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第三章 姉弟の願い
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あえなく敵に追われることとなった俺とソラは、一目散に体育館から離れて校舎内へと逃げ込み、駆けずり回った挙句に敷地の隅の方にある教室に身を隠した。その教室は、察するに昼間もほとんど使われていないのか、山積みにされた段ボールで埋め尽くされた部屋だった。
現在、俺とソラはそんな幾多の段ボールの隙間に入り込んで埋もれた状態だ。狭い空間のため、どうしても二人重なってお互い身動きが取りにくく、首を捻ることもできないので、視界も固定されたままである。
「ちょっと先輩、ゴソゴソしないでくださいよ。狭いんですから、くすぐったいです」
「俺は微塵も動いとらん。お前が勝手に動いてるんだ。下になってる俺は痛いぞ」
「えー、本当ですかー? 変なところ触ろうとしてませんかー?」
「んな余裕はねぇよ。心身共にな!」
相変わらずソラからは緊張感というものが感じられない。
本来、隠れて一ヵ所に留まるのは得策ではないのだろうが、こうなってしまったのは成り行きだ。早いところ敵の隙を見て、この場所を逃れつつ美術室に戻りたいところである。
しかし、なにぶん実際は難しい。どうやら追ってきた敵は六人で、二人一組になって俺たちを探しているらしかった。近くではたびたび敵の声が聞こえるし、目の前の廊下を通る姿もしばしば見受けられる。このままでは、見つかるのも時間の問題だろう。
「ところでソラ、今何時だ?」
「今ですか? えっとですね……」
俺が尋ねると、ソラはゴソゴソと身体を捻って端末を取り出した。こいつが動くと俺は痛いんだが……。
「あっれれ。もう二十時十五分です。知らないうちに、そんなに経ってたんですね」
ゲームは二十一時までだ。つまり、残りは四十五分。逃げ回る過程で、かなりの時間を消費してしまったようだった。よもやこんなところで隠れている場合ではない。
「やばいな……。さっさと先輩たちのところに戻って、攻めに転じないと。時間切れなんて興醒めもいいところだぜ」
「確かに、そうですね。このまま終わるってのは、ちょっと退屈です……」
ソラはまた、グネグネ動いて端末をしまいながら続ける。
「でも、今も近くで敵の声がしますし、周りに何人かいるのは明白ですね。それを全てかい潜って美術室に戻るのは……かなり望み薄かと」
「まあ……そうだよなあ。頑張っても絶対、一組くらいには遭遇しそうだ。かなり敷地の端まで逃げてきたから、戻るにしても距離があるしな」
「距離がある、ですか。先輩、実は私、自分が今どこにいるのかよくわかってないんですけど……先輩はわかってますか?」
目の前では、ソラが首を傾げていた。
「正確じゃないけど、まあだいたいな。この辺りは旧校舎だ。学校全体で見ても隅の隅、かなりの僻地だよ」
「なるほど、旧校舎ですか。それでこんな物置みたいな部屋がいっぱい……。私、昼間の学校でもほとんどきたことないです。先輩ってば、よくわかりますね」
そりゃあ、そうだろうな。普通に南校で生活をしていて、旧校舎にこなければならない事態に出くわすことはほとんどない。この旧校舎に足を踏み入れたことのある人間が、南校に属する膨大な数の生徒の中に、いったいどれだけいるだろう。それこそ今くらいでなければ、旧校舎を歩く人間の姿などなかなか拝めないものだ。
「とにかく、ここから美術室は遠い。あそこは新校舎だ。とても何事もなく戻れる気がしない。廊下には敵が頻繁に現れるし……万事休すってやつだな……」
「あの、先輩。私の体勢だと廊下の方を見られないんですけど、窓から逃げるっていう選択肢もありますよ? 段ボールの山を静かにどかせば、なんとかなると思いません?」
「ああ……窓ねえ。逆に俺の体勢だと窓の方は見えないけど……まあ、よじ登って外を確認してみたらいいんじゃないか?」
互いの体勢とスペース的に、俺からは廊下側しか、ソラからは窓側しか見えない。その分、ソラは廊下を通る敵の姿を見てないだろう。
しかしこれまで、俺はそれを目にするたびにげんなりしている。冷静に考えれば、廊下側だけでなく窓の外にも捜索の手は伸びているはずだ。確認するまでもなく、容易く予想はついてしまった。
「じゃあ私、ちょっと見てみますね」
ソラは三度目の体勢変更を試みるようだ。ガサガサ動いて何度も俺を踏んづけ、段ボールの山を登る準備を始めた。
「ちょ、おま、こら。痛ぇだろうがソラ」
「あー、すませんすません」
んしょ、んしょ。ソラはそう呟きながらサルみたいに上へと向かう。頼むから段ボール雪崩を起こしてくれるなよ。
対して俺は、わざわざ窓を覗いてまで敵を見たくはなかったので、そのまま下でじっとしていることにした。
まったく、どうすりゃいいのかこの状況。前みたいに、ピンチに助けが……ってこともあるわけない。アリア先輩とミューとルナは、自陣でフラッグを守っているのだ。俺とソラが戻ってくるのを信じて待ってくれているのだろう。それを思うとこの状況は、なおのこと辛い。
初めのうちはやる気満々。闘志の炎は胸の中で煌々と滾っていたのに、結局のところこのザマだ。心に雨が降る。諦念の雨が、胸の炎を弱らせてゆく。所詮はこんなものなのだろうか。大切な場所を賭けた戦いでも、圧倒的な戦力差を前にしては、いとも容易く、容赦なく敗北が訪れる。
ミューに……九条に示すはずだった、大切なものの価値。本物の感情。俺はそれを、あいつに教えてやりたかった。そして二人で、共有したかったのかもしれない。なんならあの場所が、次からは俺一人だけのものではなく、彼女との歓談の場になってもよかったのに。けれども、全て叶わぬことのようだ。
「はあ……」
下降気味の思考に陥っていると、ついつい胸中の落胆が溜息となって、口から漏れた。
「元気、ないですね」
それを聞いてか、段ボールクライミング中のソラから、声が降る。
「そりゃ……そうだろ。みんなに協力してもらって、俺の願いのために勝とうとしてくれてるのに……西校相手だって、俺は勝てるつもりでいたのに。なのに、こんなところで隠れて燻ってて……このまま脱出もできなければ、敵に見つかるか、時間切れを待つだけだ。情けねぇったらねぇよ」
泣き言は、情けなさをさらに露呈するばかりだった。
「まあまあ、私が窓の外を確認したら、意外となんとかなるかもしれませんよ。んしょっと、ほら…………あ」
ソラは段ボールの山を登り切ったらしく、上からぶらぶらと足を投げ出している。外を覗いたのか、またワンパターンなリアクションを呟いていた。おそらく敵の姿でも発見したのだろう。先に続く言葉はなかった。
俺は無反応で、ぼんやりと目の前に揺れるソラの足先を追い、相変わらず段ボールの隙間に沈んでじっとしていた。
そうしてしばらく無言が続く。
するとまた、ソラが一言、ぽつりと零した。
「ねえ……先輩。聞いても、いいですか?」
ソラの声音は、なぜか妙に落ち着いていた。シンとした中で、俺の鼓膜によく届く。目の前の両足は、さきほどまでの尻尾みたいな動きをやめて、穏やかに漂う霧の中で、いつの間にか行儀良く揃っていた。
「……なんだよ。改まって」
「先輩の願い事って、あれですよね。大切な銀杏の樹の広場を守りたいっていう。それって先輩にとって、いったいどんなものなんですか? どうしてそんなに、大切なんですか?」
「……んなこと、聞いてどうする」
「いいじゃないですか。気分転換に話してくださいよ。先輩がそこまで必死に守ろうとするものなんて、私、気になりますもん」
俺は驚いた。まさか唐突に、そんな質問がくるとは思っていなかったのだ。対して俺は、今は雑談なんて余裕かましていられる場合じゃねえだろ、と突っ込みを入れてやりたくなった。
でも直後、どうせここでじっとしている間は、することがないのも事実かな、と考え直す。
いいさ。それならまあ、答えてやろう。気分転換になるかはわからないけれど、聞きたいっていうのなら話してやるさ。あの広場が、どんなに素晴らしいところなのか。どんなに貴重で、価値のあるところなのか。それを、こいつにも。
俺は小さく息をつく。そっと頭の中にあの場所を描きながら、ゆっくりと口を動かした。
「あそこは、あの銀杏の樹の広場は、俺にとってとても大切なところだよ。平和で穏やかで、これ以上にない、安らぎのための場所。人目に触れず喧騒を避け、緩やかな時間の流れを感じ、退屈で面白くもないけれど、心温まるところ。そんなところだから。中心にある樹の根元に座れば、もうまるで別世界みたいでさ。静寂や安穏、そんなものたちが、どれだけ価値のあるものか実感できるんだ。暑い日も寒い日も、晴れの日でも雨の日でも、俺はあそこへ行くのが好きだよ」
ソラは黙ったまま、何も言わなかった。でもきっと、俺の言葉を聞いてくれているのだろう。なんとなくだが、ちゃんとわかった。
「けど、中でも一番綺麗なのは、秋の季節かな。やっぱりあれは銀杏の樹だからさ。金色の葉を湛えた姿が、一番映える。ちょうど今がその頃だ。ソラも一度でいいから、眺めてみたらよくわかるはずだよ」
俺が語り終えるとソラは小さく、ふぅん、と呟いた。
「先輩は、本当にその銀杏の樹の広場が、お好きなんですね。詩的なお言葉で、格好いいです」
やがて少し間をあけて、穏やかな声で感想をくれた。
いやまあ、あの場所に似合うような表現をしようと思ったら、どうしても言葉は詩的になる。仕方ないだろう。無理に格好つけているわけではないのだ。
「一度眺めてみたら……ですか。確かに、そうですね」
ソラはポツリと呟いていた。
俺が何となしにそれを見上げると、あたかも示し合わせたかのようにソラも首を捻り、段ボールの上からこちらを見下ろす。
「先輩も、こっちへきてみませんか」
まるで俺の視線の動きを知っていたかのような素振りだった。続けて段ボールにぶら下がったまま、器用に横へとずれる。
脈絡もなくそんな提案を受けたから、何のことだかすぐにはわからなかったが、ソラが隣に一人分のスペースを空けたのだと知って、俺はその意図を理解した。
「こっちって、俺にもこいつを登れと」
「そうです。ほら、いい眺めですから」
いい眺めって……お前さっき、敵見つけて固まってたじゃねぇか。面倒だよ。てか今更だけど、これって登っても廊下から見えてないよな。大丈夫なんだよな……。
当たり前だが、気怠さと心配が胸をよぎった。
しかし結局、ソラがせっつくので、仕方なく俺も登ることになる。
「ったく、なんなんだよ」
上まで着いてから、俺は隣のソラに毒づいた。
けれどもソラは無言で微笑んでいる。そのままゆっくりと前方を向くのを見て、俺まで自然とつられてしまった。
そのとき、俺は自分の目に映るものを見て、深く大きく息を飲んだ。眼前に広がる景色から不意打ちを食らったのだ。窓の外、俺が視線を向けた先では、直前まで頭の中に描いていた光景そのものが、白い霧の向こう側で輝いていた。
「えへへ。私、見つけちゃいましたよ。これですよね。先輩と先輩のお姉さんが、守りたいと願う、銀杏の樹の広場」
辺りの霧は、依然として十分濃い。しかしながら、窓の外にある大樹の姿を、この目ははっきりと捉えることができた。白くぼやける空間を、金色の光が鋭く進んで、眼球まで飛び込んでくる。それは間違いなく、一つ一つの枝に隙間なく育まれた、あまたの銀杏の葉によるものだとわかった。
「秋の季節がとても綺麗で、一度眺めてみるといい。ええ、先輩の言う通りですね。私も今、初めて見て、そう思います」
隣ではソラが、人懐っこく肩を寄せてきている。
ただ俺の方は、未だ身体の硬直が抜けない。まさか思いもしなかったのだ。いくらここが旧校舎だと分かっていても、自分の隠れた教室の傍に、守ろうとしている広場それ自体があったなんて。
昼間のうちはこんな荷物だらけの部屋にはこないし、この角度で眺めるのは、俺も初めてだった。窓枠がちょうど額となり、さながら空想の世界を切り取って描いた絵画のように感じられる。
「実に神秘的……幻想的な風景です。きっと先輩のお姉さんも、この広場を見て、同じような気持ちを抱いたのでしょう。守りたい、残したいと、感じたのでしょうね」
そんなソラの言葉を聞き、ふと俺は思い出す。事の発端の当時、優璃が広場の危機を知って、俺に守るよう命じてきたときのことを。あのとき俺は、優璃の頼みがどうにも腑に落ちなくて、違和感を覚えていた。
動機が不明瞭だったのだ。優璃が広場を守ろうとする動機が。
なぜなら俺は、優璃があの広場を気に入るなんて、とても思えなかったから。あいつのような人間は、俺や銀杏の樹の広場とは、真逆の存在だと考えていたからだ。
いつも騒がしくて、賑やかな空間を好んでいた優璃。本来ならそんなあいつが、広場の存在を知っていたこと自体、驚愕の一つである。
だからあのとき、疑問を消化しきれなかった俺は、きっと優璃には何か別の目的があるのだろうと結論した。目的そのものまではわからなかったけれど、曖昧なまま半ば無理矢理に納得したのだ。
しかしここにきて、また俺の中に違和感が蘇る。想定することのできなかった優璃の別の目的は、現在に至ってなお、検討もつかないままだ。それは、いったい何なのだろう。
隣のソラはもう、口を閉ざして景色に見入っている。
ボーっと悩んでいると、さきほど耳にしたソラの最後の言葉がゆっくりと尾を引いて、俺の鼓膜を揺さぶっているような気になった。
優璃は、この場所が大切だから……だから守りたい。残したい。
まさに今このとき、銀杏の樹を前にぼんやりと頭を回しても、それを上回るほどに妥当的な答えは見出せない。そんなことはあり得ないはずなのに、どうしても他の可能性が思い浮かべられなかった。
そうして漂う霧を眺めていると、だんだんと思考をぼかされて、広場を見つめる俺の視界には、突然、人の姿が浮かんだように感じられた。
忘れかけていた瞬きを重ねて行い、驚きと共に凝視する。
どうしたことだろう。銀杏の葉の放つ光が強く拡散し、あたかも霧が薄くなったかのように見える。自然と景色がクリアになり、俺の特等席である樹の根元に、一人の人間の佇む姿が明確に映る。それが誰なのか、すぐにわかった。
