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第壱章
第7話 名の持つ意味
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※※※
卯月。
キネが龍志の家に来てから、早くも二か月が過ぎ去った。
固い桜の蕾は知らぬ間に綻び、今では満開を迎えている。陽光も暖かくなり、本格的な春が訪れた。
陽光も暖かくなり、春の柔らかな風が社の境内をそっと撫でる。本格的な春が訪れ、キネの心もどこか浮き立つようだった。
龍志は何度か、社の敷地外の山林にキネを連れて行ってくれた。敷地の外なら人の匂いが染みつかず、タキが現れるかもしれないと……。
だが、どれだけ呼んでもタキは姿を見せなかった。
見放された──と、つい悪い方へ考えてしまう。
それに対し、龍志はそのたび「下らないことを悩むな」とキネを突っぱねる。だが、それはきっと「信じてやれ」と言いたいのだろうと、キネにはもうわかっていた。
彼はぶっきらぼうだ。愚図な姿を見せれば、嗜虐的な顔をすることもある。だが、言葉とは裏腹に根は優しく穏やかだと、二か月も共に過ごせばよくわかった。
何せ彼は顔に出やすい。
口では素っ気なくとも、切れ長の目が優しく細められるのを見ると、自然とそう思えてしまう。
キネが何か失敗しても、彼のそんな表情に救われることが何度もあった。まるで、どんなときもそばで見守ってくれるような安心感がそこにはある。
そんな彼と過ごすほど、どこか懐かしいと感じることが度々あった。
見覚えはない、知らないはず──それでも心の奥底で何かが沈殿している気がしたが、その深い部分まで手が届かなかった。
詠龍。
一度だけ蘢が口にした、聞き覚えのある名が手がかりだった。
だが、あの剣幕さから、キネは龍志にそれを尋ねられなかった。
ならば自分で思い出せばいい──そう思ったけれど、その名を思い出そうと深く考え込むほど、頭の奥からズキリと鈍い痛みが走った。
──ここまで思い出すのが苦しいのは、辛い記憶なのかもしれない。そう思えて、キネはその名を深く考えるのを諦めた。
ただ、二か月も共に過ごして困ったことが一つだけあった。
それはもう、頻繁に尻尾を掴まれることだ。
愚鈍な姿を見せたときに掴まれることが多いが、ここ最近では、何でもないときにもさえやられて、頻度が増えた気がする。
キネがうっかり湯飲みを落としそうになったときや、ぼーっと空を見上げているとき、ふいに龍志の手が伸びてくるのだ。
『いや。単純に反応が可愛くて面白いから……』
なんて、龍志は嗜虐的に言うが、やられる側からすれば堪ったものではない。キネは毎回、びくっと飛び上がって抗議の声を上げるが、彼はニヤリと笑うだけだ。
尻尾を持つ者の感覚では、尾は胸や尻を触られるのと変わらない。
それを彼に言っても「そうか、じゃあ俺の急所か相応の場所を触るか?」と斜め上のことを言われてれて、反論すらできなかった。
それを除けば、春の日々は気が抜けるほど穏やかだった。
龍志の家での生活は、キネに不思議な安心感を与えてくれた。囲炉裏のそばで茶を飲みながら交わす他愛もない会話、春風に揺れる笹を見上げるひととき。すべてが、キネの心を柔らかく解きほぐすようだった。
***
「多分、あと数日で桜も多分散り始めるな」
──雨でも降れば、それも早まるものだ。なんて付け添えて。二つの湯飲みに茶を注ぎながら龍志は言う。
囲炉裏の火がパチパチと小さく音を立て、湯気の立つ茶が部屋にほのかな香りを広げた。
「桜は儚いものですね……」
「だが、それに趣があると人はよく言うものだ」
