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ニューヨーク(5)
しおりを挟むアントニオが退院してから1か月が過ぎた。それは弦にとって目の回るような日々であると共に挑戦の日々でもあった。アントニオが作るパンと遜色のないものを焼かなければならないからだ。それができなければ店の評判を落としてしまう。そんなことになったら大変だし、偉そうなことを言った自分の面目も立たない。だから正に〈背水の陣〉という言葉そのものの毎日を送りながら、パン作りだけに集中していた。
しかし、疲れ果ててベッドに入ると、彼女のことが思い出された。それは礼を失していることを呼び覚ますものでもあった。イタリアから帰って2か月が経つというのにお礼の手紙を書いていないのだ。なんとかしなくてはいけないことはわかっていたが、いつもあくびがそれを吹き飛ばした。一日中立ち仕事をしている弦に手紙を書く余力は残っていなかった。しかも、定休日には寝だめをしていたので、結局書くようにはならなかった。それは言い訳に過ぎないとわかっていたが、睡魔には勝てなかった。
🍞 🍞 🍞
次の定休日の翌日、店仕舞いをしていた弦は店の隅に立っているアンドレアに気がついた。練習を早く切り上げたのだろうか、こんな時間に帰ってくるのは珍しいことだった。
「どうしたの? 今日はやけに早いね」
「ん。ちょっとね」
いつものアンドレアらしくない歯切れの悪い口調だった。
「あのさ」
「何?」
「あの~」
ぐずぐずとしたような煮え切らない口調に苛立ったので、「なんだよ」とムッとした声になった。すると、「怒るなよ」となだめるような声が返ってきたが、話を切り出そうとしないので、「だから、なんだよ」と詰め寄ると、「うん」と踏ん切りをつけたかのようにアンドレアの顔が引き締まった。
「ちょっと用事があってサンドロさんに電話した時に聞いたんだけどさ、薬局の女の人に一目ぼれしたんだって?」
いきなりのジャブに面食らった。だから、戸惑いを隠すために「今頃なんだよ」と背を向けると、「いや~、スマホで撮った写真を整理していたらこれが出てきてさ」とにやけた声が返ってきた。それで振り返って画面を覗き込むと、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の店内の写真が見えた。スクロールすると、弦と女の人が写っているものが現れた。あの美しい人、フローラだった。
「この人のこと?」
顔を覗き込まれて一瞬固まったが、仕方なく頷いた。
「これっきり?」
答えようかどうしようか迷ったが、話さないわけにもいかず、ベーカリーでパン焼きを体験させてもらったことやディナーに招かれたことを話した。
「凄いじゃん」
アンドレアの目は興味津々というような光を放っていた。
「で?」
「で、って……」
ちょっと口ごもったが、礼状も書いていないことを正直に話すと、「ダメだよ、それ」と大きな声が返ってきた。「せっかくのチャンスなのに、何やってんだよ」
叱るような声になったので思わず言い訳を口にしそうになったが、毎日疲れ果てて手紙を書く余裕がないとは言えなかった。そんなことを言えば恩着せがましくなるからだ。弦はぐっと堪えてうつむいた。しかし、そんな心の内を知る由もないアンドレアは「メールでもいいから送らなきゃ」と苛立ったような声を出した。
彼の言う通りだったが、メールアドレスを訊いていないことを正直に告げると、「なんでそんなことも訊いてないんだよ」と更に苛立つような声が返ってきた。しかし、そのあとは腕組みをして考え込むような表情になった。
沈黙が続く中、様子を見ていたが、いつまで経っても口を開こうとしないので、「掃除しなきゃいけないから」と告げてモップを手にした。すると彼は店の中を見回してから、「わかった」と呟いて背を向けた。
🍞 🍞 🍞
「これ」
翌日の夜、店仕舞いをしていると、アンドレアが封筒とUSBメモリーを差し出した。
「何?」
「手紙」
「手紙?」
「俺が代筆した」
「代筆?」
「いいから読んで」
受け取った弦が取り出すと、用紙が2 枚出てきた。一つはフローラ宛で、一つはウェスタ宛だった。どちらも英語で印刷されていたが、フローラへの手紙は日本語にしろと言う。
「それから、これ」
渡されたのは写真で、弦の働く姿が写っていた。
