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前編
第二夜 蛭のねぐら
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収容所から蛭の屋敷まで、さほど時間はかからなかった。
収容所は、街の中核にあるとは言えだいぶ寂れた町外れに位置している。一方、蛭の屋敷においても街外れだ。位置的に言えば、南東から南へ。その間の移動は彼の愛馬だった。
ライラは蛭に後ろから抱きしめられる形で、黒毛の馬に乗せられた。
乗馬など、生まれて初めてだった。
賊生活の移動手段は、もっぱら自分の足頼りだった。属していた盗賊団でも、馬を二、三匹程所有した事もあったが、それだって強奪品だ。ある程度、盗んだ馬で逃げるに逃げ切ってしまえば放してしまう事も多い。
そもそも、盗賊で馬に乗る者は足が遅い奴だけだ。だがライラは、盗賊団の中でも飛び抜けた駿足で運動神経が良い。だからこそ無縁に等しい存在だった。
(高い……何これ、怖い)
視界の高さと不安定さに戦き、ライラは必死に馬の首元にしがみついた。
「あれ、君……乗馬は初めてなの?」
背後から蛭に訊かれて、ライラは無言のまま頷いた。
すると、クスリと笑みを溢した彼は──
「大丈夫。後ろから支えてるし、この子は大人しいから君を落とす事も無いさ」
と、宥めるようにライラの肩を優しく摩った。
しかし彼の対応には、やはり違和を覚えてしまう。
粛正権二十万ザバブを叩いた時の事もそうだが、何故にこんなに物腰柔らかなのだろうかと……。
咎人に対する接し方ではないだろう。
この柔軟な対応が、かえって不気味に思えて不安が掻き立てられるものだった。否や、元々そういった話し方か──と思うが、初めての乗馬に余裕も無く聞く事は出来なかった。
……土作りの集合民家の犇めく裏側。水路の上に洗濯物が沢山ぶら下がる寂れた道を進み、やがて馬は南の方角へと辿り着く。
王都南部は砂の海に面した寂れた地だった。たとえるのであれば、まさに世の果て。そんな場所に黒の呪術師、蛭の住処がある。
国を結ぶ砂の海に面しているという事もあり、キャラバンは必ず通る道だ。それを散々に奇襲をかけて来たのだからライラはこの場所をよく知っていた。
蛭の屋敷は、見た目だけで言えばカスディール北部にある王宮に負けず劣らずだろう。
規模は小さいが、外観だけ言えば、白亜の宮殿の如し──敷地内には背丈の高いヤシの木にバナナの木、その他シダ植物が青々と茂っていた。
幾何学模様が刻まれた石造りの門を抜け、シダ植物のざわめく庭で蛭は馬を留めた。
蛭は慣れた所作で先に馬から降りると、ライラをヒョイと抱え上げる。そうして、丁重に地面に下ろせば「移動お疲れ」なんて依然として柔軟な調子で笑った。
「厩舎に馬を入れるけど、縛り付けた女の子の縄を引いて歩くのも正直なぁ……」
ライラを見下ろして、蛭が唸って直ぐ。彼が取った行動にライラはたちまち目を丸く開いた。
指を絡めてぎゅっと手を繋がれたのだ。
「これでいいか、別に良いよね?」
同意を求められるが、吃驚して返事なんて出来なかった。
無言のままを同意と受け取ったのだろう。彼は、直ぐに顔を背けて厩舎に馬を預ける。
それが終えると「屋敷の中に案内するよ」と、そのままライラの手を引いて玄関へ向かった。
──玄関ポーチを支える白々とした柱に巻き付く蔓性の植物は、淡い黄色の花が綻んでいた。色取り取りの玻璃を幾つも並べて同じ模様を形成するモザイク硝子が嵌め込まれた正面扉は、陽光が反射し厳かな雰囲気さえ感じてしまった。
目が眩む程に明るい壁は、とてもではなく黒の呪術師が住む屋敷とは思えない。ライラは、目を丸くして息を飲む。
もっと仰々しいものだと思っていた──遠目にしかこの佇まいを見た事はなかったのだ。これでは、ただの金持ちの屋敷と変わらないようで。想像と違う……そんな風に思った矢先だった。
「開け」
蛭はぽつりと詠唱した。すると、瞬く間に硬く閉ざされた扉は緩やかに開く。
何が起きたのか──手も使わずに言葉だけで開いたのだ。神秘の才を扱う者だと分かってはいるが、目の当たりにするのは初めてだ。
