一夜酒のひとしづく

水城真以

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 十年以上ご無沙汰していた故郷は、随分景色が変わっている。茶屋や旅籠が増え、子ども達も元気に走り回っている。子どもの手にある風車の羽が回るのを目にしながら、朝太郎は宿へ足を向けた。
 十年――流れるように色々なことがあった。
 最後の将軍・徳川慶喜により、大政奉還が成されたこと。二百余年に渡り君臨してきた幕府が倒されたこと。新たに「明治」という世が生まれ、二年目を刻んでいること。
 そして――その倒幕の中心には、長州藩が大きく関わっているということ。
(松陰先生は、今の世を見たらどう思われるのだろう)
 吉田松陰は、明治という世を見ることなく、「安政の大獄」により刑死した。
 朝太郎が長州に帰還したのは、新たな藩主が家督を相続する祝いのためであった。本当なら山口の侍屋敷に泊まればよいのだが、どうしても今回は萩に来たかった。松陰の墓前に手を合わせたかった。
 別れの挨拶すらろくにしなかった、弟子と呼ぶには短すぎるほど浅い付き合いだった。松陰は朝太郎のことなど、いまわの際に思い出すことさえなかっただろう。朝太郎自身、日々の務めや暮らしを淡々と処理していくだけだった。萩での暮らしは思い出すことを避けていた。特に、松下村塾周りのことは。

 松陰の墓は、松陰が生まれた場所――団子岩と呼ばれる小高い風光明媚な場所にある。

 幕府の目を盗み、門人であった高杉晋作や久坂玄瑞らが遺骨を奪い返し、墓を設立したのだという。
 丘を登り終えた朝太郎は、己の体力のなさを実感した。二十歳の頃から剣の稽古は欠かしていないが、十余年も経てば、年齢による衰えはある。
 松陰の墓前に立ち寄ったのははじめてだというのに――朝太郎は気づくと頬が濡れていることに気づいた。
「……先生」
 墓には「松陰二十一回孟子墓」、裏には「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれている。
「ご挨拶もなく、突然関係を断ったこと――申し訳ございませんでした」
 膝を突き、墓標に向かって深々と頭を下げる。墓は、物を言わない。許すとも、許さないとも。それでも朝太郎は詫びることしかできなかった。
「どなたですか?」
 朝太郎は、びくりと肩を震わせた。思い出さないようにしていただけで、忘れたことなど一日たりともなかったことを自覚する。
「我が兄の墓に、何の御用ですか」
 女人は、訝しげな顔で朝太郎にもう一度呼びかける。朝太郎が振り向くか悩んでいると、もう二人分、足音が増えた。
 一つは子どものような小さな足音、もう一つは大人の足音だった。
「母上、勝手におひとりで行ってはなりませんと申しましたのに――!」
 咎めたてる青年の声に、女人は「だって」と拗ねたような声を出した。
「だって、粂次郎くめじろう。寅兄のお墓に人がいるように見えたから」
「だとしても、です。仮にも母上は女人なのですから。ここは私にお任せを」
 母上、という呼称に朝太郎は固まった。当然だ。朝太郎が十年ぶん年を取れば、も十年ぶん年を取る。離れている間に、彼女が母になっていてもおかしいことはない。そもそも朝太郎が先に彼女の手を振りほどいたのだから。
「……ご無沙汰、しております、文さん」
 朝太郎が立ち上がると、女人が大きな瞳をゆっくりと見開いた。
「……お久しゅうございます、月岡さま」
 文と呼ぶと、女人は硬い声で返した。
 文の足元では、五つか六つくらいの幼児が、「ははうえ、このひとだれ?」と、首を傾げていた。愛らしい顔立ちには、萩で最後に会った男の面影があった。

