電脳ロスト・ワールド

万卜人

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シャドウ登場!

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 ようやく遅ればせながら、この時に至って、観客たちに恐怖の感情が、呆けた脳味噌に湧いて出たらしい。
 絹を裂くような……と言いたいところだが、黒板を爪で引掻くような女の悲鳴が一声「ひいーっ!」と高く下品に響くと、それを切っ掛けに、会場全体が「わっ」とばかりに騒然となった。
「何だ、あれは?」
「エミリー皇女さまが!」
「悪魔か? そんな馬鹿な、ここは《蒸汽帝国》だぞ! 中世ヨーロッパの、RPG〝世界〟じゃないんだ!」
「誰かが、他の〝世界〟から持ってきたんじゃないのか? そんなこと、できるのか?」
 皆、口々に勝手な与太を言い合っている。
 呆然と立っていたタバサの腕を、二郎がぐいっと掴んで引き寄せる。近々と二郎はタバサに顔を近寄せ、喚いた。
「逃げろっ!」
「え……」と、タバサはまだぼんやりして、二郎の言葉が意識に届かない。二郎は苛々した口調になった。
「逃げろ、と言ったんだ! 聞こえなかったのか?」
「で、でも、どうして……?」
「《ロスト・ワールド》に呑み込まれるぞ! 見ろ! あれを!」
 二郎は舞台を指差す。二郎の示した方向には、蒸汽の渦が舞台から客席全体を覆い尽くそうとしていた。渦に触れた劇場の部分は、ぐにゃりと変形し、何か異様なものに変貌しようとしていた。
 渦巻きの中心に巨大化したシャドウと、その手に捉えられている皇女エミリーがいる。
「皇女さま……エミリー……」
 首相のタークは、すとんと腰を抜かしたように床に仰のけになり、必死になって立ち上がろうとしている。恐怖に凍り付いた視線は、ひた、とシャドウに掴まれたままのエミリーに注がれていた。
「《ロスト・ワールド》が、蒸汽劇場全体を呑み込もうとしている! このまま留まったら、おれたちも強制的に《ロスト・ワールド》に入ってしまう! それは超まずい! 何の準備もないまま《ロスト・ワールド》に呑み込まれるわけには、断固いかん!」
 二郎は一気に捲くし立てると、ぐいぐいとタバサの腕を引っ張って、劇場の出入口へと突進した。が、途中で思い直したのか、ターク首相の襟首を背後から片腕一本で掴み、ずるずると引き摺っていく。怖ろしいほどの怪力だ。
 タークは抗議した。
「は……離せっ! 皇女さまが、あの化け物に捕まっているというのに……!」
 すかさず二郎は叫び返した。
「今は無理だ! まだ準備が全然できていないっ! それより帝国軍の攻撃が始まるぞ」
 二郎の言葉にタークは、帝国軍の方向に顔を捩じ向ける。
 女性指揮官は、ヘルメットの前覆いを撥ね上げたまま、鋭い視線で舞台上のシャドウを見上げている。戦いの予感に、緑の瞳が煌いていた。さっと片手を挙げて合図すると、機敏な動作で部下たちが、巨大な筒のような武器を構えた。
「よせっ! 皇女さまが危ないっ!」
 タークの叫びに、指揮官は振り向くと、にっこりと笑顔になった。
「安心して下さい、首相! 我々は、この瞬間のために日夜訓練を重ねてきました。皇女さまには、掠り傷一つ、つけません!」
「し……しかしっ!」
 タークは心配顔だ。
 指揮官は、もはや首相には関心をなくしたのか、さっと振り上げた腕を下ろし、叫ぶ。
「蒸汽砲、攻撃せよ!」
 言葉が終わらぬうち、部下が蒸汽砲の引き金を引く。
 ずばあーんっ!
 魂消るような大音量で、筒の先端から真っ白な蒸汽が固まりとなって飛び出す。
 本来は気体のはずなのだが、まるで個体のようにしっかりとした輪郭を持っている。白い蒸汽の固まりは、狙いたがわず、シャドウの胸元に飛び込んだ。
 ずばんっ、と白い蒸汽がシャドウの胸で爆発する。シャドウの全身がぐらっと揺れた。真っ白な髪の毛が逆立ち、真っ黒な顔に怒りの表情が浮かぶ。
「おのれ……小癪な……!」咆哮する。
 二郎は肩を竦め、首を振る。
「大時代だね、どうにも……」
 そっとタバサの腕を掴み、後退する。耳元で囁いた。
「あんな時代物の旧式兵器で、シャドウをどうにか始末できるもんじゃない! 巻き込まれないうち、こっちは、おさらばしようぜ!」
「あんたって!」
 タバサは憤然となった。
「さっきの話じゃ、あんたに責任があるんでしょ? それなのに、尻尾を巻いてすたこらさっさと逃げ出すつもり?」
 二郎は恬淡と頷く。
「当たり前さ! こちとら、十年も掛けて《ロスト・ワールド》攻略の秘策を練っているんだ。向こうがのこのこ、こっちへ出向いてきた今こそ、おれの秘策を使うチャンスなんだ。しかし、ここじゃない。おれのチャンスは、別の場所にある。まあ、《蒸汽帝国》の軍隊がどう戦うか、お手並み拝見といこうや」
 二人の話を聞きつけたのか、タークが険しい表情になって二郎に詰問する。
「お前! この前の、王宮に忍び込んできた電脳盗賊だな! これは、お前の策略か? あやつとお前、どう関係があるのだ?」
 二郎は、うんざりした表情になる。