吃驚してライラは蛭を見上げる。
その視線に直ぐに気付いたのだろう。彼は、薄い唇に弧を描いて笑むと「さ。入って」と繋いだ手を離して、ライラと背をやんわりと押した。
玄関直ぐの真っ黒のベール。それをくぐり抜けてようやく……ここが黒の呪術師の屋敷だとライラは改めて実感した。
──鼻腔をつく匂いは沈香や白檀の香り。
黒を基調とした空間の天井には幾つもモザイク硝子のペンダントランプやぶら下がっており、壁はびっしりとゼリージュ模様のタイルが貼られている。
だが、そこらじゅうに”乾燥させた草”や”得体の知れぬ小動物のミイラ”が吊されている様は不気味としか形容出来ぬもので、まるで絵に描いた呪術師の住処そのものだった。
この物腰柔らかな口調と突飛も無い行動の所為で薄れていたものだが、自分はこの男に粛正権を買われたのだ。きっと、自分もああなってしまうのだろうか──と、吊されたミイラを横目に見ながら、ライラは生唾を飲み込んだ。
背筋には嫌な緊張が走った。
どうか、なるべく痛々しい殺し方や苦しみ続けるような惨い殺し方はしないで欲しい……と、そんな事をライラが祈る最中だった。
「あーえっと、蟷螂ちゃんだよね?」
低く平らな声に呼ばれて、ライラは目を丸く開いた。
敬称付け……そんな呼ばれ方は初めてだ。
益々意味が分からない! と、目を白黒させたライラは、眉をヒクつかせて無言のまま蛭を見上げた。
「一応ここは居間だから。察する通り、男の一人暮らしで、こんな仕事してるもんだから、ちょっとばかし散らかっててね……とりあえずソファとかで適当に寛いでていいよ」
部屋の隅におかれたソファを指して、蛭はライラを見下ろして言う。
適当に寛いでて……これでは、まるで客人に対する対応だろう。
自分と彼は、咎人と粛正権を買った者という立場ではないだろうか。
ライラは頭の中で一つ一つを改めて整理した。
「あ、あのさぁ……」
ライラは眉間を揉みながら蛭に視線をやる。
「あ、やっと喋った。可愛い声だね」
ヒヒと、決して品の良いと言えない笑い声を含ませて、彼は言う。
長い前髪で目を覆っているのだから、果たしてどんな顔をしているかも分からないが、となく唇だけ見れば嬉しそうという事が分かる。その上、若干、鼻の下が伸びているのは気の所為だろうか……そんな事を思って、ライラは眉を更にヒクつかせて唇を歪めた。
「あんた、私の粛正権買ったんだよね?」
「そうだよ?」
それがどうした? と言わんばかりに、彼はさっぱりとした口調で切り返す。
「あんた、私を殺さないのか?」
ライラが単刀直入に訊くと蛭は小首を傾げた。
「まぁそうだね。確かに、俺は君を好きにする権限を保有した事になるけど。俺もなんだかんだで仕事が忙しいからね。この後と仕事が入っててね。出掛けないといけないし……それについては保留、また後で」
──だから好きに寛いでていいよ~なんて間延びした答えを添え告げて。彼はライラを拘束する縄を易々と解いてしまった。
「あんたさ、私が盗賊だって知ってるよな? その……馬鹿なの? 縄を解いたら逃げられるでしょうが」
この男は阿呆だろうか……。
ライラはじっとりと紫の瞳を細める。すると、彼は自分の頤に手を当てて、一つ唸った後、ライラを見下ろした。
「ええと……縛り付けられるような趣向が好み? 君、痛そうな事されるの好きなの? 確かに、北の大陸の人間みたいに肌も白いから、赤い縄が食い込む様とか……とてつもなく厭らしいそうで最高だと思うけどもさ。うん……絶対眼福だろうけど」
変わらず穏やかな口調だった。
だが、蛭はとんでもない事を言い放っただろう。ライラのポカンと口を開くが、たちまち目を白黒とさせた。
……ああ、これは真性の阿呆だろう。と、理解出来るが、同時に性的対象としても見られていたのだと分かる。
理解した途端に羞恥が込み上げるもので、ライラの頬はみるみるうちに赤々と染まった。
「ふざけるな、この変態っ!」
瞳を釣り上げてライラは怒鳴る。対峙した蛭は背を振るわせて一瞬怯んだ。
その隙にライラは、踵を返して玄関の方を向いた。