「今日ママにこっそり撮ってもらったんだ。これも同封すればいいよ」
弦は手に持った手紙とUSBメモリーと写真をしばらく見つめたあと、アンドレアに視線を戻した。
「どうして?」
「別に……」
表情を隠すようにうつむいた。
「これくらいしないと俺の気が済まないから」
言い終わると、自宅への階段を上がっていったが、途中で立ち止まった。
「ありがとう。感謝してる」
背を向けたまま言って、振り向かずに階段を上っていった。
✉ ✉ ✉
『フォルノ・デ・メディチ』に送った手紙の返事はすぐに返ってきた。しかし、『サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局』に送った手紙の返事は返ってこなかった。期待が大きかっただけに落ち込みは激しく、仕事中にボーっとしてしまうことがあって何度も自らを戒めた。ミスをしたら店の評判に傷がつくからだ。そんなことは絶対にしてはならない。消しても消してもフローラの面影が浮かんできたが、その都度断ち切ってパン作りに集中した。
その日はいつもより客が多く、昼食にありつけたのは14時を大幅に回っていた。一息付いて食後のカプチーノを飲んでいると、アンドレアから電話がかかってきた。フローラとのことを心配してかけてきたようだったので、正直にありのままを話した。
「まだ来ないのか……」
スマホから聞こえる声が尻切れとんぼになった。
「嫌われているのかな?」
「そんなことはないと思うよ。彼女も忙しいんじゃないの」
「そうかもしれないけど……」
今度は弦の声が尻切れとんぼになった。
「もう一度書いて送ったら」
「返事が来ていないのに?」
「そう。今度は自分の言葉でね」
代筆だったから気持ちが通じなかったのかもしれないと付け加えた。
「自分の言葉か~」
「そう。素直な気持ちを書けばいいんだよ」
「素直ね~」
「考えすぎない方がいいと思うよ。日記のような感じで書けばいいんだよ」
「日記か~」
日記は小学生の時以来書いたことがなかった。
「便箋に一枚くらい書けるだろ」
「まあね」
「それを毎週送るんだよ」
「毎週?」
声がひっくり返りそうになった。
「それはちょっと」
そんなことをしたら却って嫌われると反論すると、「そんなことはないよ」と即座に否定された。「それに、手紙だけでなくパンの写真を入れたら喜ぶと思うよ」と新たな提案をされた。出来立てのパンを両手に持った写真を送れば喜んでくれるという。
「でも、写真はフローラだけに送るのはダメだよ」
ウェスタにも送れという。そうすれば、その写真を見ながらフローラとウェスタが弦のことを話題にするとアンドレアが請合った。
「そうかな~」
弦は気乗りがしなかったが、アンドレアはそれを許さなかった。
「悩んでいる暇があったら行動を起こすべきだと思うけどね」
そして、「じゃあ」と言っていきなり通話が切れた。
弦はなんの音も発しないスマホを見つめて、ため息をついた。
✉ ✉ ✉
一日考えた末に、アンドレアが提案した『毎週手紙作戦』を実行することにした。失うものは何も無いという結論に達したからだ。
その翌日、写真を撮ってもらうために奥さんとルチオに事の顛末を話して協力を依頼すると、二人とも喜んで手伝うと言ってくれた。
「青春だね~」
ルチオが昔を懐かしむような声を出した。若い頃付き合っていた女性のことを思い出したのだろうか? 少しにやけたような表情を浮かべていた。対して奥さんは何やら考えているようだったが、「同じ帽子やエプロンだと見栄えがしないわね」と呟くと、業者に電話をかけて様々な色の帽子とエプロンを発注した。毎週違う帽子とエプロンでポーズを取るためだという。弦は素直にそれに従うことにした。
翌週、フローラに手紙を送ると、今度はすぐに返事が来た。弦は飛び上がって喜んだが、自分がしでかしたミスに気づかされて落ち込んだ。『すぐに返事を書いたのですが、どこにも住所が書かれていなかったので送ることができませんでした』と書かれていたのだ。まさかそんな初歩的なミスを犯していたとは知らなかったので、フローラに疑心を抱いた自分が恥ずかしくなった。しかし、嫌われていたわけではないことがわかったので、その後も手紙を送り続けた。そして返事を受け取り続けた。弦の毎日はバラ色に染まった。
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