***

 文は杉家の邸宅から一刻ほど歩いた場所に暮らしているという。農村のはずれで、畑を耕しながら細々と暮らしているようだった。
 玄関を上がると、童は慌ただしく草履を脱いだ。その後ろを粂次郎が慌ただしく追い駆ける。
ひで! 手を洗ってからにしなさい!」
「やー! おやつー!」
「だ・め・だ! ほら、こっちにおいで」
 粂次郎は童を抱きかかえると、井戸に向かう。朝太郎は目元を綻ばせながら、二人のやり取りを見た。粂次郎には、松陰の面影をどことなく感じさせた。
「今、塾のほうは」
「叔父が再開させています。以前いた塾生も何名かいらっしゃって」
 文は火鉢の上で沸かした薬缶の湯を注ぎ、熱い茶を淹れてくれた。
「塾生の方は、今もこちらに?」
「ええ。やはり、松下村塾出身の方というのは特別らしいですから。かつらさま――いえ、今は木戸きどさまでしたね。木戸さま達も、お忙しい合間を縫って、寅兄の墓参りには来てくださいます」
 ことん、と湯呑が音を立てておかれた。まっすぐに、朝太郎を見据える瞳は静かだが怒りに燃えている。まるで、「あなたと違って、皆さんは寅兄を忘れていませんでした」と言っているようだった。朝太郎は湯気が立つ湯呑に手をつけることもできず、目を反らす。
「ははうえー! 手、洗った!」
 幼子が割り込んでくる。文は表情を綻ばせながら、膝に乗ってきた幼児を抱き上げた。
「そう――いい子ね、秀次郎ひでじろう。大福を拵えてあるからお食べなさい。粂、戸棚にあるのを出してあげてくれる?」
「はい、母上。でも――」
 粂次郎と呼ばれた青年は、ちらりと朝太郎を見つめた。どこか警戒したような眼差しをしている。
「大丈夫よ、粂。この方は、月岡朝太郎さま。父上のお知り合いでもありますから」
 粂次郎は文が取りなすと、秀次郎を抱き上げながら歩いた。
「随分、年の差があるんですね」
 粂次郎は元服してもおかしくはない年頃だ。一方の秀次郎は、まだ五つだという。くりくりとした目が愛らしく、太い手足からして、きっと将来は大柄に育つことだろう。
「久坂の子です」
 文は寂しそうに目を伏せた。
「よく似ているでしょう」
「……そう、ですね」
 朝太郎は胸が突き刺されたような痛みを覚えた。
 朝太郎が江戸を去った後、文が久坂に嫁いだことは噂に聞いていた。もっとも久坂は新婚二か月目にして江戸に行き、その後もほとんど文のもとに帰ることはなかったらしい。久坂は五年前に京で起きた禁門の変で命を落としている。
「御子がおられたとは思いませんでした」
「そうですね――久坂はほとんど、私のところに帰ってくることはありませんでしたから」
 文は冷たい目をした。
「あの子達は、二人とも養子です。粂次郎は姉の子、秀次郎は京から取った養子です」
「え」
 しかし、秀次郎はどう見ても久坂の子だ。色白なところも、大きくなりそうな肢体も、顔立ちも。一目見ただけで、忘れていたはずの久坂を思い出すくらい似ている。
「京の芸妓との間にもうけたそうです。そっくりでしょう、久坂に。先日、藩でも正式に久坂の子として認めていただきました。なので、今は一緒に暮らしています」
 あの子の母君は、既にご結婚されていますから――と、文は口にした。
「……妾の子を引き取ったのですか」
「ええ、そうです。いけませんか?」
 いけないということはない。武家で正妻と妾がともに暮らすことは珍しいことではない。しかし、文という妻がありながら京にまで妾を持っていたという事実に朝太郎は怒り狂いそうになった。久坂なら誠実だろうと信じていただけに、裏切られた気分だった。
 すると、文が冷笑した。
「あなたがおっしゃいますか」
 声が硬く、冷たい。一気に十年前に引き戻される。
「月性さまが亡くなった時だって、弔いのお手紙ひとつ出さなかったくせに」
「そ、れは」
「私のことも――騙して、楽しんでおいでだったのでしょう」
「違う!」
「何が違うと言うんですか」
 文は、膝の上で拳をきつく握り締めた。
「あなたが江戸に行ったと――江戸で妻を迎えられたと聞いて、どれほどみじめな気持ちになったか、お分かりですか。……あなたさまにとっては、ただのお遊びだったかもしれない。けれど私は――」
「違う、本当なんです。俺は今だってあなたのことを」
「馬鹿にしないで!」
 湯呑が倒れた。文の膝が茶で濡れる。手ぬぐいを渡そうとした手を乱暴に振り払われた。
 文の両目が涙で濡れる。その涙の前では、何も言えなかった。
 本当は忘れられた日などなかった、など。
 文は「お帰りください」と言った。
「私は今、やっと穏やかに暮らせているんです。――だから、もう何にも煩わされたくなんてないんです。もう、お願いだから放っておいてください」
 文は居間を飛び出した。別室から「けんかー?」と、能天気な秀次郎の声と一緒に、粂次郎が窘める声が聞こえる。
(……なにを都合のいいことを)
 久坂が文にどう伝えたかは分からない。しかし、文からすれば、朝太郎は自分を捨て、もっと条件のいい縁談を選んだ男に他ならない。文がどれほどみじめな思いを抱え、久坂との婚儀を受け入れ、今に至るのか。そしてその夫にしたって、文を残しながら、他の女との間に子どもを儲けている。
 久坂は思いやりのある男だと思っていた。しかし、妻相手になると、また違うのかもしれない。朝太郎がかつてそうであったように。
 朝太郎は項垂れるように一礼すると、家を後にした。文は姿を現さなかったが、代わりに秀次郎が柱の影から手を振っていた。