そっとキネの前に湯気立つ湯飲みを差し出した後、彼は自分の湯飲みに口を付け、ズッと熱い茶を啜った。その仕草に、キネはつい見とれてしまう。
普段のぶっきらぼうさとは裏腹に、どこか落ち着いた雰囲気が漂う瞬間だった。
「思えば私……桜を見たのはこの姿になってからは初めてです。記憶にもないですが、〝ああこれが桜なんだ〟って遠目から見てすぐに分かったので、今更ながらに色々知ってたんだなぁなんて思うことが度々あるのです」
いつも通りの他愛もない会話だった。
こうして就寝前に彼の部屋の囲炉裏の前で二人並んで茶を飲むのが習慣になりつつある。キネは熱々の湯飲みを両手で包み込むように持ち、唇をつけた瞬間だった。
「……なぁ。花で思い出したが、お前は不思議な名前を付けられたものだな」
「え?」
突飛もない言葉にキネは目を丸く開く。だが、花と何か関係があるのだろうか……と思った矢先、昔タキに教わった妖の名の規則を思い出した。
──妖の名は、草花や木、天候や気象現象など全てが自然に結びつくものだ。
獣の妖は、記憶を引き継いでいるから元の名を名乗ることも多いが、それもほとんどは自然的なものばかりだった。
キネ。確かに不思議な名かもしれない。
タキは『滝』を彷彿させる名だからおかしくはない。
だが、キネの名は自然物と結び付かなかった。
『お揃いだから別にいいだろ』と、付けられたその名の由来をふと思い出し、キネは少し恥ずかしくなって視線をわずかに反らす。すると、龍志は眉を寄せて首を捻った。
「乏しているわけではない、ただ不思議に思っただけだ。蘢が良い例だろう。神獣は妖とは別とは言え、あいつも同じ規則が採用されている……まぁ、赤飯みたいな草の名だな」
「そうなのですね。私の名前は親友のおタキちゃんに付けられたので。お揃いなのです」
「……なぁ。そのタキって言う奴だが、まさかとは思うが狸の妖か?」
一拍置いて彼の言った言葉にキネは唖然として目を見開いた。
何せタキがどんな妖かなんて彼には一度も言ったことがなかったのだ。
ただ黙って頷くと、龍志は『なるほど』と頷き、書き物机に硯と筆を用意した。
「多分だけど、こういうことじゃないか?」
片手で硯を刷りながら龍志はキネを手招きする。
キネがそっと近寄れば、彼はできたての墨汁を筆に染み込ませ、真っ新な紙の上に「たぬき」「きつね」と文字を綴った。筆の動きは滑らかで、どこか真剣な雰囲気が漂う。
自分は元々、ただの狐のはず。
だが、それがはっきりと読めてしまったことにキネは少し違和感を覚えたのも束の間──龍志は双方の二文字目に斜線を引いた。
「間を抜いた……よって〝タキ〟と〝キネ〟。そういうことか? あくまでこれは推測だが、そのタキとやらはあまり狸らしくないだろ」
新たな驚きでキネは口をあんぐりと開いてしまった。
その答えがまさにその通りだったから。
「そ、その通りです。でもどうして……」
「ただの憶測だったけどな。お前が微塵も狐らしくないから」
龍志はあっさりと告げる。だが、キネの頭はまだ驚きでいっぱいだ。
やがて彼の言葉がじわじわと心に響き、急に羞恥が込み上げ、ドッと頬を赤らめたキネは唇をあわあわと動かす。
──つまり、愚図で正真正銘の間抜けと言いたいのだろう。
「ひ、ひどいです! 確かに私、間抜けで愚図ですけど!」
思わずまくし立てれば、間髪入れず彼はキネの肩を叩いて宥めに入る。
「それもそうだが、人の俺から見ても妖狐の雌は毒々しくて淫靡だとか高飛車だったりキツい印象が強いんだ。そういう妙な角がないからお前は……素直に可愛い」
──と、思うって言いたいだけだが。と、告げる彼の言葉は語尾に行くほどどんどん小さくなっていった。
