゲームに関するアプリケーションのフォルダを次々と開けていくが、俺はほとんど見たことがないのでよくわからない。以前に服の設定をしたときにも似たような操作をしたものだが、しかし未だにちんぷんかんぷんだ。ただただ内心のはやる想いを必死に抑えている。
「あれ、これパスワードかかってるじゃないか」
だが、先輩の口からまず飛び出た言葉は、予想だにしないものだった。
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が上がる。確かに、画面は何かの入力を要求してきている。
「これ、アカウント引き継ぎのときにかけるパスワードだね。リフィア先輩がかけたやつだ」
パスワードって……アカウントを受け継いだあと、要所で必要になるという、あのパスワード?
「パ……いや、そんなはずないですよ。フォルダ操作に必要なパスワードは、前に解除したはず……」
「でも現にかかってるんだよ。フォルダの操作はできるけど、武器の起動にだけ、また別でかかってるみたいだ。これは私じゃ、どうにもならない」
優璃がかけたパスワードは、最初のうちに解除したはずだ。ちゃんと三つ解除をした。候補だったパスワードは、全部打ち込んだはずだ。
「……あれ?」
「あれって……リフィア先輩から聞いてないのかい? それとも、忘れたとか?」
「いや……そんなはずは……あれ?」
……あれ? 四つ目のパスワードなんて、聞いてないぞ。いや、それを言うのならそもそも、パスワードそのものを聞いたわけじゃないけど……。
でも間違いなく優璃は、自分のこよなく愛するものをパスワードに設定していた。お気に入りの曲。ぬいぐるみ。駅前のパフェ。その三つはどれも、あいつがかねてから譲らず最も好んでいるものたちだ。確かに優璃には他にも好きなものがたくさんあるけど、極めて好んでいたものはその三つだ。これは間違いない。四つ目なんて思い浮かばない。
「まあいいや。アカウントを受け継いでるんだし、パスワードを知らないってことはないはずだよ。でないと君がここにいられるはずがないからね」
「知らないはずない……ま、まあ、そうなんですけど……」
俺は若干、混乱気味に反応する。
「とりあえず、起動の方法は分かったね。パスワードを入れたら武器が出てくるはずだから……あとは、偵察がてら思い出しなよ。あんまりもたもたしてると、敵に先越されるかもしれないし。ほら、ソラも待ちくたびれてるから」
説明が終わると、先輩は美術室の入口の方へ向かって俺の背を押し、出撃を促した。
言われた通り待ちくたびれていたソラは、俺が押しやられるとすぐに飛びついてきて、腕をつかんで引っ張っていく。
「くれぐれもやられないように。それと、尾行もされないようにね。これ以上戦力差が広がったり、自陣がばれたりしたら、まず勝ち目はないと思うから。いいねー」
まるで「気をつけていってらっしゃーい」の代わりと言わんばかりに、アリア先輩は手を振って告げる。美術室を出ていこうとする俺とソラに聞こえるように、大声で。敵に聞こえるんじゃないかと不安になるくらい、大声で。
結局、俺は整理のつかない頭のままで、ソラと偵察に向かうことになった。
「さ、行きまっ! じゃなかった……いきますよ~」
ソラは拳を突き上げて声を張ろうとしたが、慌てて自制をして、口に手を添えながら静かに気合を入れる。
「……っかしーなー」
一方、俺は四つ目のパスワードを特定しようと、頭の中をふらふら放浪していた。
「先輩! 先輩もコソコソ声で喋ってくださいよ! 偵察の雰囲気壊れちゃうでしょ!」
「雰囲気って……気にするところはそこかよ」
「パスワードばかり気にするよりはいいです。勝つために必要なのは、お姉さんの武器じゃなくて、偵察任務の完遂ですよ!」
「ま、まあ……」
「大丈夫ですって! 私が大活躍して、先輩のお願いを叶えてあげますから!」
「なんとも頼もしい気合だな」
「だってだって、アリア先輩がみんなで勝とうって言ったの、初めてなんですよ! 勝つためのゲームをするのは、初めてです。だから私、燃えてます! 先輩が気合入ってなさ過ぎなんです!」
南校は今まで、全くと言っていいほど優勝争いから外れていた。リーダーであるアリア先輩が、戦いを避けていたから。そして、他の皆も概ねその意向に沿うよう振舞っていたからだ。だから本気で勝ちを狙って戦うのは、ソラも初めてなのだ。
「何言ってんだ。俺も心の中では静かに燃えてるよ」
「本当ですかねえ」
まあ、ソラの言うことも一理ある。敵陣位置の特定は必要不可欠だ。これができないことには絶対に勝てない。パスワードのことは、動きながら頭の隅で考えることにしよう。
「ああ、本当だよ。よし、気合入れていこう。偵察だ。ちゃんと雰囲気も出してな」
俺はソラと同じくらいまで声量を落とす。
するとソラは、顔の前で親指をグッと立て、口の端をニッと釣り上げて笑った。
二人で静かに歩き出す。抜き足差し足。曲がり角では、壁に張り付いて先を確認しながら曲がる。完全に形から入るタイプ。しかし雰囲気を出すには一番手っ取り早い。
「まずは……どこから回るのがいいかな」
「そうですねえ。敵陣になってそうなところですかね」
「だからそれがどこかって話だろ」
「わかりませんよお。だから探すんですし」
…………そりゃそうなんだが。
「……よし、じゃあいくつか目星をつけて、順番に回ろう。ある程度確認したら、それが全部ハズレでも、一度アリア先輩たちに報告しに行く。で、どうだ?」
「先輩頼もしー!」
いや、お前も少しは頭使えよ。褒め言葉がミューみたいに棒読みじゃないだけマシだけどさ。
「敵は人数が多いし、広めのところから回ろう。南校で広いところだから……えっと、グラウンド、体育館、食堂とか」
「あとは講堂と、それからプールも広いですね」
「だな。とりあえずその五つを、近い順に回ろう。まずは……グラウンドとプールだ」
「了解です!」
グラウンドとプールは隣接している。グラウンドを確認しつつ通り抜けて、そのままプールへと向かうことにした。
俺とソラは野外へ出て、目的地の方へと歩く。もちろんここでも、抜き足差し足、壁伝いだ。霧のせいでほとんど視界がないから、敵の方も物音には気を使うだろう。できる限り静かに進む。
ある程度スピードも意識しつつ、まずは通りすがりにグラウンドを一瞥。
……うん、ひとえに静寂を保っていた。正直なところ、外縁からでは白い霧しか見えないが、それでも人の気配がないことが如実にわかる。誰一人いない。こりゃあプールも同様かな。そう思いながら一応、更衣室等々まで入って確認したが、やはりハズレであった。
「ちぇ。なかなか簡単にはいかないですね」
ソラがぼやく。
「そりゃ、そうだろ。この学校は広いからな。さ、次次」
「ですねえ。次は……食堂ですか?」
「そうだな。とりあえず食堂を見て……それもハズレだったら、講堂と体育館か。あとは道中でたまたま発見ってこともあるかもしれないし、目聡く注意しておきたいな」
当然だが、今候補にしているところ以外にも、広めのスポットは数多くある。
「てゆーか思ったんですけど、調べようとしてる場所がもしアタリだったら、たどり着く前に雰囲気でわかりそうなものじゃないですか? そもそも敵の姿とか見そうですし……逆に近づいても静かなまんまだったら、もうだいたいハズレですし」