***

 朝太郎の帰還を知った父は「家に寄れ」と使いを寄越した。わざわざ屋敷と別に宿を取った理由を察してほしかったが、父にそのような期待をするだけ無駄である。朝太郎は渋々刀を持つと、屋敷に向かった。
「おや」
 門の前にたどり着くと、顔も知らない藩士が近づいてきた。確か以前、父の部下だった――はずだ。
「これはこれは――ご嫡男が戻られたとは。お久しぶりにございます、若様」
「あ、ああ。これはご丁寧に――」
「藩主様が世代交代なされた機に、月岡家も世代交代なされるおつもりで?」
「いえ、そういった話は、まだ……」
「なんだ。てっきり、御父君ももうお年ですし、そうかと思いましたが」
 いい加減に隠居して引っ込め――ということだろう。朝太郎が黙礼して門に手をかけると、相手は「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「しらじらしい態度は、父親そっくりだな!」
 父に似ている――近頃はよくそう言われるようになった。江戸藩邸にいた時も、山口で藩主に挨拶した時も。
昔は、亡くなった母によく似ていると言われていたが、成長とともに父親に似てきたのだろうか。
 父親は家に入ると「おう、戻ったか」と大した興味もなさげに言った。家のなかは、がらんと静まり返っていた。妹達は全員嫁に行っている。夫婦二人きりでは、会話も何もないのだろう。
「嫁のことは残念だったな」
 父は素っ気なく言った。
「まあ、さっさと次を探せ。今度はもっと若くて子の産める女にしておけ」
「……またその話ですか」
「当たり前だ。嫁して三年子なきは去れというだろう」
「……今日、義母上は」
「さあな。どうせ奥に引っ込んで反物でも買っているんだろう」
「相変わらずなのですね」
 子育てが一段落した継母は、今は着物や帯で自身を飾り立てることに勤しんでいるらしい。仮にも嫡男の帰還に対してそれかと思うが、一度も朝太郎に母と呼ばせなかった女だ。朝太郎も、わざわざ会いたいとは思わなかった。
 父は酒を煽った。隣にいる若い女中に酌をさせる姿は浅ましい。こんな男に似ているのかと思うと反吐が出る。朝太郎も盃に口をつけながら、甘ったるさに顔を顰めた。父はいかに今飲んでいる酒が高価なものなのか高説を垂れているが、朝太郎に酒は分からない。付き合いで多少嗜んだことはあるものの、美味しいと思えた試しがないのだ。
 ――朝太郎がうまいと感じたのは、あの日飲んだ甘酒だけだ。
「そういえば昔、お前に言い寄っていた小娘がいただろう」
 父の言葉に、朝太郎は手を止めた。もう娘というほどの年ではないが、と言いながら、口角を釣り上げている。
「松陰殿の妹御だ」
「……松陰殿?」
「お前、確か松陰殿の塾に出入りしていたろう。その時、松陰殿の妹を妻にしたいと言っておったではないか」
「……昔のことです」
 そう――過ぎたことだ。朝太郎は父から文を守るだけの技量はなく、彼女を傷つけた。
 今、胸が痛んでいるのは、きっと文が受けてきた心の痛みだ。
「いやいや、お前の再婚相手にどうかと思うてな」
「……は?」
 なにを今さら、と思った。あの時、罪人の妹なぞ許さないと、朝太郎の片目を潰したのは、ほかならぬ父であった。そして気づく。
 かつて松陰は、幕府に仇を成そうとする大罪人であった。しかし、明治維新が成し遂げられた今、松陰は英雄達を指導した誉れ高き存在として、神のごとき扱われ方をしている。
「松陰殿が偉業を成し遂げると分かっていたら、お前の妻にあの娘を迎えたというのに。松陰殿の妹御はな、一度は嫁した身だがその夫もあの久坂玄瑞。しかも夫亡き後は、お世継ぎの傅役も務めた才女ではないか。まあ、いささか年は食っているから子は難しいだろうが、それは妾に産ませればいい」
「そのようなこと、できるわけがないでしょう」
 朝太郎は思わず声を張り上げた。
「お文さんは、人形ではないのです! こちらの都合であっちへ行ったりこっちへ行ったり……そんなことが許されるわけがない!」
「向こうからすれば、ありがたい話ではないか。大身の奥方になれるのだぞ? 年増の寡婦をもらってやると言っているのに」
「なにが大身だ! くだらん!」
 朝太郎が怒鳴りつけると、父は驚いたように蒼褪めた。父に反抗するのは、文を妻に迎えたいと言った時だけだ。その時だって、ただただ反駁するだけで、怒鳴りつけた試しはなかった。父の拳が振り上げられる。朝太郎は父の腕を掴むとひねり上げた。悲鳴を上げる父に、「なんだ」と、まるで他人事のような呆気なさを覚える。
(こんなに父上は弱かったのか)
「い、痛い! は、離せ‼」
「……父上は、お年を召されましたね」
 朝太郎は思わず呟いた。あの時朝太郎の目を潰すほどの力があった腕は、朝太郎が掴んで指が余るくらい細くなっている。そもそもあの時だって、木刀で強かに殴りつけられただけであって、素手であれば、父はそれほどの強者ではなかったのかもしれない。
 その日――朝太郎ははじめて無抵抗の人間を殴った。どうしてもっと早くこうしなかったのかと、今さらの後悔を覚えた。