優璃だった。この学校の制服に身を包む、在りし日の優璃の姿。儚く明滅し、あたかも映画を投影するかのように、かつての彼女をそこに描いていた。
初めは一人。物憂げそうに、穏やかそうに、風に鳴る木葉を仰いでいる。消えて、また現れるごとに少しずつ変わる優璃の姿は、あいつが何度もここを訪れ続けていたことを思わせた。
そして次第に、映る人間は二人になった。落ち着いた儚さを残しながら、朗らかに会話をする様子が重なってゆく。
さらにしばらくすると、次々といつの間にか人が増え、三人、四人、五人となる。大きな樹を傘にして彼女らは集い、優璃はその真ん中で破顔していた。
何だろう、この光景は。まるで過去を思い起こすかのような、そんな幻。これは事実なのだろうか。
俺は恍惚として、優璃の姿に見入ってしまっていた。目の前に見える、俺が姉として認識している優璃とは別人のような彼女に。眺めているだけで、全身がじわりと暖まってくるような微笑みに。
そして感じる温度と共に、一つの想いが、にわかに俺へと去来する。
優璃にとって、この場所はとても大切なところなのだ。かけがえがなく、大好きで、守りたくて……だからそこ、残したくて、絶対に失いたくない場所なのだ。
ここから彼女を見ていると、そんな想いが強く強く湧き上がってくる。同時に、まさかと考えていた気待ちがだんだんと萎んでいき、俺が優璃の気持ちを確信する頃になると、いつしか眼前の投影は消滅していた。
心臓が、トクンと鳴る。瞬間、俺はハッと気づき、誰にも聞こえないような小声で呟く。
「そうか……もしかしたら、これが四つ目の……」
世界は再び白くて濃い霧に包まれていたが、対照的に、俺の胸中は一気に晴れ渡った。抱えていた違和感は霧散する。そして迷いも、不安も消えた。
優璃ならきっと、こんな状況、ものともしないのだろう。いくら絶望的な状況でも、あいつの辞書に諦めるなんて文字はない。単細胞らしく、敵全員をなぎ倒して特攻、なんてことをするかもしれない。実際に見たこともないのに、嬉々として飛び出して行く優璃の姿が、俺の脳裏には容易く浮かんだ。
そんな優璃のイメージは、今の俺にとって大きな助けになった。どこまでも大胆で無茶苦茶で、傍若無人で突拍子のない我が姉貴。彼女の幻をここで見たことが、俺の決意を強く固めた。追い詰められた窮地の中、文字通り四面楚歌のこの戦況で、俺は優璃の背中を追う。そうするべきだと、心が叫んだ。
「ソラ、今何時だ?」
「へ?」
ソラは素っ頓狂な声を上げた。
「先輩、それさっきも聞きましたよね。もー、何度も聞くくらいなら自分で確認してくださいよー」
二十時二十分です、と返ってくる。この部屋にきて初めに時間を確認してから、まだ五分しか経っていない。俺が広場の優璃を見ていた間、時間は止まっていたのだろうか。そう思うくらいに、実際と体感では時の進みに差があった。
いや、あるいは止まっていたのではなく、ほんの一瞬だったのかもしれない。あれは幻だったのだから……言うなれば、俺だけの目に映った夢のようなものだ。
「よし。休憩は終わりだ」
俺は静かに息を吸い込み、ソラへ始動の合図を告げる。
「これからみんなのところへ帰る」
そう言うと、ソラはしばらくこちらを向いて固まっていたが、やがて口を開いた。
「帰るって……。あ、もしかして先輩ってば、何かいい作戦を思いつきましたか!?」
興味津々で耳を傾けてくる。
ソラの耳元で俺は、考えついたことをただそのまま述べた。
すると、一度上がったソラのテンションが、また下がる。
「…………あの、それはちょっと……作戦とは言わないかと」
「あれ、そうかな。作戦のつもりだったんだけど」
「………………」
沈黙された。突っ込みすら返ることはなく、無言で鋭く見つめられる。この場合、睨まれるといった方が正しい表現だろうか。それから少しして、ソラは言った。
「突然、どうしちゃったんですか。そんなことをすればどうなるか、先輩もわかっているでしょう。もしかして……もう諦めちゃいましたか?」
ソラの瞳は、真っ直ぐに俺を捉えているとわかった。視線が反感を物語っている。
「あっはは、まさか。その逆だよ」
しかし、俺は笑って、片手をソラの頭にポンと置いた。
「俺は諦めないよ。弱気になっていたのは確かだけどな。うん、それは謝る。でも、俺の提案は勝つためのものだ。リスクはあるけど、正しい選択だって信じてる」
真剣な表情をして、視線をソラのそれへと重ねる。
するとソラは、自分の手を頭上に乗る俺の手に重ね、甲を優しく握ってくる。
「本当……ですか?」
「ああ、本当だよ。だから……協力してくれ」
俺が答えると、不安そうにしていたソラの口元は、軽く緩んだ。
「そうでしたか。これはこれは、失礼しました。はい、そういうことなら是非、お供させて頂きます」
そして俺たち二人は、隠れ続けた荷物いっぱいの教室をあとにした。
ソラの言う通り、俺の提案は本当に、お世辞にも作戦と呼べるほどのものではなかったのかもしれない。
ただただ、自陣である美術室に戻るだけだ。小細工は何もない。できる限り敵に見つからないように進み、徘徊している敵をある程度避けつつ、最短で美術室に着くように移動する。そしてどうにも敵をやり過ごせなくなったら、覚悟を決めて正面突破。もちろんその場で戦いなどしない。通り抜けるだけだ。以降はひたすら全速力で走る。
追ってくる敵を巻く余裕はないだろう。もたついていたら他の敵も集まってきてしまう。
しかしだからといって、そのまま美術室に向かえば、わざわざ敵を自陣へご招待するはめになってしまうのはわかっていた。というかそれこそが、俺たちがずっと隠れたままで、自陣へと逃げ帰ることができずにいた一番の理由なのだ。
でも、それはもう、考えないことにした。考えなくていいのかと問われればよくはないのだが、もういいのだ。いいったらいいのだ。少なくとも、あの部屋に隠れたまま終わるよりはずっといい。アリア先輩や、あるいはミューあたりには何か言われるかもしれないが、それでもいいと思うことにした。ソラも不安なはずだけれど、俺を信じて協力すると言ってくれた。
俺たちは廊下を進む。ここまで運良く、何度か敵をかわすこともできた。
しかし、とうとう隠れて進むのにも、限界がやってくる。
「先輩、ここを曲がった先に、敵がいます。二人組です」
「もうあまり迂回する余裕はないな。下手に動けば、ここまで避けてきた別の敵に出会うかもしれない」
「そうですね。じゃあ……行きますか、先輩!」
「ああ、こっからが本番だ。手筈通りにな」
ソラは頷き、曲がり角から飛び出した。
俺もすぐに続く。
並んで駆けると、こちらに背を向けて歩いている二人の敵が振り返った。
それを見計らい、ソラが銃を取り出して撃つ。敵二人に対し、それぞれ二発ずつの牽制弾を発射した。弾道が派手に白く光る。
「うわっ! なんだ!?」
一人が驚く。続けてもう一人も開口する。
「なっ……南校!」
いい反応だ。奇襲をしかけた甲斐があるってもんだ。お前らの方が俺たちを探していたんだろうがと突っ込みたくもなるところだが、いやしかし、突然背後からレーザーまがいの銃弾が飛んでこれば、多少声が上ずるのも当然か。敵ではあるが、豆粒程度の同情はくれてやろう。
俺は安い同情を抱きつつも、遠慮なく拳を構えて急加速し、振りかぶって全力で殴りかかった。狙いはまとめて敵二人……ではなくて、ちょうどその真ん中だ。
攻撃はかわされる。敵はそれぞれ左右に避け、俺のパンチが空振りのように地面の朽木を粉砕する。
しかし、それでいい。想定通りだ。敵へのダメージはないが、これで廊下の中心に突破スペースが確保された。
すかさず後ろから走り込んできたソラが、俺の背を踏み台にして前方に飛び上がり、縦に翻りながら敵への雨のような射撃を行う。下から見上げると、まるでサーカスショーのようなアクロバット。サマーソルトキックばりの空中反転だ。いくら装飾服のサポートがあっても、慣れていないとなかなかできることではない。身軽でそういった動きに慣れているソラならではだ。
その間、俺はすぐにまた踏み出し、つま先に力を込めて前進を図る。ソラの着地点に回り込み、通り抜けざまに背中でしっかりと受け止めた。
「やっはー先輩ナイスキャッチ! かっこいー!」
ソラは俺にしがみつきながら、後方へ向かって発砲を続ける。
突破、成功だ。
「舌噛むぞ。黙って撃てっての」
ソラに憎まれ口を叩く反面、実は内心、狙い通りに事が運んで安堵している俺。顔はにやけて、片手では静かにガッツポーズをした。
そしてそのまま、ソラを背負いながら全速力で走る。
「あとは走り抜けるだけですね! 期待してます!」
「あ、てめえ。最後まで俺に担がれてる気だな」
「いいじゃないですかー。その分ちゃんと、敵の足止めしますから」
確かに、ソラの射撃は追ってくる敵の妨害に役に立つ。二人一体となって逃げるこの形なら前方と後方が一度に確認できるし、案外ベストかもしれない。たとえるのならまるで戦車のよう。俺がタイヤで、ソラが砲台だ。
追ってくる敵と鬼ごっこをしながら、とにかく必死で美術室へと向かう。
道中でそれ以上の敵と遭遇しなかったのは天恵だろう。戦闘音に気付いた敵は多いだろうが、俺たちの全速力の移動もあってか、そう簡単には位置も捕捉されない。曲がり角を折れ、階段を上り、目的地に近づく。そしてついに、美術室の扉に至るまで、右折一つを残すのみとなった。
当然、二人の追手は俺たちの後ろをぴったりとついてきている。振り切ることはできていない。
「さてさて先輩、ついにもうすぐご到着ですが」
「んだな。ようやくみんなのところに帰ってきたな」
「ええ、もれなく敵二人もご招待なわけですが」
「はは。まあ、たぶん大丈夫だって」
廊下を曲がったあと、俺はソラを担いだまま、閉まっている美術室の扉に勢い良く突っ込んだ。体当たりによって外れた扉は衝撃音と共に跳ね飛び、盛大に俺たちの帰還を主張する。
そして俺は力尽きて床にヘッドスライディング。背中にソラを担いでいたこともあってバランスを取りきれず、腹と顎をいっぺんに激しく擦った。
「ちょ、なになに!? いきなり何!?」
もつれて飛び入ってきた俺たちを見て驚いたのか、すぐに声がかかる。おそらくアリア先輩だろう。勢いが止まってから顔だけを持ち上げて確認すると、目の前には先輩の足先が見えた。ソラが邪魔で、顔まで見上げることができないが、それでも俺はとにかく叫ぶ。
「すいません! あとのフォロー頼みます!」
それとほぼ同時、入り口の方から気配がし、追手の敵二人が侵入してくるのがわかった。
「ッ!」
アリア先輩の雰囲気が変わる。直後、俺の視界に槍の切っ先が映ったかと思うと、先輩の両足と一緒に消えた。
頭上と背後の両方で、金属の打たれるような快音が響く。白い霧が波紋のように揺れ、その衝撃を伝える。
俺はソラに乗っかられたまま、なんとか腹這いで視界の方向を変えた。
すると既に敵の一人が、部屋の隅で光に包まれていた。その胸のペンダントは、真っ二つに割れて破損している。
もう一人は入口のそばで痛みに耐えながら尻餅をついていたが、ぎこちなく立ち上がってすぐに扉から出ていった。
「しまった、一人逃した! ミュウミュウ追って!」
アリア先輩の指示が聞こえる。
しかし俺は、そこでもう一度叫んだ。
「待てミュー! 行かなくていい」
ミューは駆け出そうと身を乗り出していたが、俺の制止に反応して入口で踏み止まった。
そうして数秒の沈黙が流れる。美術室は一気に静まり返った。
「……ソラ、そろそろどけよ」
「……え? あ……はい」
ソラはすっかり惚けていたようだ。俺が言うと、とりあえずいそいそと床へと降りた。
俺は立ち上がり、改めて皆に告げる。その言葉は少々軽々しく、今の静寂には不釣り合いだった。
「あ、ども。ただいま」
周りを見渡すと、ソラはまだ半分くらいわけもわからぬようで腰を抜かしている。ルナもフラッグの横に突っ立っている。状況の処理ができていないのはソラと同様のようだ。アリア先輩は、目の前で大振りの槍を携えている。さきほどの咄嗟の迎撃に武器を使ってくれたのだろう。それからミューは、少し離れた入口から、じっとこちらを見据えていた。
実際、この中で一番怖いのはミューだと思った。ものすごく、睨んでいる。もちろん、彼女の視線の意味はよくわかった。なぜ敵を連れて戻ってきたのか。敵に陣地を知られたぞと。そう咎められているのが明白だった。
「ただいまって……レイ、あのね」
アリア先輩がこめかみを抑える。
「いや、いやいや。わかってますよ。もちろんわかってます。驚かせてすみません。それから、咄嗟の対応、ありがとうございます」
「それはいいけど。いや、よくはないけど……」
言葉からは、困惑の様子が見て取れた。
そこにすかさず割り込むように、ミューが鋭く俺に尋ねる。
「なぜ止めたの」
「なぜって?」
「さっきのやつは、ここが私たちの陣地だってことを仲間に知らせに行くわ。その前に追って仕留めなきゃ。それくらいわかるでしょう」
「ああ、そういうことか。わかるよ。でもいいんだ。一人で追うのは危険だし、それに……あいつは追わなくていい」
俺の返答に対し、ミューは口を閉ざした。こいつは何を言っているんだと、訝しげな雰囲気を漂わせながら。
「レイ」
アリア先輩が、俺の正面からゆっくりと歩いて近づいてくる。
「リタイアせずに戻ってきたのは嬉しい限りだね。けど、これからどうするつもりなの?私だって、口うるさくミュウミュウと同じことを言いたくはないよ。でも……」
これからどうするのか。それはつまり、この状況からどうやって勝ちを目指すのか、ということだ。アリア先輩の声は厳しい。
しかし俺は、それを考えられるだけで嬉しいと思った。敵に追われながら美術室へと戻ってきてしまって、実際にはここでフラッグを守れるかどうかもわからなかった。しっかりと敵を追い返せるかどうかもわからなかった。当たり前の可能性として、さきほどの追手二人に勝負を決められていたということもあり得たわけだ。それは、俺とソラがとった行動に、必然的に付随するリスクだった。