再び捕まって、更に罪が重くなり大衆の面前で処刑される惨い終わり方になろうが、今逃げられるなら逃げた方が利口だろう。
ライラは今まさに動きだそうとした須臾だった──たちまち脚に何かが纏わり付いたのだ。
足の自由が奪われたと同時、彼女はカーペットの上に縺れるように崩れ落ちた。
今の一瞬で何が起きたかなんて理解出来やしなかった。
出所時に足枷は外されて、今は縄だって解かれたのだから自由の筈だ。
(いったい何が……)
顔をしかめたライラは、自分の足下に視線を映したと同時──絶句した。
視線の先、牙を剥き出した二匹の毒蛇──コブラがライラの脚に絡みついていたのだ。
それはウネウネと蠢き、大きな口を開けてライラを睨み据えて威嚇する。
「ひっ……」
コブラは砂漠の民が唯一恐れる生き物だ。その毒はかなり猛烈なもので、噛まれれば最悪死に至る。
しかし、今の一瞬でどうやって沸くように出てきたのだろう。まさか、ペットとして屋敷の中に野放しにして飼っていると推測も出来る。何せ黒の呪術師、蛭だ。そんな異質なペットが居たっておかしくないだろう。
ヘタリと座ったままのライラは、彼を見上げて睨み据えた。
すると、直ぐさま彼はライラの隣にしゃがみ込みヘコリと頭を垂れる。
「あの……ごめん。流石に今のは、びっくりしただろうし痛かったよね」
──そもそも加減しないこいつらが悪い。と、言い添えて。彼は、ライラの足に巻き付くコブラを手掴みで引き離した。
猛毒を持つ蛇を手掴みした事も驚嘆してしまったが、逃げようとしても尚、彼が対応を変えぬ事がただただ不思議に思えてしまった。
「どうして……」
率直に訊こうとするが、その先は言葉が詰まって出てこない。
対して彼は首を傾げた後に、宥めるようにライラの背を優しく撫でた。
「ねぇ、妖霊って分かる?」
蛭の切り出した言葉に、ライラは一拍置いて頷いた。
──妖霊。
それば、砂漠を跨ぐ数国で信心される恐れられた存在だ。無論それはこの国で生まれ育ったライラもよく知っていた。
妖霊とは──廃墟や墓地、排水溝やゴミ捨て場等、主に暗がりを好む精霊の一種だ。普段は人の目に付く事なんてまず無いが、人や動物に化けて姿を現すそうで、凶兆の存在と言われている。
突拍子も無い不慮の事故や、伝染病が蔓延する等……定義も出来ない悪い事象があれば、だいたいは妖霊の所為だと言われている。
善良なものと悪しきもの。二種が居ると言われているが、実際には分からない。
そもそも、神同様に信心される存在であろうが、本当に存在するかも分からないのだから。いくら信じられているとは言え、実際に目の当たりにした事がある者なんて、まずそうそう居ないに違いない。
ライラはコブラと戯れる蛭を見上げて眉根を寄せた。
「その妖霊がどうかしたの……」
「そう。こいつらは俺の使役してる妖霊だよ。他にも未だいっぱいいるけど今は皆、君を警戒して身を潜めてるね」
言って、彼が周囲を見渡した途端だった。
姿こそ見せないが、黒い影が蠢き棚の裏やソファの下に移動したのである。
確かに……普通であれば蛇遣いでもコブラを手掴みするなど躊躇うだろう。だが、彼は慣れた様子だった。二匹の蛇は大人しく彼の腕を伝い、まるで襟巻きのように彼の首へと絡みつき始めたのだ。
「こいつらは屋敷の警備をしてくれてるの。事前に『女の子を連れてくるから逃がすな』って頼んでるの。だから、その言いつけを守っただけ。それを君も伝えなかったから、ちょっと申し訳無い事しちゃったけど、大目に見て許してやって」
二匹のコブラの顎を撫でながら、彼はふふと笑んで詫びた。
──不可思議な事はこの世には沢山溢れている。それは理解出来るが、実際に目の当たりにすると、動揺せずにはいられなかった。
そんなライラに見かねたのだろう。
蛭は未だ床の上で呆然と座るライラの前にしゃがみこみ、彼女の唇に無骨で長い指を突き立てた。
「でもね、こいつらには必要以上に君に触れるなとは言ってあるよ。……君に少しばかりの害をなすのは俺だけで充分ってね」
低く平らな声色ではあるが、先程とは違い、真剣な物言いだった。
どことなくその言葉にも重みや威厳があった。害をなすのは俺だけで充分──と、その一言で、呪いが解けるようにライラは放心から覚めた。