***

 酒場は、いつだって賑わっている。時代は明治に移り変わり、人々はどんな場所でも浮かれ気味だ。
 この夜も同様に、商店街の飲兵衛達が訪れ、語らいを楽しんでいる。
 そんな喧騒の中、朝太郎は一人壁際の席で猪口を傾けていた。強い醸造酒を、無理やり喉奥に流し込む。
(まずい)
 もとよりうまいと思ったことはない。付き合いで飲んでいた時でさえそうだったのだ。鼻孔に残る血の臭いを誤魔化すために飲んでいる酒など、ただ胃を執拗に焼くだけの存在だった。
 もっと早く、父を殴りつけていればよかった。
 もっと早く、父に反発していればよかった。
 たった一回殴っただけで、父は朝太郎に土下座し、助けを乞うた。鼻から血を流し、涙や涎を垂れ流す姿は、小汚い老人でしかなかった。そして、親に暴力を振るったことを一切の恥と思わなかった自分にも反吐が出た。なるほど、確かに自分は父親に似ている。恐怖で他人を支配しようとしている姿など、特に。
 朝太郎が新しいちろりを頼んだ時、店の引き戸が開く音がした。
 現れたのは、若い青年だった。目が合うと、朝太郎と青年は同時に「あ」と声を漏らす。
 さらりと流れる黒髪。きらきらと輝く神秘的な眼差し。身に着けた小袖は決して豪華ではないものの、上品な仕立てだ。彼を育てている養母が丹精込めて仕立ててくれたのだろう。背筋はぴんと伸び、育ちの良さを感じさせる。
「お連れ様ですか」
 店員がやって来た。ああ、まあ……と曖昧にうなずくと、青年は朝太郎の前に座らされた。混みあっている店内だ。親しくなくても、顔見知りと知られたら相席になることはままあるものだ。
 猪口に入った燗酒を傾けながら、青年が口を開いた。
 文の養子の、久坂粂次郎――。利発そうな姿は文にも、そして松陰の面影も感じさせる。血のつながった甥だからだろうか。
「月岡さま、とおっしゃいましたね」
「ああ」
「母上のお知り合いなのですか?」
「……ああ」
「そうなのですね」
 会話が一旦落ちる。朝太郎は猪口を傾け、粂次郎はもくもくとお通しの煮豆を突いている。松陰は酒が弱かったが、粂次郎も同じらしい。猪口を三度も重ねれば、耳がほんのり色づき、口数が増えた。
「絶対ぃ、月岡さまってモテたでしょぉ!」
(さ、酒癖が悪い……)
「母上ってぇ、ああ見えて男運ないからぁ。いまだに久坂の父上のこと忘れてないっぽいんですよねぇ」
「……そうか」
 たとえ自分を裏切ったとしても、文は久坂を想っているのか。朝太郎があげた櫛のことなど、とうに忘れているに違いない。
「そうなんですよぉ」
 粂次郎は、バンバンと机を叩いた。行儀が悪い。家にいた時は弟の面倒をよく見る青年だったというのに。
(いや、この青年は、あの時の俺と同じくらいじゃないか)
 朝太郎が江戸に行った時は二十歳。大人に見えて、思ったよりもずっと子どもだった。弟の前では大人として振舞っていたとしても、実際にはまだ彼も子どもなのだ。そして――あの時、萩に残された文への罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。朝太郎に家を捨てるだけの勇気があれば――せめてしっかりと話し合っていれば、文の心に傷をつけることはなかった。文に至っては、今の粂次郎よりも更に若かったというのに。
 自然と猪口が重なっていく。朝太郎が眩暈を覚えていると、粂次郎が「ちょっとぉ、寝ないでくださいよー」と肩を揺さぶってきた。

***

 とんとんとん……

 心地よい音に、ゆっくりと意識が浮上する。干されたばかりで温かい布団の中で身じろぎながら、朝太郎は瞼を持ち上げた。ふわりと、鼻孔をくすぐるいい匂いに体を起こすと、ずきん、と頭が痛んだ。
「痛ぅ……」
 吐き気を堪えながら布団をはぐる。逗留している宿でも、ましてや萩城下にある自宅でもない。
「ここは」
 辺りを見渡すと、みゃぉん、と猫の鳴き声がした。入口のところに、白い猫が歩いていた。白い猫は朝太郎を見ると少し冷たい目をしながら立ち去った。
「失礼致します」
「あ」
 入口のところに、文が座っていた。文は気まずそうに目を反らしながら、深々と頭を垂れた。
「息子がご迷惑をおかけしたようで――申し訳ございませんでした」
「い、いえ……」
 どうやら酒に潰れた朝太郎を連れ帰ってくれたのは粂次郎らしい。家の場所が分からなかったため、自宅に連れて帰ったのだろう。
「す、すぐにお暇します」
「ご無理はなさらず。具合の悪い方を追い出すほど、鬼ではございませんから」
 ちなみに件の粂次郎は既に起き出しており、秀次郎を連れて町へ遊びに行っているという。さすがに若者は、回復力が違う。朝太郎は自分も年を取ったなぁと自覚した。
 ふと、文の視線が一点に注がれていることに気が付いた。朝太郎の拳だ。昨日、父を殴った時に割れた拳は、ひとまず手当だけはしているが、酒を飲んだ影響か、血が滲んでいた。
「少しお待ちください」
 文は一旦部屋から下がると、包帯と薬を持って戻ってきた。文は薬湯を煎じた湯で朝太郎の手を拭うと、その上に軟膏を塗り、包帯を巻き直してくれた。
「ひどいお怪我」
「たいしたことはありません」
 文にしたことを思えば――と続ける勇気はなかった。文が朝太郎を過去の存在にしたいのなら、朝太郎もそうすべきだろう。
「どうか、御身を大切にしてくださいませ。奥方さまも嘆かれます」
「いえ、今、俺は独り身です」
「え?」
「離縁致しました」
 文が瞠目しながら朝太郎を見つめた。
「もう、五年になります」
「……それは、失礼を申しました」
「いえ、いいのです。――私が至らなかったせいです」
 子ができなかったのが表向きの離縁の理由だが――実際には父の命が大きかった。周布家の血筋である妻は、禁門の変で周布が失脚し自刃したため、父は妻を厄介者扱いしていた。江戸にいる朝太郎夫妻の元には毎日のように離縁を催促する手紙が届き、妻のほうから「離縁してください」と泣きながら懇願してきたのだ。
 大切にしているつもりではあった――しかし、離縁したくないと追いすがるほどの好意はなかったかもしれない。
「……久坂のせいですか」
 文の顔が翳った。
「久坂のせいではありません。それに、久坂は明治を作った英雄の一人ではありませんか」
「今でこそ、誰もがそう申します。けれど――久坂が亡くなった直後は、誰もそうは言いませんでした」
 禁門の変で、長州は朝敵で幕府の敵になった。久坂はその戦を指揮していた男だ。妻である文がどれほど形見の狭い思いをしたのか、考えるまでもない。
「それでも――優しい人でした」
 文の声が強張った。
「必ず――必ず帰って来ると――生きて私の元に帰ってくると、約束してくれたのに」
 文の手が震え、太腿に爪が食い込んだ。
「粂次郎を養子にした後、防府ほうふまで会いに行ったことがあります。本当は妻が会いに行く――なんて情けないことをと思いましたが、どうしても会いたくて。粂次郎はともかく私は怒られると思いましたが、あの人は怒りませんでした。流石に陣では会えなかったので、近くの宿でしたけど。あれが、最初で最後の家族三人で過ごした団欒でした」
 語る文の、昔を懐かしむ口調からすれば、その生活に不満はなかったのだろう。
「あの人は、その時話してくれました。あなたが江戸から離れた理由。……私はどうでもよかったから、流しました。だって私の夫は久坂であって、月岡さまではないのですもの。なのにあの人は、私に長い間隠していてすまぬと詫びました……馬鹿な人」
 黙っていればいいのに、己の最期を悟っていた久坂は、文に打ち明けたのだという。
「あなたがいなくなった後、寅兄から、久坂との縁談を持ちかけられました」
 文は朝太郎に受けた傷が癒えておらず、受け入れるか随分と悩んだらしい。そんな文に久坂はある提案をした。
「あの人は言いました。私の気が進まないのなら、自分の方から断る、と。見た目が好みじゃないとか、そんなひどい建前を言っておく、と。そのような暴言を吐く男に嫁がせたい兄はいないから、きっと破談になるだろう、なんて。……そんなことを言ってくれる人だったんです」
 久坂は――妻や子のために生きてくれる人ではなかった。大儀を貫き、国の行く末を見つめる男だった。それでも相手の気持ちを考えてくれる、優しい人だったのだ――と、文は語った。
「武士になどならないでと、言えばよかった」
 文は溜息を吐いた。
「ただの医者坊主でよかった。治すべきは国の病などではなく、目の前にいる、人々の風邪や怪我でよかったのに。……なぜそれを、久坂に言わなかったのかと、ずっと後悔しています。防府でも、武運を祈るなどとしか言えませんでした」
 文は久坂とは防府の宿で別れ、それきりとなった。次に届いたのは久坂の訃報だった。
 文は言葉を区切り、白い息を吐いた。
「防府で、泣いて縋ってでも久坂を止めていれば……大義など、志など、そのようなものはなくてもいいから生きていてくれと――そう言っていれば。どこにいてもいいから、あなたが健やかに生きていてくれるだけで、私は幸せだと――」
 文が声を詰まらせた。嗚咽を堪えるかのように、下唇を噛み締めている。ぱたりぱたりと、手の甲に涙が落ちた。
 朝太郎が流されるままに歩いた十余年は、文にとってはつらく、孤独なものだったのだろう。久坂の遺児を引き取り育てたのは、家のためだけではなかったのだろう。久坂の面影を残す秀次郎は、文にとっては亡き夫の大切な忘れ形見なのだ。
「……すまない」
 君のせいではないとは言えなかった。しかし、責めることなどできるわけがない。
 腕を伸ばし、彼女の皸だらけの掌を包み込む。文はなにも応えない。じっと朝太郎の手を受け入れていた。朝太郎は何度も、小さな掌を優しく撫で続けた。