「ま、まあな……でも、だからって油断するなよ」
はぁい、とソラは答えた。
気を取り直して、俺たちは食堂へと向かう。全校生徒を一度に収容……はてんでできないが、それでもかなりの広さを誇る場所だ。
「……つまんないです」
しかし期待とは裏腹に、たった一人の敵にすら会わず食堂へと到達してしまうと、ソラがテーブルの上でまたぼやいた。食堂もハズレだ。
「さて、次。次行くぞ~」
「せんぱぁい。もう飽きた」
「まだ三つ目だろうが」
「でもー。敵もいないんじゃ、何から隠れてるのかもわかんないですし」
しつこいようだが、この学校は広い。三つやそこら調べたからって、そう簡単に敵陣はみつからない。そんなことは容易に想像がつく。
地道に一つ一つ調べていくしかないのだ。少しずつ少しずつ、堅実に前へ進んでいくしかない。
二時間という制限時間は長くはないが、まだ余裕はある。まだ、焦ってはいけない。
「ほら、だから油断すん……」
俺が呆れてテーブル上のソラに言おうとすると、そこで突然、ソラが飛びかかってきた。
「――先輩伏せて!」
俺とソラは、二人して床に貼り付くことになる。
直後、複数ある出入り口のうち一つから、声が聞こえた。
「お~い、誰かいないかー……と。よし、食堂は違う、と」
「ちょっと、ちゃんと確認しなさいよ。よく見えないんだから」
「いや、ここまできて物音一つなかったらわかるだろ」
「でも食堂って広いんだからね」
ゆっくりと顔を上げると、霧の中に人影だけが見えた。声はそれらから発せられている。
「そうですね。だいたいでいいので、一通り見ておきましょう」
声は三種類。霧でよくは見えないが、間違いなく西校の連中だとわかった。彼らは敵の偵察隊の一組だろう。俺やソラと違ってほとんど隠密行動を意識していないのは、初めから優勢な西校側が目立っても、なんら問題はないからだろう。彼らは俺たちと違ってコソコソせず、南校の人間や陣地を見つけたら、とにかく目立って人を集めれば良いのだから。
俺とソラは二人で重なって、食堂内を歩く敵を警戒しながら身を潜めた。
「やべーって。中に入ってきたぞ」
互いに数センチのところまで顔が近づいており、ほとんど口パクのようにして話す。
「こうして伏せてじっとしてれば、何とかなりませんかね? 霧もあることですし」
「いや、わからんけど。でも、もし見つかったりしたらいっかんの終わりだ。ここで派手に戦うわけにはいかない」
「あ、やっぱ、戦うのはダメですかね?」
そりゃそうだ。何の作戦もなしに戦っても、俺たちに勝機はない。足取りもばれて、敵陣探しどころではなくなる。やつらを振り切らない限り自陣にだって戻ることはできなくなるし、増援を呼ばれたりしたら、いよいよどうしようもなくなってしまう。
俺は何度も首を横に振って「ダメ! 絶対!」の意思表示をした。
するとソラは「やっぱりですか」と答える。そして次の瞬間、うつ伏せのままフッと右手を軽く振り、彼女の自慢の武器であるところの白い装飾銃を出現させた。
……って、おい!
「バ、バカヤロ! だから戦っちゃダメだって――」
血迷ったのかと思い、俺はすぐにソラを止めようと慌てたが、一方のソラはそれを予期していたかのように落ち着いていた。左手でそっと俺を制してくる。
「わかってますよ先輩。ちゃんとわかってます。まあ、見ててください」
固まる俺の横で、ソラは短く息を吸い込んで止め、右手の銃を正面に構えて狙いを定めた。片手で銃を持っていること以外は、スナイパーが遠くから標的を狙うような光景である。
ぴったりと重なった身体を伝って、ソラの心音がわずかに大きく俺へと届く。直後、誰もいない空間に向かってトリガーが引かれた。
コンマ数秒だけ遅れて、遠く校舎の外からキンッという衝撃音が返ってくる。発砲音はほとんど聞こえなかった。
「――!?」
三人の敵が同時に、ビクッと反応を示すのがわかった。ついでに俺も似たような反応をした。
「……聞こえた?」
「ああ、確かに何か聞こえた。この辺りを偵察しているのは、俺たちだけのはずだが」
「じゃあ今のは……南校、ですかね?」
「外からだったな。行ってみよう」
西校の三人は短く意見を交わし合い、やがて同意に達すると、揃ってすぐさま食堂を出ていった。なるほど、ソラの狙いはこういうことか。
俺たちはその後、数秒ほどしてから静止を解いて、口を開いた。
「…………行っ……たか?」
「……はい。行きました」
「そうか。じゃあ……」
「追いかけますか!?」
「いや、とりあえず俺の上からどいてくれ」
「あ……すません」
ソラは、ごそごそと匍匐前進ならぬ匍匐後進で退き、俺から離れた。そしてゆっくりと体勢を直して立ち上がる。ついでに右手の銃をくるっと一回転させて消し去った。
俺も一息ついてから、身体を起こす。
「尾行するのはやめておこう。警戒中の敵を追うのは危険だ。それより、あいつらがきたのは体育館と講堂の方だった。ちょうど次に調べる場所だったし、そこへ向かう」
「ふむ、そうですか。りょーかーい」
ソラは片手を挙げ、間延びした声で返事をした。
一方で、俺の身体にはまだ震えが残っている。なんとかやり過ごせたが、正直、今のはかなりやばいと思った。早くも隠密行動の失敗を覚悟して、肝を冷やした。深呼吸をして、無理やり落ち着こうとするのにしばらくかかった。
二人で食堂をあとにする。
次の目的地は、体育館と講堂だ。この二つは野外の同じ区画にある。いっぺんに両方立ち寄れるが、現在地からより近いのは体育館の方なので、先にそちらへ向かうことにした。
さきほどの経験から、よりいっそう抜き足差し足を注意深く行い、外に出てからは木々の陰に身を隠しながら進む。ソラのやつは、口では飽きたと言っていたが、ここでもノリノリでスパイの真似事に励んでいた。いや、別に真似ではないか。今の俺たちはスパイそのものだ。
道中少しして、まったく物音を耳にしない状況が続くと、周囲のゴーストタウンっぷりを改めて認識する。霧のせいではぐれないようにとの意味も込めて、俺は極小の声でソラに尋ねた。
「なあ、ところでなんだが」
「はい?」
ぴったり真後ろから、同じく極小ボイスで返答がくる。
「さっき食堂で、武器を取り出してたよな」
「取り出してましたけど、それが何か?」
「今更なんだけど、端末をいじって出し入れするわけじゃないんだよな。いきなり腕を振っただけで出たり消えたり、まるで魔法みたいだ」
思い返せば、以前アリア先輩が大槍を使ったときも、ぶんっと得物を回すだけで消し去っていたものだ。
「あー、あれはですね。端末でショートカットコマンドを設定しておくんですよ。手を回すとか、指を鳴らすとか、そういう特定の動作を。すると次からはアプリケーションがその行動を読み取って、勝手に武器を出したり、しまったりしてくれるんです」
へえ。要するに、決めポーズを作っておけば、武器の展開と収納が素早くできると。
「台詞とかでもいいんですよ。音声コマンドですね」
「そういう仕組みだったのか」
考えてみれば当たり前か。わざわざ毎回のように端末のファイルから操作なんて、実際はやっていられない。敵の目の前でちまちま端末を操作してやっとこさ武器展開なんて、想像するまでもなくバカ丸出しである。皆、いざというときにすぐ取り出せるよう、そしてすぐに隠せるよう、事前に設定しておいているのだ。スタイリッシュかつ非常に便利。