「あんたの態度があまりに、咎人に対するようなものじゃないから不安しかなかったけどそれを聞いて少し安心したよ」
「ん? どういう事?」
蛭は小首を傾げてライラに問う。
「あんたの接し方、まるで客人の令嬢でも扱うようなもんだからね」
キッパリと言ってやれば、蛭はたちまち肩を震わせて低い笑い声を溢した。
「いや、君は女の子に変わりないだろう? 確かに屈強なる女盗賊「蟷螂」であれ、その本質は変わらない。だから丁重に扱わせて貰っただけ」
「確かにあんたの言う通り、私は「繭」の女盗賊「蟷螂」だ。だからこそ、そんな気遣いは要らんものだよ。こっちは、数日酷く汚くて臭い暗い空間に居たもんだ。どうせ殺すならさっさとやって欲しいくらいだけど……」
ジトリと蛭を睨み据えて、尤もな事を言ってやる。だが、彼はやれやれと首を横に振るい一つ息を落とした。
「君、結構せっかちな性質なんだね。さっきも言ったけど俺も忙しいの。……少し気長に待っててよ。仕事から帰ったら、ちゃんと君にどうやって罰を受けて貰うかくらい説明するからさ」
困却したかのような口ぶりで言って、彼はライラの蜂蜜色の髪をぽんぽんと撫でた。
『女の子にこんな事を言うのどうかと思うけど……君、とんでもない死臭がこびり付いてるから湯殿使っておいでよ。召し物は適当に用意してあるからさ』
聞けば妖霊が案内してくれるだろう──と、言い残して。蛭はその後直ぐ、仕事に出かけてしまった。
確かに、あの悪臭の中で三日も過ごしていたのだ。彼が言う事も一理あるだろうと、ライラは湯殿に向かう事にした。
──誰も居ない静謐に包まれた部屋の中『湯殿の場所まで行きたい、案内しろ』と言えば、先程絡まれたコブラが煙のように突如として現れた。
姿を現すや否や、コブラは『着いてこい』と言わんばかりに先導し、案内が済めば再び煙のように消えてしまった。
怪しい雰囲気満載の屋敷内ではあるが、湯殿に関しては、外観同様に絵に描くような金持ちの浴室そのものだった。
──雪白の大理石を敷き詰めた床に湯船。湯口と言えば、口を大きく開いた獅子の彫刻。何を支えてるのかも分からない飾り柱が幾らかあり、湯には橙色の花がふわふわと漂っていた。空間いっぱいに漂う香りは、嗅いだことも無い程に甘美なもので──ライラは目眩さえ覚えそうになった。
身体と髪を洗って湯に浸かり……落ち着きやしないこの空間から逃げ出すようにライラはさっさと湯から上がった。その様はまるで、鳥の行水のように。
用意された召し物は白地に黄金の幾何学模様と繊細な刺繍がふんだんにあしらわれた、これまた高値がつきそうなドレスだった。おまけに下着まで……それも上質な絹製。可愛らしいレースを幾段もあしらっていたものだだからこそ、ライラは眉根をヒクつかせて口を拉げた。
下着もそうだが、こんな華美なドレスは娼館に居た幼少期でも着たことは無い。
目を細めたライラは、元々着ていた服を着ようとする。だが、手に持っただけでよく分かる──湯浴みするまでは分からなかったが、吐き気さえ催しそうな程のとんでも無い異臭が立ちこめているのだ。
彼はその臭いを”死臭”と言ったが、鼻の曲がるような悪臭を纏っていたにも関わらず、顔色一つも変えずに接していた事に寧ろ驚いた。否や、あの長い前髪で顔が半分覆われているのだから、本当はどんな表情をしていたかなんて分からないが……それでも、あまりに穏やかだった。
……流石は、忌まれた黒の呪術師だからだろうか。
そんな思考をちらつかせながら、置かれていた籠にそれら衣類を放り投げて。彼女は渋々と用意された下着を着け、華美なドレスに袖を通した。
そうして着替えを済ませたライラは、即座に踵を返して元の不気味な部屋へ戻った。
適当に座っていても良いだろうか──好きに寛いでいて良いと言われたのだ。
得体の知れぬ小動物のミイラが視界に入れば、寛げる気なんてちっとも起きやしないが……それでも、ライラは部屋の隅に設置されたソファに腰を降ろし、膝を抱えた。
落ち着かないとは言え、久しぶりの湯浴みで気分が少しだけ凪いだ所為だろうか。それとも、収容されてからろくに眠れなかった事もあるだろうか。瞼は次第に重たくなり、ライラはその場で眠りに落ちた。
