16 / 26
十六、
しおりを挟む
生ぬるい風が吹く。秋特有の、天気が荒れる前に吹く風だった。
肩に担いでいた槍を下ろす。稽古をつけてくれていた可隆も、「今日は終わりにしよう」と草履を脱いだ。下女が持ってきた盥で足を洗いながら、侍女達が雨戸を閉めたり、格子を閉じたりしているのが見えた。
「京も嵐が吹いているのかな」
何気なく勝蔵が呟くと、「さぁな」と可隆は首を傾げた。
「若ならきっと大丈夫だと思う。御屋形様や、家臣の皆様もおられるし。それより勝蔵、いいからお前も早く足を洗ってしまえ。そのまま縁に上がったら、また母上から怒られるぞ」
勝蔵は、ざぶざぶと音を立てて足を洗った。透き通っていた水が一気に濁る。裸足で庭に降りていたせいで、指先や爪の間にも泥が入り込んでいた。袴の裾まで土がついている。きっと、洗濯の際に困らせてしまうことだろう。
◇◆◇
勝九郎から聞いたのだが、京に向かった奇妙丸は、一度だけ於泉には文を届けさせたらしい。ちょうど、京に入ったであろう頃であった。
一緒に聞いていた可成の顔は、若干蒼褪めていた気がしたのは、気のせいではない。
以前、信長は尾張平定の報告をするため、先将軍・足利義輝を訪ね、京に上ったことがある。その際、美濃国の斎藤義龍が刺客を放ち、信長を暗殺しようとしていたという。
可成はその旅の一行のひとりであった。今回は留守居であるため、信長になにかあっても、すぐには駆け付けられない。そういったことから、懸念を抱いているのだろう――と思っていた。
◇◆◇
「若なら、大丈夫だよな」
勝蔵はどこか縋る様に、可隆を見上げた。
「父上は一緒じゃねえけど……柴田様や前田殿がご一緒だし。人の数も、以前御屋形様が上洛された時と変わらないくらいいるだろ?」
此度の上洛は、義輝の弟・覚慶を新たな将軍として擁立させるためだ。正式に将軍の地位を継がせるには、あと数年はかかるだろう。しかし、早々と次期将軍の味方についておけば、織田家が天下を手に取るというのは、夢物語ではなくなる――かもしれない。
秘密裡に奇妙丸を連れて行ったのも、そういった「おとなのじじょう」が絡んでいるらしい。
「そんな場に立ち会えるなんて、すげえや、若」
勝蔵は、可隆の腕を引っ張った。可隆は振り返らないが、振り払うこともしなかった。
「御屋形様がそれだけ若に期待されてるってことだもんな。一の家臣として、鼻が高ぇや」
ふと、急に可隆が立ち止まった。勢い余って、勝蔵は可隆にぶつかってしまった。ひりひりと痛む鼻を摩っていると、
「一の家臣、か……」
と、可隆が呟く。そして、「お前は若のことを、本当にお慕いしているのだな」とも。
「うん!」
勝蔵は、満面の笑みを浮かべた。
「次は、俺も一緒にお供するんだ。若のこと、傍で護れるように……」
「……そうか」
可隆が膝を折って、勝蔵と目を合わせた。いつもなら子ども扱いされているその仕草は気に食わない。腹を立てるところであった。しかし、可隆の真っ直ぐな黒鳶色の双眸を見ていると、そんな気持ちが一気に萎えた。
「その言葉、忘れるなよ、勝蔵」
可隆の言葉に、勝蔵はひたすら頷くことしかできなかった。
「この時世――ただ一人の主と思えるお方と巡り会えるなど、稀なる幸運だ。なにがあっても、若のお傍を離れるな。森家のためではなく、若のために、お前は生きろ」
勝蔵が深く頷くと、「約束だぞ」と言い、可隆は勝蔵の頭をかき混ぜた。乱れた髪を整えているうちに、可隆は離れてしまう。
(まだ、話聞いてほしかったのに)
勝蔵は剥れながら、元結を解いた。手櫛で整え、もう一度適当に結い直す。
生ぬるい風が、不快に肌を撫でて通る。離れるな、といった可隆の言葉の真意が気になったが、勝蔵は身震いし、どうにか不安を振り払おうとした。
肩に担いでいた槍を下ろす。稽古をつけてくれていた可隆も、「今日は終わりにしよう」と草履を脱いだ。下女が持ってきた盥で足を洗いながら、侍女達が雨戸を閉めたり、格子を閉じたりしているのが見えた。
「京も嵐が吹いているのかな」
何気なく勝蔵が呟くと、「さぁな」と可隆は首を傾げた。