「使い勝手のいい代物だな。かっこいいし。やっぱ、俺もそれほしいな」
考えないようにしていたパスワードの件が、また頭に浮かんでくる。
「せ・ん・ぱ・い! またそれですかー。気が散ってますよー」
しかしすぐに、ソラが顔をぬっと近づけて、注意をしてきた。はいはい、わかってるよ。任務優先、と。
自分専用の武器があれば、確かに戦いやすくはなる。でも、目指すフラッグの場所がわからなければ話にならない。ああ、ちゃんとわかっている。
俺は頭を振り、思考を切り替える努力をしながら、霧の中をせっせと進んだ。
うっすらと体育館の外壁、それと周りのテラスが見える位置までやってくる。なお、ここまで敵との遭遇はない。またソラがぼやくのだろうと、俺は思った。
けれども、ソラは隣で黙って何かを見つめていた。
「……どした?」
「……先輩、あれ」
その様子に誘われて、俺も白くぼやけた正面の景色を凝視する。すると、テラスのところに何やら三つの影を発見した。
「あ、あれって……」
「西校の偵察隊ですかね!」
食堂のときと同様、それ以外にあり得ないことはすぐわかった。
敵はテラスを歩いており、やがて扉をくぐって館内に消えていく。
俺たちはひとまず、近くの物陰に姿を隠した。
「追いかけますか!?」
嬉々としてソラが言う。判断を俺に委ねてはいるが、語調では既に追いかけたいと言っているようなものだった。まあ、さきほどと違って尾行をするという選択肢は、大いにありだろう。向こうは俺たちの存在に気づいていないのだ。
「そうだな。よし、出てくるまで待とうか」
体育館は俺たちの陣地ではないから、偵察隊もすぐにそれを悟り、戻ってくるだろう。出てきたら、俺たちはその後をつける。敵が陣地に戻るときまで、ばれないように。するとなんと、俺たちが探さなくても、自然と敵陣まで案内してもらえるというわけだ。なんと素晴らしいプラン。シンプルかつ確実。
成功必至の作戦を思い浮かべ、俺は今か今かと体育館の入口を見つめていた。
しかし予想に反して、なかなか待ち人たちは姿を現さない。
「……きませんよ?」
「ああ、こないな。何でだろう」
体育館なんて、踏み入って一通り歩けば、すぐに確認は終わるはずだ。あそこはひらけた空間だし、いくら霧が濃いからといっても、数分あれば十分だろうに。いったいなぜ……。
「あ……もしかして」
そのとき俺は思った。
何もない体育館からは、敵はすぐに戻ってくるはずだ。では逆に、敵がすぐに戻ってこないならば……。もしかして、もしかすると……これはつまり、体育館には何かがあるということではないだろうか。ならば……いったい何がある?
「……ソラ、中を見に行こう」
「え? 今からですか?」
そうだ。おそらく、そこには俺たちの目的とするものがあるのだ。そんな気がする。
「物音を立てるなよ。ゆっくりだぞ」
「え? え……え?」
ソラは戸惑っていたが、俺が進み出すと、疑問符を浮かべつつもあとに続いてきた。
テラスに忍び寄り、窓の傍で腰を屈め、桟の下からキノコのように頭だけを出して館内を見る。霧が視界を遮るが、目を凝らして何とか観察を試みる。
するとそこには、俺の予想通り、大きな西校の校章が入った旗――俺たちの奪い取るべきフラッグが、堂々と広い空間の中心を占めて立てられていた。当然ながら、周囲にはテラスで見た偵察隊の三人と、防衛担当であろう五人の西校メンバーがいる。全部で八人だ。
「あ」
隣では、ソラが口を開けたままにして驚いていた。ものすごく棚ぼたみたいな発見だから、まあ気持ちはわかる。けど声は出すなよ。敵に見つかるだろ。
俺は呆れてソラをたしなめようとした。
だが同時に、横を向いた俺の視線と、誰かのそれが交差した。さきほどまで誰もいなかったテラスの曲がり角の向こうに、ぼんやりと新しく影が現れたのだ。
思わず、俺まで口から声が出てしまう。
「あ」
また三人組だ。意外なことに割と容姿が判別でき、霧中でも男だけのグループだとわかった。距離が近いということだ。
彼らの眼前で、体育館の窓下に張り付く俺たち。ソラも遅れて横を向き、その場の五人は数秒の沈黙の中で硬直し、見つめ合った。
しかし、それも長くは続かない。俺の脳内で事態の処理が完了してくると、急速に身体が熱くなり、背筋に強い力が入った。
相手の方もほぼ同じタイミングで現状を理解したらしく、三人のうち一人が大仰に俺たちを指差して叫び声を上げる。
「あーーーー!」
瞬間、周囲の空気が張りつめた。
「やっべ」
俺はほとんど反射的に、ソラの手をとって走り出す。
「おい! 南校のやつらがいたぞ!」
「フラッグ見張ってたやつらは何やってんだ! 中だけじゃなくてちゃんとテラスまで見てろよ!」
背後では、沸騰したような勢いで西校の連中が騒ぎ出していた。もちろんだが、何人かは俺たちを追ってくるようだ。振り返ると人影の集団がもみくちゃになっている。
さて、これって本格的にやばいのではないだろうか。うん、やばい気がする。
敵の本拠地を見つけたはいいものの、アリア先輩たちに伝える前に捉えられては意味がない。かといって、敵を振り切るまでは自陣に戻ることもできない。願はくはゴタゴタなしで、颯爽と偵察任務をこなして自陣に帰還したかったけど、そうもいかないか。
「先輩、どうしましょう」
手を引く俺に身体を預けたまま、ソラが緊張感のなさそうな声で尋ねる。
「どうもこうも、とりあえず逃げるしかっ!」
「ま、そうですよねえ」
ソラを引っぱりながら全速力で体育館から離れ、俺は白い世界を駆けた。
俺は注意深く時間を確認しながら、遅れないように再び学校までやってきた。
夕方に帰宅してから家で少し休んできたのだが、その際に例のアプリケーションにはメールが届いていて、色々と指示が書かれていた。
決勝戦の開催場所は南校であること。開始時刻は通常通り十九時で、直前の十五分間にサインインをすること。サインインをしたら、開始までは美術室にて待機すること。
いつもはこんな連絡は入ってこないのに、何だろうか。やはり決勝戦だからか? だとしてもどうして美術室。
よくわからないこともあったが、ただそれはさておき、開催場所が南校だというのは嬉しい偶然だった。ホログラムの装飾が加わるとはいえ、ホームステージであることには変わりないので、地の利が活かせると思われる。戦いの運気が良好である証と受け取っておこう。
校門の前にたどり着いた俺は、一呼吸置いてから校内に足を踏み入れた。
瞬間、ひらひらした赤の装飾服に包まれて、夜の世界の俺になる。そういえば一部改変はしたものの、この優璃好みのゴシック人形のような服装は、そのうちちゃんと設定し直しておかなくてはいけないな。まったく、あんな性格で似合わない趣味しやがって。寓話のヒロインのような、可愛らしい夜の自分でも目指していたのだろうか。
俺はそんなことを考えながら、昼間とは違い下駄箱を素通りして、そのまま館内に入り、美術室の方へと向かった。土足入館みたいで最初のうちは変な気分だったが、もうだいたい慣れたものだ。周りの光景はまだ通常通りの薄暗い夜の学校だが、既にホログラムによる装飾は施されているはずである。ここでは砂や埃さえも、架空のもの。土足なんて関係ない。夜の世界での痕跡は、一切昼の世界には残らないのだ。