収容所は、街の中核にあるとは言えだいぶ寂れた町外れに位置している。一方、蛭の屋敷においても街外れだ。位置的に言えば、南東から南へ。その間の移動は彼の愛馬だった。
ライラは蛭に後ろから抱きしめられる形で、黒毛の馬に乗せられた。
乗馬など、生まれて初めてだった。
賊生活の移動手段は、もっぱら自分の足頼りだった。属していた盗賊団でも、馬を二、三匹程所有した事もあったが、それだって強奪品だ。ある程度、盗んだ馬で逃げるに逃げ切ってしまえば放してしまう事も多い。
そもそも、盗賊で馬に乗る者は足が遅い奴だけだ。だがライラは、盗賊団の中でも飛び抜けた駿足で運動神経が良い。だからこそ無縁に等しい存在だった。
(高い……何これ、怖い)
視界の高さと不安定さに戦き、ライラは必死に馬の首元にしがみついた。
「あれ、君……乗馬は初めてなの?」
背後から蛭に訊かれて、ライラは無言のまま頷いた。
すると、クスリと笑みを溢した彼は──
「大丈夫。後ろから支えてるし、この子は大人しいから君を落とす事も無いさ」
と、宥めるようにライラの肩を優しく摩った。
しかし彼の対応には、やはり違和を覚えてしまう。
粛正権二十万ザバブを叩いた時の事もそうだが、何故にこんなに物腰柔らかなのだろうかと……。
咎人に対する接し方ではないだろう。
この柔軟な対応が、かえって不気味に思えて不安が掻き立てられるものだった。否や、元々そういった話し方か──と思うが、初めての乗馬に余裕も無く聞く事は出来なかった。
……土作りの集合民家の犇めく裏側。水路の上に洗濯物が沢山ぶら下がる寂れた道を進み、やがて馬は南の方角へと辿り着く。
王都南部は砂の海に面した寂れた地だった。たとえるのであれば、まさに世の果て。そんな場所に黒の呪術師、蛭の住処がある。
国を結ぶ砂の海に面しているという事もあり、キャラバンは必ず通る道だ。それを散々に奇襲をかけて来たのだからライラはこの場所をよく知っていた。
蛭の屋敷は、見た目だけで言えばカスディール北部にある王宮に負けず劣らずだろう。
規模は小さいが、外観だけ言えば、白亜の宮殿の如し──敷地内には背丈の高いヤシの木にバナナの木、その他シダ植物が青々と茂っていた。
幾何学模様が刻まれた石造りの門を抜け、シダ植物のざわめく庭で蛭は馬を留めた。
蛭は慣れた所作で先に馬から降りると、ライラをヒョイと抱え上げる。そうして、丁重に地面に下ろせば「移動お疲れ」なんて依然として柔軟な調子で笑った。
「厩舎に馬を入れるけど、縛り付けた女の子の縄を引いて歩くのも正直なぁ……」
ライラを見下ろして、蛭が唸って直ぐ。彼が取った行動にライラはたちまち目を丸く開いた。
指を絡めてぎゅっと手を繋がれたのだ。
「これでいいか、別に良いよね?」
同意を求められるが、吃驚して返事なんて出来なかった。
無言のままを同意と受け取ったのだろう。彼は、直ぐに顔を背けて厩舎に馬を預ける。
それが終えると「屋敷の中に案内するよ」と、そのままライラの手を引いて玄関へ向かった。
──玄関ポーチを支える白々とした柱に巻き付く蔓性の植物は、淡い黄色の花が綻んでいた。色取り取りの玻璃を幾つも並べて同じ模様を形成するモザイク硝子が嵌め込まれた正面扉は、陽光が反射し厳かな雰囲気さえ感じてしまった。
目が眩む程に明るい壁は、とてもではなく黒の呪術師が住む屋敷とは思えない。ライラは、目を丸くして息を飲む。
もっと仰々しいものだと思っていた──遠目にしかこの佇まいを見た事はなかったのだ。これでは、ただの金持ちの屋敷と変わらないようで。想像と違う……そんな風に思った矢先だった。
「開け」
蛭はぽつりと詠唱した。すると、瞬く間に硬く閉ざされた扉は緩やかに開く。
何が起きたのか──手も使わずに言葉だけで開いたのだ。神秘の才を扱う者だと分かってはいるが、目の当たりにするのは初めてだ。
吃驚してライラは蛭を見上げる。
その視線に直ぐに気付いたのだろう。彼は、薄い唇に弧を描いて笑むと「さ。入って」と繋いだ手を離して、ライラと背をやんわりと押した。