だからアリア先輩には、非常に感謝したい。そして今からの時間は俺たちにとって、勝利の女神からの選別にも感じられる。
「作戦があります」
俺は力強く告げる。アリア先輩と、そして周囲の三人に向かって。
「敵の陣地は体育館です。今からそこに、五人全員で攻め込もうと思います。ゲームの初めに、アリア先輩は言いましたよね。敵陣の位置がわかっていて、自陣の位置を知られていない状況がベストだって。今がまさに、その時じゃないですか」
今まさに、敵陣が体育館であることを、南校チームの全員が知った。西校チームはまだ、ここに俺たちのフラッグがあることを知らない。逃げ去った敵がその情報を仲間に伝えるまでの短い間だけ、そんな理想的な戦況が保たれる。
「五人全員でって……その場合、ここを守る人がいなくなるよ。君とソラが逃げ帰ってきたとき、いくらかは確実に敵を集めてきてしまったはずだけど。それについては?」
「俺たちが逃げ帰ってきた経路と、ここから体育館へ向かう経路は、途中まで重なっています。だから、俺たちが集めた敵は、道中で全員倒していく!」
右手の拳を目の前に掲げ、俺は意気を込める。声を張る。ミューがこちらを睨み「何それ、無理に決まってるじゃない」的な視線で睨んでいるが、無視して続ける。
「止めようとして向かってくる敵も、全部なぎ払う! 俺たちが有利なのは今、この時だけ! 自陣が知られてジリ貧になる前に、勝負を決めましょう!」
しんとした室内に俺が必死に声を放ると、アリア先輩が神妙な面持ちで言った。
「……随分と、強気にでるね」
「強気に、でますよ。だって、俺がソラと偵察をしてきて見つけたのは、敵の陣地だけじゃないんですから」
俺はそう答えると、皆の前で端末を取り出し、アカウント専用の武器データが入っているフォルダにアクセスした。パスワードが要求されることは既にわかっている。ゲーム開始時にこれが発覚して悩んでいたことは、まだ記憶に新しい。
しかしソラとの偵察を経て、今の俺にはもう、このパスワードの見当がついていた。俺はためらわずに操作を続け、パスワードの入力を試みる。
『ginkgotree』
意味はもちろん、銀杏の樹。我が姉優璃が、高校時代にこよなく愛し、大切に思った宝物の名前。
アプリケーションはその文字列を静かに飲み込む。再要求はされなかった。
やがて俺の右手に光が集まる。小さな粒子のような輝きは、すぐに太く長い得物の形を成し、音もなく眼前に顕現する。そして光が散ったあとで俺が握っていたのは、鋭く極めて重厚な、つるぎであった。剣先を地にめり込ませ、迫力満点で、振れば絶大な威力を約束する、赤い大剣だ。
皆はその一連の光景を、黙って見ていた。そしてなおも数秒の沈黙を経て、高らかな笑い声が忽然と上がる。
「はっはは! あっはははははは! なるほど! なるほどね!」
アリア先輩だ。アリア先輩が、いきなり目の前で腹を抱えながら笑い出したのだ。
「ちょ、先ぱ――」
「いや、いやいや。悪い悪い。馬鹿にしたつもりはないんだ。ただね、驚いたんだよ。君が、あまりに無茶な提案をしてきたから」
先輩はそう言ってひとしきり笑うと、やがて落ち着いて、また続ける。
「……でも、すぐに思い出したよ。君が、あのリフィア先輩の弟だってことをさ。やっぱり……うん、似てるね。五人で特攻。まさにリフィア先輩の言い出しそうな作戦だ」
まあ、それってたぶん、作戦とは言わないんだろうけどね、と付け足しながら。
優璃と似ている。そんなことを言われたら、普段の俺ならば、とりあえず反論をするところである。でも今回は、今回だけは、不思議と気にはならなかった。ああ、やっぱりそう思われるんだな、なんて感じてしまった。
「よし。私、それ乗るよ。なんかね、その大きな剣を久しぶりに見たら、二年前を思い出した。とても懐かしいな。私はいつも、先輩の振るその赤い剣に守られていたんだ。結局あの人には、最後まで頼りっきりだった。だから今度は私が、先輩の弟である君を守ろう」
アリア先輩は、携えた槍を軽々と二回転。自分もくるりと反転し、改めて居住まいを正す。俺に背を向け、美術室の扉を見つめる。
「二年越しの、恩返しをしようじゃないか。ミューに、ソラ、ルナ。頼む……付き合って」
先輩は俺への宣言と共に、本来は俺がすべきはずのチームへの依頼まで行う。
ありがたいことに、首を振る者はいなかった。相変わらずミューは何かを言いたげにしていたが、アリア先輩の様子を見て、渋々不満を飲み込んだようだった。
「さあーて。こっからが本当の最終決戦だ! みんなまとめてかかってきな! 私が全部、ねじ伏せてやるから!」
そう言い放ちながら美術室を飛び出す先輩に続き、俺たち南校チームは一同、大胆にも自陣を放棄。守るべきフラッグの周りに一人の味方も残すことなく、敵陣を目指して駆け出した。
案の定、既に周囲には何人かの敵が集まっていて、出発の直後に襲撃を食らう。
しかし嬉々として先頭を行くアリア先輩が、流れるような鮮やかな槍使いで迎え撃った。二人組の敵が数回に分けてパラパラと現れたが、先輩の対応は非常にあっさりとしたもので、前進速度を落とすまでもなく、一振り二振りの攻撃で容易く敵のシンボルペンダントを切り裂いて進む。
すぐ後ろからそれに続くソラやルナは、もはやさきほどまで惚けていた面影もなく、先輩が活躍を見せるたびに喝采を上げた。
「やーふぃー! アリア先輩いっけー!」
「かっこいー。強ーい」
俺はさらにその後ろから追いかけつつ見ていて、思わず零さずにはいられなかった。
「……マジで強えな。あんなのありかよ……」
並走するミューが俺の呟きに答える。
「三年生だから、ここでの立ち回りに慣れているっていうのもあるけど。それでもまあ、あの人の個人的な実力は、他のチームの三年生と比べてもかなり高い方よ」
「かなりっていうか、無茶苦茶だろ。あれ」
「そうね。あの槍を使っていることを差し引いたとしても、確かにアリア先輩の強さは無茶苦茶。あなたのお姉さんの教え方が上手かったのね」
「完全に姉貴の無茶苦茶が伝染ってる」
この世界で戦うということにおいて、装飾服のサポートの活かし方や武器の扱いが大きなパラメータになるのはわかるし、実感もしている。普段の生活と全く異なる感覚ゆえに難しく、したがって経験の多い三年生が強いのは当然だろう。だがしかし、アリア先輩の実力は、その範疇を明らかに逸脱している。
俺が呆れて言い捨てると、隣からすぐに反論が飛んだ。
「何言ってるのよ。無茶苦茶はあなたも同じじゃない。捨て身で特攻なんて、本当に作戦とは呼べないわ。それこそ無茶苦茶以外の、何物でもない」
「お前まで言うかよ」
「誰だって言うわよ。私だったら絶対にしないわ。こんなこと。あなたにも無茶苦茶が伝染ってるんじゃないの? お姉さんから」
ミューは、語気こそ荒げず冷静に話すけれども、いつもと比べて口数が多い。そのことに俺は気づいていた。もちろん不満なのだろうし、別に今更、隠すつもりもなさそうだ。あと、少し嫌味っぽい。
俺は言葉を探して言い返そうとしたが、それよりも早く彼女の、はあ、という溜息が聞こえた。
「でもね、あなたのその無茶苦茶な提案に、アリア先輩は乗っちゃったじゃない。ああなった先輩は、私が何を言ったところで無駄なのよ」
「ミューって、アリア先輩には結構甘いよな」
「違うわ。諦めているだけ。それに今回は、あなたのやり方に協力するっていう約束もある。これが最善とは思えないけれど、あなたが選ぶ方法なら、私はちゃんと従うわ。だからこうして、私は今、走っているわけ」
やれやれ、とでも言いたげな雰囲気だった。半信半疑ではあるが、しっかりと結果を見届けてやろう、といった感じだ。それは以前に彼女が言った、俺を試させて欲しいという言葉に起因しているのだと思う。
だからこそ、彼女がこれからの戦いで手を抜くことはない。俺にはわかった。
「ミュー、俺はさ……今走っているこの道が、俺たちの勝利に繋がる最短の道だって、信じてるよ。強く信じて疑わない。そしてミューが求めるものも、きっとこの先にある。お前にも、それを信じて欲しいんだ」
俺は、礼を言うつもりで彼女に告げた。
すると前を向いて走っていた彼女は、不意に俺とは反対の方に首を捻って答える。そうね、そうするわ、と。穏やかな声音で。
「ところで……」
「ん?」
さらにまた、ミューが反対を向いたままで口を開いた。
「格好いい台詞を頂いた直後で尋ねにくいのだけれど……あなたが背負っているソレは、使い物になるのかしら」
「……ああ…………いいところに目をつけましたね、ミューさん」
いや、うん。本当に、ちょっといいこと言ったあとに、聞いて欲しくはなかったな。
実は……といっても隠していたわけではないが、俺はさきほどからずっと、あるものを背負って走っている。そのあるものとは、俺が自信満々で顕現させた優璃の大剣だった。隠そうとしても到底隠し切れるはずのない、化け物サイズの大剣だ。
少しばかり前の話になる。この大剣は登場早々、派手に俺の度肝を抜いた。携えて美術室を出ようとしたときに知ったその重さは、なんと、いやもう本当にどうかしてるってくらい、あり得ないほどのものだったのだ。そして瞬時に身体が悟った。装飾服のサポートを以ってしても、これを自在に振り回すのは、無理だと。
したがって俺はこいつを担いで駆ける羽目になり、惜しまず必死の全力を費やしているにも関わらず、チームの皆からは遅れ気味で走っている。このため俺たちの突撃フォーメーションは自然と、先頭にアリア先輩、次にソラとルナ、最後に俺とミューが続く形だ。うかうかしているとアリアとの距離が開いて、霧で見なくなってしまう。もしかしてミューが俺の隣を走っているのは、何気に気遣いの表れなのだろうか。
「はっきり言って、荷物にしか見えないんだけど」
訂正。やはりこいつの言葉には気遣いなど感じられない。
「そんなにはっきり言うなよ……」
武器は基本的に、音声や身体動作によるショートカットコマンドで取り出すらしい。でないと咄嗟の事態には対応できないからだ。
しかし今回、俺はこの大剣を初めて使う。姉貴の設定したコマンドなんて知らないし、その確認や変更は、ゲーム中にはできない仕様だ。ゆえに、俺がこの大剣を武器として使うには、事前に携えていなくてはならない。敵に出会ってから、目の前で端末をちまちまいじってなんかいられないのだ。
「あのね、レイ。リフィア先輩の剣って、すっごく重くしてあるはずなんだよね」
俺とミューが後ろで話していると、先頭のアリア先輩から声がかかった。どうやら敵を迎え撃ちながら、こちらの会話も耳に入れていたらしい。
大剣の加重が響いて俯きがちに走っていた俺は、首を起こしてアリア先輩の方を見る。
「重量がある方が瞬間的な威力も出るし、突破力も上がるから……とか言ってたかな。それで一時期、どんどんどんどん武器を大きく、重くしていた記憶があるよ」
「な、なんすかそれ。いや、既に重いのは十分実感してますが……姉貴は本当に、これを武器として使ってたんですか?」
「使ってたねー。他人の武器を借りることはできないし、直接斬撃を受けたこともないからわからないけれど、リフィア先輩は重い重いって言いながら、でも楽しそうに使ってた。あんまり綺麗に振り回すもんだから、途中からは重いなんて嘘なんじゃないかと思っていたけど……やっぱりそれ、かなり重いんだね」
「重いなんてもんじゃないっすよ。これ担いで走ってるだけで、体重が二倍にも三倍にもなった気分です」
そもそも俺はこいつを、携えているというよりは、文字通り担いでいる。剣として正しい持ち方をできていない。これを実用的なレベルで使っていたって……頭おかしいだろ。脳みそまで筋肉かよ。
「そっか。まあ……だろうね。そのせいかリフィア先輩の戦い方は、すごく独特だったよ。振り回すとき、いつも自分よりも剣の方に重心があった。担ぎざまに振り下ろしたり、遠心力を利用したり、とにかく全身の力を駆使していた。面積の広い刀身に隠れて、盾代わりに使っていたこともあった。一見するとその重みに振り回されているようで、実はちゃんと得物を使いこなしていたんだ。だから、その剣を使うときの先輩は、まるで剣と手を繋いで踊っているみたいだったよ」
「武器まで無茶苦茶仕様だなんて……俺にはそんな怪力ねえよ……」
「違うよレイ。装飾服から得られる身体的なサポートは、基本的にみんな平等なんだ。適切な判断と工夫さえあれば、その大剣も扱うことができる。リフィア先輩は多くの試行錯誤を経て、自分なりのスタイルを見出したはずなんだ」
……適切な判断と工夫、試行錯誤。って、言われたって……。
それを聞いて俺が再び俯くと、アリア先輩はこちらを振り返り、高らかに笑った。
「あっはっはっは。でもね。ついさっきリフィア先輩の剣を手にした君に、そんなこと言ったって無理だよねー。見ていたらわかるよ。せいぜい一振りくらいが精一杯ってところかな」
身体の正面を俺へと向けて、すっかり後ろ走りをしながら、先輩が言う。大きく開いた口はやがて閉じられて、今度は穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「だから君の仕事は、その一振りだ。それだけでいい。そのために今、私が先頭を走ってる」
「………………」
跳躍気味に滑走する中で、アリア先輩の視線は、ぶれずに俺を捉えているように思う。
しかし発言の意図がわからなくて、俺は口を噤んだ。
先輩が続ける。
「たとえばだけどね。君がそいつを担いで飛び上がってから、重力による勢いを借りて、思いっきり振り下ろすとする。そうしたら、止められる相手なんて絶対いないよ。もちろん、容易くかわされてしまうことはあるかもしれない。避けられてしまったら、そのあと君は重過ぎる武器を構え直すこともできずに、やられてしまうだろう。でもさ、だったら、あとなんてなければいいんだよ。君の渾身の一撃で、動かない相手のフラッグを叩き折ればいい。かわす敵は元より無視。逆に立ちはだかる敵がいたとしても、問答無用で貫通さ。リフィア先輩の大剣には、そういう力があるんだよ」
すぐ前を走るソラもルナも、隣のミューも、アリア先輩を見つめて聞き入っている。