俺は廊下を歩いて階段を上っていると、その吹き抜けの空間を伝って、上方の踊り場に気配を感じた。
「こんばんは。ちゃんと遅れずにきたわね」
首を上げると、窓から差すリボンのような月明かりに照らされて、見慣れた独特の休息態勢をとる女性の姿があった。その口から発せられるのは、今となっては聞き慣れた声だ。
「く……じゃない。ミューか」
「そうそう。間違えないで、ちゃんとその名前で呼びなさいよ。昼間の私と、今の私は別人なんだから」
「あ、ああ……わかってるけど……。でもなあ、知っちゃうとかーなりインパクトあるんだよなあ」
彼女も今は、この世界であるべき姿になっているため、目元は隠され、装飾服を纏っている。ついこの間まで俺がここで会っていたミューと、何ら変わりはない。
でも、もう俺は、彼女が九条羽望だと知っている。透けるはずのないグラスの向こうに、俺を見下ろす九条の双眼が透けている。思いの外、複雑な気分だった。
「そう? 私は別に、そうでもないけど」
「さいですか」
俺はゆっくりと踊り場まで上り切り、彼女と同じ目線に立った。
「本当は、ばれたらまずいんだっけ?」
「前はそういう時もあったみたいだけど、今ではそんなに。アリア先輩が、秘密の方が面白いとか言っている程度よ」
「……さいですか」
要はどうでもいいってことか。必然的にそんな解釈に落ち着き、俺は嘆息した。
しかしミューは壁から背を離し、歩き出して言う。
「でも、ルールだからね。ちゃんと守るのよ。いいわね」
はあ、ルールねえ。まったくもって、律儀な性格だ。彼女のあとに続いて歩き始めつつ、俺は頭に感想を浮かべる。
そして二人で縦に並び、絶妙な間隔を空けながら進んでいく。近すぎず遠すぎず、互いに戸惑わないくらいの、過不足のない距離だ。
周囲には、自分とミューの足音以外に耳をつくものはない。同じ速さで歩いていると、ミューの方が俺よりもわずかに多い歩数を刻んでいることに意識が向いた。
ふと、俺はまた、口を開く。
「なあ、ところでさ。アリア先輩の正体、お前は知っているのか?」
「どうしたのよ。突然」
ミューは前を向いたまま答える。
「いや、東校戦のとき、あんな風に俺を助けたから……何者かと思って」
「昼間の先輩のことなら、私は知らないわ。あの人がとても強いのは知っていたけれど、それは一年生のとき、あなたのお姉さんたちに鍛えてもらったからだって言っていたわ」
「ああ……なるほど」
優璃と愉快な仲間たち直伝か。それを聞いて納得した。最強を誇っていた時代の強さを、アリア先輩はたった一人、継承しているということだったのだ。
無言でミューと歩いていると、数分で美術室に到着した。
入り口の扉を堂々と開け、ためらいもせずに彼女が中へ入ると、ぱらぱらと知った声での挨拶が聞こえる。アリア先輩たちは、もういるみたいだった。
少し遅れて、俺も入り口をくぐる。
「あっ! 先輩! こんばんはーです!」
すると、真っ先に反応したソラが飛びついてくるのが見えた。
俺はそれを、スッと横にずれてかわす。
「あーらら」
ソラは床に突っ込みそうになったが、体勢を立て直しながらヘラっと笑っていた。
対してルナの方は、大人しく控えめに頭を下げる。「こんばんは、先輩」と言って、ペコリ。
俺は二人分まとめて「おす」と返した。
ミューのやつは、既に手頃なポジションをみつけて壁にもたれている。
そんな中、部屋の奥の方で机に座っていたアリア先輩の顔が、俺へと振り向いた。
「やあレイ。ミュウミュウと、一緒だったのかい?」
「ええ、まあ。くるときに廊下でばったり会って」
本当はミューに待ち伏せされていた気がしたけれど、そういうことにしておいた。
「じゃあ始まる前に、約束通り君の演説を聞こうかな。時間がないから手短に、でもしっかりとミュウミュウの心を動かすような、力のこもったものを期待するよ」
先輩は机からバッと飛び降りつつ、口元をニッと釣り上げて笑った。
そういやそんな話もあったな、と俺は思い出す。どうしよう、何も考えてない。でも、よく考えたら、もうこれってやらなくていいんじゃ……。
俺が戸惑っていると、横から短い発言があった。
「必要ないですよ」
ですよね。
まるで俺の心の疑問に答えたかのような、ミューの言葉。俺はそれに、内心で同意した。
「演説はいりません。私も、彼に協力することにしましたから」
アリア先輩が「ん?」とミューに視線を向ける。
「おや、なんと。こりゃあまた意外な話だねえ。だってミュウミュウは、今回の戦いには反対だったはずじゃないのかい?」
「さっきここへくるまでに、ちょっと彼と話したんですよ。仕方ないから、協力することにしました。アリア先輩も、その方が嬉しいのでしょう」
「へえ……。へええ~」
するとアリア先輩は、感心したようにへえへえ言いながら、ミューの方へと寄っていった。そして顔を逸らすミューの正面にわざと何度も回り込んで、下方から鼻と鼻が触れるくらいにまで近づく。
「ミュウミュウったら、どうしちゃったの? いつもあんなに頑固なミュウミュウがさ。もしレイの演説で駄目だったら、私が頼み倒そうかなって考えてたくらいなのに~」
声があからさまにニヤニヤしている。ミューはすっごく迷惑そうに離れようとしているが、アリア先輩が追いかけるので、さらに嫌そうにしている。
「み、ミュウミュウって呼ばないでください……」
「んっふふ~。なーにさミュウミュウ、今回はやけに素直だねえ。何かいいことでもあったの~?」
「な、なんにもないですよ。ちょっと……アリア先輩。あんまり顔、近づけないで……。抱きつくのもやめてください。あとミュウミュウって呼ばないでくださ……きゃっ!」
ついにミューは定位置を放棄して逃げようとしたが、もたれかかっていた壁の支えをなくしてふらつく。そこにアリア先輩は構わず抱きついていたものだから、二人で一緒になって床に倒れ込んだ。ミューが下、アリア先輩が上。アリア先輩に退こうとする気配はなく、倒れてもずっとミューにひっついている。
面白そうだと、横から一緒に倒れ込もうとしていたソラは、傍のルナにやんわり止められていた。
「ちょっともう! アリア先輩! 離れてください!」
ミューがむきになって、アリア先輩の顔をひっぺがそうとしている。
アリア先輩は頬を押されてのけぞったまま、俺の方へ向き直って嬉しそうに告げた。
「やったよレイ! これで晴れて、南校五人で決勝だよ! 頑張ろうね!」
俺は、苦笑いを向けるばかりだった。
おいおい……始まるまであと五分もないのに。んなことやってる場合かよ。
そう思ったけれども、目の前のじゃれ合いは、ミューがいよいよ怒って先輩に蹴りを入れるに至るまで続いた。あのミューには似つかわしくないほど感情を露わにした蹴りだったが、アリア先輩は避けもせずにそれを受けつつヘラヘラしていた。響く音を聞く限り、とても痛そうな蹴りだったが、どうなんだろうか。
そうしてひとしきり満足したらしいアリア先輩が、机の上に仁王立ちで腕を組みながら宣言する。
「さてっ! 始まるまでの残りの時間は、作戦会議かな!」
ちらりとミューの方を見ると、既にいつもと変わらない様子だが、それとなくアリア先輩から一番離れた位置取りをしているのがわかった。
「いえーい! 作戦会議ー!」
ソラが無駄に囃し立てる。
「このメンバーでの決勝戦は初めてだね。記念すべき初優勝を狙うわけだ。それでまずルールの確認だけど、決勝ではどちらのチームにもフラッグが用意される。各々が陣地にあるフラッグを守りながら戦うんだ。今までみたいに、片方が守って片方が攻めるのとは違う。対して、目的は今までと同じく、相手チームのフラッグを奪取することだ。いいね」
アリア先輩は、つらつらとルールを語り始めた。
どうやら決勝は、予選とルールが違うみたいだ。守りつつ攻めることが前提。チームとしては、最低でもそれなりの頭数が必要になるだろう。
しかし繰り返すが、南校は五人だ。その五人が、最低限の頭数を満たしているかと言えば、不安は消えない。
「私たちの陣地はここ、美術室だ。敵陣の方も既に決まっていて、私たちみたいに待機していることだろう。互いに陣地の場所は知らされない。そこで大事なのは、いち早く敵陣の正確な位置をつかむこと。自陣の位置を敵に知られないこと。この二つだ。敵のフラッグをいつでも狙えて、でも自陣に戻れば安全地帯。そんな展開にもっていくことができれば、これ以上の理想はないよ」
アリア先輩は、予選とルールの違う決勝の立ち回りについても詳しい様子だった。二年前、優璃やその仲間と一緒によく決勝へ出ていたからだろう。
「というわけで、我々のチームは人少なだが、でも最低二組には分かれなければならないね。敵陣を探る偵察組と、自陣を守る防衛組に」
俺とソラとルナとミュー。それぞれに目配せをして、先輩は言った。
「はーい! 分かれるなら、三人と二人だと思いまーす。一人で動くのは危険だし」
「うんうん。単独行動はリスクが大きすぎるから、やめた方がいい。その通りだね」
先輩が分かりやすく俺の方を見ながら、ソラの提案に賛成する。
嫌味かちくしょう。そう思ったが、からかわれても反論はできない。そそくさと話の流れに乗るのみだ。
「そ、その通りですよね。じ、じゃあ、まずはとりあえず、偵察と防衛の分け方を決めませんか」
「そうだねえ。うん、そうしようか~」
俺が誤魔化すのを見て、アリア先輩はまだニヤニヤしている。ミューをからかったあとは俺か……。今日は随分と機嫌がよろしそうで何より。
「ま、偵察組に二人、防衛組に三人だね。二人の方がはぐれにくいし、出来るだけ慎重に動いて、戦闘は避ける方針で。防衛組の方は、敵がたまたまここへきた場合にそいつを必ずしとめなきゃならないから三人……って感じかな」
「はいはーい! 私! 私、偵察組! やりたいでっす! はりきって敵、探すよー!」
人数の分け方がアリア先輩から提案されると、すかさずソラが元気良く立候補をした。
「ソラか。うんまあ、ソラはじっとしてるの苦手だしねー。そう言うと思ってたけど」
「いいと思いますよ。あと、俺も偵察組にします。俺も今はじっとしてられないから、できるだけ動きたいんで」
「ほう、そうなのかい」
「防衛組、任せていいですか」
「おー、いいよいいよー。なんだ、すんなり決まっちゃったね」
ルナとミューは黙っていたが、こちらの話は聞いていたようだ。異議がないのは、了承ということだろう。
結論、俺とソラが偵察組。残りのアリア先輩、ルナ、ミューが防衛組だ。
わずか五人の作戦会議はすぐに完了する。ものの五分もかからなかった。実際のところは運も絡むし、あとはゲームが始まってからの状況次第だろう。
そうしてゲーム開始が目前となると、アリア先輩とソラはそわそわして、カウントダウンなんかをし始めた。
「アリア先輩! もうすぐ十九時ですよ! 十九時!」
「いよいよだなー! わくわくするなー! お、ソラ! あと十秒だぞ!」
「はーい! いきますよー! 九!」
「八!」
「七!」
「六!」
ぴょんぴょん跳ねながら、二人は交互に大声で数える。ごー! よーん! と言って戯れる。
「さーん!」
ていうか、こんなにうるさくして、敵にはばれないのだろうか。開始前とはいえ、流石に少し不安になる。
「にー!」
無邪気なカウントダウンが、段々とゲームの開始まで迫る。直前までくると俺もつられてそわそわし、心臓の鼓動が早くなった。
「いーち!」
いよいよだ。いよいよ始まる。大切なものを、あの場所を守る戦いが始まる。一瞬たりとも気は抜かない。勝ちにいくんだ。
「「ぜーろー!」」
アリア先輩とソラが揃って手を振り上げる。俺が最後のカウントを聞いた直後、みるみるうちに世界が変わり出していくのがわかった。
ゲーム開始の合図、ステージの展開だ。敷地の中心の方から、まるで波紋のような光が広がってきて、それが美術室の窓からコマ送りみたいによく見えた。
二重三重の円波動が、見慣れた南校の風貌を、人工的でディジタルな光に包み込んでいく。夜を迎えて暗がりになっていた周りは一斉に輝き始め、画素を一つ一つ書き換えるかのように、ホログラムによって再構築されていく。
そして異様に体感時間の長い数秒が過ぎ去ると、辺りは忽然と、真っ白い霧に包まれていた。
「……って、あれ? 見にくくなったけど」
「見にくくっていうか、見えませんけど。真っ白で」
はしゃいでいた二人から、妙に冷静なコメントが聞こえる。カウントダウンを終えて、途端に素に戻ったようだ。俺は二人から少し離れたところに立っていたせいか、白くぼやけた影だけが見えた。
うーん……ソラの言う通り、これは白い。真っ白だ。その原因が相当な濃霧であることはすぐに分かった。視界が数メートル程度しかない。
もちろんステージが展開された影響だろう。近場にあった柱や机を確認すると、まるで朽木を固めて作ったような、古びて廃れた風貌になっていた。
「いい趣味してるわね」
背後から足音と共に、そんなことを言われる。視界が悪くなったからだろう、ミューが部屋の隅から傍へと寄ってきたのだ。
「こりゃ、ゴーストタウンみたいだな」
「みたいっていうか、そのものよね。決勝戦のステージがゴーストタウンなんて」
「やな趣味だろ。不気味だし」
「超怖いわね」
超棒読みで怖いとか言われても困る。お化けも立ち去る超冷めた感想を言いながら、ミューはアリア先輩とソラのいる部屋の中心へ進んだ。
「チーム諸君ー。見にくいから、もっと近くへー集合ー!」
俺も続いて、号令口調のアリア先輩の周りに集まる。
すると、そこにはいつの間にかフラッグが出現していた。予選のときよりもさらに一回り大きいもので、俺たちの背丈の倍近くある。よく見ると、布の部分には南校のマーク刻まれていた。
先輩はその巨大なフラッグに寄りかかり、軽快に告げる。
「んじゃま、すっごい見にくいけど、とりあえず予定通りにいこっか。こいつが私たちのフラッグ。大事な大事なフラッグだ。私たちはこいつを守るから、レイとソラは偵察よろしく。敵から隠れながら動くなら、逆にこの霧もメリットかもね。ああ、ソラの銃は使うと居場所がばれるから、ちょっと不都合かもだけど」
「いえいえ、そんなことありませんよ! 私は隠れて狙撃もできます! サイレントモードで使えば、敵にだって見つかりません!」
「お、そんなことできるのかい。高性能だねー」
見ると、ソラはどこからともなく自慢の白い装飾銃を取り出し、シュビッと構えてポーズをしていた。今回も初めから武器を使用するようだ。
どうでもいいが、見た目が真っ白なソラにとって、このステージは保護色になり過ぎている。被って見えない。反対に真っ黒なルナと比べると、歴然たる差があった。滅多に敵には見つからなさそうだが、下手をすると俺まではぐれそうだ……。