玄関直ぐの真っ黒のベール。それをくぐり抜けてようやく……ここが黒の呪術師の屋敷だとライラは改めて実感した。
──鼻腔をつく匂いは沈香や白檀の香り。
黒を基調とした空間の天井には幾つもモザイク硝子のペンダントランプやぶら下がっており、壁はびっしりとゼリージュ模様のタイルが貼られている。
だが、そこらじゅうに”乾燥させた草”や”得体の知れぬ小動物のミイラ”が吊されている様は不気味としか形容出来ぬもので、まるで絵に描いた呪術師の住処そのものだった。
この物腰柔らかな口調と突飛も無い行動の所為で薄れていたものだが、自分はこの男に粛正権を買われたのだ。きっと、自分もああなってしまうのだろうか──と、吊されたミイラを横目に見ながら、ライラは生唾を飲み込んだ。
背筋には嫌な緊張が走った。
どうか、なるべく痛々しい殺し方や苦しみ続けるような惨い殺し方はしないで欲しい……と、そんな事をライラが祈る最中だった。
「あーえっと、蟷螂ちゃんだよね?」
低く平らな声に呼ばれて、ライラは目を丸く開いた。
敬称付け……そんな呼ばれ方は初めてだ。
益々意味が分からない! と、目を白黒させたライラは、眉をヒクつかせて無言のまま蛭を見上げた。
「一応ここは居間だから。察する通り、男の一人暮らしで、こんな仕事してるもんだから、ちょっとばかし散らかっててね……とりあえずソファとかで適当に寛いでていいよ」
部屋の隅におかれたソファを指して、蛭はライラを見下ろして言う。
適当に寛いでて……これでは、まるで客人に対する対応だろう。
自分と彼は、咎人と粛正権を買った者という立場ではないだろうか。
ライラは頭の中で一つ一つを改めて整理した。
「あ、あのさぁ……」
ライラは眉間を揉みながら蛭に視線をやる。
「あ、やっと喋った。可愛い声だね」
ヒヒと、決して品の良いと言えない笑い声を含ませて、彼は言う。
長い前髪で目を覆っているのだから、果たしてどんな顔をしているかも分からないが、となく唇だけ見れば嬉しそうという事が分かる。その上、若干、鼻の下が伸びているのは気の所為だろうか……そんな事を思って、ライラは眉を更にヒクつかせて唇を歪めた。
「あんた、私の粛正権買ったんだよね?」
「そうだよ?」
それがどうした? と言わんばかりに、彼はさっぱりとした口調で切り返す。
「あんた、私を殺さないのか?」
ライラが単刀直入に訊くと蛭は小首を傾げた。
「まぁそうだね。確かに、俺は君を好きにする権限を保有した事になるけど。俺もなんだかんだで仕事が忙しいからね。この後と仕事が入っててね。出掛けないといけないし……それについては保留、また後で」
──だから好きに寛いでていいよ~なんて間延びした答えを添え告げて。彼はライラを拘束する縄を易々と解いてしまった。
「あんたさ、私が盗賊だって知ってるよな? その……馬鹿なの? 縄を解いたら逃げられるでしょうが」
この男は阿呆だろうか……。
ライラはじっとりと紫の瞳を細める。すると、彼は自分の頤に手を当てて、一つ唸った後、ライラを見下ろした。
「ええと……縛り付けられるような趣向が好み? 君、痛そうな事されるの好きなの? 確かに、北の大陸の人間みたいに肌も白いから、赤い縄が食い込む様とか……とてつもなく厭らしいそうで最高だと思うけどもさ。うん……絶対眼福だろうけど」
変わらず穏やかな口調だった。
だが、蛭はとんでもない事を言い放っただろう。ライラのポカンと口を開くが、たちまち目を白黒とさせた。
……ああ、これは真性の阿呆だろう。と、理解出来るが、同時に性的対象としても見られていたのだと分かる。
理解した途端に羞恥が込み上げるもので、ライラの頬はみるみるうちに赤々と染まった。
「ふざけるな、この変態っ!」
瞳を釣り上げてライラは怒鳴る。対峙した蛭は背を振るわせて一瞬怯んだ。
その隙にライラは、踵を返して玄関の方を向いた。
再び捕まって、更に罪が重くなり大衆の面前で処刑される惨い終わり方になろうが、今逃げられるなら逃げた方が利口だろう。
ライラは今まさに動きだそうとした須臾だった──たちまち脚に何かが纏わり付いたのだ。