「若ならきっと大丈夫だと思う。御屋形様や、家臣の皆様もおられるし。それより勝蔵、いいからお前も早く足を洗ってしまえ。そのまま縁に上がったら、また母上から怒られるぞ」
勝蔵は、ざぶざぶと音を立てて足を洗った。透き通っていた水が一気に濁る。裸足で庭に降りていたせいで、指先や爪の間にも泥が入り込んでいた。袴の裾まで土がついている。きっと、洗濯の際に困らせてしまうことだろう。
◇◆◇
勝九郎から聞いたのだが、京に向かった奇妙丸は、一度だけ於泉には文を届けさせたらしい。ちょうど、京に入ったであろう頃であった。
一緒に聞いていた可成の顔は、若干蒼褪めていた気がしたのは、気のせいではない。
以前、信長は尾張平定の報告をするため、先将軍・足利義輝を訪ね、京に上ったことがある。その際、美濃国の斎藤義龍が刺客を放ち、信長を暗殺しようとしていたという。
可成はその旅の一行のひとりであった。今回は留守居であるため、信長になにかあっても、すぐには駆け付けられない。そういったことから、懸念を抱いているのだろう――と思っていた。
◇◆◇
「若なら、大丈夫だよな」
勝蔵はどこか縋る様に、可隆を見上げた。
「父上は一緒じゃねえけど……柴田様や前田殿がご一緒だし。人の数も、以前御屋形様が上洛された時と変わらないくらいいるだろ?」
此度の上洛は、義輝の弟・覚慶を新たな将軍として擁立させるためだ。正式に将軍の地位を継がせるには、あと数年はかかるだろう。しかし、早々と次期将軍の味方についておけば、織田家が天下を手に取るというのは、夢物語ではなくなる――かもしれない。
秘密裡に奇妙丸を連れて行ったのも、そういった「おとなのじじょう」が絡んでいるらしい。
「そんな場に立ち会えるなんて、すげえや、若」
勝蔵は、可隆の腕を引っ張った。可隆は振り返らないが、振り払うこともしなかった。
「御屋形様がそれだけ若に期待されてるってことだもんな。一の家臣として、鼻が高ぇや」
ふと、急に可隆が立ち止まった。勢い余って、勝蔵は可隆にぶつかってしまった。ひりひりと痛む鼻を摩っていると、
「一の家臣、か……」
と、可隆が呟く。そして、「お前は若のことを、本当にお慕いしているのだな」とも。
「うん!」
勝蔵は、満面の笑みを浮かべた。
「次は、俺も一緒にお供するんだ。若のこと、傍で護れるように……」
「……そうか」
可隆が膝を折って、勝蔵と目を合わせた。いつもなら子ども扱いされているその仕草は気に食わない。腹を立てるところであった。しかし、可隆の真っ直ぐな黒鳶色の双眸を見ていると、そんな気持ちが一気に萎えた。
「その言葉、忘れるなよ、勝蔵」
可隆の言葉に、勝蔵はひたすら頷くことしかできなかった。
「この時世――ただ一人の主と思えるお方と巡り会えるなど、稀なる幸運だ。なにがあっても、若のお傍を離れるな。森家のためではなく、若のために、お前は生きろ」
勝蔵が深く頷くと、「約束だぞ」と言い、可隆は勝蔵の頭をかき混ぜた。乱れた髪を整えているうちに、可隆は離れてしまう。
(まだ、話聞いてほしかったのに)
勝蔵は剥れながら、元結を解いた。手櫛で整え、もう一度適当に結い直す。
生ぬるい風が、不快に肌を撫でて通る。離れるな、といった可隆の言葉の真意が気になったが、勝蔵は身震いし、どうにか不安を振り払おうとした。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
『大人の恋の歩き方』
設楽理沙
現代文学
初回連載2018年3月1日~2018年6月29日
―――――――
予定外に家に帰ると同棲している相手が見知らぬ女性(おんな)と
合体しているところを見てしまい~の、web上で"Help Meィィ~"と
号泣する主人公。そんな彼女を混乱の中から助け出してくれたのは
☆---誰ぁれ?----★ そして 主人公を翻弄したCoolな同棲相手の
予想外に波乱万丈なその後は? *☆*――*☆*――*☆*――*☆*
☆.。.:*Have Fun!.。.:*☆
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる