『残魂微光』

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前編『絆魂光(はんこんこう)』

第二十五話『残魂・前編』

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 水星の視線を追う千春。雲霧が居酒屋の前で、誰かを探している。
「千春、どこだ!」と叫ぶ声がかすかに聞こえる。
 水星はふっと笑う。
「ね? まだ遅くはないみたいです」
 千春の目が輝く。
「あはは……焔尽君が君を好きな理由、ちょっと分かった」
 その言葉を聞いた水星が寂しげに笑う。気になるのは焔尽のことばかりだった。
「一階へ急いで!」
「うん!」
 千春が階段を駆け下りる。水星は二階からその背中を見送る。
 やがて、雲霧と千春は居酒屋の外、梅の木の下で出会う。雲霧が千春を見つけ、駆け寄る。二人は言葉を交わさず、抱き合う。雲霧の肩が震え、千春がそっと背に手を置く。梅の花びらが舞い、桜の約束が今、果たされた。
 水星は上という、恵まれた神の視線で二人を眺める。人と繋がるのは難しい。偶然でも必然でもない。思いがあるから、傍にいられる。
 ――焔尽も、俺を待ってるかもしれない。待つだけじゃダメだ。俺が会いに行く。
「焔尽……俺、お前を必ず助けるから」
 梅の花びらが水星の茶器に落ちる。水星はくいっと飲み干す。甘い酒が、今は少し苦い。
 千春と雲霧が楽しそうに話し、笑う姿を、水星はぼんやり見つめる。言葉は聞こえないが、表情だけで二人が何を話しているか分かる。
 千春が水星を振り返り、笑顔で手を振った。そして、思いを込めたように彼女が叫んだ。
「焔尽を助けるよ。雲霧との約束を果たせたから、次は君と焔尽の番だ!」
 水星は小さく頷き、拳を握る。花火が夜空を照らし、鈴の音が響く。梅の香りに包まれ、水星の目が鋭く光る。
 梅の花びらが提灯に揺れる桜の約束。季節はまだ巡る。





