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第八回 老中荏子田多門の陰謀の巻
四
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大木戸に戻ると、吉弥が途方に暮れた顔で、ぼんやりと佇んでいた。俺たちを見ると、遮二無二がーっと走って来て、俺にむしゃぶりついた。
「ああ! 伊呂波の旦那! どうしよう、大木戸が閉まっちまったよう!」
「は、離せっ!」
俺は渾身の力を奮って、俺の肩をぐわしっ、と掴んだ吉弥の腕を振り払った。
吉弥は万力のような恐ろしい力で、俺の肩を掴んでいる。プロレス技のショルダー・クローだ。外さないと、肩の骨が砕けるかと思うほどだった。
吉弥を見ると、碁盤の板のような巨大な顔が、塗りたくった白粉の下から青ざめているのが、はっきりと判る。だらだらと汗が噴き出て、白粉がだんだら模様になっていた。
「あたしの家は、高輪の大木戸を潜った所にあるんだよう! 帰れなくなっちまった!」
吉弥は、全身を捩りながら、泣き声を上げた。吉弥の醜態を見て、俺は顔を顰めた。
「落ち着けっ! お前の家は、品川にあるだけじゃないんだろう? 深川へ行けばいいじゃないか!」
「そうだけどさ……」
俺は奇妙に思った。高輪の大木戸が閉められて、なぜ吉弥は、こんなに慌てているんだろう?
吉弥はすでに〝ロスト〟している《遊客》だ。俺たちが慌てているのは判る。だが、吉弥が慌てている理由が、さっぱり判らない。
それを問い掛けると、吉弥の顔が、たちまち真赤になった。だんだらに縞模様に残った白粉の下から、真っ赤になった吉弥の顔は、実に珍妙な眺めであった。
「あんたたちと同じ、あちしだって〝ロスト〟は困っている事態なんだ……。もし、このままだと、本当に江戸にいる《遊客》全員が〝ロスト〟しちまうのかえ?」
俺が「そうだ」と答えると、吉弥は「どうしよう!」と頭を抱えた。
晶が、ぱちり、と指を鳴らした。
「もしかしたら、吉弥姐さん、知っている《遊客》の心配をしているんじゃない?」
吉弥は、ぎょっとなって、顔を上げた。
俺は静かに尋ね掛けた。
「そうなのか、お前の知り合いの《遊客》を心配しているのか? 俺じゃないな。俺を心配しているなら、真っ先に俺の〝ロスト〟するまでの残り時間を聞くはずだからな!」
吉弥の顔が、くしゃくしゃと歪んだ。
深く頷く。
「そうなんだ……。あちしの、大事な《遊客》のお人が、このままじゃ〝ロスト〟しちまう。あちしと、おんなじになっちまう!」
「誰だ、そいつは?」
吉弥は言うまいかどうか、迷っている。が、ぐっと顔を挙げ、口を開いた。
「もう一人のあちしだよ! つまり、オリジナルのあちしが、この江戸に来ているんだ! 昔の、あちしと同じ、仮想人格でね……」
俺たちは顔を見合わせ、吉弥を睨んだ。
俺は、げっそりとなっていた。
「て、こたあ、つまり……」
じろじろと吉弥を睨むと、吉弥は俺の凝視に身を小さく……いや、それは不可能なので、拗ねたように、背中に手を回す。
「あちしが〝ロスト〟してしばらくして、もう一人のオリジナルのあちしが、もとのあちしと同じ仮想人格で、この江戸にやって来た。普通、同じ仮想人格は同じ仮想現実で並存できないけど、あちしはすでに今のこの身体になっちまって、別の仮想人格となっていたんだ。オリジナルのあちしは、この江戸に愛着を持っていたから、のこのこやってきて、あちしを見つけて、えらく魂消たみたいだった」
こんな緊迫した場面に拘わらず、俺は「ぷっ」と吹き出していた。二人の吉弥が顔を見合わせている情景を思い浮かべてしまったからだ。
もちろん、もう一人の吉弥は、本人がこうなりたいであろう、喜多川歌麿か鈴木春信が描くような、笠森お仙ふう浮世絵美人であるが。
吉弥は、くつくつと笑っている俺を、じろりと睨んで、後を続けた。
「オリジナルのあちしは、ちょくちょくこっちへ訪ねて来て、現実世界のニュースを教えてくれた。といっても、あちしの家族とか、もともとの知り合いの消息とかだけど。あちしたちは、結構うまくやっていたんだ!」
恐怖に、吉弥の両目が一杯に見開かれた。
「どうしよう! このままじゃ、本当のあちしが、この江戸でまた〝ロスト〟しちまう! あちしが、二人になっちまうんだ!」
俺は、うっかり吉弥が二人になった場面を想像して、心底ぞっとなった!
冗談じゃない!
