散華記

水城真以

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天狗攫い

五、

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 鼻をすすりながら廊下を歩いていると、
「おい」
 と偉そうに声をかけられた。振り返ると、槍を担いだ乱丸が立っていた。
 赤くなった目と鼻。そして衣が濡れている菊を見、おおよその状況は察したらしい。乱丸は「ふん」と鼻で笑った。
「あれは、気性が荒い――下手したら勝蔵兄上よりもずっと。さぞ苦労することとなるであろうな」
 於菊は慌てて首を振った。
 万里が怒るのは、於菊が至らないせいである。万里を落ち込ませてしまったのももとはといえば於菊が話を振ったせいだし、お茶をこぼしたのだって於菊が粗忽者だからだ。

「あ、あたしは……姫さまのこと、まだあんまり知りませんけど……でも、姫さまは、厭なお方じゃないって、それは、よぅく分かる、から……」

「そうだとよいがな」
 乱丸は眉間に皺を寄せながら於菊を嘲笑した。まだ12歳。元服前の童でありながら、嘲る姿さえも絵になるのだから恨めしくさえある。

(さすが、森家の殿方……)

 乱丸は於菊を一瞥し、通り過ぎて行った。どうやら、万里の部屋に行くらしい。いったん部屋にでも槍を置くなり、家臣に預けるなりすればよいのに――と思ったが、わざわざ呼び止めてまで乱丸と言葉を交わしたいとは思えなかった。


      ◇◆◇


 局に戻り、衣を新しく取り換える。
 ほんの2年前までは――1日1食ありつければ幸せだった。替えの衣が渡されたときは、受け取るという発想がなくて、頭がくらくらした。

『於菊、絶対、死んだらいけないよ』


 声も――鮮明に思い出すことはできなくなった。顔も朧気だ。思い出せるのは、生きろ、と叫んだ言葉だけ。最後に聞いた言葉が於菊を奮い立たせる。
 食べ物にも困らず、少し汚しただけで着替える衣もある。雨風を凌ぐことだってできる。

(生きてさえいられれば、それでいいと思わなきゃ、いけなかったのに……)

 汚れた衣を洗濯場に持っていきながら――万里に渡されたびいどろを拾う。日の光に照らされた玉を、於菊の瞳のようだと言った。
(海……海の向こう……)
 於菊はびいどろを帯の隙間に仕舞うと、今度こそ洗濯場に向かった。早く衣を洗って戻らなければ、また万里に叱られてしまう。


      ◇◆◇


 衣を干し終えて部屋に戻ると、万里の姿は見えなかった。床を拭き終えた須磨が庭に行ったことを教えてくれた。
 廊下に出てみると、乱丸と連れ立って歩く万里が見える。昼は日差しが強いが、日が沈む刻限になると、庭を歩くのにちょうどいい。

 万里が背伸びすると、乱丸がわずかに膝を折った。万里は手を伸ばすと、乱丸の濡れ羽色の髪に白い、夕顔の花を挿した。声を立てて笑う万里とは反対に、乱丸はむっつりと口をへの字に結んだまま、眉間に皺を刻んでいた。

「まるで、雛人形のよう」

 須磨が於菊の隣に寄って来た。於菊は同意しかけ――少し迷ってから、前髪を弄った。

 武家の婚姻に、当人の意志は関わらない。婚姻は当人同士の望みによるものではなく、家同士の結びつきによるものだからだ。特に、正室として迎えられるならなおのこと。
 万里の方は、乱丸との婚儀がまんざらではないようである。むしろ、喜んでいるようにも見えた。しかし、乱丸の方はどうなのだろう。

(姫さまに対しても、あんな態度なのかな……)

 乱丸は髪に刺された夕顔を抜き取ると、万里に突き返した。木に立てかけていた槍を掴み直すと背を向け、走り去って行く。
 万里は肩を竦めながら、菊と須磨のいる縁側に戻って来た。

「若君ったらね、夕顔ではなく朝顔だ、とおっしゃるの」

 万里はおかしい、と目尻に涙を浮かべながら言った。

「朝顔はこの刻限には萎んでしまうし、そもそも形も違うことをお伝えしたら、怒って『部屋に行く!』って」

 ひとしきり笑うと、万里は菊の掌に乗せ、部屋に入って行った。
「お須磨、薄茶を持ってきてくれる? 笑い過ぎて、喉が渇いてしまったわ――」
「はい、ただいまお持ち致します」
 2人のやり取りを聞き流しながら、於菊は夕顔の花に目を落とした。
 まっしろな花は、夜には萎んでしまうだろうが、水を張った桶に浮かべれば綺麗な時が伸びるだろうか。井戸に向かいつつ、於菊は内心、

(姫さまは、三の君のどこがよいのだろう――?)

 と、真剣に首を傾げるのだった。
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