足の自由が奪われたと同時、彼女はカーペットの上に縺れるように崩れ落ちた。
今の一瞬で何が起きたかなんて理解出来やしなかった。
出所時に足枷は外されて、今は縄だって解かれたのだから自由の筈だ。
(いったい何が……)
顔をしかめたライラは、自分の足下に視線を映したと同時──絶句した。
視線の先、牙を剥き出した二匹の毒蛇──コブラがライラの脚に絡みついていたのだ。
それはウネウネと蠢き、大きな口を開けてライラを睨み据えて威嚇する。
「ひっ……」
コブラは砂漠の民が唯一恐れる生き物だ。その毒はかなり猛烈なもので、噛まれれば最悪死に至る。
しかし、今の一瞬でどうやって沸くように出てきたのだろう。まさか、ペットとして屋敷の中に野放しにして飼っていると推測も出来る。何せ黒の呪術師、蛭だ。そんな異質なペットが居たっておかしくないだろう。
ヘタリと座ったままのライラは、彼を見上げて睨み据えた。
すると、直ぐさま彼はライラの隣にしゃがみ込みヘコリと頭を垂れる。
「あの……ごめん。流石に今のは、びっくりしただろうし痛かったよね」
──そもそも加減しないこいつらが悪い。と、言い添えて。彼は、ライラの足に巻き付くコブラを手掴みで引き離した。
猛毒を持つ蛇を手掴みした事も驚嘆してしまったが、逃げようとしても尚、彼が対応を変えぬ事がただただ不思議に思えてしまった。
「どうして……」
率直に訊こうとするが、その先は言葉が詰まって出てこない。
対して彼は首を傾げた後に、宥めるようにライラの背を優しく撫でた。
「ねぇ、妖霊って分かる?」
蛭の切り出した言葉に、ライラは一拍置いて頷いた。
──妖霊。
それば、砂漠を跨ぐ数国で信心される恐れられた存在だ。無論それはこの国で生まれ育ったライラもよく知っていた。
妖霊とは──廃墟や墓地、排水溝やゴミ捨て場等、主に暗がりを好む精霊の一種だ。普段は人の目に付く事なんてまず無いが、人や動物に化けて姿を現すそうで、凶兆の存在と言われている。
突拍子も無い不慮の事故や、伝染病が蔓延する等……定義も出来ない悪い事象があれば、だいたいは妖霊の所為だと言われている。
善良なものと悪しきもの。二種が居ると言われているが、実際には分からない。
そもそも、神同様に信心される存在であろうが、本当に存在するかも分からないのだから。いくら信じられているとは言え、実際に目の当たりにした事がある者なんて、まずそうそう居ないに違いない。
ライラはコブラと戯れる蛭を見上げて眉根を寄せた。
「その妖霊がどうかしたの……」
「そう。こいつらは俺の使役してる妖霊だよ。他にも未だいっぱいいるけど今は皆、君を警戒して身を潜めてるね」
言って、彼が周囲を見渡した途端だった。
姿こそ見せないが、黒い影が蠢き棚の裏やソファの下に移動したのである。
確かに……普通であれば蛇遣いでもコブラを手掴みするなど躊躇うだろう。だが、彼は慣れた様子だった。二匹の蛇は大人しく彼の腕を伝い、まるで襟巻きのように彼の首へと絡みつき始めたのだ。
「こいつらは屋敷の警備をしてくれてるの。事前に『女の子を連れてくるから逃がすな』って頼んでるの。だから、その言いつけを守っただけ。それを君も伝えなかったから、ちょっと申し訳無い事しちゃったけど、大目に見て許してやって」
二匹のコブラの顎を撫でながら、彼はふふと笑んで詫びた。
──不可思議な事はこの世には沢山溢れている。それは理解出来るが、実際に目の当たりにすると、動揺せずにはいられなかった。
そんなライラに見かねたのだろう。
蛭は未だ床の上で呆然と座るライラの前にしゃがみこみ、彼女の唇に無骨で長い指を突き立てた。
「でもね、こいつらには必要以上に君に触れるなとは言ってあるよ。……君に少しばかりの害をなすのは俺だけで充分ってね」
低く平らな声色ではあるが、先程とは違い、真剣な物言いだった。
どことなくその言葉にも重みや威厳があった。害をなすのは俺だけで充分──と、その一言で、呪いが解けるようにライラは放心から覚めた。
「あんたの態度があまりに、咎人に対するようなものじゃないから不安しかなかったけどそれを聞いて少し安心したよ」
「ん? どういう事?」