そして先輩は、チームの皆に掛け合うようにして、俺以外にも目を配った。
「私はそのフラッグの前まで、君を連れて行くんだ。正確には、私たち、がね」
「……ありがとう、ございます。なんか、露払いみたいなことしてもらって、すいません」
「いいってことさ。私も嬉しいんだ。謝罪はいらない。礼は勝ったあとに聞こう。ね、みんな」
先輩は笑う。口元をニヒッと引き上げて、快活に。ついでに右手を俺に向かって突き出して、親指を立てた。
俺は頷き、同じように答える。背中のアーツが重くて少し辛かったが、笑いながら震える左の親指を立てて見せた。
「アリア先輩っ!」
そこで突如、ソラの叫ぶ声がする。アリア先輩は振り返って前を向き、一瞬で俺たちを取り巻く空気が変わった。
「ははっ! お二人さん、いらっしゃーい!」
見ると前方から、二人組の敵が向かってきていた。
アリア先輩は速度を上げてそこに突っ込み、迎え撃つ。そしてまた、目にも留まらぬ閃光のような槍さばきで彼らを払い飛ばした。
それでもよく見ると、二人とも跳ね飛ばされて体勢を崩してはいるが、シンボルペンダントはしっかりと守り通している。
すぐにアリア先輩が声を張る。
「みんな、スピードを上げるよ! そろそろ私たちのフラッグの場所はばれてるだろうけど、ここまできたらもう大丈夫。敵は全員、無視して行こう!」
俺を含め皆は、その指示に瞬間的な戸惑いを見せたものの、速度を上げて先輩に追随した。
敵陣の体育館と自陣の美術室。この二か所の中間地点を、俺たちは既に超えていたのだ。もう大丈夫というのは、これから先に鉢合わせる敵が、仮にリタイアを免れて美術室を目指したところで、俺たちが勝負を決めるまでには間に合わない、ということだ。俺たちは、この特攻が実れば勝利。実らなければ負けという賭けに出ているのだから、その結末より後の戦況など、一切顧慮する必要はない。
「さあ、敵陣に近づいてきたよ。あの角を曲がれば体育館が見える。準備はい……おっと」
背中の大剣のせいで俺が一番遅れるけれども、離されないように追いついたところで、先輩が何かに気づいたようだった。
前を見ると、新たな敵影が目に映る。今度は五人だ。前に三人、後ろから少し離れて二人。二段構えの陣形で向かってくる。
「あーらら。西校さんも露骨だなあ。やっぱこりゃ、完全に情報伝わってるね」
先輩は独りごつ。
その推測の中身を求めて、ソラが尋ねた。
「露骨、というと?」
「向かってくるあいつら、みんな三年生だ。容姿に見覚えがある。前を走る三人が特にやり手かな。完全に私たちの特攻を知って、迎え撃つための編成だね」
「つまり、強敵ということですね」
「そーだねえー。さすがにあいつら三人は厄介だねえ。まずいねえ」
アリア先輩の声音は穏やかだが、言っていることは事実だろう。その証拠に、敵は俺たちとの接触のタイミングを見計らったようで、前衛の三人が一斉にアクションを起こす。おのおの機敏な動作を一つ。さらに手元が一瞬だけ光り、素早く武器を取り出した。
アリア先輩はくるりと回り、片手の人差し指をピッと立てて言い放つ。
「ま、仕方ないね。みんなごめん。つーわけで私、いっちぬっけたー」
「……えっ!?」
その言葉に、俺は驚く。
直後、アリア先輩はまるで子供のお遊戯を抜けるかのように、俺たち四人から離れてしまった。そして直進から逸れた先輩の軌道は一瞬だけ掠れて消え……突然、目前に迫る敵三人の真横から現れる。槍を横一線に構え、体当たりの要領でまとめて彼らを押し退かした。俺たち四人の進路を邪魔させないように。
アリア先輩の一抜け宣言から、ほんの一秒にも満たない間の出来事だった。
この視界の効かない霧の中での先輩の駿足は、敵にしてみたらまさに縮地同然だろう。文字通り横槍を食らって、完全に不意打ちとなったようだ。
やがて、俺たちと先輩の軌道がちょうど直角に交わる。すれ違いざま、小さく囁くように先輩の口が動くのがわかった。先輩にしては珍しく、妙に落ち着いた声だった。
「じゃあみんな……あとは、任せた」
前進を止め、三人の敵と一緒になって残り、遠ざかってゆく先輩。
おかげで俺たちは難なく進むことができたが、前方からは敵の第二隊も迫っている。
間髪入れずに、ソラとルナから次なる宣言が飛び出す。まるで先輩に対する答えを兼ねるかのような宣言が。
「了解しました! では、ここから先はこのソラと!」
「えっと……ルナが!」
「「先輩に倣ってお守りします!」」
格好をつけるためなのか、二人は元々手にしていた装飾銃を、互いに乾杯のように当て鳴らしてから同時に構えた。白と黒の煌びやかな光線の協奏で迎撃を重ね、やがて加速をして正面から敵にぶつかってゆく。こんな決め台詞と共に。
「では、私はにっ!」
「僕は、さんっ!」
「「ぬーけたっ!」」
二人はそれぞれ別々の敵に掴みかかり、瞬間的に食い止めはするものの、進路から外れて推進力を失った。
「……っておいっ!」
お前らまで刺し違えるのかよ! そんなところまで忠実にアリア先輩を見習ってどうするんだ!
アリア先輩と、ソラとルナ。三人の突飛な行動に、俺の頭は混乱した。一度に三人の離脱。これはいくらなんでもまずい。沸騰直前の頭でそう感じ、反射的に身体を反転させてブレーキをかけようとした。
けれどもそのとき、左腕に引っ張られるような感覚が走り、神経伝達を遮断する。
「何をしているの! 走って!」
視界の端にミューが映る。彼女が俺の二の腕を掴んでいた。思いの外に強い力で。
そのせいか、こちらはバランスを崩しそうになる。
彼女は続けて言い放った。
「あなたまで立ち止まってどうするのよ!」
ハッとした。意識が動揺から引き戻され、冷静になる。
ミューの叱咤は正しかったのだ。
当たり前だ。南校の進撃が、俺たちの最後の賭けが、こんなところで止まっていいはずがない。三人は、限られた戦力の中で全滅を避け、進み続ける手段を選んだのだから。
俺はすぐに体勢を立て直し、自分を引く彼女の手に勢いを借りて、廊下の角をなんとか曲がった。
やがて道は校舎の外へと続き、テラスへと差し掛かる。ついに体育館をこの視界で捉える。
その入り口につながる道を阻む者はいない。敵は、俺たちがこんなところまでくるはずがないと、さきほどの迎撃隊で事足りるはずだと高を括っているのか。それともあるいは偶然か。どちらにせよ、都合の良いことに変わりはない。
駆けるミューの隣に俺が復帰すると、そっと二の腕から手が離れた。淡々と前を見据える彼女を横目に、俺の胸には少しバツの悪い想いがよぎる。
「………………」
すると彼女は、わずかだけ首の角度をこちらへ回した。
「謝罪くらいしなさいよ。あと、お礼も勝ったあとに聞くわよ」
「お、お前……」
アリア先輩と微妙に違う。
「……なんてね。ほら、窓から敵に見つからないように注意して」
そんな憎まれ口を、彼女は叩く。けれども、今も俺に合わせてぴったりと隣を維持しながら走ってくれているあたり、やはりちゃんとした気遣いが感じられた。一度それに気づいてしまうと、あまり文句は言えないものだった。
体育館の入り口は、もう目と鼻の先まで迫っている。足が地を蹴るたびに、心臓が跳ね、剣を握る手に力がこもる。
館内にはもちろん敵がいるはずだ。四人か、五人か。感覚頼みの憶測では、そんな見積もりが浮かんだ。
さて、どのようにして攻めるか。正直なところ、ここまでかなり大雑把なやり方できてしまったし、あまり細かいことは考えていない。それでも、体育館に突入してからの立ち回りくらいは、思い描いておいた方がよさそうだ。おそらく一瞬で勝負は決まる。
たとえば、俺とミューが同時に突入して、左右に分散しながら、隙を見てどちらかがフラッグを狙う。これが最もシンプルで、かつオーソドックスなやり方だろう。敵の注意を俺とミューで分割して、フラッグへ手が届く期待値を上げる。シンプル故、ミスも少なく、所要時間も短い。敵側には、咄嗟の判断による対応を強いることができる。相変わらず大雑把だと言われれば返す言葉はないが、悪くない動きだと思う。あまり複雑過ぎても上手くできるか不安だし。
俺はそう考え、プランをミューに持ちかけようとした。
しかしそのとき、俺に並走していたミューが、黙って速度を上げて前へと出た。
「お、おい」
彼女は振り返ることなく言う。
「私が先に中に入って、敵の注意を引きつける。あなたはフラッグだけを狙って」
どうやら、あまり俺と思考が噛み合っていないようだ。
「ちょっと待った。お前が囮をやるのか?」
「何か問題ある?」
「下手な小細工をするよりも、正面からぶつかる方がいいと思うんだ。二人で同時にフラッグを狙おう。どちらか一方が届けばいいわけだし」
そもそも囮を用いる場合、敵側がどれだけこちらの戦法にかかってくれるかわからない。囮を前提とした攻め方は、冷静に対応されたら一気に土台から崩れてしまうのだ。
けれどもミューは、俺の提案を退け、はっきりと告げた。
「いいえ。フラッグを狙うのはあなたよ。担いだ剣の一振りで、相手のフラッグを取る。それがあなたの役目でしょう。そして、それを成功させるのが、私の役目」
声はミューから発せられて、俺のいない前方へと飛んでいる。そのはずなのに、彼女の主張は俺の鼓膜をよく震わせた。
ミューが俺を守り、俺が優璃の剣の一振りで敵のフラッグを取る。これは、さきほどアリア先輩がした話。ミューはそこに役目という言葉を混ぜて、再び述べたのだ。
「………………」
俺は沈黙した。確かにそうかもしれないと思った。
俺かミューのどちらかがフラッグへ届きさえすれば、南校は勝利する。これは事実だ。しかしその事実以上に、やはりフラッグを狙うべきは俺なのではないだろうか。俺が、この剣で、フラッグを勝ち取るべきではないだろうか。そう感じた。
なぜなら、この勝負に賭かっているのは、俺の願いだから。俺と、優璃の願いだから。
「この道は、私たちの勝利へ続く」
静寂の中、さらにミューが述べる。
「あなたはさっき言ったわね。さすがに最短かどうかは疑問だけれど、でも私は、あなたのその言葉を信じることにする。だからあなたも、私のことを信じなさい」
大丈夫だから。そう付け加えるミューの声は、とても落ち着いていた。
「……わかった」
俺は小さく頷いた。異論はない。信じろと言うミューを、俺は信じることにした。
ミューの速度が上がる。俺を引き離し、やがて一足先に体育館の入り口へとたどり着いた彼女は、勢い良く扉を押し開けて中へと入った。
交戦開始の音がする。
数秒だけ遅れて、俺も続いた。
すぐに注意深く辺りを見渡すと、霧の中にフラッグと、五人の敵、さらにミューの姿を確認することができた。体育館のだだっ広い空間の中心にフラッグがある。ミューは、フラッグからも俺からも離れた、左前方の壁際にいる。そして敵は、奇襲への動揺を見せながらも、二人がミューを仕留めに駆け、三人がフラッグ周りでの防衛に務めていた。
一応、ミューがいくらかの敵の注意を引くことに成功している。しかし俺がフラッグの方を見据えると、その周りにいる敵からの視線もしっかりと感じた。
大丈夫だろうか。しっかりとマークされているのだが。
瞬間、不安になる。奇襲成功のビジョンが見えない。
それでも、ここまできたら俺の取れる選択は一つしかなかった。
三人と睨み合いながら、俺は右側から回り込むようにしてフラッグへと走る。
敵は、一人をその場に残し、二人が迎え撃つように俺へと向かってきた。妥当な判断だ。そりゃあ、仕留めにくるに決まっている。
さあ、どうするべきか。フラッグをいち早く狙うのなら、向かってくる二人を相手にすることはできない。かわすべきだ。接触は、大いに願い下げである。
しかし、それが可能なほどの敏捷性を、俺が携えているわけでもない。だとすれば、切り抜けるためには担いだ剣を振る他にないと言える。
いや、でも待て。それでいいのだろうか。この大剣を振って、なお体躯のバランスを保っていられる自信はない。減速は必至だ。
敵との接触地点からフラッグへは、依然遠い。さらにその周りには、一人とはいえまだ敵がいる。ゆえに最後の一撃は、そこにとっておくべきではないか。
どうする。どうすればいい。脳からの神経伝達が逡巡し、身体の中をぐるぐると回る。
動揺。混迷。焦燥。
それらが思考暴発のトリガーをぐいぐいと引っ張る。答えが出ない。決断が遅れる。敵は目の前だ。視界が歪んで、フラッグへの距離が何倍にも引き延ばされて見えてしまう。
「ああもう! 決まらねえ!」
思わず口から本音が散った。
というかそもそもあれだ。一人で三人相手にフラッグを狙うのが、無理無茶無謀という話ではないか。
そんな風に、俺がやけになりかけた矢先だった。
視界の左端にキラリと小さな光を捉える。一瞬のシャープな煌めき。武器の出現に伴う光だ。それが、ミューの姿に重なって見えた。
そして直後、一筋の明滅が走ったかと思うと、突然俺の背後から衝撃波にも似た風圧と、強い閃光が襲った。風圧で、まるでドーム状の空間が拡大するようにして霧が散り、晴れる。閃光はあまりに多くの光量を生み、目を刺すような、霧とはまた違った白い空間を作り上げた。
その風と光を、両方とも俺は背中で受け止めた。だから影響は少ない。
しかし俺と睨みをきかせ合い、相対していた敵の方はそうもいかなかった。まともに正面から食らったはずだ。堪らず皆、その場で立ち止まり、目の前に腕を構えて壁を作る。
ひとたびそうなってしまえば、俺を仕留めようとしていた二人は、もう恐るるに足らなかった。もはや揃って動かぬ銅像。踏み台も同然だ。
俺は背中に担いだ大剣の安定を確かめ、脚へと意識を集中させる。そして飛び、彼らが構えた腕を踏み越えてさらに飛び、天井すれすれまで舞い上がる。空中で剣の柄に両手を添え、落下に伴って全身をしならせながら振りかぶった。
眼下には敵のフラッグ。
すぐ横に敵が見受けられるが、閃光で目が眩んだのか、俺への対処はおろか前方の確認すらままならぬ様子。
ああ、邪魔する者はもういない。ついでに霧まで綺麗に晴れた。胸中で騒ぐ緊張を抑え、歓喜を抑え、焦燥を抑え、意識が吹っ飛びそうになるのを限界まで堪えて、俺は今一度、瞬きをする。
