散華記

水城真以

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残り香

十、

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 万里が長可に呼び出されたのは、蟄居を命じられてから3日ほど経ってからだった。
 須磨が化粧をうっすら施し、於菊が髪を梳いて紅の紐で結う。輝く肌は白粉を塗ると、一層光を放つようだった。香を焚きしめた藤色に紅葉と藤の花の刺繍をほどこした小袖をまとった万里は、意を決したように唇をきつく引き結んでいた。
「姫さま、唇を噛みすぎませんように。紅が落ちてしまいます」
「……行ってくるわ」
 須磨と於菊の手を握り返しながらも、万里は2人がついてくることを許さなかった。各務元正についていきながら、万里は――泣きそうな顔で部屋を出て行った。

(お願い……姫さまを、守ってください)

 於菊は胸の前で手を重ねた。神仏などもってのほかだと思っていたのに、於菊には祈る以外に万里のためにできる手立てはない。
 締め切られなかった障子の隙間から、雨の音が響いている。湿った土と世話がしてやれないせいで腐りはじめた花の根のにおいが於菊の鼻につんと染み渡った。


      ◇◆◇


 はじめて出会ったときのことは、よく覚えていない。物心ついたときには、森勝蔵という男は、万里の目に映っていた。出会った当時はまだこの男は先代の次男坊で、嫡男ですらなかった。家督とは関わりのない立場にいた。まさか先代と嫡男が相次いで戦で命を落とし、勝蔵が12歳で元服して長可と名乗り森家の当主となるだなんて、思いも寄らなかった。ましてや、形だけとはいえども、父と娘になるなどとも。
 長可の茶室に呼ばれた万里は、鼓動が激しさを増していることに気づかぬふりをしながら、茶筅の音に耳を傾けていた。

 茶室の外では、雨が激しさを増していた。

 湯の湧く音と炭が爆ぜる音が混じる。やけに居室の音が大きく聞こえる。花色の茶碗を見ながら、小袖を完成させられなかったことが悔やまれた。
 長可が懐から紙の束を取り出した。
「安土に行った弟どもからじゃ」
 長可は万里に見せることなく、懐に仕舞った。
「お前を殺さんでくれと、やかましくて構わん。特に、乱がな」
 万里が息を呑むと、長可は鼻を鳴らした。
「お前が絡むと、乱は人が変わる。吉と出るか凶と出るかは賭けであったが、上さまにお預けしてよかったと。今は心からそう思う」
 長可は万里の前に出した花色の茶碗を指さした。
「飲まぬのか」
「…………」
「安心せい。毒など入っておらん」
 長可は茶碗を取り上げると、半分ほど飲み干した。ごくり、と城主の喉が揺れる。茶碗の淵越しに――鋭い眼が光を放っている。
「毒では、いささかあっけない。――こうしてお前を呼び寄せたのは、話があったゆえ。殺すためではない」
「……殿が、茶の湯で人を殺めるなどとは思いません」
 差し出された茶碗を受け取り、回す。残った茶を一気に飲み干した。
「茶の湯で人を殺めよと、かのせん宗易そうえきどのは教えられるのですか?」
 長可は万里から茶碗を受け取ると、背中に隠すように置いた。湯が釜のなかで爆ぜる。

「お前の父と母は死んだ」

 長可は慣れた口調で言い放った。

「儂が殺せと命じた。松野屋は潰した。お前の母は、首をはねた。父のほうは、まだ生きているやもしれぬが……そろそろ死ぬだろうな」
 長可は目を伏せた。琥珀のような透き通った瞳が乱丸とよく似ている――なにを考えているか分からない顔も。

「お前も殺す。方法は決めておらぬが――なるべく苦しんでもらう」
「……女子も例外はないのですね」
「帰す家もない。生き延びてなんの役に立つ?」
「……なるほど」
 最初から分かっていた。ただ、城に預けられたわけではなく、乱丸の妻になれと言われていたわけでもなかった。

 ”人質”

 嘉之助が――松野屋が裏切ることなく、森家の役に立つという誓いの証。嘉之助が役に立たず、松野屋がもうないなら、証など必要ない。そして、長可はとうとう認めないでいてくれたが――少年たちの人攫いの件、昨年の茜の件も、松野屋が少なからず関わっているはずだった。
 長可はまだ若く、軽んじる者もいる。敢えて慈悲を捨てることで、身内相手でも容赦しない例になり、城主の権力を世に広く認めさせることもできる。先の世を知る民にも思い知らせることができる。そして金山の商人たちも、ただの若き城主ではないということが分かるはず。
「……殿、お願いがございます」
「なんじゃ。殺さないでくれという願いは、聞かぬ」
「――お須磨と於菊だけは、助けてくださいませんか?」
 長可から宣告されることは粗方予想ができていた。だから呼び出されたときに決めていた。2人の侍女だけは助命してもらおうと。
 長可は深く溜息を吐いた。
「お万里、お前をこの場に呼び寄せたのは、問答をするためではない。ましてや願いを叶えてやるほど、身内でなくなった者に慈悲を見せてやると思うか」
「……なんの罪もないあの子たちを巻き込むと仰せですか」
「その者に罪があるかは関わりない。罪ある者と縁を持ったことに関わりがある。――そういう世だと受け入れよ。恨みは地獄の淵で聞いてやるゆえ待っておれ」
 地獄の淵に――長可はいずれ来るだろう。そして万里もきっと、恩も忘れ、目の前の男を憎いと思っている――いずれ地獄の淵で再会することとなるのかもしれない。自分はそれでいい。しかし、於菊と須磨を巻き込むことだけは口惜しい。そして――懐に忍ばせた松の模様のにおい袋を置き去りにできないことがなによりももどかしい。痛む頭を回しながら、万里は茶室を追われるように後にした。
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