よく見れば、彼の頬がわずかに赤く染まっている。初めて見せる表情だ。
だが、彼の言葉が自分に宛てられたもの──と悟った瞬間、キネの頬はさらに赤々と色づいた。
一方、彼はだんだん居心地が悪くなったのだろう。
一つ咳払いをした後『さてと』と仕切り直した。
「少し無礼だったかもな。詫びになるか分からないが……丁度、良い字が思い浮かんだ」
そう言って龍志は紙を新しく用意し、再び筆に墨を含ませる。丁寧に筆をしごき、彼は『季音』と丁寧に文字を綴った。
だが、先程の字とは違い複雑なそれをキネは読めなかった。
それが漢字と呼ばれるものだと潜在的に理解できるが……。
「漢字ですか?」
訊けば、彼は『よく分かったな』なんて言ってわずかに唇を綻ばせる。
「──暦を捲る毎に聞こえるもの。芽吹きに花々の開花。やがてそれは枯れ果て霜が降り雪が積もる。即ち、歩み日々感じる〝季節の足音〟その頭文字を取り季音」
まるで祝詞を詠唱するかのよう。龍志の言葉はいつにもなく、どこか尊厳たるものだった。
キネは藤色の瞳を大きく見開き彼の方を向く。
すると、彼は一つ息を吐き出した後に『と……趣ある裏の意味どうだ?』なんて、鼻からふと息を吹き出し笑みをこぼした。
どうしようもなく心の奥底がムズ痒かった。どうしていいか分からないほど、頬に昇った熱が下がらなかった。
「……どうしよう。おタキちゃんが付けてくれた名前、もっともっと好きになっちゃった」
──嬉しい。と、思わず漏れ出た言葉は、淀みもない素直なものだった。
崩れた言葉遣いにすぐ気づき、キネは慌てて唇を塞ぐ。すると龍志は、キネの肩をやんわりと掴み、緩やかに精悍な面を近付けた。
「お前本当に可愛いな」
唇と唇が触れ合いそうなほど間近。彼が言葉を発するたび、その吐息が自分の唇を擽った。
その感覚も束の間──龍志はキネを抱き寄せ、腕の中に納めて首筋に唇を寄せた。
「やっぱり柔いんだな。髪も首筋も頭がクラクラするほど良い匂いがする……」
……どうしてこんな状況になったのだろう。
キネは目を白黒させて、あわあわと慌てふためく。
だが、これだけは分かる。種族は違えど、彼は自分を雌だとしっかり認識している。このまま流されてしまえば、きっととんでもなく淫靡なことをされてしまうのではないかと──改めて、夜這いと勘違いされたあの夜を思い出し、キネは彼の肩を押した。
「あ、あの……龍志様!」
「ああ、悪い……つい」
『つい』とは何だろうか。
そんなことをふと思ってしまうが、自分の鼓動があまりにうるさく、それ以上は何も考えられなくなった。
彼はどこか照れくさそうに後ろ髪を掻き、身を離すと、硯と筆を片付け始めた。
「さて、寝るか?」
背を向けた彼はぽつりと告げるが、キネはまだ呆然としたままだった。が──
「きゃあ!」
再び、視界いっぱいに彼の顔が近付いて、キネは素っ頓興な声をあげる。
「……おい、部屋に戻れ。そんなに俺と寝たいのか?」
キネは慌てて後退り、首をぶんぶんと横に振り乱す。
「ち、ちちち……違います! 私、そんな」
「いや。さすがにそこまで拒否されると……俺でも少し傷付く」
心底つまらなそうに龍志は言うが、どことなく本気でこれは言ってるだろうなと察してしまった。
変な流れにならないようにしないと。キネは自分を落ち着かせるよう、姿勢を正して龍志に再び向きあった。
「ただ、その。私の名前に……素敵な意味をつけてくださって、本当にありがとうございます」
鼓動は高鳴ったまま。そうしてキネは彼の顔を見ず、襖を開けて部屋に戻った。
***
その夜半だった。キネは就寝前の出来事が忘れられず、時折ぶり返す頬の熱のせいで眠れずにいた。
