散華記

水城真以

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残り香

九、

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 その晩は――万里と須磨と3人、並んで眠った。茵も敷かず、互いに身を寄せ合っていなければ、不安で押しつぶされそうだった。
 万里は泣きつかれて眠っている。須磨も気を張っていたのか、寝息を立てていた。
 於菊は眠ることができず――そっと障子を開けた。外には見張りがいるかと思ったが、そうでもない。少女たち3人で逃げられるわけがないと踏んでいるのだろうか。単衣の上に衣を羽織って、障子にもたれかかる。
 明日からどうなるのか分からない不安で胸は覆いつくされている。にも拘わらず、夜空は数えきれない星をまとっている。
 いつか、異国を見てみたい、と話したことが遠い昔に感じる。於菊は夜風に撫でられる髪を背中に払いながら、障子を閉めようと手をかけた。

「於菊」

 闇夜にまぎれ、自分の名を呼ぶ声に――於菊は顔を強張らせた。聞こえないふりをして障子を閉じようとしたが、すぐにもう一度名を呼ばれてしまった。於菊は衣を羽織りなおすと、階を降りて声の方角に駆けた。
「於菊、こちらだ」
 声の方角に、裸足のまま近寄る。石が爪の間に入って痛いが、構う余裕はなかった。
 茂みの影に、加藤辰千代が潜んでいた。辰千代は於菊の足元を見ると顔を顰めた。
「せめて草履を履いてから――」
「なんの用ですか」
 つっけんどんな声は、今までで一番固い。
「……左様な顔、しなくてもよかろう」
 辰千代は傷ついた顔をしたが、かわいそう、などとは思いたくなかった。
 於菊は辰千代の顔をじっと見つめた。辰千代は於菊の前に包みを差し出した。
「約束、したから」
「いりません」
 於菊は乾いた口から声を絞り出した。
「加藤さまは――知っていたんでしょう」
 金山の長可を訪ねるついでのように、於菊のことを気遣ってくれた。最初は苦手なひとだった。しかしいつしか――身分を忘れて、憧れに近い気持ちを抱くようになっていた。そして、そんな自分を於菊は恥じた。はじめからそうだった。辰千代は於菊を利用するために近づいたのだ。そして、長可を訪ねたのは――岐阜中将の文を届けるためだった。
 辰千代は知っていた。知っていて、於菊にはなにも教えてくれなかったのだ。
「では、お前は――知っていればなにかできたというのか?」
 辰千代は声を絞り出した。
「知っていれば、お前は姫のためになにかできたとでも?」
「分かりません、そんなの。そんな、先のことなんて――」
「そうだろう。なら、この話は終わりだ」
 於菊は拳を握り締めた。腹がちくちくと痛んだ。
「……加藤さまは、ほかのお侍とは、違うと思っていました。でも――おなじだった。あたしはやっぱり、武士なんて、大嫌い」
 辰千代の顔から、情が消えた。
「そうか」
 於菊を見下ろす辰千代は、これまで向けられた笑顔を塗りつぶすような――薄く氷が張った湖のような目をしていた。
「もう、二度と会うことはあるまい。お前を、我が家で引き取って……お前だけは助けてやろうかと思ったが、やはりやめた。お前のようなのろまと顔を合わせずに済むのだと思うと、気が軽くなる」
 辰千代は包みを於菊の足元に落とした。踵を返したその背が振り返ることはなく、夜に溶け込んでいった。
 於菊は足元に落ちた包みを拾い上げた。城と桃色の菊花が描かれた、朱塗りの鑑であった。
「綺麗」
 雨でもないのに、水滴が落ちた。
「……ほんとうに、綺麗」


『お前を我が家で引き取って、お前だけは助けてやろうかと思った』


 辰千代が取り消してくれてよかった。しゃがみこんで肩を震わせ、嗚咽を必死にかみ殺す。人に見つからないように、万里や須磨が探しにくるよりも先に、早く泣き止まなければならない。蕾が膨らんでいた想いに名をつけないで済んだ――於菊ははじめて、自分を褒めてやった。
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