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しおりを挟む「おかえりなさいませ、ローラン様。ルシアン・モンクレア公爵が、ローラン様を応接室でお待ちしております」
「…………なぜ?」
渾身の『なぜ?』がこぼれた。
顔をしかめるローランを涼しい表情で見つめ返しながら、執事は淡々と言う。
「ローラン様がいつまで待っても来ないので、心配したモンクレア公爵がこちらに出向いてくださったのです」
「…………」
そんなことは頼んでない。
これからゆっくりと時間をかけて支度して、さらに公爵家での滞在時間を減らす予定だったのに……これではローランの計画が水の泡だ。
「はぁ~……」
「ローラン様、早くお部屋に向かってください。今は、旦那様が公爵の話し相手をしてくださっています」
「……わかったよ」
がくりと深く項垂れながら、ローランは応接室へと向かった。
屋敷の者は皆、ローランがルシアンに苦手意識を持っていることを知っている。家では隠してもいないのだから当然だ。
しかし、両親も兄弟も使用人たちも、ローランの気持ちを分かってはくれない。それどころか、ルシアンを避けるローランに呆れているようだった。
「……失礼します」
大きく深呼吸したあと、思い切って応接室の扉を開ける。
そこには、媚びへつらうような笑みを浮かべた父と、いつも通りにこやかに微笑んでいるルシアン・モンクレアがいた。
父はパッとこちらを振り返り、目尻を吊り上げて怒鳴る。
「ローランッ! いったい今までなにをしていたんだ!? モンクレア公爵をこんなに待たせるなんて……!」
「いいんですよ、アルスター侯爵。きっとローランにもなにか事情があるのでしょう」
「モ、モンクレア公爵がそうおっしゃってくださるのならいいのですが……」
ルシアンに優しく宥められた父は、途端に態度を軟化させる。ンンッ、と咳払いをしてから、父は座っていたソファから立ち上がった。
「では、息子が帰ってきましたので、私はこれで……ローラン、失礼のないようにな」
一言釘を刺してから、父は部屋から出ていった。
ローランはルシアンから注がれる視線に気付かないふりをしながら、深くこうべを垂れる。
「帰るのが遅れて申し訳ありません。ご足労ありがとうございます」
「確かに、今日はずいぶん遅かったな」
退屈そうな、冷ややかな声だった。
いつもなら『気にしないでくれ』と言ってくれるのに、ルシアンらしくない。今回ばかりは温厚なルシアンも、さすがに怒っているのかもしれない。
ローランがおそるおそる顔を上げると、意外にもルシアンはにっこりと微笑んだままだった。あの作り物のような、ローランが嫌いな笑い方だ。
ふたり掛けのソファに長い足を組んで腰掛けるルシアンは、今日も今日とて絵画の中の男神のような美しさを誇っていた。
綺麗にセットされた淡い金色の髪に、長いまつ毛に縁取られた青い瞳。甘さを含んだ凛々しい顔立ちと、そこいらの武人よりも立派な鍛え上げられた肉体は、男に興味のないローランでも惚れ惚れするほどだった。
──……まあ、あくまで同じ男としての憧れだけど。
そんな言葉を心の中で付け加えつつ、ローランは意を決して口を開く。
「……実は先ほど、学園に転移者が落ちてきまして……」
「ほう」
「その騒ぎに巻き込まれて、帰りが遅れてしまったんです」
当然、真っ赤な嘘である。図書室で時間を潰したあと、噴水に落ちてきた少女を窓から眺めていただけのローランが騒ぎに巻き込まれるはずがない。
だが、ルシアンはそんなこと知らないのだから、そういうことにしておけばいい。あの人集りにローランがいなかったことなんて、傍にいたクリスにしかわからないことだ。
しれっとした表情をしているローランを見据えながら、ルシアンはするりと目を細めた。
「──転移者が学園に落ちてきたのは、下校時間を過ぎたあとだと聞いているが」
「……えっ?」
「下校時間まで学校に居残るなんて、君らしくないな。いったいなにをしていたんだ?」
ぎくりと体を跳ねさせたローランを、ルシアンはいやに楽しげに見つめている。こういうときの彼の顔は、普段と違って実に人間らしい。
お前の考えることなんて全部お見通しなんだぞ──と、その青い瞳が言外にローランへと告げてくる。
愕然としていたローランはハッと我に返り、狼狽えながら頭を下げた。
「も、申し訳ありません……友人と話し込んでいて……」
「そうかそうか。では、その友人の名前は?」
「……ゆ、友人の名前、ですか?」
「ああ、そうだ。君は私の大切な婚約者だからな。君が遅くまで話し込むほと親しい友人が誰なのか、しっかり把握しておきたいんだ」
「それは……」
ローランは言葉に詰まった。
婚約者の交友関係を把握したがるのは、貴族社会ではさほどめずらしいことでもない。むしろ、血統と格式を重んじる上位貴族であれば当たり前のことで、その婚約者が希少なオメガなら尚更そうだ。
ローランは一瞬、クリスの名前を出そうかと考えたが、すぐにやめた。たった二十分ほど話しただけの友人を巻き込むのが、さすがに申し訳なく思えたのだ。
しばしの逡巡の末、ローランは再び頭を下げる。
「……また嘘をついていました。ひとりで図書室で本を読んでいただけです。申し訳ありません」
こうなったらもう自棄だ。
そもそもローランは、ルシアンに気に入られたいわけでもない。ルシアンの気分を害したとて、ローラン個人にはなんの問題もなかった。
ルシアンがため息混じりの声で「ローラン」と呼んだ。直後、ソファの軋む音と、こちらに近付いてくる靴音がローランの耳に届く。
その靴音が自分の目の前でとまった瞬間、ローランはおそるおそる顔を上げた。
彫刻のように美しいルシアンの顔が、やけに優しい表情でローランを見下ろしていた。呆れとからかいをにじませた青い瞳からは、怒りや悲しみといった感情は読み取れない。
「まったく君は、本当に……」
続きの言葉はなかった。
代わりに、その大きな手が伸びてきて、ローランの茶色の髪に触れた。髪を撫でた手はそのままローランの頭を引き寄せ、背を屈めたルシアンの顔が流れるような動きでローランへと近づいてくる。
とっさにローランは目を閉じた。すぐに唇に柔らかなものが重なって、ローランはギュッと唇を引き結ぶ。
初めてルシアンに口付けられたのは、ローランが十八歳になったばかりの、つい二ヶ月前のこと。
自室でふたりきりになったタイミングで抱き寄せられ、突然唇を奪われた。
そのときの衝撃と、初めてのキスの甘さを、ローランは今でも覚えている。ある種のトラウマなのかもしれない。
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