思い出乞ひわずらい

水城真以

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十五、

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      *

 隣の屋敷から、犬の声が聞こえる。それに混じって、少女特有の甲高い声も。
(そういえば……犬飼ってるんだっけか)
 確か、駒若丸こまわかまるというらしい。もう老犬で、村の子ども達にいじめられているところを於泉が助け出し、引き取ったのだとか。今では於泉や、幼い弟妹達のよき遊び相手である――と、#勝九郎がいつだか言っていた気がする。
 何度か池田家にお邪魔した際、勝蔵も駒若丸には、会ったことがある。しかし、主である於泉が勝蔵を虫けらのごとく嫌っているからだろうか。会う度に唸られているのである。勝蔵は犬が好きだが、駒若丸には関してはそんな関係性であるため、可愛いなどとは到底思えなかった。

(つまんねぇなぁ……)

 勝蔵は、空を見上げた。どんよりと、灰色の雲が空を覆い隠している。
 奇妙丸が尾張を発ってから、ひと月が経とうとしている。もう、上洛は果たせているのだろうか。普段、勝蔵は奇妙丸のもとで手習いをし、稽古を受けるほど、奇妙丸のもとに入り浸っていた。だからこそ、奇妙丸がいない暮らしは慣れないし、寂しくもある。

『京で、土産を買うてくる。何がよい?』

 勝九郎は、奇妙丸がいればなにもいらない、と言った。だが、勝蔵は咄嗟に「筆がほしい」と答えていた。

『新しい筆を。絵筆ではなく、文字を書くような筆を』

 奇妙丸は、分かった、と嬉しそうにうなずいていた。

 奇妙丸の笑顔が、脳裡に焼き付いたまま離れないのは、なぜだろう。そして、まるで二度と会うことができないのではと思うほど、奇妙丸が遠くに行ってしまったような、そんな気分になる。

(若に……若に、お話したいことが、やまほどある)

 母のえいが、また子を身ごもったこと。
 兄・可隆からもらった写本の感想。
 最近、乱丸が言葉を発するようになったこと……。

 勝九郎に言うだけでは、足りない。奇妙丸に、話したい。奇妙丸にとっての「特別」と、勝蔵にとっての「特別」は、きっと重さが違う。勝蔵が奇妙丸に話したいことは、他の誰かではいけないのだ。奇妙丸が相手でなければ。
「……文、届けてぇな」
 奇妙丸の上洛は、お忍びだ。だからどこに逗留しているのか、宿は家中でも明らかになっていない。文を書いても、贈り先が分からないから、溜まっていく一方である。

(早く、帰って来てくれよ、若。俺、あんたに話したいことがありすぎて……文箱が溢れかえってるんだ)

 無理やり紐で括って、蓋を押さえた文箱を見る。黒塗りの地に、森家の家紋である「鶴丸」と、縁起がいい「蜻蛉が彫られている箱。手習いを始める時に、えいが作らせた文箱だった。
 戦場にいる父とやり取りしたり、祖父母とやり取りしたり……特定の誰かがいるわけではなかったのに、今ではすっかり、奇妙丸専用になってしまっていた。

 生ぬるい風が吹く。冬は訪れていない。ただ、秋の夕暮れが居座っている、そんな感じだ。
 格子を開いて夕日が沈むのを見ていると、なんともいえない感情が勝蔵の胸を突き差した。



 ――なんだか、不吉な予感、がしたのであった。



   ◇◆◇





(厭だ、厭だ、厭だ……)

 身体中を、見知らぬ掌が這い回る。

(気持ち悪い。痛い。苦しい。助けて)

 悲鳴にもならない吐息が漏れると、ぬるりとした掌に口を押さえ付けられた。「誰にも言うてはならん」と、気色の悪い声が耳朶で囁く。

「お主の父から許可はいただいてる。誰も助けやら来いひん」

 外にいる侍女や、見知った家臣、小姓達に目で助けを求める。すると、ぷいと目を反らされた。

(ああ、そうか……)

 耳朶を這い回る舌に、とうとう震えが止まった。身勝手に動き出す男さえも、最早どうでもよいと思えた。
 抵抗するのをやめたことが、受け入れたと思われたのだろうか。生臭い吐息が勝手に動き回り始める。

 視界の端に、絵が映った。

 零れる梅の中を、走り回る犬がこちらを見ている。

 この絵をくれた少女に似合うだろう品も用意した、というのに。



(笑って)

(唄って)

(声を、聞かせて)

(俺が聞きたいのは、蛞蝓なめくじのような、声じゃない。生臭い吐息じゃない)

(俺が聞きたいのは、鈴の音が転がるような――あの子、の声だけだ――)



 帰蝶がどうしてあんなにも、父に抵抗し、奇妙丸を京にやらないと拒み続けたのかがようやく分かった。そして、あの日、帰蝶が心の中で涙を流し続けていた、その理由も。

 こんなことになると分かっていたら、もっとあの子のことを大切にしただろう。
 話を聞いてやったし、最優先に扱ったし、菓子を食べる時は隣に呼び寄せた。嫌がられたとしても、無理やりにでも、自分の傍に呼び寄せたことだろう。


 声を、もっと聴きたかった。

 もっと、色んなことを話してみたかった。

 あの子と、もっと――。


 咲きかけていた、白梅の枝があった。きっと大切に慈しんでいたら、大層美しい花になっていたかもしれない――それなのに、蕾を見つめることさえ、奇妙丸には許されていなかったのだ。
 この穢れた指先で、他の色を知らぬ白い花びらに触れることなど、許されない。見つめることさえ、叶わなくなってしまった。
 蕾のまま地に落ちた時、はじめてそこに、花の息吹があったかもしれないことに気がつき――涙が零れ落ちた。
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