思い出乞ひわずらい

水城真以

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十六、

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 生ぬるい風が吹く。秋特有の、天気が荒れる前に吹く風だった。
 肩に担いでいた槍を下ろす。稽古をつけてくれていた可隆も、「今日は終わりにしよう」と草履を脱いだ。下女が持ってきた盥で足を洗いながら、侍女達が雨戸を閉めたり、格子を閉じたりしているのが見えた。
「京も嵐が吹いているのかな」
 何気なく勝蔵が呟くと、「さぁな」と可隆は首を傾げた。
「若ならきっと大丈夫だと思う。御屋形様や、家臣の皆様もおられるし。それより勝蔵、いいからお前も早く足を洗ってしまえ。そのまま縁に上がったら、また母上から怒られるぞ」
 勝蔵は、ざぶざぶと音を立てて足を洗った。透き通っていた水が一気に濁る。裸足で庭に降りていたせいで、指先や爪の間にも泥が入り込んでいた。袴の裾まで土がついている。きっと、洗濯の際に困らせてしまうことだろう。


   ◇◆◇


 勝九郎から聞いたのだが、京に向かった奇妙丸は、一度だけ於泉には文を届けさせたらしい。ちょうど、京に入ったであろう頃であった。
 一緒に聞いていた可成の顔は、若干蒼褪めていた気がしたのは、気のせいではない。
 以前、信長は尾張平定の報告をするため、先将軍さきのしょうぐん足利義輝あしかがよしてるを訪ね、京に上ったことがある。その際、美濃国の斎藤義龍さいとうよしたつが刺客を放ち、信長を暗殺しようとしていたという。
 可成はその旅の一行のひとりであった。今回は留守居であるため、信長になにかあっても、すぐには駆け付けられない。そういったことから、懸念を抱いているのだろう――と思っていた。

   ◇◆◇

「若なら、大丈夫だよな」
 勝蔵はどこか縋る様に、可隆を見上げた。
「父上は一緒じゃねえけど……柴田しばた様や前田まえだ殿がご一緒だし。人の数も、以前御屋形様が上洛された時と変わらないくらいいるだろ?」
 此度の上洛は、義輝の弟・覚慶かくけいを新たな将軍として擁立させるためだ。正式に将軍の地位を継がせるには、あと数年はかかるだろう。しかし、早々と次期将軍の味方についておけば、織田家が天下を手に取るというのは、夢物語ではなくなる――かもしれない。
 秘密裡に奇妙丸を連れて行ったのも、そういった「おとなのじじょう」が絡んでいるらしい。
「そんな場に立ち会えるなんて、すげえや、若」
 勝蔵は、可隆の腕を引っ張った。可隆は振り返らないが、振り払うこともしなかった。
「御屋形様がそれだけ若に期待されてるってことだもんな。一の家臣として、鼻がたけぇや」
 ふと、急に可隆が立ち止まった。勢い余って、勝蔵は可隆にぶつかってしまった。ひりひりと痛む鼻を摩っていると、

「一の家臣、か……」

 と、可隆が呟く。そして、「お前は若のことを、本当にお慕いしているのだな」とも。
「うん!」
 勝蔵は、満面の笑みを浮かべた。
「次は、俺も一緒にお供するんだ。若のこと、傍で護れるように……」
「……そうか」
 可隆が膝を折って、勝蔵と目を合わせた。いつもなら子ども扱いされているその仕草は気に食わない。腹を立てるところであった。しかし、可隆の真っ直ぐな黒鳶色の双眸を見ていると、そんな気持ちが一気に萎えた。
「その言葉、忘れるなよ、勝蔵」
 可隆の言葉に、勝蔵はひたすら頷くことしかできなかった。

「この時世――ただ一人の主と思えるお方と巡り会えるなど、稀なる幸運だ。なにがあっても、若のお傍を離れるな。森家のためではなく、若のために、お前は生きろ」

 勝蔵が深く頷くと、「約束だぞ」と言い、可隆は勝蔵の頭をかき混ぜた。乱れた髪を整えているうちに、可隆は離れてしまう。
(まだ、話聞いてほしかったのに)
 勝蔵は剥れながら、元結を解いた。手櫛で整え、もう一度適当に結い直す。
 生ぬるい風が、不快に肌を撫でて通る。離れるな、といった可隆の言葉の真意が気になったが、勝蔵は身震いし、どうにか不安を振り払おうとした。



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