それと、ソラの銃を目にして、俺は思い出したことがあった。これは実は、少し前から気になっていたことだった。
「ところでアリア先輩。その、武器についてなんですけど」
「ん?」
「あれって、みんな持ってるものなんですよね? 姉貴のやつは、何か使っていませんでしたか?」
普段は、切り札としてなかなか使わないもの。それでもやはり、皆がそれぞれ所持しているもののはずだ。俺は前回のゲームで、助けてもらったときにアリア先輩の武器をたまたま見た。そういったものが優璃にもあったのではないかと考えたのだ。
質問の答えは予想通りだった。
「あー……あるよ。うん、あるある。そっか。普通は色々設定しないといけないんだけど、君はリフィア先輩のアカウントをそのまんま継いでるから、すぐに使えるかもね。もしそれが使えれば、いい戦力になると思うよ」
「本当ですか! それ、どうやって使うかわかりますか? できれば偵察に出る前に」
「うんうん。ちょっと貸してみな」
アリア先輩は快く頷くと、俺の端末を覗き込んでスラスラと操作の説明をしてくれた。
今まで見聞きした限り、個人専用の武器は、このゲームで多大な威力を発揮できる。それを特に如実に物語っているのは、紛れもないソラとルナだ。もし使うことができたなら、間違いなく様々な場面で、俺が優位に立ち回るための材料になる。本来は切り札だから、そう易々とは使えない。とは言うが、俺にとっては今日こそが全てなのだ。ここで使わずして、いつ使う。
端末では操作が進む。アリア先輩の指示で、このゲームに関するアプリケーションのフォルダを次々と開けていくが、俺はほとんど見たことがないのでよくわからない。以前に服の設定をしたときにも似たような操作をしたものだが、しかし未だにちんぷんかんぷんだ。ただただ内心のはやる想いを必死に抑えている。
「あれ、これパスワードかかってるじゃないか」
だが、先輩の口からまず飛び出た言葉は、予想だにしないものだった。
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が上がる。確かに、画面は何かの入力を要求してきている。
「これ、アカウント引き継ぎのときにかけるパスワードだね。リフィア先輩がかけたやつだ」
パスワードって……アカウントを受け継いだあと、要所で必要になるという、あのパスワード?
「パ……いや、そんなはずないですよ。フォルダ操作に必要なパスワードは、前に解除したはず……」
「でも現にかかってるんだよ。フォルダの操作はできるけど、武器の起動にだけ、また別でかかってるみたいだ。これは私じゃ、どうにもならない」
優璃がかけたパスワードは、最初のうちに解除したはずだ。ちゃんと三つ解除をした。候補だったパスワードは、全部打ち込んだはずだ。
「……あれ?」
「あれって……リフィア先輩から聞いてないのかい? それとも、忘れたとか?」
「いや……そんなはずは……あれ?」
……あれ? 四つ目のパスワードなんて、聞いてないぞ。いや、それを言うのならそもそも、パスワードそのものを聞いたわけじゃないけど……。
でも間違いなく優璃は、自分のこよなく愛するものをパスワードに設定していた。お気に入りの曲。ぬいぐるみ。駅前のパフェ。その三つはどれも、あいつがかねてから譲らず最も好んでいるものたちだ。確かに優璃には他にも好きなものがたくさんあるけど、極めて好んでいたものはその三つだ。これは間違いない。四つ目なんて思い浮かばない。
「まあいいや。アカウントを受け継いでるんだし、パスワードを知らないってことはないはずだよ。でないと君がここにいられるはずがないからね」
「知らないはずない……ま、まあ、そうなんですけど……」
俺は若干、混乱気味に反応する。
「とりあえず、起動の方法は分かったね。パスワードを入れたら武器が出てくるはずだから……あとは、偵察がてら思い出しなよ。あんまりもたもたしてると、敵に先越されるかもしれないし。ほら、ソラも待ちくたびれてるから」
説明が終わると、先輩は美術室の入口の方へ向かって俺の背を押し、出撃を促した。
言われた通り待ちくたびれていたソラは、俺が押しやられるとすぐに飛びついてきて、腕をつかんで引っ張っていく。
「くれぐれもやられないように。それと、尾行もされないようにね。これ以上戦力差が広がったり、自陣がばれたりしたら、まず勝ち目はないと思うから。いいねー」
まるで「気をつけていってらっしゃーい」の代わりと言わんばかりに、アリア先輩は手を振って告げる。美術室を出ていこうとする俺とソラに聞こえるように、大声で。敵に聞こえるんじゃないかと不安になるくらい、大声で。
結局、俺は整理のつかない頭のままで、ソラと偵察に向かうことになった。
「さ、行きまっ! じゃなかった……いきますよ~」
ソラは拳を突き上げて声を張ろうとしたが、慌てて自制をして、口に手を添えながら静かに気合を入れる。
「……っかしーなー」
一方、俺は四つ目のパスワードを特定しようと、頭の中をふらふら放浪していた。
「先輩! 先輩もコソコソ声で喋ってくださいよ! 偵察の雰囲気壊れちゃうでしょ!」
「雰囲気って……気にするところはそこかよ」
「パスワードばかり気にするよりはいいです。勝つために必要なのは、お姉さんの武器じゃなくて、偵察任務の完遂ですよ!」
「ま、まあ……」
「大丈夫ですって! 私が大活躍して、先輩のお願いを叶えてあげますから!」
「なんとも頼もしい気合だな」
「だってだって、アリア先輩がみんなで勝とうって言ったの、初めてなんですよ! 勝つためのゲームをするのは、初めてです。だから私、燃えてます! 先輩が気合入ってなさ過ぎなんです!」
南校は今まで、全くと言っていいほど優勝争いから外れていた。リーダーであるアリア先輩が、戦いを避けていたから。そして、他の皆も概ねその意向に沿うよう振舞っていたからだ。だから本気で勝ちを狙って戦うのは、ソラも初めてなのだ。
「何言ってんだ。俺も心の中では静かに燃えてるよ」
「本当ですかねえ」
まあ、ソラの言うことも一理ある。敵陣位置の特定は必要不可欠だ。これができないことには絶対に勝てない。パスワードのことは、動きながら頭の隅で考えることにしよう。
「ああ、本当だよ。よし、気合入れていこう。偵察だ。ちゃんと雰囲気も出してな」
俺はソラと同じくらいまで声量を落とす。
するとソラは、顔の前で親指をグッと立て、口の端をニッと釣り上げて笑った。
二人で静かに歩き出す。抜き足差し足。曲がり角では、壁に張り付いて先を確認しながら曲がる。完全に形から入るタイプ。しかし雰囲気を出すには一番手っ取り早い。
「まずは……どこから回るのがいいかな」
「そうですねえ。敵陣になってそうなところですかね」
「だからそれがどこかって話だろ」
「わかりませんよお。だから探すんですし」
…………そりゃそうなんだが。
「……よし、じゃあいくつか目星をつけて、順番に回ろう。ある程度確認したら、それが全部ハズレでも、一度アリア先輩たちに報告しに行く。で、どうだ?」
「先輩頼もしー!」
いや、お前も少しは頭使えよ。褒め言葉がミューみたいに棒読みじゃないだけマシだけどさ。
「敵は人数が多いし、広めのところから回ろう。南校で広いところだから……えっと、グラウンド、体育館、食堂とか」