龍志の声、吐息、首筋に触れた唇の感触が、頭の中でぐるぐると巡る。胸の鼓動が収まらず、布団の中で何度も寝返りを打った。
丸窓から見える月の傾きから、間もなく日付を跨ぐ頃合いだと悟り、いい加減に寝ようと寝返りを打った途端だった。
襖が開く音がした。静かではあるが、はっきりと分かる。キネの心臓がドキリと跳ねた。
驚きでキネが飛び起きると、そこには裸火を持った龍志が立っていた。揺れる炎が彼の顔をほのかに照らし、いつもより少し柔らかい表情に見えた。
──夜這い。
夜半、男が女の部屋に逢瀬に来ること。その逢瀬は、もちろん艶やかな意味も含まれるもので……。
部屋に戻るまでのやりとりがああだったから、自然とその言葉が頭をよぎる。
キネは言葉を出すことも忘れ、顔を赤々と染めて彼を見上げた。月の光と裸火の揺らめきが、部屋に不思議な雰囲気を漂わせていた。
「なんだ、起きていたのか。いや、起こしたか?」
一方、こんな夜半に部屋に踏み入ってきたというのに、龍志は平然としていた。いつも通りのぶっきらぼうな声。キネは少しだけホッとした。
「案外眠くならなくてな。ふと思い立ったが……麓へ花見に行かないか? こんな夜中じゃ人もいない。山を降りてすぐに桜の木もある。月も出てるから花もはっきり見えるだろ。一日くらい昼過ぎまでぐーたらと過ごさないか?」
──散る前に見に行こう、夜遊びしようぜ。なんて、少し戯けた調子で彼は告げた。
だが、彼の表情は至って真剣。それがなんだか可笑しくて仕方ない。
月明かりの下、桜を見に行くなんて、まるで二人だけの秘密の逢引きのよう。キネの胸は自然と高鳴り、頬の熱がまたぶり返した。
それでも、こんな誘いは嬉しい。
キネは笑顔で頷き、差し伸ばされた彼の手を取った。龍志の手は大きくて温かく、キネの小さな手をしっかり包み込む。
その感触に、キネの心はまた少しだけ高鳴った。
夜の静寂の中、二人はそっと社を出て、月光に照らされた桜の木を目指した。
卯月。
キネが龍志の家に来てから、早くも二か月が過ぎ去った。
固い桜の蕾は知らぬ間に綻び、今では満開を迎えている。陽光も暖かくなり、本格的な春が訪れた。
陽光も暖かくなり、春の柔らかな風が社の境内をそっと撫でる。本格的な春が訪れ、キネの心もどこか浮き立つようだった。
龍志は何度か、社の敷地外の山林にキネを連れて行ってくれた。敷地の外なら人の匂いが染みつかず、タキが現れるかもしれないと……。
だが、どれだけ呼んでもタキは姿を見せなかった。
見放された──と、つい悪い方へ考えてしまう。
それに対し、龍志はそのたび「下らないことを悩むな」とキネを突っぱねる。だが、それはきっと「信じてやれ」と言いたいのだろうと、キネにはもうわかっていた。
彼はぶっきらぼうだ。愚図な姿を見せれば、嗜虐的な顔をすることもある。だが、言葉とは裏腹に根は優しく穏やかだと、二か月も共に過ごせばよくわかった。
何せ彼は顔に出やすい。
口では素っ気なくとも、切れ長の目が優しく細められるのを見ると、自然とそう思えてしまう。
キネが何か失敗しても、彼のそんな表情に救われることが何度もあった。まるで、どんなときもそばで見守ってくれるような安心感がそこにはある。
そんな彼と過ごすほど、どこか懐かしいと感じることが度々あった。
見覚えはない、知らないはず──それでも心の奥底で何かが沈殿している気がしたが、その深い部分まで手が届かなかった。
詠龍。
一度だけ蘢が口にした、聞き覚えのある名が手がかりだった。
だが、あの剣幕さから、キネは龍志にそれを尋ねられなかった。
ならば自分で思い出せばいい──そう思ったけれど、その名を思い出そうと深く考え込むほど、頭の奥からズキリと鈍い痛みが走った。