***

 甘い匂いが漂う。湯呑に入った、乳白色が混じった液体――文が作ってくれた甘酒を向き合って飲む。
「子ども達も好きなんです」
 おそらく子ども達のおやつに用意していたのだろう。奪い取って悪かったな、と思いながら、朝太郎はひと口飲んだ。やはり、朝太郎には、一夜酒でいい。
「随分、気分がよくなりました」
「そうでしょうとも。二日酔いには、甘酒が効くんですよ」
「万能薬、ですものね」
「ええ、そうです」
 文が頬を緩めている。この笑顔が、朝太郎は好きだった。
 ――もちろん、今も。
 開け放された戸からは、畑が見える。土のいい匂いがした。
「ここは――松下村塾に似ていますね」
「そうでしょう。だから、ここにしたんです。結局、久坂がこの家に暮らしたことはありませんでしたけど――ずっと楽しみにしていました。この家で暮らすのを」
「きっと――久坂には、あなたが支えだったのでしょうね」
 妾はいても、久坂は文に多くの手紙を送っていたという。泣き言や悩みを打ち明け、時に自分が歌を詠むのが好きだからお前も読めと押しつけてくることもあった。
 悩みは尽きない、短い人生ではあった。しかし、文と久坂は間違いなく夫婦としてともに歩んできたのだ。
「あの頃、俺にとっての支えは、あなたでした」
 朝太郎は迷いながら、ゆっくりと言葉をこぼした。
「今日、はじめて父を殴りました」
 文は顔色を変えなかったが、動揺しているのは見て取れた。家族を愛し愛された彼女にとって、実父に手をあげるというのは考え難い、未知の領域だったに違いない。
「俺は、父が嫌いでした。私の実家は裕福でしたが、他人を蹴落とし、誰かを不幸にし……そうして成り上がってきた家です。上には媚び、下の者は蔑む、ろくでもない家です。恥を恥とも思わぬ、そういう家でした。俺はそんな風に生きる一族を軽蔑していました。けれど、口ばかりで、そんな一族を嫌いながら、そんな一族に媚びるしかない自分が許せませんでした」
 文となら、新しく生きられるかもしれないと思った。まったく違う生き方ができるのではないかと――人並みの生を歩けるのではないかと。
 けれど、実際には違った。十余年前の自分は父の暴力に屈した。冷静に考えれば、父一人に文がどうにかできるわけはなかったのだ。
「俺は、自分が恥ずかしい」
「……いいえ」
 文は朝太郎の手を取った。
「あの時、私は……何があってもあなたのことを追えばよかった。あなたの本心を知ろうともせず、恨んでしまったこと、申し訳なく思います」
「いいえ。あなたのせいではありません」
「そうです。私のせいではない。……あの頃の私達には、精いっぱいだったのです。だから、もうやめにしましょう。お互いを恨み合うのは」
 文の言葉が、傷ついた体にじんわりと沁みとおる。
「……また、来てもいいですか?」
 朝太郎の言葉に、文は目を見開いた。拒絶されるかと思ったが、返ってきたのは「また甘酒を仕込んでおきますね」だった。

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