そうして着地と同時、全身で倒れこむようにして、剣を目標に叩きつけた。
受け身を取ることも忘れ、痛みと共に床に突っ伏し、意識を手放してしまう前。最後に俺が見た景色は、切り倒され光へと変わり、霧散するフラッグの残滓だった。
現在、俺とソラはそんな幾多の段ボールの隙間に入り込んで埋もれた状態だ。狭い空間のため、どうしても二人重なってお互い身動きが取りにくく、首を捻ることもできないので、視界も固定されたままである。
「ちょっと先輩、ゴソゴソしないでくださいよ。狭いんですから、くすぐったいです」
「俺は微塵も動いとらん。お前が勝手に動いてるんだ。下になってる俺は痛いぞ」
「えー、本当ですかー? 変なところ触ろうとしてませんかー?」
「んな余裕はねぇよ。心身共にな!」
相変わらずソラからは緊張感というものが感じられない。
本来、隠れて一ヵ所に留まるのは得策ではないのだろうが、こうなってしまったのは成り行きだ。早いところ敵の隙を見て、この場所を逃れつつ美術室に戻りたいところである。
しかし、なにぶん実際は難しい。どうやら追ってきた敵は六人で、二人一組になって俺たちを探しているらしかった。近くではたびたび敵の声が聞こえるし、目の前の廊下を通る姿もしばしば見受けられる。このままでは、見つかるのも時間の問題だろう。
「ところでソラ、今何時だ?」
「今ですか? えっとですね……」
俺が尋ねると、ソラはゴソゴソと身体を捻って端末を取り出した。こいつが動くと俺は痛いんだが……。
「あっれれ。もう二十時十五分です。知らないうちに、そんなに経ってたんですね」
ゲームは二十一時までだ。つまり、残りは四十五分。逃げ回る過程で、かなりの時間を消費してしまったようだった。よもやこんなところで隠れている場合ではない。
「やばいな……。さっさと先輩たちのところに戻って、攻めに転じないと。時間切れなんて興醒めもいいところだぜ」
「確かに、そうですね。このまま終わるってのは、ちょっと退屈です……」
ソラはまた、グネグネ動いて端末をしまいながら続ける。
「でも、今も近くで敵の声がしますし、周りに何人かいるのは明白ですね。それを全てかい潜って美術室に戻るのは……かなり望み薄かと」
「まあ……そうだよなあ。頑張っても絶対、一組くらいには遭遇しそうだ。かなり敷地の端まで逃げてきたから、戻るにしても距離があるしな」
「距離がある、ですか。先輩、実は私、自分が今どこにいるのかよくわかってないんですけど……先輩はわかってますか?」
目の前では、ソラが首を傾げていた。
「正確じゃないけど、まあだいたいな。この辺りは旧校舎だ。学校全体で見ても隅の隅、かなりの僻地だよ」
「なるほど、旧校舎ですか。それでこんな物置みたいな部屋がいっぱい……。私、昼間の学校でもほとんどきたことないです。先輩ってば、よくわかりますね」
そりゃあ、そうだろうな。普通に南校で生活をしていて、旧校舎にこなければならない事態に出くわすことはほとんどない。この旧校舎に足を踏み入れたことのある人間が、南校に属する膨大な数の生徒の中に、いったいどれだけいるだろう。それこそ今くらいでなければ、旧校舎を歩く人間の姿などなかなか拝めないものだ。
「とにかく、ここから美術室は遠い。あそこは新校舎だ。とても何事もなく戻れる気がしない。廊下には敵が頻繁に現れるし……万事休すってやつだな……」
「あの、先輩。私の体勢だと廊下の方を見られないんですけど、窓から逃げるっていう選択肢もありますよ? 段ボールの山を静かにどかせば、なんとかなると思いません?」
「ああ……窓ねえ。逆に俺の体勢だと窓の方は見えないけど……まあ、よじ登って外を確認してみたらいいんじゃないか?」
互いの体勢とスペース的に、俺からは廊下側しか、ソラからは窓側しか見えない。その分、ソラは廊下を通る敵の姿を見てないだろう。
しかしこれまで、俺はそれを目にするたびにげんなりしている。冷静に考えれば、廊下側だけでなく窓の外にも捜索の手は伸びているはずだ。確認するまでもなく、容易く予想はついてしまった。
「じゃあ私、ちょっと見てみますね」
ソラは三度目の体勢変更を試みるようだ。ガサガサ動いて何度も俺を踏んづけ、段ボールの山を登る準備を始めた。
「ちょ、おま、こら。痛ぇだろうがソラ」
「あー、すませんすません」
んしょ、んしょ。ソラはそう呟きながらサルみたいに上へと向かう。頼むから段ボール雪崩を起こしてくれるなよ。
対して俺は、わざわざ窓を覗いてまで敵を見たくはなかったので、そのまま下でじっとしていることにした。
まったく、どうすりゃいいのかこの状況。前みたいに、ピンチに助けが……ってこともあるわけない。アリア先輩とミューとルナは、自陣でフラッグを守っているのだ。俺とソラが戻ってくるのを信じて待ってくれているのだろう。それを思うとこの状況は、なおのこと辛い。
初めのうちはやる気満々。闘志の炎は胸の中で煌々と滾っていたのに、結局のところこのザマだ。心に雨が降る。諦念の雨が、胸の炎を弱らせてゆく。所詮はこんなものなのだろうか。大切な場所を賭けた戦いでも、圧倒的な戦力差を前にしては、いとも容易く、容赦なく敗北が訪れる。
ミューに……九条に示すはずだった、大切なものの価値。本物の感情。俺はそれを、あいつに教えてやりたかった。そして二人で、共有したかったのかもしれない。なんならあの場所が、次からは俺一人だけのものではなく、彼女との歓談の場になってもよかったのに。けれども、全て叶わぬことのようだ。
「はあ……」
下降気味の思考に陥っていると、ついつい胸中の落胆が溜息となって、口から漏れた。
「元気、ないですね」
それを聞いてか、段ボールクライミング中のソラから、声が降る。
「そりゃ……そうだろ。みんなに協力してもらって、俺の願いのために勝とうとしてくれてるのに……西校相手だって、俺は勝てるつもりでいたのに。なのに、こんなところで隠れて燻ってて……このまま脱出もできなければ、敵に見つかるか、時間切れを待つだけだ。情けねぇったらねぇよ」
泣き言は、情けなさをさらに露呈するばかりだった。
「まあまあ、私が窓の外を確認したら、意外となんとかなるかもしれませんよ。んしょっと、ほら…………あ」
ソラは段ボールの山を登り切ったらしく、上からぶらぶらと足を投げ出している。外を覗いたのか、またワンパターンなリアクションを呟いていた。おそらく敵の姿でも発見したのだろう。先に続く言葉はなかった。
俺は無反応で、ぼんやりと目の前に揺れるソラの足先を追い、相変わらず段ボールの隙間に沈んでじっとしていた。
そうしてしばらく無言が続く。
するとまた、ソラが一言、ぽつりと零した。
「ねえ……先輩。聞いても、いいですか?」
ソラの声音は、なぜか妙に落ち着いていた。シンとした中で、俺の鼓膜によく届く。目の前の両足は、さきほどまでの尻尾みたいな動きをやめて、穏やかに漂う霧の中で、いつの間にか行儀良く揃っていた。
「……なんだよ。改まって」
「先輩の願い事って、あれですよね。大切な銀杏の樹の広場を守りたいっていう。それって先輩にとって、いったいどんなものなんですか? どうしてそんなに、大切なんですか?」
「……んなこと、聞いてどうする」
「いいじゃないですか。気分転換に話してくださいよ。先輩がそこまで必死に守ろうとするものなんて、私、気になりますもん」
俺は驚いた。まさか唐突に、そんな質問がくるとは思っていなかったのだ。対して俺は、今は雑談なんて余裕かましていられる場合じゃねえだろ、と突っ込みを入れてやりたくなった。
でも直後、どうせここでじっとしている間は、することがないのも事実かな、と考え直す。
いいさ。それならまあ、答えてやろう。気分転換になるかはわからないけれど、聞きたいっていうのなら話してやるさ。あの広場が、どんなに素晴らしいところなのか。どんなに貴重で、価値のあるところなのか。それを、こいつにも。
俺は小さく息をつく。そっと頭の中にあの場所を描きながら、ゆっくりと口を動かした。
「あそこは、あの銀杏の樹の広場は、俺にとってとても大切なところだよ。平和で穏やかで、これ以上にない、安らぎのための場所。人目に触れず喧騒を避け、緩やかな時間の流れを感じ、退屈で面白くもないけれど、心温まるところ。そんなところだから。中心にある樹の根元に座れば、もうまるで別世界みたいでさ。静寂や安穏、そんなものたちが、どれだけ価値のあるものか実感できるんだ。暑い日も寒い日も、晴れの日でも雨の日でも、俺はあそこへ行くのが好きだよ」
ソラは黙ったまま、何も言わなかった。でもきっと、俺の言葉を聞いてくれているのだろう。なんとなくだが、ちゃんとわかった。
「けど、中でも一番綺麗なのは、秋の季節かな。やっぱりあれは銀杏の樹だからさ。金色の葉を湛えた姿が、一番映える。ちょうど今がその頃だ。ソラも一度でいいから、眺めてみたらよくわかるはずだよ」
俺が語り終えるとソラは小さく、ふぅん、と呟いた。
「先輩は、本当にその銀杏の樹の広場が、お好きなんですね。詩的なお言葉で、格好いいです」
やがて少し間をあけて、穏やかな声で感想をくれた。
いやまあ、あの場所に似合うような表現をしようと思ったら、どうしても言葉は詩的になる。仕方ないだろう。無理に格好つけているわけではないのだ。
「一度眺めてみたら……ですか。確かに、そうですね」
ソラはポツリと呟いていた。
俺が何となしにそれを見上げると、あたかも示し合わせたかのようにソラも首を捻り、段ボールの上からこちらを見下ろす。
「先輩も、こっちへきてみませんか」
まるで俺の視線の動きを知っていたかのような素振りだった。続けて段ボールにぶら下がったまま、器用に横へとずれる。
脈絡もなくそんな提案を受けたから、何のことだかすぐにはわからなかったが、ソラが隣に一人分のスペースを空けたのだと知って、俺はその意図を理解した。
「こっちって、俺にもこいつを登れと」
「そうです。ほら、いい眺めですから」
いい眺めって……お前さっき、敵見つけて固まってたじゃねぇか。面倒だよ。てか今更だけど、これって登っても廊下から見えてないよな。大丈夫なんだよな……。
当たり前だが、気怠さと心配が胸をよぎった。
しかし結局、ソラがせっつくので、仕方なく俺も登ることになる。
「ったく、なんなんだよ」
上まで着いてから、俺は隣のソラに毒づいた。
けれどもソラは無言で微笑んでいる。そのままゆっくりと前方を向くのを見て、俺まで自然とつられてしまった。
そのとき、俺は自分の目に映るものを見て、深く大きく息を飲んだ。眼前に広がる景色から不意打ちを食らったのだ。窓の外、俺が視線を向けた先では、直前まで頭の中に描いていた光景そのものが、白い霧の向こう側で輝いていた。
「えへへ。私、見つけちゃいましたよ。これですよね。先輩と先輩のお姉さんが、守りたいと願う、銀杏の樹の広場」
辺りの霧は、依然として十分濃い。しかしながら、窓の外にある大樹の姿を、この目ははっきりと捉えることができた。白くぼやける空間を、金色の光が鋭く進んで、眼球まで飛び込んでくる。それは間違いなく、一つ一つの枝に隙間なく育まれた、あまたの銀杏の葉によるものだとわかった。
「秋の季節がとても綺麗で、一度眺めてみるといい。ええ、先輩の言う通りですね。私も今、初めて見て、そう思います」
隣ではソラが、人懐っこく肩を寄せてきている。
ただ俺の方は、未だ身体の硬直が抜けない。まさか思いもしなかったのだ。いくらここが旧校舎だと分かっていても、自分の隠れた教室の傍に、守ろうとしている広場それ自体があったなんて。
昼間のうちはこんな荷物だらけの部屋にはこないし、この角度で眺めるのは、俺も初めてだった。窓枠がちょうど額となり、さながら空想の世界を切り取って描いた絵画のように感じられる。
「実に神秘的……幻想的な風景です。きっと先輩のお姉さんも、この広場を見て、同じような気持ちを抱いたのでしょう。守りたい、残したいと、感じたのでしょうね」
そんなソラの言葉を聞き、ふと俺は思い出す。事の発端の当時、優璃が広場の危機を知って、俺に守るよう命じてきたときのことを。あのとき俺は、優璃の頼みがどうにも腑に落ちなくて、違和感を覚えていた。
動機が不明瞭だったのだ。優璃が広場を守ろうとする動機が。
なぜなら俺は、優璃があの広場を気に入るなんて、とても思えなかったから。あいつのような人間は、俺や銀杏の樹の広場とは、真逆の存在だと考えていたからだ。
いつも騒がしくて、賑やかな空間を好んでいた優璃。本来ならそんなあいつが、広場の存在を知っていたこと自体、驚愕の一つである。
だからあのとき、疑問を消化しきれなかった俺は、きっと優璃には何か別の目的があるのだろうと結論した。目的そのものまではわからなかったけれど、曖昧なまま半ば無理矢理に納得したのだ。
しかしここにきて、また俺の中に違和感が蘇る。想定することのできなかった優璃の別の目的は、現在に至ってなお、検討もつかないままだ。それは、いったい何なのだろう。
隣のソラはもう、口を閉ざして景色に見入っている。
ボーっと悩んでいると、さきほど耳にしたソラの最後の言葉がゆっくりと尾を引いて、俺の鼓膜を揺さぶっているような気になった。
優璃は、この場所が大切だから……だから守りたい。残したい。
まさに今このとき、銀杏の樹を前にぼんやりと頭を回しても、それを上回るほどに妥当的な答えは見出せない。そんなことはあり得ないはずなのに、どうしても他の可能性が思い浮かべられなかった。
そうして漂う霧を眺めていると、だんだんと思考をぼかされて、広場を見つめる俺の視界には、突然、人の姿が浮かんだように感じられた。
忘れかけていた瞬きを重ねて行い、驚きと共に凝視する。
どうしたことだろう。銀杏の葉の放つ光が強く拡散し、あたかも霧が薄くなったかのように見える。自然と景色がクリアになり、俺の特等席である樹の根元に、一人の人間の佇む姿が明確に映る。それが誰なのか、すぐにわかった。
優璃だった。この学校の制服に身を包む、在りし日の優璃の姿。儚く明滅し、あたかも映画を投影するかのように、かつての彼女をそこに描いていた。