──ここまで思い出すのが苦しいのは、辛い記憶なのかもしれない。そう思えて、キネはその名を深く考えるのを諦めた。
ただ、二か月も共に過ごして困ったことが一つだけあった。
それはもう、頻繁に尻尾を掴まれることだ。
愚鈍な姿を見せたときに掴まれることが多いが、ここ最近では、何でもないときにもさえやられて、頻度が増えた気がする。
キネがうっかり湯飲みを落としそうになったときや、ぼーっと空を見上げているとき、ふいに龍志の手が伸びてくるのだ。
『いや。単純に反応が可愛くて面白いから……』
なんて、龍志は嗜虐的に言うが、やられる側からすれば堪ったものではない。キネは毎回、びくっと飛び上がって抗議の声を上げるが、彼はニヤリと笑うだけだ。
尻尾を持つ者の感覚では、尾は胸や尻を触られるのと変わらない。
それを彼に言っても「そうか、じゃあ俺の急所か相応の場所を触るか?」と斜め上のことを言われてれて、反論すらできなかった。
それを除けば、春の日々は気が抜けるほど穏やかだった。
龍志の家での生活は、キネに不思議な安心感を与えてくれた。囲炉裏のそばで茶を飲みながら交わす他愛もない会話、春風に揺れる笹を見上げるひととき。すべてが、キネの心を柔らかく解きほぐすようだった。
***
「多分、あと数日で桜も多分散り始めるな」
──雨でも降れば、それも早まるものだ。なんて付け添えて。二つの湯飲みに茶を注ぎながら龍志は言う。
囲炉裏の火がパチパチと小さく音を立て、湯気の立つ茶が部屋にほのかな香りを広げた。
「桜は儚いものですね……」
「だが、それに趣があると人はよく言うものだ」
そっとキネの前に湯気立つ湯飲みを差し出した後、彼は自分の湯飲みに口を付け、ズッと熱い茶を啜った。その仕草に、キネはつい見とれてしまう。
普段のぶっきらぼうさとは裏腹に、どこか落ち着いた雰囲気が漂う瞬間だった。
「思えば私……桜を見たのはこの姿になってからは初めてです。記憶にもないですが、〝ああこれが桜なんだ〟って遠目から見てすぐに分かったので、今更ながらに色々知ってたんだなぁなんて思うことが度々あるのです」
いつも通りの他愛もない会話だった。
こうして就寝前に彼の部屋の囲炉裏の前で二人並んで茶を飲むのが習慣になりつつある。キネは熱々の湯飲みを両手で包み込むように持ち、唇をつけた瞬間だった。
「……なぁ。花で思い出したが、お前は不思議な名前を付けられたものだな」
「え?」
突飛もない言葉にキネは目を丸く開く。だが、花と何か関係があるのだろうか……と思った矢先、昔タキに教わった妖の名の規則を思い出した。
──妖の名は、草花や木、天候や気象現象など全てが自然に結びつくものだ。
獣の妖は、記憶を引き継いでいるから元の名を名乗ることも多いが、それもほとんどは自然的なものばかりだった。
キネ。確かに不思議な名かもしれない。
タキは『滝』を彷彿させる名だからおかしくはない。
だが、キネの名は自然物と結び付かなかった。
『お揃いだから別にいいだろ』と、付けられたその名の由来をふと思い出し、キネは少し恥ずかしくなって視線をわずかに反らす。すると、龍志は眉を寄せて首を捻った。
「乏しているわけではない、ただ不思議に思っただけだ。蘢が良い例だろう。神獣は妖とは別とは言え、あいつも同じ規則が採用されている……まぁ、赤飯みたいな草の名だな」
「そうなのですね。私の名前は親友のおタキちゃんに付けられたので。お揃いなのです」
「……なぁ。そのタキって言う奴だが、まさかとは思うが狸の妖か?」
一拍置いて彼の言った言葉にキネは唖然として目を見開いた。
何せタキがどんな妖かなんて彼には一度も言ったことがなかったのだ。
