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だが今回に関しては、運が悪いというレベルを超えている。
まさか、まさか弟にとって初めてのヒートが潰し損ねた見合い相手の前で起きるなんて!
やはり見合いなんて受けさせるんじゃなかった!
話を持ち込んだ祖父に八つ当たりをしてしまいそうな怒りが体の中をぐるぐると巡る。
あの男がまるで弟の匂いを知っていたような言葉は気になるが、恐らくは祖父に弟の匂いが付いていたか何かで相手に知られたのだろう。
腹が立つ。

「坊ちゃん!」

家に着いて真っ先に駆け寄ったのは、知らせを聞いたのだろう庭師の彼だった。
その声を聞いた瞬間、ハンカチを強く握り締め嘔吐感に耐えていた弟の震えが止まった。
やはり、彼が一番相応しいのだ。
メールβだからメールΩの弟に縛られるのはよくないと祖父も父も言うが、彼以上に弟を想って行動してくれる人は居ない。
確かに番の絆は無い。
だがだからこそ、フェロモンという本能的なものに縛られず弟そのものを、人間的に愛してくれる。

「部屋に、頼む。暫く傍に居てやってくれ。」
「はい。坊ちゃん、大丈夫ですよ。」
「………、………。」
「はい、俺です。俺が傍に居ますから。」

しっかりと私から弟を受け取りながら、あやすようにそう言って迷わず彼は自分の部屋に向かった。
弟は無意識に彼の傍に居たがり、彼もまた、弟の傍に居たがった。
だからこそ、私達は何かあった時に彼に自分の部屋に連れて行くように告げていた。
その【何か】が、どうか起きないようにと祈ってもいたが。

「………あの、私、思うのですが。」
「ん?どうした?」

起きてしまった【何か】を悲観しながら見送っていると、妻が控えめにスーツの袖を引っ張った。
妻らしくない仕草に何事かと思い振り向けば、妻はひどく辛そうな表情をしていた。
一体なんだと言うのか………。
気になって先を促してみるも、言い辛そうに何度か口を開閉するだけで何も言わない。
本当に彼女らしくない。

「あの方、もしやあの子の【運命の番】なのでは?」
「は?」

暫くの沈黙の後、ややあって言われた言葉はまさかの夢物語。
何を言っているんだと一蹴したかったが、あまりにも妻が神妙な面持ちをするので私は部屋に戻る足を進めながら無言で続きを促すことにした。
吐瀉物まみれのスーツをなんとかしたかったしな。
そんな私に素直に着いて来ながら、妻は言葉を続ける。

「ご存じですか?世間一般ではαがΩを選ぶと思われがちですが、実際はΩの方がαを選ぶのです。」

私は妻の言葉に驚愕したが、だが冷静に考えてみたらそうだろう。
Ωは【遺伝子を残す側】だ。
その性質上より【有能な遺伝子】または、より【好ましい遺伝子】をΩは選ぶ。
Ωの数はαよりも少ない。
だからこそ、Ωに選ばれなかったαだって普通に居る訳だ。

「あの子はずっとずっと、彼を選んできました。魂の番と言っても、相応しい程。」

自分で選んだ、自分だけの番。
そこに運命という本能に作られた番が現れた。
ヒートが初めてだということを差し引いても明らかにおかしな状態は、そんな理性と本能がせめぎ合った結果ではないかと妻は言った。
選んだ番がβだという美しいまでの歪さが、精神的にかなりの負担を与えたのではと。

「運命の番だから、ヒートが起きたのでしょう。運命の番とは遺伝子相性が一致した存在ですから、Ωとしては絶対番になりたいからヒートになって当然です。あの方も絶対にあの子を自分の番にしたい筈ですから、恐らくあの時の威圧はラットになりかけていて神経過敏になっていたのが原因では?」

なるほどな。
そう思うと突如始まったヒートにも、あの男の訳分からん態度にも納得が行く。
自分のΩだという本能と、しかしながらその運命に拒絶される現実。
同じαとして、混乱して威圧的になる気持ちも分からなくもないからだ。

「そもそもあの子のヒートが今まで来なかったのも、無意識とはいえ番だと認識していた彼がβだからかと。」
「………そもそも子は成せないから、不要だということか。」
「恐らく。」

あくまでも素人考えでしかないが、しかし納得のいく話だ。
だが、もしも。
もしもその考えが正しいとするならばそれは―――

「だとしたら、運が悪いどころの騒ぎではないだろう。」

自分が番だと選んだ存在を他ならない自分自身に否定され、自分自身に好いてもないαを選べと無理矢理宛がわれるだなんて。
嗚呼、最初の事件が起きた時に、私は確かに彼が弟に縛られないようにと願った。
しかし、今は見当違いな恨みを抱いてしまう。
何故お前は、αじゃないのかと。
もし彼がαだったのならば、弟にとって名実共に番になれるのに。
そうしたら、弟がこんなにも辛い想いをせずに済んだのに。

「それもまた、あの二人の運命なのかもしれません。ただ、あんなにも拒絶したのです。あの子の番は間違いなく彼ですよ。」

慰めるように、宥めるように。
妻が私の手を握った。
小さな手だ。
αがほんの少し力を入れれば折れてしまいそうな、柔らかく頼りなく温かな手。
弟と同じ。
けれど妻はこの手で私の手を掴むことを選んでくれた。
けれど弟はこの手で彼の手を掴むことを自分で選んだ。
それもまた、運命なのかもしれない。

「祈りましょう、二人が幸せになれるように。探しましょう、二人が幸せになれる方法を。」

番同士は幸せにならないとと、妻は笑う。
そうだ。
私達が考えれば良いんだ。
作られた運命に振り回されることもなく、あの二人が番として幸せになれる方法を。

「そう、だな。」

私も、妻と同じように笑った。
取り敢えず、あの男に関しては二度と関わらせないようにしよう。
それよりも先に、父と祖父にはしっかりと告げなければいけない。
あの二人は運命の番なのだから、変に引っかき回すなと。
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