初めは一人。物憂げそうに、穏やかそうに、風に鳴る木葉を仰いでいる。消えて、また現れるごとに少しずつ変わる優璃の姿は、あいつが何度もここを訪れ続けていたことを思わせた。
そして次第に、映る人間は二人になった。落ち着いた儚さを残しながら、朗らかに会話をする様子が重なってゆく。
さらにしばらくすると、次々といつの間にか人が増え、三人、四人、五人となる。大きな樹を傘にして彼女らは集い、優璃はその真ん中で破顔していた。
何だろう、この光景は。まるで過去を思い起こすかのような、そんな幻。これは事実なのだろうか。
俺は恍惚として、優璃の姿に見入ってしまっていた。目の前に見える、俺が姉として認識している優璃とは別人のような彼女に。眺めているだけで、全身がじわりと暖まってくるような微笑みに。
そして感じる温度と共に、一つの想いが、にわかに俺へと去来する。
優璃にとって、この場所はとても大切なところなのだ。かけがえがなく、大好きで、守りたくて……だからそこ、残したくて、絶対に失いたくない場所なのだ。
ここから彼女を見ていると、そんな想いが強く強く湧き上がってくる。同時に、まさかと考えていた気待ちがだんだんと萎んでいき、俺が優璃の気持ちを確信する頃になると、いつしか眼前の投影は消滅していた。
心臓が、トクンと鳴る。瞬間、俺はハッと気づき、誰にも聞こえないような小声で呟く。
「そうか……もしかしたら、これが四つ目の……」
世界は再び白くて濃い霧に包まれていたが、対照的に、俺の胸中は一気に晴れ渡った。抱えていた違和感は霧散する。そして迷いも、不安も消えた。
優璃ならきっと、こんな状況、ものともしないのだろう。いくら絶望的な状況でも、あいつの辞書に諦めるなんて文字はない。単細胞らしく、敵全員をなぎ倒して特攻、なんてことをするかもしれない。実際に見たこともないのに、嬉々として飛び出して行く優璃の姿が、俺の脳裏には容易く浮かんだ。
そんな優璃のイメージは、今の俺にとって大きな助けになった。どこまでも大胆で無茶苦茶で、傍若無人で突拍子のない我が姉貴。彼女の幻をここで見たことが、俺の決意を強く固めた。追い詰められた窮地の中、文字通り四面楚歌のこの戦況で、俺は優璃の背中を追う。そうするべきだと、心が叫んだ。
「ソラ、今何時だ?」
「へ?」
ソラは素っ頓狂な声を上げた。
「先輩、それさっきも聞きましたよね。もー、何度も聞くくらいなら自分で確認してくださいよー」
二十時二十分です、と返ってくる。この部屋にきて初めに時間を確認してから、まだ五分しか経っていない。俺が広場の優璃を見ていた間、時間は止まっていたのだろうか。そう思うくらいに、実際と体感では時の進みに差があった。
いや、あるいは止まっていたのではなく、ほんの一瞬だったのかもしれない。あれは幻だったのだから……言うなれば、俺だけの目に映った夢のようなものだ。
「よし。休憩は終わりだ」
俺は静かに息を吸い込み、ソラへ始動の合図を告げる。
「これからみんなのところへ帰る」
そう言うと、ソラはしばらくこちらを向いて固まっていたが、やがて口を開いた。
「帰るって……。あ、もしかして先輩ってば、何かいい作戦を思いつきましたか!?」
興味津々で耳を傾けてくる。
ソラの耳元で俺は、考えついたことをただそのまま述べた。
すると、一度上がったソラのテンションが、また下がる。
「…………あの、それはちょっと……作戦とは言わないかと」
「あれ、そうかな。作戦のつもりだったんだけど」
「………………」
沈黙された。突っ込みすら返ることはなく、無言で鋭く見つめられる。この場合、睨まれるといった方が正しい表現だろうか。それから少しして、ソラは言った。
「突然、どうしちゃったんですか。そんなことをすればどうなるか、先輩もわかっているでしょう。もしかして……もう諦めちゃいましたか?」
ソラの瞳は、真っ直ぐに俺を捉えているとわかった。視線が反感を物語っている。
「あっはは、まさか。その逆だよ」
しかし、俺は笑って、片手をソラの頭にポンと置いた。
「俺は諦めないよ。弱気になっていたのは確かだけどな。うん、それは謝る。でも、俺の提案は勝つためのものだ。リスクはあるけど、正しい選択だって信じてる」
真剣な表情をして、視線をソラのそれへと重ねる。
するとソラは、自分の手を頭上に乗る俺の手に重ね、甲を優しく握ってくる。
「本当……ですか?」
「ああ、本当だよ。だから……協力してくれ」
俺が答えると、不安そうにしていたソラの口元は、軽く緩んだ。
「そうでしたか。これはこれは、失礼しました。はい、そういうことなら是非、お供させて頂きます」
そして俺たち二人は、隠れ続けた荷物いっぱいの教室をあとにした。
ソラの言う通り、俺の提案は本当に、お世辞にも作戦と呼べるほどのものではなかったのかもしれない。
ただただ、自陣である美術室に戻るだけだ。小細工は何もない。できる限り敵に見つからないように進み、徘徊している敵をある程度避けつつ、最短で美術室に着くように移動する。そしてどうにも敵をやり過ごせなくなったら、覚悟を決めて正面突破。もちろんその場で戦いなどしない。通り抜けるだけだ。以降はひたすら全速力で走る。
追ってくる敵を巻く余裕はないだろう。もたついていたら他の敵も集まってきてしまう。
しかしだからといって、そのまま美術室に向かえば、わざわざ敵を自陣へご招待するはめになってしまうのはわかっていた。というかそれこそが、俺たちがずっと隠れたままで、自陣へと逃げ帰ることができずにいた一番の理由なのだ。
でも、それはもう、考えないことにした。考えなくていいのかと問われればよくはないのだが、もういいのだ。いいったらいいのだ。少なくとも、あの部屋に隠れたまま終わるよりはずっといい。アリア先輩や、あるいはミューあたりには何か言われるかもしれないが、それでもいいと思うことにした。ソラも不安なはずだけれど、俺を信じて協力すると言ってくれた。
俺たちは廊下を進む。ここまで運良く、何度か敵をかわすこともできた。
しかし、とうとう隠れて進むのにも、限界がやってくる。
「先輩、ここを曲がった先に、敵がいます。二人組です」
「もうあまり迂回する余裕はないな。下手に動けば、ここまで避けてきた別の敵に出会うかもしれない」
「そうですね。じゃあ……行きますか、先輩!」
「ああ、こっからが本番だ。手筈通りにな」
ソラは頷き、曲がり角から飛び出した。
俺もすぐに続く。
並んで駆けると、こちらに背を向けて歩いている二人の敵が振り返った。
それを見計らい、ソラが銃を取り出して撃つ。敵二人に対し、それぞれ二発ずつの牽制弾を発射した。弾道が派手に白く光る。
「うわっ! なんだ!?」
一人が驚く。続けてもう一人も開口する。
「なっ……南校!」
いい反応だ。奇襲をしかけた甲斐があるってもんだ。お前らの方が俺たちを探していたんだろうがと突っ込みたくもなるところだが、いやしかし、突然背後からレーザーまがいの銃弾が飛んでこれば、多少声が上ずるのも当然か。敵ではあるが、豆粒程度の同情はくれてやろう。
俺は安い同情を抱きつつも、遠慮なく拳を構えて急加速し、振りかぶって全力で殴りかかった。狙いはまとめて敵二人……ではなくて、ちょうどその真ん中だ。
攻撃はかわされる。敵はそれぞれ左右に避け、俺のパンチが空振りのように地面の朽木を粉砕する。
しかし、それでいい。想定通りだ。敵へのダメージはないが、これで廊下の中心に突破スペースが確保された。
すかさず後ろから走り込んできたソラが、俺の背を踏み台にして前方に飛び上がり、縦に翻りながら敵への雨のような射撃を行う。下から見上げると、まるでサーカスショーのようなアクロバット。サマーソルトキックばりの空中反転だ。いくら装飾服のサポートがあっても、慣れていないとなかなかできることではない。身軽でそういった動きに慣れているソラならではだ。
その間、俺はすぐにまた踏み出し、つま先に力を込めて前進を図る。ソラの着地点に回り込み、通り抜けざまに背中でしっかりと受け止めた。
「やっはー先輩ナイスキャッチ! かっこいー!」
ソラは俺にしがみつきながら、後方へ向かって発砲を続ける。
突破、成功だ。
「舌噛むぞ。黙って撃てっての」
ソラに憎まれ口を叩く反面、実は内心、狙い通りに事が運んで安堵している俺。顔はにやけて、片手では静かにガッツポーズをした。
そしてそのまま、ソラを背負いながら全速力で走る。
「あとは走り抜けるだけですね! 期待してます!」
「あ、てめえ。最後まで俺に担がれてる気だな」
「いいじゃないですかー。その分ちゃんと、敵の足止めしますから」
確かに、ソラの射撃は追ってくる敵の妨害に役に立つ。二人一体となって逃げるこの形なら前方と後方が一度に確認できるし、案外ベストかもしれない。たとえるのならまるで戦車のよう。俺がタイヤで、ソラが砲台だ。
追ってくる敵と鬼ごっこをしながら、とにかく必死で美術室へと向かう。
道中でそれ以上の敵と遭遇しなかったのは天恵だろう。戦闘音に気付いた敵は多いだろうが、俺たちの全速力の移動もあってか、そう簡単には位置も捕捉されない。曲がり角を折れ、階段を上り、目的地に近づく。そしてついに、美術室の扉に至るまで、右折一つを残すのみとなった。
当然、二人の追手は俺たちの後ろをぴったりとついてきている。振り切ることはできていない。
「さてさて先輩、ついにもうすぐご到着ですが」
「んだな。ようやくみんなのところに帰ってきたな」
「ええ、もれなく敵二人もご招待なわけですが」
「はは。まあ、たぶん大丈夫だって」
廊下を曲がったあと、俺はソラを担いだまま、閉まっている美術室の扉に勢い良く突っ込んだ。体当たりによって外れた扉は衝撃音と共に跳ね飛び、盛大に俺たちの帰還を主張する。
そして俺は力尽きて床にヘッドスライディング。背中にソラを担いでいたこともあってバランスを取りきれず、腹と顎をいっぺんに激しく擦った。
「ちょ、なになに!? いきなり何!?」
もつれて飛び入ってきた俺たちを見て驚いたのか、すぐに声がかかる。おそらくアリア先輩だろう。勢いが止まってから顔だけを持ち上げて確認すると、目の前には先輩の足先が見えた。ソラが邪魔で、顔まで見上げることができないが、それでも俺はとにかく叫ぶ。
「すいません! あとのフォロー頼みます!」
それとほぼ同時、入り口の方から気配がし、追手の敵二人が侵入してくるのがわかった。
「ッ!」
アリア先輩の雰囲気が変わる。直後、俺の視界に槍の切っ先が映ったかと思うと、先輩の両足と一緒に消えた。
頭上と背後の両方で、金属の打たれるような快音が響く。白い霧が波紋のように揺れ、その衝撃を伝える。
俺はソラに乗っかられたまま、なんとか腹這いで視界の方向を変えた。
すると既に敵の一人が、部屋の隅で光に包まれていた。その胸のペンダントは、真っ二つに割れて破損している。
もう一人は入口のそばで痛みに耐えながら尻餅をついていたが、ぎこちなく立ち上がってすぐに扉から出ていった。
「しまった、一人逃した! ミュウミュウ追って!」
アリア先輩の指示が聞こえる。
しかし俺は、そこでもう一度叫んだ。
「待てミュー! 行かなくていい」
ミューは駆け出そうと身を乗り出していたが、俺の制止に反応して入口で踏み止まった。
そうして数秒の沈黙が流れる。美術室は一気に静まり返った。
「……ソラ、そろそろどけよ」
「……え? あ……はい」
ソラはすっかり惚けていたようだ。俺が言うと、とりあえずいそいそと床へと降りた。
俺は立ち上がり、改めて皆に告げる。その言葉は少々軽々しく、今の静寂には不釣り合いだった。
「あ、ども。ただいま」
周りを見渡すと、ソラはまだ半分くらいわけもわからぬようで腰を抜かしている。ルナもフラッグの横に突っ立っている。状況の処理ができていないのはソラと同様のようだ。アリア先輩は、目の前で大振りの槍を携えている。さきほどの咄嗟の迎撃に武器を使ってくれたのだろう。それからミューは、少し離れた入口から、じっとこちらを見据えていた。
実際、この中で一番怖いのはミューだと思った。ものすごく、睨んでいる。もちろん、彼女の視線の意味はよくわかった。なぜ敵を連れて戻ってきたのか。敵に陣地を知られたぞと。そう咎められているのが明白だった。
「ただいまって……レイ、あのね」
アリア先輩がこめかみを抑える。
「いや、いやいや。わかってますよ。もちろんわかってます。驚かせてすみません。それから、咄嗟の対応、ありがとうございます」
「それはいいけど。いや、よくはないけど……」
言葉からは、困惑の様子が見て取れた。
そこにすかさず割り込むように、ミューが鋭く俺に尋ねる。
「なぜ止めたの」
「なぜって?」
「さっきのやつは、ここが私たちの陣地だってことを仲間に知らせに行くわ。その前に追って仕留めなきゃ。それくらいわかるでしょう」
「ああ、そういうことか。わかるよ。でもいいんだ。一人で追うのは危険だし、それに……あいつは追わなくていい」
俺の返答に対し、ミューは口を閉ざした。こいつは何を言っているんだと、訝しげな雰囲気を漂わせながら。
「レイ」
アリア先輩が、俺の正面からゆっくりと歩いて近づいてくる。
「リタイアせずに戻ってきたのは嬉しい限りだね。けど、これからどうするつもりなの?私だって、口うるさくミュウミュウと同じことを言いたくはないよ。でも……」
これからどうするのか。それはつまり、この状況からどうやって勝ちを目指すのか、ということだ。アリア先輩の声は厳しい。
しかし俺は、それを考えられるだけで嬉しいと思った。敵に追われながら美術室へと戻ってきてしまって、実際にはここでフラッグを守れるかどうかもわからなかった。しっかりと敵を追い返せるかどうかもわからなかった。当たり前の可能性として、さきほどの追手二人に勝負を決められていたということもあり得たわけだ。それは、俺とソラがとった行動に、必然的に付随するリスクだった。
だからアリア先輩には、非常に感謝したい。そして今からの時間は俺たちにとって、勝利の女神からの選別にも感じられる。
「作戦があります」
俺は力強く告げる。アリア先輩と、そして周囲の三人に向かって。
