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十九、
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*
灯りが揺れ動く。小姓を下がらせると、襖が閉まる音が響く。
そして、炎に照らされた闇のなかで、信長と恒興は対峙していた。
「若のお加減は、如何でしょう」
信長はそれほど興味もないように、乳兄弟の問いに返した。
「大したことはない」
薬師も呼んでやったし、怪我は快方に向かっている。しかし奇妙丸は未だに塞ぎ込んでおり、部屋を出てこようともしない。それどころか、近習達も皆遠ざけ、傍には帰蝶を筆頭に女達しか寄らせないという。
「情けない。あれが儂の後継か」
「……恐れながら」
恒興は張り詰めた声で、首を下げた。
「此度の一件は、あまりにも非情ではございませぬか」
恒興の声は固く、緊張しているようだった。信長は冷たい炎を孕んだ目を向けた。
「御屋形様の、義明公擁立のお心に関しましては、重々ご賛同致しまする。なれど、若は、仮にも御屋形様のご嫡男にございましょう。にも拘わらず、あのような……」
「仕方あるまい」
信長は苦々しげに吐き出した。
「どこで知ったかあのたわけ、奇妙丸を寄越せ、などと申しおった。……傀儡といえども、今は逆らうわけにはいかぬ。言うことを聞いてやらねば、織田は――天下を獲れぬ」
――天下。
出会った頃から、信長は度々その言葉を口にした。
元服した時、美濃から姫を娶った時、家督を継いだ時、下剋上を果たした時。
実の弟を殺めた時さえも、信長は「天下のため」と言っていた。涙の一滴を零しただけで、悲しむ素振りを見せなかった。
ただひたすらに、いつからか描きはじめた「天下」という夢物語を完遂させるために。
「……ならば何ゆえ、騙し討ちのようにお連れしたのですか」
「……知ったら、抵抗したであろう」
「若は、きっと歯を食いしばられたと思います。お家のためとあらば、間違いなく。そういうお方にございます」
「奇妙ではない。――そなたの娘が、じゃ」
恒興は目を見開いた。信長が立ち上がる。恒興が咄嗟に頭を下げると、信長が座を降り、恒興の前に膝を置いた。
「そなたの娘は、確か……於泉と申したか」
「……は」
「なかなかの器量よしに育っておると、評判じゃ。そなたの嫁御に似たのか?」
恒興は答えない。突然、信長が於泉の話題を振ってくる。信長は愉快そうに、「奇妙は勝九郎や勝蔵には出会い頭に調度品を投げつけたという。……だが、於泉には危害を加えなかった。なぜか分かるか?」
「姫は、女子ゆえ……」
「いいや、違う。――於泉ゆえ、奇妙は於泉に危害を加えん」
恒興は、今度こそ指先まで凍てつかせた。
(御屋形様は……殿は、姫のことをご存じなのか……すべて)
恒興はそれ以上、なにも言うことはできない。
すべて承知の上で、信長は於泉に危害を加えないと言うのだ。同時にそれは、「己が見ぬふりをする代わりに、お前もこれ以上口出しするな」という禁令でもある。
恒興は横を通り過ぎる信長に対し、殊更丁寧に頭を下げるしかできなかった。
*
しばらく、首を垂れていた。しかし、遠ざかったと思っていた足音は――いつのまにか、立ち止まっていた。
「そういえば於泉は今日も、奇妙のところに来ておるようであったな」
信長の言葉に、恒興は肩を震わせた。
「ええ、そのようで……。姫は、恐れ多くも若様をお慕いしているようで……ございます」
「侍女達が申しておる。池田の一の姫と奇妙丸は、大層仲睦まじい、と。将来的には似合いの夫婦になるやもしれぬ、と。……あるいは、まことの兄妹のようである、と」
恒興は、掌に汗が浮かぶのを感じた。
幼馴染で、物心がついた頃から一緒に過ごしている乳兄弟でもある。しかし、この主君がなにを考えているのか、時々分からない。
子どものように無邪気なのかと思えば、地獄の獄吏も蒼褪めるような冷徹で残忍な顔も覗かせる。
恐ろしいのは、無邪気な笑顔を浮かべながらも、目に色も光も宿していない時である。――たとえば、そう、今のように。
「勝三、ついて来い」
「御屋形様? なにをなさるおつもりで……」
「なぁに、なにもせぬわ」
信長は、喉を鳴らした。愉快そうではある。しかし、浮かぶ双眸は光を失い、そこに恒興の姿は映っていない。