蛭は小首を傾げてライラに問う。
「あんたの接し方、まるで客人の令嬢でも扱うようなもんだからね」
キッパリと言ってやれば、蛭はたちまち肩を震わせて低い笑い声を溢した。
「いや、君は女の子に変わりないだろう? 確かに屈強なる女盗賊「蟷螂」であれ、その本質は変わらない。だから丁重に扱わせて貰っただけ」
「確かにあんたの言う通り、私は「繭」の女盗賊「蟷螂」だ。だからこそ、そんな気遣いは要らんものだよ。こっちは、数日酷く汚くて臭い暗い空間に居たもんだ。どうせ殺すならさっさとやって欲しいくらいだけど……」
ジトリと蛭を睨み据えて、尤もな事を言ってやる。だが、彼はやれやれと首を横に振るい一つ息を落とした。
「君、結構せっかちな性質なんだね。さっきも言ったけど俺も忙しいの。……少し気長に待っててよ。仕事から帰ったら、ちゃんと君にどうやって罰を受けて貰うかくらい説明するからさ」
困却したかのような口ぶりで言って、彼はライラの蜂蜜色の髪をぽんぽんと撫でた。
『女の子にこんな事を言うのどうかと思うけど……君、とんでもない死臭がこびり付いてるから湯殿使っておいでよ。召し物は適当に用意してあるからさ』
聞けば妖霊が案内してくれるだろう──と、言い残して。蛭はその後直ぐ、仕事に出かけてしまった。
確かに、あの悪臭の中で三日も過ごしていたのだ。彼が言う事も一理あるだろうと、ライラは湯殿に向かう事にした。
──誰も居ない静謐に包まれた部屋の中『湯殿の場所まで行きたい、案内しろ』と言えば、先程絡まれたコブラが煙のように突如として現れた。
姿を現すや否や、コブラは『着いてこい』と言わんばかりに先導し、案内が済めば再び煙のように消えてしまった。
怪しい雰囲気満載の屋敷内ではあるが、湯殿に関しては、外観同様に絵に描くような金持ちの浴室そのものだった。
──雪白の大理石を敷き詰めた床に湯船。湯口と言えば、口を大きく開いた獅子の彫刻。何を支えてるのかも分からない飾り柱が幾らかあり、湯には橙色の花がふわふわと漂っていた。空間いっぱいに漂う香りは、嗅いだことも無い程に甘美なもので──ライラは目眩さえ覚えそうになった。
身体と髪を洗って湯に浸かり……落ち着きやしないこの空間から逃げ出すようにライラはさっさと湯から上がった。その様はまるで、鳥の行水のように。
用意された召し物は白地に黄金の幾何学模様と繊細な刺繍がふんだんにあしらわれた、これまた高値がつきそうなドレスだった。おまけに下着まで……それも上質な絹製。可愛らしいレースを幾段もあしらっていたものだだからこそ、ライラは眉根をヒクつかせて口を拉げた。
下着もそうだが、こんな華美なドレスは娼館に居た幼少期でも着たことは無い。
目を細めたライラは、元々着ていた服を着ようとする。だが、手に持っただけでよく分かる──湯浴みするまでは分からなかったが、吐き気さえ催しそうな程のとんでも無い異臭が立ちこめているのだ。
彼はその臭いを”死臭”と言ったが、鼻の曲がるような悪臭を纏っていたにも関わらず、顔色一つも変えずに接していた事に寧ろ驚いた。否や、あの長い前髪で顔が半分覆われているのだから、本当はどんな表情をしていたかなんて分からないが……それでも、あまりに穏やかだった。
……流石は、忌まれた黒の呪術師だからだろうか。
そんな思考をちらつかせながら、置かれていた籠にそれら衣類を放り投げて。彼女は渋々と用意された下着を着け、華美なドレスに袖を通した。
そうして着替えを済ませたライラは、即座に踵を返して元の不気味な部屋へ戻った。
適当に座っていても良いだろうか──好きに寛いでいて良いと言われたのだ。
得体の知れぬ小動物のミイラが視界に入れば、寛げる気なんてちっとも起きやしないが……それでも、ライラは部屋の隅に設置されたソファに腰を降ろし、膝を抱えた。
落ち着かないとは言え、久しぶりの湯浴みで気分が少しだけ凪いだ所為だろうか。それとも、収容されてからろくに眠れなかった事もあるだろうか。瞼は次第に重たくなり、ライラはその場で眠りに落ちた。
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