「だから、忠告したじゃないか。公演を中止したほうがいいと。第一──」
 二郎の言葉が終わらぬうち、軍隊と巨大化したシャドウの間に激突が起こった。
 エミリーを握りしめたまま、シャドウは大股で武器を構える軍隊の中に踊り込んだ。爪先で、滅茶苦茶に蹴り上げる。兵士はエミリーに当たらないよう、蒸汽砲を狙わなくてはならず、形勢は圧倒的に不利であった。
 二郎はシャドウの背後に渦巻く《ロスト・ワールド》の〝門〟を見て叫ぶ。
「逃げろっ! こりゃ、愚図愚図していられないぞ!」
 何事かと、タバサが二郎の視線を追った。
 舞台からはみ出てぐるぐると渦を巻いている〝門〟が、さらに直径を増している。今や天井まで達し、観客席の半分を覆っている。
 二郎はタバサと首相の腕を掴み、出口へと走り出した。抗いようのない二郎の腕力に、タバサと首相は否応なしに引っ張られ、出口へと駆け込んだ。
 劇場の外、王宮前の広場に飛び出した二郎は、くるりと振り返って指さした。
「見ろ! 〝門〟が……!」
 国立蒸汽劇場の建物が、見ている前で奇妙に拉げ始めた!
 がっしりとした石造りの建物が内側からの力にへし折れ、柱が、屋根が、見る見る歪んでいく。崩壊の音は全然しなかった。
 しん、と静まり返った静寂の中、建物の輪郭は内側へと曲がっていく。
 わああっ! と叫び声を上げ、劇場の出口から、ようやく観客たちが外へと逃げ出していく。その後から、兵士たちも続いていた。
 くるくると一枚の絵が巻き上げられるかのように、建物は内側へと倒れこんだ。まるで渦巻きに巻き込まれるかのようだった。
 遂に建物は、跡形もなく消滅した。替わりに《ロスト・ワールド》の〝門〟が、その場に存在していた。
 渦を巻いている空間、中心には光り輝く階段が、どこまでも上へと続いている。
 階段には、シャドウが立っていた。シャドウは、じろりと首相のタークを睨みつけ、叫んだ。
「ターク首相! エミリー皇女は、我が《ロスト・ワールド》が頂いた! 皇女に相応しい玉座を用意し、全〝世界〟を統括する地位に昇って頂くから、安心しろ!」
 タークは怒り心頭に発して叫び返す。
「馬鹿な! 皇女さまを今すぐ返せ! 《ロスト・ワールド》へなど、断固として行かせんぞ!」
 シャドウは、ただ真っ赤な口を開け、高笑いでタークの叫びに報いただけだった。悠然と背中を見せ、階段を上っていく。
 握りしめられたエミリー皇女は、必死になってシャドウの束縛から逃れようと暴れている。だが、まったく無益な試みであった。絶望がエミリーの顔に表れた。
「ターク! 助けて!」
 シャドウは階段の途中、ふっと空中に掻き消えてしまう。最後のエミリーの悲鳴だけが、長々と静寂に響いていた。
 出口から駆けつけた指揮官は、唇を噛み締め、ターク首相に報告する。撥ね上げた面覆いの下の顔は、緊張で蒼白に強張っている。
「申し訳ありません! こちらの武器は、全く効果ありませんでした。もっと強力な武器があれば、と思われるのですが、エミリー皇女さまが囚われている限り、どうしようもなく」
 タークは憎々しげに指揮官を睨みつける。
「ええい! 弁解無用! お前の名前は?」
 さっと指揮官は敬礼して、踵を打ち合わせた。
「帝国軍第一連隊指揮官、ゲルダ少佐であります!」
「よし、ゲルダ少佐。今からエミリー皇女救出のための部隊を編成せよ! あそこに見える《ロスト・ワールド》の〝門〟に突入し、万難を排して、シャドウの手から皇女を救出する! いいか、もう言い訳は許さんからな!」
 首相の命令は、却ってゲルダ少佐の顔に希望を昇らせた。かっと頬に赤みが差し、背筋が、ぴん、と伸びた。
「承知致しました! すぐに全連隊を召集し、精鋭を選抜して救出隊を編成致します。時間は掛かりません」
 二郎が割り込む。
「そいつぁ、止めたほうがいい……」
 わざとだろうが、二郎の口調は至極のんびりとしたものだった。首相はぎくりと二郎を睨みつけた。
「何? どういうことだ?」
 二郎は肩を竦める。
「あの〝門〟は、見え透いた罠だよ。《ロスト・ワールド》に突入するなら、別の方法が必要だ。おれなら、それを知っているが、さて、聞く気はあるかね?」
 二郎の両目は、試すような光を放っている。
 タークは唇を震わせ、何か言いかけるが、二郎はおっ被せた。
「この前は、おれの忠告を無視したな。今度も、無視するのかね?」
 タークは呟く。
「どうせよ、と言うのだ?」
 二郎は顎を上げた。
「エミリーの救出部隊は、おれが召集する! おれに全面的に任せて貰いたい。だが、あんたの協力も必要だ。あそこに見える《ロスト・ワールド》の〝門〟だが……」
 二郎は振り返る。
「あれは、さっきも言ったように、向こうの罠だ。うっかり入り込むと、シャドウの思う壺に嵌る。しかし、おれにとっては絶好の罠でもある。おれに任せれば、皇女を救出した上で《ロスト・ワールド》も始末できる。どうする? ターク首相」
「うぬぬぬぬ」と首相は呻いた。
 逡巡がタークの眉間に深い皺を作り、いつまでも立ち尽くしていた。
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