「お前の娘ならば、儂の身内も同然じゃ。――久しぶりに、あれの顔が見とうなったわ」
灯りが揺れ動く。小姓を下がらせると、襖が閉まる音が響く。
そして、炎に照らされた闇のなかで、信長と恒興は対峙していた。
「若のお加減は、如何でしょう」
信長はそれほど興味もないように、乳兄弟の問いに返した。
「大したことはない」
薬師も呼んでやったし、怪我は快方に向かっている。しかし奇妙丸は未だに塞ぎ込んでおり、部屋を出てこようともしない。それどころか、近習達も皆遠ざけ、傍には帰蝶を筆頭に女達しか寄らせないという。
「情けない。あれが儂の後継か」
「……恐れながら」
恒興は張り詰めた声で、首を下げた。
「此度の一件は、あまりにも非情ではございませぬか」
恒興の声は固く、緊張しているようだった。信長は冷たい炎を孕んだ目を向けた。
「御屋形様の、義明公擁立のお心に関しましては、重々ご賛同致しまする。なれど、若は、仮にも御屋形様のご嫡男にございましょう。にも拘わらず、あのような……」
「仕方あるまい」
信長は苦々しげに吐き出した。
「どこで知ったかあのたわけ、奇妙丸を寄越せ、などと申しおった。……傀儡といえども、今は逆らうわけにはいかぬ。言うことを聞いてやらねば、織田は――天下を獲れぬ」
――天下。
出会った頃から、信長は度々その言葉を口にした。
元服した時、美濃から姫を娶った時、家督を継いだ時、下剋上を果たした時。
実の弟を殺めた時さえも、信長は「天下のため」と言っていた。涙の一滴を零しただけで、悲しむ素振りを見せなかった。
ただひたすらに、いつからか描きはじめた「天下」という夢物語を完遂させるために。
「……ならば何ゆえ、騙し討ちのようにお連れしたのですか」
「……知ったら、抵抗したであろう」
「若は、きっと歯を食いしばられたと思います。お家のためとあらば、間違いなく。そういうお方にございます」
「奇妙ではない。――そなたの娘が、じゃ」
恒興は目を見開いた。信長が立ち上がる。恒興が咄嗟に頭を下げると、信長が座を降り、恒興の前に膝を置いた。
「そなたの娘は、確か……於泉と申したか」
「……は」
「なかなかの器量よしに育っておると、評判じゃ。そなたの嫁御に似たのか?」
恒興は答えない。突然、信長が於泉の話題を振ってくる。信長は愉快そうに、「奇妙は勝九郎や勝蔵には出会い頭に調度品を投げつけたという。……だが、於泉には危害を加えなかった。なぜか分かるか?」
「姫は、女子ゆえ……」
「いいや、違う。――於泉ゆえ、奇妙は於泉に危害を加えん」
恒興は、今度こそ指先まで凍てつかせた。
(御屋形様は……殿は、姫のことをご存じなのか……すべて)
恒興はそれ以上、なにも言うことはできない。
すべて承知の上で、信長は於泉に危害を加えないと言うのだ。同時にそれは、「己が見ぬふりをする代わりに、お前もこれ以上口出しするな」という禁令でもある。
恒興は横を通り過ぎる信長に対し、殊更丁寧に頭を下げるしかできなかった。
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しばらく、首を垂れていた。しかし、遠ざかったと思っていた足音は――いつのまにか、立ち止まっていた。
「そういえば於泉は今日も、奇妙のところに来ておるようであったな」
信長の言葉に、恒興は肩を震わせた。
「ええ、そのようで……。姫は、恐れ多くも若様をお慕いしているようで……ございます」
「侍女達が申しておる。池田の一の姫と奇妙丸は、大層仲睦まじい、と。将来的には似合いの夫婦になるやもしれぬ、と。……あるいは、まことの兄妹のようである、と」
恒興は、掌に汗が浮かぶのを感じた。
幼馴染で、物心がついた頃から一緒に過ごしている乳兄弟でもある。しかし、この主君がなにを考えているのか、時々分からない。
子どものように無邪気なのかと思えば、地獄の獄吏も蒼褪めるような冷徹で残忍な顔も覗かせる。
恐ろしいのは、無邪気な笑顔を浮かべながらも、目に色も光も宿していない時である。――たとえば、そう、今のように。
「勝三、ついて来い」
「御屋形様? なにをなさるおつもりで……」
「なぁに、なにもせぬわ」
信長は、喉を鳴らした。愉快そうではある。しかし、浮かぶ双眸は光を失い、そこに恒興の姿は映っていない。
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