「敵の陣地は体育館です。今からそこに、五人全員で攻め込もうと思います。ゲームの初めに、アリア先輩は言いましたよね。敵陣の位置がわかっていて、自陣の位置を知られていない状況がベストだって。今がまさに、その時じゃないですか」
今まさに、敵陣が体育館であることを、南校チームの全員が知った。西校チームはまだ、ここに俺たちのフラッグがあることを知らない。逃げ去った敵がその情報を仲間に伝えるまでの短い間だけ、そんな理想的な戦況が保たれる。
「五人全員でって……その場合、ここを守る人がいなくなるよ。君とソラが逃げ帰ってきたとき、いくらかは確実に敵を集めてきてしまったはずだけど。それについては?」
「俺たちが逃げ帰ってきた経路と、ここから体育館へ向かう経路は、途中まで重なっています。だから、俺たちが集めた敵は、道中で全員倒していく!」
右手の拳を目の前に掲げ、俺は意気を込める。声を張る。ミューがこちらを睨み「何それ、無理に決まってるじゃない」的な視線で睨んでいるが、無視して続ける。
「止めようとして向かってくる敵も、全部なぎ払う! 俺たちが有利なのは今、この時だけ! 自陣が知られてジリ貧になる前に、勝負を決めましょう!」
しんとした室内に俺が必死に声を放ると、アリア先輩が神妙な面持ちで言った。
「……随分と、強気にでるね」
「強気に、でますよ。だって、俺がソラと偵察をしてきて見つけたのは、敵の陣地だけじゃないんですから」
俺はそう答えると、皆の前で端末を取り出し、アカウント専用の武器データが入っているフォルダにアクセスした。パスワードが要求されることは既にわかっている。ゲーム開始時にこれが発覚して悩んでいたことは、まだ記憶に新しい。
しかしソラとの偵察を経て、今の俺にはもう、このパスワードの見当がついていた。俺はためらわずに操作を続け、パスワードの入力を試みる。
『ginkgotree』
意味はもちろん、銀杏の樹。我が姉優璃が、高校時代にこよなく愛し、大切に思った宝物の名前。
アプリケーションはその文字列を静かに飲み込む。再要求はされなかった。
やがて俺の右手に光が集まる。小さな粒子のような輝きは、すぐに太く長い得物の形を成し、音もなく眼前に顕現する。そして光が散ったあとで俺が握っていたのは、鋭く極めて重厚な、つるぎであった。剣先を地にめり込ませ、迫力満点で、振れば絶大な威力を約束する、赤い大剣だ。
皆はその一連の光景を、黙って見ていた。そしてなおも数秒の沈黙を経て、高らかな笑い声が忽然と上がる。
「はっはは! あっはははははは! なるほど! なるほどね!」
アリア先輩だ。アリア先輩が、いきなり目の前で腹を抱えながら笑い出したのだ。
「ちょ、先ぱ――」
「いや、いやいや。悪い悪い。馬鹿にしたつもりはないんだ。ただね、驚いたんだよ。君が、あまりに無茶な提案をしてきたから」
先輩はそう言ってひとしきり笑うと、やがて落ち着いて、また続ける。
「……でも、すぐに思い出したよ。君が、あのリフィア先輩の弟だってことをさ。やっぱり……うん、似てるね。五人で特攻。まさにリフィア先輩の言い出しそうな作戦だ」
まあ、それってたぶん、作戦とは言わないんだろうけどね、と付け足しながら。
優璃と似ている。そんなことを言われたら、普段の俺ならば、とりあえず反論をするところである。でも今回は、今回だけは、不思議と気にはならなかった。ああ、やっぱりそう思われるんだな、なんて感じてしまった。
「よし。私、それ乗るよ。なんかね、その大きな剣を久しぶりに見たら、二年前を思い出した。とても懐かしいな。私はいつも、先輩の振るその赤い剣に守られていたんだ。結局あの人には、最後まで頼りっきりだった。だから今度は私が、先輩の弟である君を守ろう」
アリア先輩は、携えた槍を軽々と二回転。自分もくるりと反転し、改めて居住まいを正す。俺に背を向け、美術室の扉を見つめる。
「二年越しの、恩返しをしようじゃないか。ミューに、ソラ、ルナ。頼む……付き合って」
先輩は俺への宣言と共に、本来は俺がすべきはずのチームへの依頼まで行う。
ありがたいことに、首を振る者はいなかった。相変わらずミューは何かを言いたげにしていたが、アリア先輩の様子を見て、渋々不満を飲み込んだようだった。
「さあーて。こっからが本当の最終決戦だ! みんなまとめてかかってきな! 私が全部、ねじ伏せてやるから!」
そう言い放ちながら美術室を飛び出す先輩に続き、俺たち南校チームは一同、大胆にも自陣を放棄。守るべきフラッグの周りに一人の味方も残すことなく、敵陣を目指して駆け出した。
案の定、既に周囲には何人かの敵が集まっていて、出発の直後に襲撃を食らう。
しかし嬉々として先頭を行くアリア先輩が、流れるような鮮やかな槍使いで迎え撃った。二人組の敵が数回に分けてパラパラと現れたが、先輩の対応は非常にあっさりとしたもので、前進速度を落とすまでもなく、一振り二振りの攻撃で容易く敵のシンボルペンダントを切り裂いて進む。
すぐ後ろからそれに続くソラやルナは、もはやさきほどまで惚けていた面影もなく、先輩が活躍を見せるたびに喝采を上げた。
「やーふぃー! アリア先輩いっけー!」
「かっこいー。強ーい」
俺はさらにその後ろから追いかけつつ見ていて、思わず零さずにはいられなかった。
「……マジで強えな。あんなのありかよ……」
並走するミューが俺の呟きに答える。
「三年生だから、ここでの立ち回りに慣れているっていうのもあるけど。それでもまあ、あの人の個人的な実力は、他のチームの三年生と比べてもかなり高い方よ」
「かなりっていうか、無茶苦茶だろ。あれ」
「そうね。あの槍を使っていることを差し引いたとしても、確かにアリア先輩の強さは無茶苦茶。あなたのお姉さんの教え方が上手かったのね」
「完全に姉貴の無茶苦茶が伝染ってる」
この世界で戦うということにおいて、装飾服のサポートの活かし方や武器の扱いが大きなパラメータになるのはわかるし、実感もしている。普段の生活と全く異なる感覚ゆえに難しく、したがって経験の多い三年生が強いのは当然だろう。だがしかし、アリア先輩の実力は、その範疇を明らかに逸脱している。
俺が呆れて言い捨てると、隣からすぐに反論が飛んだ。
「何言ってるのよ。無茶苦茶はあなたも同じじゃない。捨て身で特攻なんて、本当に作戦とは呼べないわ。それこそ無茶苦茶以外の、何物でもない」
「お前まで言うかよ」
「誰だって言うわよ。私だったら絶対にしないわ。こんなこと。あなたにも無茶苦茶が伝染ってるんじゃないの? お姉さんから」
ミューは、語気こそ荒げず冷静に話すけれども、いつもと比べて口数が多い。そのことに俺は気づいていた。もちろん不満なのだろうし、別に今更、隠すつもりもなさそうだ。あと、少し嫌味っぽい。
俺は言葉を探して言い返そうとしたが、それよりも早く彼女の、はあ、という溜息が聞こえた。
「でもね、あなたのその無茶苦茶な提案に、アリア先輩は乗っちゃったじゃない。ああなった先輩は、私が何を言ったところで無駄なのよ」
「ミューって、アリア先輩には結構甘いよな」
「違うわ。諦めているだけ。それに今回は、あなたのやり方に協力するっていう約束もある。これが最善とは思えないけれど、あなたが選ぶ方法なら、私はちゃんと従うわ。だからこうして、私は今、走っているわけ」
やれやれ、とでも言いたげな雰囲気だった。半信半疑ではあるが、しっかりと結果を見届けてやろう、といった感じだ。それは以前に彼女が言った、俺を試させて欲しいという言葉に起因しているのだと思う。
だからこそ、彼女がこれからの戦いで手を抜くことはない。俺にはわかった。
「ミュー、俺はさ……今走っているこの道が、俺たちの勝利に繋がる最短の道だって、信じてるよ。強く信じて疑わない。そしてミューが求めるものも、きっとこの先にある。お前にも、それを信じて欲しいんだ」
俺は、礼を言うつもりで彼女に告げた。
すると前を向いて走っていた彼女は、不意に俺とは反対の方に首を捻って答える。そうね、そうするわ、と。穏やかな声音で。
「ところで……」
「ん?」
さらにまた、ミューが反対を向いたままで口を開いた。
「格好いい台詞を頂いた直後で尋ねにくいのだけれど……あなたが背負っているソレは、使い物になるのかしら」
「……ああ…………いいところに目をつけましたね、ミューさん」
いや、うん。本当に、ちょっといいこと言ったあとに、聞いて欲しくはなかったな。
実は……といっても隠していたわけではないが、俺はさきほどからずっと、あるものを背負って走っている。そのあるものとは、俺が自信満々で顕現させた優璃の大剣だった。隠そうとしても到底隠し切れるはずのない、化け物サイズの大剣だ。
少しばかり前の話になる。この大剣は登場早々、派手に俺の度肝を抜いた。携えて美術室を出ようとしたときに知ったその重さは、なんと、いやもう本当にどうかしてるってくらい、あり得ないほどのものだったのだ。そして瞬時に身体が悟った。装飾服のサポートを以ってしても、これを自在に振り回すのは、無理だと。
したがって俺はこいつを担いで駆ける羽目になり、惜しまず必死の全力を費やしているにも関わらず、チームの皆からは遅れ気味で走っている。このため俺たちの突撃フォーメーションは自然と、先頭にアリア先輩、次にソラとルナ、最後に俺とミューが続く形だ。うかうかしているとアリアとの距離が開いて、霧で見なくなってしまう。もしかしてミューが俺の隣を走っているのは、何気に気遣いの表れなのだろうか。
「はっきり言って、荷物にしか見えないんだけど」
訂正。やはりこいつの言葉には気遣いなど感じられない。
「そんなにはっきり言うなよ……」
武器は基本的に、音声や身体動作によるショートカットコマンドで取り出すらしい。でないと咄嗟の事態には対応できないからだ。
しかし今回、俺はこの大剣を初めて使う。姉貴の設定したコマンドなんて知らないし、その確認や変更は、ゲーム中にはできない仕様だ。ゆえに、俺がこの大剣を武器として使うには、事前に携えていなくてはならない。敵に出会ってから、目の前で端末をちまちまいじってなんかいられないのだ。
「あのね、レイ。リフィア先輩の剣って、すっごく重くしてあるはずなんだよね」
俺とミューが後ろで話していると、先頭のアリア先輩から声がかかった。どうやら敵を迎え撃ちながら、こちらの会話も耳に入れていたらしい。
大剣の加重が響いて俯きがちに走っていた俺は、首を起こしてアリア先輩の方を見る。
「重量がある方が瞬間的な威力も出るし、突破力も上がるから……とか言ってたかな。それで一時期、どんどんどんどん武器を大きく、重くしていた記憶があるよ」
「な、なんすかそれ。いや、既に重いのは十分実感してますが……姉貴は本当に、これを武器として使ってたんですか?」
「使ってたねー。他人の武器を借りることはできないし、直接斬撃を受けたこともないからわからないけれど、リフィア先輩は重い重いって言いながら、でも楽しそうに使ってた。あんまり綺麗に振り回すもんだから、途中からは重いなんて嘘なんじゃないかと思っていたけど……やっぱりそれ、かなり重いんだね」
「重いなんてもんじゃないっすよ。これ担いで走ってるだけで、体重が二倍にも三倍にもなった気分です」
そもそも俺はこいつを、携えているというよりは、文字通り担いでいる。剣として正しい持ち方をできていない。これを実用的なレベルで使っていたって……頭おかしいだろ。脳みそまで筋肉かよ。
「そっか。まあ……だろうね。そのせいかリフィア先輩の戦い方は、すごく独特だったよ。振り回すとき、いつも自分よりも剣の方に重心があった。担ぎざまに振り下ろしたり、遠心力を利用したり、とにかく全身の力を駆使していた。面積の広い刀身に隠れて、盾代わりに使っていたこともあった。一見するとその重みに振り回されているようで、実はちゃんと得物を使いこなしていたんだ。だから、その剣を使うときの先輩は、まるで剣と手を繋いで踊っているみたいだったよ」
「武器まで無茶苦茶仕様だなんて……俺にはそんな怪力ねえよ……」
「違うよレイ。装飾服から得られる身体的なサポートは、基本的にみんな平等なんだ。適切な判断と工夫さえあれば、その大剣も扱うことができる。リフィア先輩は多くの試行錯誤を経て、自分なりのスタイルを見出したはずなんだ」
……適切な判断と工夫、試行錯誤。って、言われたって……。
それを聞いて俺が再び俯くと、アリア先輩はこちらを振り返り、高らかに笑った。
「あっはっはっは。でもね。ついさっきリフィア先輩の剣を手にした君に、そんなこと言ったって無理だよねー。見ていたらわかるよ。せいぜい一振りくらいが精一杯ってところかな」
身体の正面を俺へと向けて、すっかり後ろ走りをしながら、先輩が言う。大きく開いた口はやがて閉じられて、今度は穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「だから君の仕事は、その一振りだ。それだけでいい。そのために今、私が先頭を走ってる」
「………………」
跳躍気味に滑走する中で、アリア先輩の視線は、ぶれずに俺を捉えているように思う。
しかし発言の意図がわからなくて、俺は口を噤んだ。
先輩が続ける。
「たとえばだけどね。君がそいつを担いで飛び上がってから、重力による勢いを借りて、思いっきり振り下ろすとする。そうしたら、止められる相手なんて絶対いないよ。もちろん、容易くかわされてしまうことはあるかもしれない。避けられてしまったら、そのあと君は重過ぎる武器を構え直すこともできずに、やられてしまうだろう。でもさ、だったら、あとなんてなければいいんだよ。君の渾身の一撃で、動かない相手のフラッグを叩き折ればいい。かわす敵は元より無視。逆に立ちはだかる敵がいたとしても、問答無用で貫通さ。リフィア先輩の大剣には、そういう力があるんだよ」
すぐ前を走るソラもルナも、隣のミューも、アリア先輩を見つめて聞き入っている。
そして先輩は、チームの皆に掛け合うようにして、俺以外にも目を配った。
「私はそのフラッグの前まで、君を連れて行くんだ。正確には、私たち、がね」
「……ありがとう、ございます。なんか、露払いみたいなことしてもらって、すいません」
「いいってことさ。私も嬉しいんだ。謝罪はいらない。礼は勝ったあとに聞こう。ね、みんな」