「あとは講堂と、それからプールも広いですね」
「だな。とりあえずその五つを、近い順に回ろう。まずは……グラウンドとプールだ」
「了解です!」
グラウンドとプールは隣接している。グラウンドを確認しつつ通り抜けて、そのままプールへと向かうことにした。
俺とソラは野外へ出て、目的地の方へと歩く。もちろんここでも、抜き足差し足、壁伝いだ。霧のせいでほとんど視界がないから、敵の方も物音には気を使うだろう。できる限り静かに進む。
ある程度スピードも意識しつつ、まずは通りすがりにグラウンドを一瞥。
……うん、ひとえに静寂を保っていた。正直なところ、外縁からでは白い霧しか見えないが、それでも人の気配がないことが如実にわかる。誰一人いない。こりゃあプールも同様かな。そう思いながら一応、更衣室等々まで入って確認したが、やはりハズレであった。
「ちぇ。なかなか簡単にはいかないですね」
ソラがぼやく。
「そりゃ、そうだろ。この学校は広いからな。さ、次次」
「ですねえ。次は……食堂ですか?」
「そうだな。とりあえず食堂を見て……それもハズレだったら、講堂と体育館か。あとは道中でたまたま発見ってこともあるかもしれないし、目聡く注意しておきたいな」
当然だが、今候補にしているところ以外にも、広めのスポットは数多くある。
「てゆーか思ったんですけど、調べようとしてる場所がもしアタリだったら、たどり着く前に雰囲気でわかりそうなものじゃないですか? そもそも敵の姿とか見そうですし……逆に近づいても静かなまんまだったら、もうだいたいハズレですし」
「ま、まあな……でも、だからって油断するなよ」
はぁい、とソラは答えた。
気を取り直して、俺たちは食堂へと向かう。全校生徒を一度に収容……はてんでできないが、それでもかなりの広さを誇る場所だ。
「……つまんないです」
しかし期待とは裏腹に、たった一人の敵にすら会わず食堂へと到達してしまうと、ソラがテーブルの上でまたぼやいた。食堂もハズレだ。
「さて、次。次行くぞ~」
「せんぱぁい。もう飽きた」
「まだ三つ目だろうが」
「でもー。敵もいないんじゃ、何から隠れてるのかもわかんないですし」
しつこいようだが、この学校は広い。三つやそこら調べたからって、そう簡単に敵陣はみつからない。そんなことは容易に想像がつく。
地道に一つ一つ調べていくしかないのだ。少しずつ少しずつ、堅実に前へ進んでいくしかない。
二時間という制限時間は長くはないが、まだ余裕はある。まだ、焦ってはいけない。
「ほら、だから油断すん……」
俺が呆れてテーブル上のソラに言おうとすると、そこで突然、ソラが飛びかかってきた。
「――先輩伏せて!」
俺とソラは、二人して床に貼り付くことになる。
直後、複数ある出入り口のうち一つから、声が聞こえた。
「お~い、誰かいないかー……と。よし、食堂は違う、と」
「ちょっと、ちゃんと確認しなさいよ。よく見えないんだから」
「いや、ここまできて物音一つなかったらわかるだろ」
「でも食堂って広いんだからね」
ゆっくりと顔を上げると、霧の中に人影だけが見えた。声はそれらから発せられている。
「そうですね。だいたいでいいので、一通り見ておきましょう」
声は三種類。霧でよくは見えないが、間違いなく西校の連中だとわかった。彼らは敵の偵察隊の一組だろう。俺やソラと違ってほとんど隠密行動を意識していないのは、初めから優勢な西校側が目立っても、なんら問題はないからだろう。彼らは俺たちと違ってコソコソせず、南校の人間や陣地を見つけたら、とにかく目立って人を集めれば良いのだから。
俺とソラは二人で重なって、食堂内を歩く敵を警戒しながら身を潜めた。
「やべーって。中に入ってきたぞ」
互いに数センチのところまで顔が近づいており、ほとんど口パクのようにして話す。
「こうして伏せてじっとしてれば、何とかなりませんかね? 霧もあることですし」
「いや、わからんけど。でも、もし見つかったりしたらいっかんの終わりだ。ここで派手に戦うわけにはいかない」
「あ、やっぱ、戦うのはダメですかね?」
そりゃそうだ。何の作戦もなしに戦っても、俺たちに勝機はない。足取りもばれて、敵陣探しどころではなくなる。やつらを振り切らない限り自陣にだって戻ることはできなくなるし、増援を呼ばれたりしたら、いよいよどうしようもなくなってしまう。
俺は何度も首を横に振って「ダメ! 絶対!」の意思表示をした。
するとソラは「やっぱりですか」と答える。そして次の瞬間、うつ伏せのままフッと右手を軽く振り、彼女の自慢の武器であるところの白い装飾銃を出現させた。
……って、おい!
「バ、バカヤロ! だから戦っちゃダメだって――」
血迷ったのかと思い、俺はすぐにソラを止めようと慌てたが、一方のソラはそれを予期していたかのように落ち着いていた。左手でそっと俺を制してくる。
「わかってますよ先輩。ちゃんとわかってます。まあ、見ててください」
固まる俺の横で、ソラは短く息を吸い込んで止め、右手の銃を正面に構えて狙いを定めた。片手で銃を持っていること以外は、スナイパーが遠くから標的を狙うような光景である。
ぴったりと重なった身体を伝って、ソラの心音がわずかに大きく俺へと届く。直後、誰もいない空間に向かってトリガーが引かれた。
コンマ数秒だけ遅れて、遠く校舎の外からキンッという衝撃音が返ってくる。発砲音はほとんど聞こえなかった。
「――!?」
三人の敵が同時に、ビクッと反応を示すのがわかった。ついでに俺も似たような反応をした。
「……聞こえた?」
「ああ、確かに何か聞こえた。この辺りを偵察しているのは、俺たちだけのはずだが」
「じゃあ今のは……南校、ですかね?」
「外からだったな。行ってみよう」
西校の三人は短く意見を交わし合い、やがて同意に達すると、揃ってすぐさま食堂を出ていった。なるほど、ソラの狙いはこういうことか。
俺たちはその後、数秒ほどしてから静止を解いて、口を開いた。
「…………行っ……たか?」
「……はい。行きました」
「そうか。じゃあ……」
「追いかけますか!?」
「いや、とりあえず俺の上からどいてくれ」
「あ……すません」
ソラは、ごそごそと匍匐前進ならぬ匍匐後進で退き、俺から離れた。そしてゆっくりと体勢を直して立ち上がる。ついでに右手の銃をくるっと一回転させて消し去った。
俺も一息ついてから、身体を起こす。
「尾行するのはやめておこう。警戒中の敵を追うのは危険だ。それより、あいつらがきたのは体育館と講堂の方だった。ちょうど次に調べる場所だったし、そこへ向かう」
「ふむ、そうですか。りょーかーい」
ソラは片手を挙げ、間延びした声で返事をした。
一方で、俺の身体にはまだ震えが残っている。なんとかやり過ごせたが、正直、今のはかなりやばいと思った。早くも隠密行動の失敗を覚悟して、肝を冷やした。深呼吸をして、無理やり落ち着こうとするのにしばらくかかった。
二人で食堂をあとにする。
次の目的地は、体育館と講堂だ。この二つは野外の同じ区画にある。いっぺんに両方立ち寄れるが、現在地からより近いのは体育館の方なので、先にそちらへ向かうことにした。