ただ黙って頷くと、龍志は『なるほど』と頷き、書き物机に硯と筆を用意した。
「多分だけど、こういうことじゃないか?」
片手で硯を刷りながら龍志はキネを手招きする。
キネがそっと近寄れば、彼はできたての墨汁を筆に染み込ませ、真っ新な紙の上に「たぬき」「きつね」と文字を綴った。筆の動きは滑らかで、どこか真剣な雰囲気が漂う。
自分は元々、ただの狐のはず。
だが、それがはっきりと読めてしまったことにキネは少し違和感を覚えたのも束の間──龍志は双方の二文字目に斜線を引いた。
「間を抜いた……よって〝タキ〟と〝キネ〟。そういうことか? あくまでこれは推測だが、そのタキとやらはあまり狸らしくないだろ」
新たな驚きでキネは口をあんぐりと開いてしまった。
その答えがまさにその通りだったから。
「そ、その通りです。でもどうして……」
「ただの憶測だったけどな。お前が微塵も狐らしくないから」
龍志はあっさりと告げる。だが、キネの頭はまだ驚きでいっぱいだ。
やがて彼の言葉がじわじわと心に響き、急に羞恥が込み上げ、ドッと頬を赤らめたキネは唇をあわあわと動かす。
──つまり、愚図で正真正銘の間抜けと言いたいのだろう。
「ひ、ひどいです! 確かに私、間抜けで愚図ですけど!」
思わずまくし立てれば、間髪入れず彼はキネの肩を叩いて宥めに入る。
「それもそうだが、人の俺から見ても妖狐の雌は毒々しくて淫靡だとか高飛車だったりキツい印象が強いんだ。そういう妙な角がないからお前は……素直に可愛い」
──と、思うって言いたいだけだが。と、告げる彼の言葉は語尾に行くほどどんどん小さくなっていった。
よく見れば、彼の頬がわずかに赤く染まっている。初めて見せる表情だ。
だが、彼の言葉が自分に宛てられたもの──と悟った瞬間、キネの頬はさらに赤々と色づいた。
一方、彼はだんだん居心地が悪くなったのだろう。
一つ咳払いをした後『さてと』と仕切り直した。
「少し無礼だったかもな。詫びになるか分からないが……丁度、良い字が思い浮かんだ」
そう言って龍志は紙を新しく用意し、再び筆に墨を含ませる。丁寧に筆をしごき、彼は『季音』と丁寧に文字を綴った。
だが、先程の字とは違い複雑なそれをキネは読めなかった。
それが漢字と呼ばれるものだと潜在的に理解できるが……。
「漢字ですか?」
訊けば、彼は『よく分かったな』なんて言ってわずかに唇を綻ばせる。
「──暦を捲る毎に聞こえるもの。芽吹きに花々の開花。やがてそれは枯れ果て霜が降り雪が積もる。即ち、歩み日々感じる〝季節の足音〟その頭文字を取り季音」
まるで祝詞を詠唱するかのよう。龍志の言葉はいつにもなく、どこか尊厳たるものだった。
キネは藤色の瞳を大きく見開き彼の方を向く。
すると、彼は一つ息を吐き出した後に『と……趣ある裏の意味どうだ?』なんて、鼻からふと息を吹き出し笑みをこぼした。
どうしようもなく心の奥底がムズ痒かった。どうしていいか分からないほど、頬に昇った熱が下がらなかった。
「……どうしよう。おタキちゃんが付けてくれた名前、もっともっと好きになっちゃった」
──嬉しい。と、思わず漏れ出た言葉は、淀みもない素直なものだった。
崩れた言葉遣いにすぐ気づき、キネは慌てて唇を塞ぐ。すると龍志は、キネの肩をやんわりと掴み、緩やかに精悍な面を近付けた。
「お前本当に可愛いな」
唇と唇が触れ合いそうなほど間近。彼が言葉を発するたび、その吐息が自分の唇を擽った。
その感覚も束の間──龍志はキネを抱き寄せ、腕の中に納めて首筋に唇を寄せた。
「やっぱり柔いんだな。髪も首筋も頭がクラクラするほど良い匂いがする……」
……どうしてこんな状況になったのだろう。
キネは目を白黒させて、あわあわと慌てふためく。