吉弥が一人でも面倒なのに、これが二人になったら、どんな酷い状態になるか、考えたくもなかった。
俺は声を張り上げた。
「行こう! 江戸城へ! 何としても、江戸に張り巡らされた結界を消すんだ!」
全員、深く頷いていた。
「ああ! 伊呂波の旦那! どうしよう、大木戸が閉まっちまったよう!」
「は、離せっ!」
俺は渾身の力を奮って、俺の肩をぐわしっ、と掴んだ吉弥の腕を振り払った。
吉弥は万力のような恐ろしい力で、俺の肩を掴んでいる。プロレス技のショルダー・クローだ。外さないと、肩の骨が砕けるかと思うほどだった。
吉弥を見ると、碁盤の板のような巨大な顔が、塗りたくった白粉の下から青ざめているのが、はっきりと判る。だらだらと汗が噴き出て、白粉がだんだら模様になっていた。
「あたしの家は、高輪の大木戸を潜った所にあるんだよう! 帰れなくなっちまった!」
吉弥は、全身を捩りながら、泣き声を上げた。吉弥の醜態を見て、俺は顔を顰めた。
「落ち着けっ! お前の家は、品川にあるだけじゃないんだろう? 深川へ行けばいいじゃないか!」
「そうだけどさ……」
俺は奇妙に思った。高輪の大木戸が閉められて、なぜ吉弥は、こんなに慌てているんだろう?
吉弥はすでに〝ロスト〟している《遊客》だ。俺たちが慌てているのは判る。だが、吉弥が慌てている理由が、さっぱり判らない。
それを問い掛けると、吉弥の顔が、たちまち真赤になった。だんだらに縞模様に残った白粉の下から、真っ赤になった吉弥の顔は、実に珍妙な眺めであった。
「あんたたちと同じ、あちしだって〝ロスト〟は困っている事態なんだ……。もし、このままだと、本当に江戸にいる《遊客》全員が〝ロスト〟しちまうのかえ?」
俺が「そうだ」と答えると、吉弥は「どうしよう!」と頭を抱えた。
晶が、ぱちり、と指を鳴らした。
「もしかしたら、吉弥姐さん、知っている《遊客》の心配をしているんじゃない?」
吉弥は、ぎょっとなって、顔を上げた。
俺は静かに尋ね掛けた。
「そうなのか、お前の知り合いの《遊客》を心配しているのか? 俺じゃないな。俺を心配しているなら、真っ先に俺の〝ロスト〟するまでの残り時間を聞くはずだからな!」
吉弥の顔が、くしゃくしゃと歪んだ。
深く頷く。
「そうなんだ……。あちしの、大事な《遊客》のお人が、このままじゃ〝ロスト〟しちまう。あちしと、おんなじになっちまう!」
「誰だ、そいつは?」
吉弥は言うまいかどうか、迷っている。が、ぐっと顔を挙げ、口を開いた。
「もう一人のあちしだよ! つまり、オリジナルのあちしが、この江戸に来ているんだ! 昔の、あちしと同じ、仮想人格でね……」
俺たちは顔を見合わせ、吉弥を睨んだ。
俺は、げっそりとなっていた。
「て、こたあ、つまり……」
じろじろと吉弥を睨むと、吉弥は俺の凝視に身を小さく……いや、それは不可能なので、拗ねたように、背中に手を回す。
「あちしが〝ロスト〟してしばらくして、もう一人のオリジナルのあちしが、もとのあちしと同じ仮想人格で、この江戸にやって来た。普通、同じ仮想人格は同じ仮想現実で並存できないけど、あちしはすでに今のこの身体になっちまって、別の仮想人格となっていたんだ。オリジナルのあちしは、この江戸に愛着を持っていたから、のこのこやってきて、あちしを見つけて、えらく魂消たみたいだった」
こんな緊迫した場面に拘わらず、俺は「ぷっ」と吹き出していた。二人の吉弥が顔を見合わせている情景を思い浮かべてしまったからだ。
もちろん、もう一人の吉弥は、本人がこうなりたいであろう、喜多川歌麿か鈴木春信が描くような、笠森お仙ふう浮世絵美人であるが。
吉弥は、くつくつと笑っている俺を、じろりと睨んで、後を続けた。
「オリジナルのあちしは、ちょくちょくこっちへ訪ねて来て、現実世界のニュースを教えてくれた。といっても、あちしの家族とか、もともとの知り合いの消息とかだけど。あちしたちは、結構うまくやっていたんだ!」
恐怖に、吉弥の両目が一杯に見開かれた。
「どうしよう! このままじゃ、本当のあちしが、この江戸でまた〝ロスト〟しちまう! あちしが、二人になっちまうんだ!」
俺は、うっかり吉弥が二人になった場面を想像して、心底ぞっとなった!
冗談じゃない!
吉弥が一人でも面倒なのに、これが二人になったら、どんな酷い状態になるか、考えたくもなかった。
俺は声を張り上げた。
「行こう! 江戸城へ! 何としても、江戸に張り巡らされた結界を消すんだ!」
全員、深く頷いていた。
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