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残り香
十一、
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笛の音色と酔っぱらいの喧騒。中心では各務元正が舞を披露し、野次を飛ばされている。珍しく長可も酔っているのか、笑いながら重臣の宴会芸を見ていた。
銚子を向けると、信長が盃を差し出した。盃にあまったるい液体を並々と受けながら、信長は万里を見ずに笑みを零した。
「先ほどの申し出、覚えておいてやろう。――そなたが儂の役に立つというのなら」
万里は声を出すことなく、うつむくように目線を下げた。
広間の真ん中では、ますます調子づいた各務元正がもう舞だか暴れているんだか分からない動きをしている。大して珍しくもない奇怪な動きに飽きた万里は、宴席を後にした。元正が寂しそうにこちらを見たが、万里は構わず辞することを伝える。
「――まだ寝るなよ」
信長が棒読み口調で言った。
「部屋の前に、花を一輪貸しておるゆえ」
お言葉をありがたく頂戴し、万里は部屋を出た。元正の視線が鬱陶しかったが、最後まで無視を貫いた。
宴席を辞し、廊下を歩く。須磨はまだ宴席の方にいるらしく、於菊も辰千代の看病のために傍を離れているようだった。
部屋の前に行くと――誰かが縁側で、柱にもたれかかって座っている。鼓動が速さを増した。膝が震えそうになるのを堪えながら、万里は隣に座した。
「風邪を引くぞ」
最後に別れたときと――あまり変わらない。相変わらずひとの手によって作られたのかと思うほど、繊細な顔立ちだった。
「宴席で、お酒をいただいたから平気よ。若君こそ、上さまのお傍を離れていいの?」
「お許しはいただいておる。それに、兄上の目の前で襲いかかるほど馬鹿な刺客はいないだろう」
万里は藤の木を見た。春に植えた藤は既に花を落としているが、梅雨の前には香を焚かずとも部屋が甘いにおいに包まれていた。次の年にも、また香りを届けてくれることだろう。
万里は乱丸をなるべく意識しないように気を配りながら、いったん部屋に戻った。抽斗に仕舞いこんでいた箱を手に縁側に戻ると、乱丸が花をひくつかせた。
「ほんとうは、若君が城に上がるまえに差し上げたかったのだけど――間に合わなくて」
箱を開けると、なかから松の模様を刺した巾着現れた。乱丸の許嫁となってから刺繍を覚えた。気に入った模様を探っている間に、1年も経っていた。
「知っている? 香りには、身を守る力があるのよ」
「まじないなぞ興味はない」
「そんなこと言わないの」
万里は乱丸の肩を叩いた。掌が熱くなり、すぐに離した。
「知っていて損になることはないのよ、乱丸どの。爪のひとかけらだって、呪詛に使われることもあるの。それに、なにも信じないより、信じられるものがひとつくらいあったほうが、世の中楽しくなるんじゃない? ひとでも金でも神仏でも」
乱丸の首に、松の絵の巾着をかける。掌に乗る、小さな袋はにおい袋である。万里が愛用している藤の模様の袋と同じ香を調合していた。
乱丸はしばらく松の袋を見つめていたが、不意に袋を首から外すと、万里の掌に乗せた。
「この袋は、そなたが持っていてくれまいか。その代わりに、そっちをくれ」
指差したのは、万里の胸で揺れている、藤の模様の袋である。
「……藤は女子のものよ?」
平安の頃より、松は男の象徴、藤は女の象徴、と言われている。悩んだ挙句、だからそれぞれの袋をそういう模様に決めたのだった。
「そちらがいい。そちらでなければ厭だ」
乱丸が駄々を捏ねるので、渋々万里は首にかけていた袋と交換してやった。
「礼というわけではないぞ」
乱丸は懐から布に包まれた櫛を取り出した。藤の模様が彫られた、つげの櫛であった。
「……あまり無茶なことはするなよ」
乱丸の顔を見ると、強張った顔をしていた。昼間の――於菊を助けに行ったときのことを言っているのだと分かった。
「お前は昔から、考えなしなところがある。阿呆なわけではないのだから、もう少し落ち着いてほしい」
「……だって、於菊が危ないと思ったんだもの」
「それでも、だ。これまでは運がよかったんだ。俺が傍にいられない以上、聞き分けろ」
許婚相手にかける言葉だというのに、乱丸の言葉はからくりのようで、温もりどころか無関心さえ感じられない。うなずくと、ならいい、と言ったきり微笑みもしなかった。
「そろそろ戻らねばならぬ」
乱丸は万里の傍から離れた。
「先ほどの約束、ゆめゆめ忘れるでないぞ。代わりに、俺の手が届くなら――お前のこと、守り抜いてみせる」
離れる小さな背中を見ながら、万里は乱丸に自分ではない、別の誰かのにおいが混じっていることに気づいた。取りかえた松のにおい袋に、薄桃色の爪の先が食い込んだ。
***
濡れた髪に驚いて瞼を開ける。両隣に寝ている於菊と須磨を起こさないように気をつけながら褥を抜け出した。
障子越しの月夜に掌をかかげる。薄ぼんやりと浮かび上がる、松の模様。香を合わせていないせいで、今では色あせたただの巾着でしかない。二度と、におい袋に戻ることもない、ただの骸のようなものだ。
『お前のこと、守り抜いてみせる』
手が届くなら――と言ったところで、手が届くほど近くにいてくれたことがそもそもどのくらいあったのだろう。ともに暮らしていたときでさえ、万里は乱丸を近くに感じたことなどほとんどなかった。香りが切れたにおい袋のように、2人の縁もとうとう途絶えた。
(それでもいい。それで、いい)
頬が濡れた。袖で拭う。褥では於菊が寝返りを打っていた。肩から落ちた夜着をかけ直してやりながら、万里は胡乱な目で松の模様を見た。
あとどのくらい、万里は生きることができるのだろう。せめて於菊と須磨だけは苦しまないようにしてほしいと願った。万里にできるのは侍女たちが苦しまぬようにと願うこと、最期に取り乱さないで済むように心の整理をつけておくことしかなかった。
猫の声が聞こえる。寒花がまた部屋から抜け出していたらしい。障子をわずかに開けてやると、寒花が滑り込んできた。
そして。
もうひとつ足音が聞こえる。忍びかと思うほど小さく、万里でなければ聞き逃してしまうような足音。にも拘わらず、息を切らして肩を揺らしている。
「……どう」
して、と続く言葉はなかった。万里の口が押えつけられ、腕を勢いよく掴まれた。
「動くな、しゃべるな、暴れるな」
よいな、と念を押す声は万里の気持ちを確かめるためのものではない。抗うこともできずに、万里は頭からかけられた衣に身を隠しながら屋敷を抜け出し――以前乱丸に教えてもらった抜け道を裸足で歩いていた。
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