 
 二日後の早朝、雲霧の号令で水星、千春と共に金の國を出発した。水星の包帯が巻かれた手はまだ痛むが、剣を握れるまでに回復している。
 馬車の窓から見える風景が次第に荒涼とし、火の國に近づくにつれ、空気が瘴気の残り香で重くなる。雲霧が静かな声で言う。
「火の國の雑魚は城で、足止めする。外交問題だと突きつけてくるさ。私と千春で時間を稼ぐから、お前は帳と下水道へ向かいなさい。助けられたら、最後は火をつけて、ぼや騒ぎにするんだ。後は帳がどうにかしてくれる」
 千春が「焔君を逃がさないよ。水星、焔尽を頼むね」と決意を込めて頷く。水星は焔尽の剣を手に、懐の髪飾りを握り締める。鈴がチリンと鳴り、彼の心を静かに奮い立たせる。
 火の國の城下に到着すると、かつての活気は消えていた。赤い炎が消え、鍛冶場は静まり返り、黒い苔が石畳を這う。
 住民は瘴気に怯え、窓を閉ざして息を潜める。城の門前で雲霧と千春が馬車を降り、雲霧が水の魔気を放ちながら言う。
「ここで別れる。焔君を政治面で抑えるから、下水道で焔尽を救え」
 千春がハンマーを構え、「金の結界で道を見えなくして封じるよ。急いで!」と叫ぶ。
 二人は城へ向かい、焔君の家来と思われる人々と会話を初めた。水星には気がついていないようだ。下水道の入り口へ急ぐ。入り組んだ階段を駆けるように降りていくと、ぽっかりと開いたレンガ石の入り口にはすでに帳が居た。黒い布に包まれた帳は静かに言う。
「結界の奥だ。時間がないぞ」
「帳、ありがとう」
 水星が剣を手に、暗い通路へ飛び込む。
 下水道は、地の底に潜む腐敗と死の匂いが渦巻いていた。空気は湿りきって重く、瘴気と腐水の混ざった悪臭が鼻孔を突く。
 水星は思わず顔をしかめ、袖で口元を覆った。天井からは茶褐色に変色した水滴が絶え間なく落ち、滴る音が四方に反響して鼓膜を打つ。
 壁は濡れた苔とスライム状の菌に覆われ、ところどころ人の形を思わせる膨れが浮かび上がる。かつて捨てられた遺骸か、それとも瘴気によって異形化した生物か――識別すらできない。
 通路の幅は人ひとりがやっと通れる狭さで、何かが這い回ったような泥の痕が続いている。床は粘つき、靴がめり込むたびにぬるりとした感触が伝わってくる。
「……ここ、下水道じゃないな。こんなに瘴気が溜まる理由はなんだ?」
 水星が呟くと、帳がわずかに振り返った。
「瘴気で変質したのかもな。まるで、ゴミ捨て場だ」
 そう言って再び進む帳の背中が、まるで影そのもののように壁と溶け合う。
 やがて通路の先に、ぼんやりと青白く輝く光が見えてくる。
 空間が広がり、ドーム状の空間に出ると、そこには結界が張られていた。かつての排水の制御装置の名残だろうか。天井には巨大な歯車が絡まり、瘴気の粘液で粘ついている。壁面の一部は崩落し、瓦礫の影に何かが蠢いた気がする。
 青白い光の中心には、禍々しい瘴気の渦。まるで呼吸するように結界が脈打ち、水星が近づくたびに魔気を拒むように振動した。
「ここが……封印か」
「ええ。俺には無理でした」
「やってみよう」
 水星が剣を構え、握り締めた。湿った石畳の上に靴音が響く。空気が緊張に震えた。
 瘴気の残り香が濃く、息をするたびに喉が焼ける。水星が剣に水の魔気を込め、結界に斬りかかる。刃が結界に弾かれ、衝撃で腕が痺れるが、彼は歯を食いしばって続ける。
「絶対に叩き切る!」
 帳が水の魔気で結界に網を張りめぐらせ、瘴気を薄くする手助けをする。剣に全力を込め、結界に突き刺した。
「邪魔だ!」
 一刀両断――青白い光がひび割れ、砕け散った。水星が「急げ!」と進む。
 その先には鉄格子の檻が現れ、その向こうに――焔尽がいた。水星は一瞬足を止めた。
 つい先日まで傍らにいたはずの存在は、もはや人とは呼べぬ姿だった。血にまみれた黒髪が瘴気のぬめりで重く垂れ、片目はただれて閉じ、濁ったもう片方の目が虚ろに揺れる。頬は削げ、喘鳴が漏れる唇は血で裂けていた。
 両腕は封印の鎖に吊られ、骨に食い込んだ鉄が肉を裂く。鞭の痕、焼けた皮膚、癒着した布切れ――全てが彼を壊していた。だが、かすかに胸が上下する。
「生きてる……! 焔尽!」
 水星の声が震え、鉄格子を掴む手が軋む。あの湖畔の笑顔が脳裏を過ぎり、胸が張り裂けそうになる。
「くそ! 邪魔をするな!」
 剣に水の魔気を込め、鋼を切り裂く。火花が散り、鉄が崩れ落ちる。封印の鎖を叩き割ると、焔尽の体が沈む。自由になった途端、彼の口がわずかに開き、舌を噛もうとするのが見えた。
「やめろ!」
 水星は咄嗟に手を突っ込む。血と腐臭の混ざった熱が掌を濡らし、折れた歯茎の感触に震える。こんなにも壊されても、まだ生きようとするのか――それとも、終わらせたかったのか。水星の片目から涙が溢れ、震える腕で焔尽を抱きしめた。
「もう大丈夫だ……俺が守る」
 ――遅くなった。もっと、早く助けに来るべきだった。
 水星はただ悔しくて唇を噛み締めた。
 骨と皮だけの体は冷たく、羽織をかけた手が震える。あの無邪気な笑顔が、こんな姿になるなんて。祈るように抱きしめると、微かな心臓の音が聞こえた。帳が静かに言う。
 「水星坊ちゃん、ここは任せろ。ぼや騒ぎにして逃がします」
 水星は頷き、焔尽を抱く腕に力を込めた。涙が彼の血まみれの髪に落ち、瘴気の闇に溶ける。
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