だが、これだけは分かる。種族は違えど、彼は自分を雌だとしっかり認識している。このまま流されてしまえば、きっととんでもなく淫靡なことをされてしまうのではないかと──改めて、夜這いと勘違いされたあの夜を思い出し、キネは彼の肩を押した。
「あ、あの……龍志様!」
「ああ、悪い……つい」
『つい』とは何だろうか。
そんなことをふと思ってしまうが、自分の鼓動があまりにうるさく、それ以上は何も考えられなくなった。
彼はどこか照れくさそうに後ろ髪を掻き、身を離すと、硯と筆を片付け始めた。
「さて、寝るか?」
背を向けた彼はぽつりと告げるが、キネはまだ呆然としたままだった。が──
「きゃあ!」
再び、視界いっぱいに彼の顔が近付いて、キネは素っ頓興な声をあげる。
「……おい、部屋に戻れ。そんなに俺と寝たいのか?」
キネは慌てて後退り、首をぶんぶんと横に振り乱す。
「ち、ちちち……違います! 私、そんな」
「いや。さすがにそこまで拒否されると……俺でも少し傷付く」
心底つまらなそうに龍志は言うが、どことなく本気でこれは言ってるだろうなと察してしまった。
変な流れにならないようにしないと。キネは自分を落ち着かせるよう、姿勢を正して龍志に再び向きあった。
「ただ、その。私の名前に……素敵な意味をつけてくださって、本当にありがとうございます」
鼓動は高鳴ったまま。そうしてキネは彼の顔を見ず、襖を開けて部屋に戻った。
***
その夜半だった。キネは就寝前の出来事が忘れられず、時折ぶり返す頬の熱のせいで眠れずにいた。
龍志の声、吐息、首筋に触れた唇の感触が、頭の中でぐるぐると巡る。胸の鼓動が収まらず、布団の中で何度も寝返りを打った。
丸窓から見える月の傾きから、間もなく日付を跨ぐ頃合いだと悟り、いい加減に寝ようと寝返りを打った途端だった。
襖が開く音がした。静かではあるが、はっきりと分かる。キネの心臓がドキリと跳ねた。
驚きでキネが飛び起きると、そこには裸火を持った龍志が立っていた。揺れる炎が彼の顔をほのかに照らし、いつもより少し柔らかい表情に見えた。
──夜這い。
夜半、男が女の部屋に逢瀬に来ること。その逢瀬は、もちろん艶やかな意味も含まれるもので……。
部屋に戻るまでのやりとりがああだったから、自然とその言葉が頭をよぎる。
キネは言葉を出すことも忘れ、顔を赤々と染めて彼を見上げた。月の光と裸火の揺らめきが、部屋に不思議な雰囲気を漂わせていた。
「なんだ、起きていたのか。いや、起こしたか?」
一方、こんな夜半に部屋に踏み入ってきたというのに、龍志は平然としていた。いつも通りのぶっきらぼうな声。キネは少しだけホッとした。
「案外眠くならなくてな。ふと思い立ったが……麓へ花見に行かないか? こんな夜中じゃ人もいない。山を降りてすぐに桜の木もある。月も出てるから花もはっきり見えるだろ。一日くらい昼過ぎまでぐーたらと過ごさないか?」
──散る前に見に行こう、夜遊びしようぜ。なんて、少し戯けた調子で彼は告げた。
だが、彼の表情は至って真剣。それがなんだか可笑しくて仕方ない。
月明かりの下、桜を見に行くなんて、まるで二人だけの秘密の逢引きのよう。キネの胸は自然と高鳴り、頬の熱がまたぶり返した。
それでも、こんな誘いは嬉しい。
キネは笑顔で頷き、差し伸ばされた彼の手を取った。龍志の手は大きくて温かく、キネの小さな手をしっかり包み込む。
その感触に、キネの心はまた少しだけ高鳴った。
夜の静寂の中、二人はそっと社を出て、月光に照らされた桜の木を目指した。
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