先輩は笑う。口元をニヒッと引き上げて、快活に。ついでに右手を俺に向かって突き出して、親指を立てた。
俺は頷き、同じように答える。背中のアーツが重くて少し辛かったが、笑いながら震える左の親指を立てて見せた。
「アリア先輩っ!」
そこで突如、ソラの叫ぶ声がする。アリア先輩は振り返って前を向き、一瞬で俺たちを取り巻く空気が変わった。
「ははっ! お二人さん、いらっしゃーい!」
見ると前方から、二人組の敵が向かってきていた。
アリア先輩は速度を上げてそこに突っ込み、迎え撃つ。そしてまた、目にも留まらぬ閃光のような槍さばきで彼らを払い飛ばした。
それでもよく見ると、二人とも跳ね飛ばされて体勢を崩してはいるが、シンボルペンダントはしっかりと守り通している。
すぐにアリア先輩が声を張る。
「みんな、スピードを上げるよ! そろそろ私たちのフラッグの場所はばれてるだろうけど、ここまできたらもう大丈夫。敵は全員、無視して行こう!」
俺を含め皆は、その指示に瞬間的な戸惑いを見せたものの、速度を上げて先輩に追随した。
敵陣の体育館と自陣の美術室。この二か所の中間地点を、俺たちは既に超えていたのだ。もう大丈夫というのは、これから先に鉢合わせる敵が、仮にリタイアを免れて美術室を目指したところで、俺たちが勝負を決めるまでには間に合わない、ということだ。俺たちは、この特攻が実れば勝利。実らなければ負けという賭けに出ているのだから、その結末より後の戦況など、一切顧慮する必要はない。
「さあ、敵陣に近づいてきたよ。あの角を曲がれば体育館が見える。準備はい……おっと」
背中の大剣のせいで俺が一番遅れるけれども、離されないように追いついたところで、先輩が何かに気づいたようだった。
前を見ると、新たな敵影が目に映る。今度は五人だ。前に三人、後ろから少し離れて二人。二段構えの陣形で向かってくる。
「あーらら。西校さんも露骨だなあ。やっぱこりゃ、完全に情報伝わってるね」
先輩は独りごつ。
その推測の中身を求めて、ソラが尋ねた。
「露骨、というと?」
「向かってくるあいつら、みんな三年生だ。容姿に見覚えがある。前を走る三人が特にやり手かな。完全に私たちの特攻を知って、迎え撃つための編成だね」
「つまり、強敵ということですね」
「そーだねえー。さすがにあいつら三人は厄介だねえ。まずいねえ」
アリア先輩の声音は穏やかだが、言っていることは事実だろう。その証拠に、敵は俺たちとの接触のタイミングを見計らったようで、前衛の三人が一斉にアクションを起こす。おのおの機敏な動作を一つ。さらに手元が一瞬だけ光り、素早く武器を取り出した。
アリア先輩はくるりと回り、片手の人差し指をピッと立てて言い放つ。
「ま、仕方ないね。みんなごめん。つーわけで私、いっちぬっけたー」
「……えっ!?」
その言葉に、俺は驚く。
直後、アリア先輩はまるで子供のお遊戯を抜けるかのように、俺たち四人から離れてしまった。そして直進から逸れた先輩の軌道は一瞬だけ掠れて消え……突然、目前に迫る敵三人の真横から現れる。槍を横一線に構え、体当たりの要領でまとめて彼らを押し退かした。俺たち四人の進路を邪魔させないように。
アリア先輩の一抜け宣言から、ほんの一秒にも満たない間の出来事だった。
この視界の効かない霧の中での先輩の駿足は、敵にしてみたらまさに縮地同然だろう。文字通り横槍を食らって、完全に不意打ちとなったようだ。
やがて、俺たちと先輩の軌道がちょうど直角に交わる。すれ違いざま、小さく囁くように先輩の口が動くのがわかった。先輩にしては珍しく、妙に落ち着いた声だった。
「じゃあみんな……あとは、任せた」
前進を止め、三人の敵と一緒になって残り、遠ざかってゆく先輩。
おかげで俺たちは難なく進むことができたが、前方からは敵の第二隊も迫っている。
間髪入れずに、ソラとルナから次なる宣言が飛び出す。まるで先輩に対する答えを兼ねるかのような宣言が。
「了解しました! では、ここから先はこのソラと!」
「えっと……ルナが!」
「「先輩に倣ってお守りします!」」
格好をつけるためなのか、二人は元々手にしていた装飾銃を、互いに乾杯のように当て鳴らしてから同時に構えた。白と黒の煌びやかな光線の協奏で迎撃を重ね、やがて加速をして正面から敵にぶつかってゆく。こんな決め台詞と共に。
「では、私はにっ!」
「僕は、さんっ!」
「「ぬーけたっ!」」
二人はそれぞれ別々の敵に掴みかかり、瞬間的に食い止めはするものの、進路から外れて推進力を失った。
「……っておいっ!」
お前らまで刺し違えるのかよ! そんなところまで忠実にアリア先輩を見習ってどうするんだ!
アリア先輩と、ソラとルナ。三人の突飛な行動に、俺の頭は混乱した。一度に三人の離脱。これはいくらなんでもまずい。沸騰直前の頭でそう感じ、反射的に身体を反転させてブレーキをかけようとした。
けれどもそのとき、左腕に引っ張られるような感覚が走り、神経伝達を遮断する。
「何をしているの! 走って!」
視界の端にミューが映る。彼女が俺の二の腕を掴んでいた。思いの外に強い力で。
そのせいか、こちらはバランスを崩しそうになる。
彼女は続けて言い放った。
「あなたまで立ち止まってどうするのよ!」
ハッとした。意識が動揺から引き戻され、冷静になる。
ミューの叱咤は正しかったのだ。
当たり前だ。南校の進撃が、俺たちの最後の賭けが、こんなところで止まっていいはずがない。三人は、限られた戦力の中で全滅を避け、進み続ける手段を選んだのだから。
俺はすぐに体勢を立て直し、自分を引く彼女の手に勢いを借りて、廊下の角をなんとか曲がった。
やがて道は校舎の外へと続き、テラスへと差し掛かる。ついに体育館をこの視界で捉える。
その入り口につながる道を阻む者はいない。敵は、俺たちがこんなところまでくるはずがないと、さきほどの迎撃隊で事足りるはずだと高を括っているのか。それともあるいは偶然か。どちらにせよ、都合の良いことに変わりはない。
駆けるミューの隣に俺が復帰すると、そっと二の腕から手が離れた。淡々と前を見据える彼女を横目に、俺の胸には少しバツの悪い想いがよぎる。
「………………」
すると彼女は、わずかだけ首の角度をこちらへ回した。
「謝罪くらいしなさいよ。あと、お礼も勝ったあとに聞くわよ」
「お、お前……」
アリア先輩と微妙に違う。
「……なんてね。ほら、窓から敵に見つからないように注意して」
そんな憎まれ口を、彼女は叩く。けれども、今も俺に合わせてぴったりと隣を維持しながら走ってくれているあたり、やはりちゃんとした気遣いが感じられた。一度それに気づいてしまうと、あまり文句は言えないものだった。
体育館の入り口は、もう目と鼻の先まで迫っている。足が地を蹴るたびに、心臓が跳ね、剣を握る手に力がこもる。
館内にはもちろん敵がいるはずだ。四人か、五人か。感覚頼みの憶測では、そんな見積もりが浮かんだ。
さて、どのようにして攻めるか。正直なところ、ここまでかなり大雑把なやり方できてしまったし、あまり細かいことは考えていない。それでも、体育館に突入してからの立ち回りくらいは、思い描いておいた方がよさそうだ。おそらく一瞬で勝負は決まる。
たとえば、俺とミューが同時に突入して、左右に分散しながら、隙を見てどちらかがフラッグを狙う。これが最もシンプルで、かつオーソドックスなやり方だろう。敵の注意を俺とミューで分割して、フラッグへ手が届く期待値を上げる。シンプル故、ミスも少なく、所要時間も短い。敵側には、咄嗟の判断による対応を強いることができる。相変わらず大雑把だと言われれば返す言葉はないが、悪くない動きだと思う。あまり複雑過ぎても上手くできるか不安だし。
俺はそう考え、プランをミューに持ちかけようとした。
しかしそのとき、俺に並走していたミューが、黙って速度を上げて前へと出た。
「お、おい」
彼女は振り返ることなく言う。
「私が先に中に入って、敵の注意を引きつける。あなたはフラッグだけを狙って」
どうやら、あまり俺と思考が噛み合っていないようだ。
「ちょっと待った。お前が囮をやるのか?」
「何か問題ある?」
「下手な小細工をするよりも、正面からぶつかる方がいいと思うんだ。二人で同時にフラッグを狙おう。どちらか一方が届けばいいわけだし」
そもそも囮を用いる場合、敵側がどれだけこちらの戦法にかかってくれるかわからない。囮を前提とした攻め方は、冷静に対応されたら一気に土台から崩れてしまうのだ。
けれどもミューは、俺の提案を退け、はっきりと告げた。
「いいえ。フラッグを狙うのはあなたよ。担いだ剣の一振りで、相手のフラッグを取る。それがあなたの役目でしょう。そして、それを成功させるのが、私の役目」
声はミューから発せられて、俺のいない前方へと飛んでいる。そのはずなのに、彼女の主張は俺の鼓膜をよく震わせた。
ミューが俺を守り、俺が優璃の剣の一振りで敵のフラッグを取る。これは、さきほどアリア先輩がした話。ミューはそこに役目という言葉を混ぜて、再び述べたのだ。
「………………」
俺は沈黙した。確かにそうかもしれないと思った。
俺かミューのどちらかがフラッグへ届きさえすれば、南校は勝利する。これは事実だ。しかしその事実以上に、やはりフラッグを狙うべきは俺なのではないだろうか。俺が、この剣で、フラッグを勝ち取るべきではないだろうか。そう感じた。
なぜなら、この勝負に賭かっているのは、俺の願いだから。俺と、優璃の願いだから。
「この道は、私たちの勝利へ続く」
静寂の中、さらにミューが述べる。
「あなたはさっき言ったわね。さすがに最短かどうかは疑問だけれど、でも私は、あなたのその言葉を信じることにする。だからあなたも、私のことを信じなさい」
大丈夫だから。そう付け加えるミューの声は、とても落ち着いていた。
「……わかった」
俺は小さく頷いた。異論はない。信じろと言うミューを、俺は信じることにした。
ミューの速度が上がる。俺を引き離し、やがて一足先に体育館の入り口へとたどり着いた彼女は、勢い良く扉を押し開けて中へと入った。
交戦開始の音がする。
数秒だけ遅れて、俺も続いた。
すぐに注意深く辺りを見渡すと、霧の中にフラッグと、五人の敵、さらにミューの姿を確認することができた。体育館のだだっ広い空間の中心にフラッグがある。ミューは、フラッグからも俺からも離れた、左前方の壁際にいる。そして敵は、奇襲への動揺を見せながらも、二人がミューを仕留めに駆け、三人がフラッグ周りでの防衛に務めていた。
一応、ミューがいくらかの敵の注意を引くことに成功している。しかし俺がフラッグの方を見据えると、その周りにいる敵からの視線もしっかりと感じた。
大丈夫だろうか。しっかりとマークされているのだが。
瞬間、不安になる。奇襲成功のビジョンが見えない。
それでも、ここまできたら俺の取れる選択は一つしかなかった。
三人と睨み合いながら、俺は右側から回り込むようにしてフラッグへと走る。
敵は、一人をその場に残し、二人が迎え撃つように俺へと向かってきた。妥当な判断だ。そりゃあ、仕留めにくるに決まっている。
さあ、どうするべきか。フラッグをいち早く狙うのなら、向かってくる二人を相手にすることはできない。かわすべきだ。接触は、大いに願い下げである。
しかし、それが可能なほどの敏捷性を、俺が携えているわけでもない。だとすれば、切り抜けるためには担いだ剣を振る他にないと言える。
いや、でも待て。それでいいのだろうか。この大剣を振って、なお体躯のバランスを保っていられる自信はない。減速は必至だ。
敵との接触地点からフラッグへは、依然遠い。さらにその周りには、一人とはいえまだ敵がいる。ゆえに最後の一撃は、そこにとっておくべきではないか。
どうする。どうすればいい。脳からの神経伝達が逡巡し、身体の中をぐるぐると回る。
動揺。混迷。焦燥。
それらが思考暴発のトリガーをぐいぐいと引っ張る。答えが出ない。決断が遅れる。敵は目の前だ。視界が歪んで、フラッグへの距離が何倍にも引き延ばされて見えてしまう。
「ああもう! 決まらねえ!」
思わず口から本音が散った。
というかそもそもあれだ。一人で三人相手にフラッグを狙うのが、無理無茶無謀という話ではないか。
そんな風に、俺がやけになりかけた矢先だった。
視界の左端にキラリと小さな光を捉える。一瞬のシャープな煌めき。武器の出現に伴う光だ。それが、ミューの姿に重なって見えた。
そして直後、一筋の明滅が走ったかと思うと、突然俺の背後から衝撃波にも似た風圧と、強い閃光が襲った。風圧で、まるでドーム状の空間が拡大するようにして霧が散り、晴れる。閃光はあまりに多くの光量を生み、目を刺すような、霧とはまた違った白い空間を作り上げた。
その風と光を、両方とも俺は背中で受け止めた。だから影響は少ない。
しかし俺と睨みをきかせ合い、相対していた敵の方はそうもいかなかった。まともに正面から食らったはずだ。堪らず皆、その場で立ち止まり、目の前に腕を構えて壁を作る。
ひとたびそうなってしまえば、俺を仕留めようとしていた二人は、もう恐るるに足らなかった。もはや揃って動かぬ銅像。踏み台も同然だ。
俺は背中に担いだ大剣の安定を確かめ、脚へと意識を集中させる。そして飛び、彼らが構えた腕を踏み越えてさらに飛び、天井すれすれまで舞い上がる。空中で剣の柄に両手を添え、落下に伴って全身をしならせながら振りかぶった。
眼下には敵のフラッグ。
すぐ横に敵が見受けられるが、閃光で目が眩んだのか、俺への対処はおろか前方の確認すらままならぬ様子。
ああ、邪魔する者はもういない。ついでに霧まで綺麗に晴れた。胸中で騒ぐ緊張を抑え、歓喜を抑え、焦燥を抑え、意識が吹っ飛びそうになるのを限界まで堪えて、俺は今一度、瞬きをする。
そうして着地と同時、全身で倒れこむようにして、剣を目標に叩きつけた。
受け身を取ることも忘れ、痛みと共に床に突っ伏し、意識を手放してしまう前。最後に俺が見た景色は、切り倒され光へと変わり、霧散するフラッグの残滓だった。
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