さきほどの経験から、よりいっそう抜き足差し足を注意深く行い、外に出てからは木々の陰に身を隠しながら進む。ソラのやつは、口では飽きたと言っていたが、ここでもノリノリでスパイの真似事に励んでいた。いや、別に真似ではないか。今の俺たちはスパイそのものだ。
道中少しして、まったく物音を耳にしない状況が続くと、周囲のゴーストタウンっぷりを改めて認識する。霧のせいではぐれないようにとの意味も込めて、俺は極小の声でソラに尋ねた。
「なあ、ところでなんだが」
「はい?」
ぴったり真後ろから、同じく極小ボイスで返答がくる。
「さっき食堂で、武器を取り出してたよな」
「取り出してましたけど、それが何か?」
「今更なんだけど、端末をいじって出し入れするわけじゃないんだよな。いきなり腕を振っただけで出たり消えたり、まるで魔法みたいだ」
思い返せば、以前アリア先輩が大槍を使ったときも、ぶんっと得物を回すだけで消し去っていたものだ。
「あー、あれはですね。端末でショートカットコマンドを設定しておくんですよ。手を回すとか、指を鳴らすとか、そういう特定の動作を。すると次からはアプリケーションがその行動を読み取って、勝手に武器を出したり、しまったりしてくれるんです」
へえ。要するに、決めポーズを作っておけば、武器の展開と収納が素早くできると。
「台詞とかでもいいんですよ。音声コマンドですね」
「そういう仕組みだったのか」
考えてみれば当たり前か。わざわざ毎回のように端末のファイルから操作なんて、実際はやっていられない。敵の目の前でちまちま端末を操作してやっとこさ武器展開なんて、想像するまでもなくバカ丸出しである。皆、いざというときにすぐ取り出せるよう、そしてすぐに隠せるよう、事前に設定しておいているのだ。スタイリッシュかつ非常に便利。
「使い勝手のいい代物だな。かっこいいし。やっぱ、俺もそれほしいな」
考えないようにしていたパスワードの件が、また頭に浮かんでくる。
「せ・ん・ぱ・い! またそれですかー。気が散ってますよー」
しかしすぐに、ソラが顔をぬっと近づけて、注意をしてきた。はいはい、わかってるよ。任務優先、と。
自分専用の武器があれば、確かに戦いやすくはなる。でも、目指すフラッグの場所がわからなければ話にならない。ああ、ちゃんとわかっている。
俺は頭を振り、思考を切り替える努力をしながら、霧の中をせっせと進んだ。
うっすらと体育館の外壁、それと周りのテラスが見える位置までやってくる。なお、ここまで敵との遭遇はない。またソラがぼやくのだろうと、俺は思った。
けれども、ソラは隣で黙って何かを見つめていた。
「……どした?」
「……先輩、あれ」
その様子に誘われて、俺も白くぼやけた正面の景色を凝視する。すると、テラスのところに何やら三つの影を発見した。
「あ、あれって……」
「西校の偵察隊ですかね!」
食堂のときと同様、それ以外にあり得ないことはすぐわかった。
敵はテラスを歩いており、やがて扉をくぐって館内に消えていく。
俺たちはひとまず、近くの物陰に姿を隠した。
「追いかけますか!?」
嬉々としてソラが言う。判断を俺に委ねてはいるが、語調では既に追いかけたいと言っているようなものだった。まあ、さきほどと違って尾行をするという選択肢は、大いにありだろう。向こうは俺たちの存在に気づいていないのだ。
「そうだな。よし、出てくるまで待とうか」
体育館は俺たちの陣地ではないから、偵察隊もすぐにそれを悟り、戻ってくるだろう。出てきたら、俺たちはその後をつける。敵が陣地に戻るときまで、ばれないように。するとなんと、俺たちが探さなくても、自然と敵陣まで案内してもらえるというわけだ。なんと素晴らしいプラン。シンプルかつ確実。
成功必至の作戦を思い浮かべ、俺は今か今かと体育館の入口を見つめていた。
しかし予想に反して、なかなか待ち人たちは姿を現さない。
「……きませんよ?」
「ああ、こないな。何でだろう」
体育館なんて、踏み入って一通り歩けば、すぐに確認は終わるはずだ。あそこはひらけた空間だし、いくら霧が濃いからといっても、数分あれば十分だろうに。いったいなぜ……。
「あ……もしかして」
そのとき俺は思った。
何もない体育館からは、敵はすぐに戻ってくるはずだ。では逆に、敵がすぐに戻ってこないならば……。もしかして、もしかすると……これはつまり、体育館には何かがあるということではないだろうか。ならば……いったい何がある?
「……ソラ、中を見に行こう」
「え? 今からですか?」
そうだ。おそらく、そこには俺たちの目的とするものがあるのだ。そんな気がする。
「物音を立てるなよ。ゆっくりだぞ」
「え? え……え?」
ソラは戸惑っていたが、俺が進み出すと、疑問符を浮かべつつもあとに続いてきた。
テラスに忍び寄り、窓の傍で腰を屈め、桟の下からキノコのように頭だけを出して館内を見る。霧が視界を遮るが、目を凝らして何とか観察を試みる。
するとそこには、俺の予想通り、大きな西校の校章が入った旗――俺たちの奪い取るべきフラッグが、堂々と広い空間の中心を占めて立てられていた。当然ながら、周囲にはテラスで見た偵察隊の三人と、防衛担当であろう五人の西校メンバーがいる。全部で八人だ。
「あ」
隣では、ソラが口を開けたままにして驚いていた。ものすごく棚ぼたみたいな発見だから、まあ気持ちはわかる。けど声は出すなよ。敵に見つかるだろ。
俺は呆れてソラをたしなめようとした。
だが同時に、横を向いた俺の視線と、誰かのそれが交差した。さきほどまで誰もいなかったテラスの曲がり角の向こうに、ぼんやりと新しく影が現れたのだ。
思わず、俺まで口から声が出てしまう。
「あ」
また三人組だ。意外なことに割と容姿が判別でき、霧中でも男だけのグループだとわかった。距離が近いということだ。
彼らの眼前で、体育館の窓下に張り付く俺たち。ソラも遅れて横を向き、その場の五人は数秒の沈黙の中で硬直し、見つめ合った。
しかし、それも長くは続かない。俺の脳内で事態の処理が完了してくると、急速に身体が熱くなり、背筋に強い力が入った。
相手の方もほぼ同じタイミングで現状を理解したらしく、三人のうち一人が大仰に俺たちを指差して叫び声を上げる。
「あーーーー!」
瞬間、周囲の空気が張りつめた。
「やっべ」
俺はほとんど反射的に、ソラの手をとって走り出す。
「おい! 南校のやつらがいたぞ!」
「フラッグ見張ってたやつらは何やってんだ! 中だけじゃなくてちゃんとテラスまで見てろよ!」
背後では、沸騰したような勢いで西校の連中が騒ぎ出していた。もちろんだが、何人かは俺たちを追ってくるようだ。振り返ると人影の集団がもみくちゃになっている。
さて、これって本格的にやばいのではないだろうか。うん、やばい気がする。
敵の本拠地を見つけたはいいものの、アリア先輩たちに伝える前に捉えられては意味がない。かといって、敵を振り切るまでは自陣に戻ることもできない。願はくはゴタゴタなしで、颯爽と偵察任務をこなして自陣に帰還したかったけど、そうもいかないか。
「先輩、どうしましょう」
手を引く俺に身体を預けたまま、ソラが緊張感のなさそうな声で尋ねる。
「どうもこうも、とりあえず逃げるしかっ!」
「ま、そうですよねえ」
ソラを引っぱりながら全速力で体育館から離れ、俺は白い世界を駆けた。
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