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フィレンツェ
しおりを挟むフローラはいつものようにボボリ庭園に向かって歩いていた。ピッティ宮殿に隣接したイタリア式庭園が大好きだからだ。もちろんメディチ家のために作庭されたのだから当然ではあったが、休みの日になると必ずといっていいほどここに足が向いていた。そして、散策しながら500年に渡る歴史に思いを馳せるのが常だった。
工事が始まったのは1549年だった。メディチ家当主のコジモ1世が病気がちな妻のためにピッティ宮殿を買い取ると共にボボリ庭園の造営に着手したのだ。しかし、広さが45,000㎡を誇る広大な庭園だけに完成までに70年という期間を要したという。それでも、それだけの価値はあった。傑作と評価され、ウイーンのシェーンブルンやパリ郊外のヴェルサイユ宮殿の王宮庭園に影響を及ぼしたのだ。イタリアの誇りと言っても過言ではなかった。その後、1766年に一般公開されると、多くの人の憩いの場となり、更に1982年に世界遺産に登録されると、世界各地から観光客が多く訪れるようになった。ボボリ庭園はフィレンツェにとってなくてはならないものになったのだ。
そんなことを思いながら今日もフローラは公園内の木々や芝生や彫刻などとの会話を楽しんでいた。語りかけると必ず返事を貰えるからだ。他の人には聞こえないかもしれないが、フローラの耳には彼らの声が聞こえるのだ。それはメディチ家の末裔に与えられた特殊な能力かもしれないが、彼らとの会話は無くてはならないものになっていた。
いつものようにネプチューンの泉に立ち寄り、「お魚は獲れそうですか?」と像に声をかけると、「神のみぞ知る」という声が返ってきた。
「あなたが神なのに」
フローラが笑うと、「忘れておった」と像が頭を掻いた。その瞬間、魚が飛び跳ねた。不意を突かれた像が慌てて槍を投げたが、突き刺すことはできなかった。
「修練が必要じゃ」
像の顔が思い切り歪んだ。
それが余りにも辛そうだったので、「豊漁になりますように」と笑みを投げかけると、像は感極まったような声を発した。
「かたじけない」
深く頭を下げてそのまま動かなくなったので、「またね」と声をかけてその場を離れた。
まっすぐ歩いて緩い階段を上り、女神像の前に立った。豊穣の女神像だった。見上げたあと、首を垂れて、いつものようにお願いをした。フィレンツェの繁栄とメディチ家末裔の活躍と日本の復興だった。
フローラが顔を上げると、それを待っていたかのように雲間が開いて、光のシャワーが降り注いできた。七色の光が女神像を照らすと、声が耳に届いた。
「フローラ、フィレンツェとメディチ家と日本を愛するフローラ、もうすぐあなたの旅が始まります。それは長い旅になることでしょう。そして、あなたに幸運をもたらす旅になることでしょう。そこでは予想もできないようなことが起こりますが、それから逃げてはいけません。受け入れるのです。信じるのです。そうすれば、あなたの未来は愛と希望に満ちた素晴らしいものになるでしょう」
🗽 🗽 🗽
旅が始まる……、
予想もできないようなことが起こる……、
愛と希望に満ちた素晴らしい未来……、
その夜、フローラはベッドの中で女神像が発した言葉を思い出していた。しかし、それがなんなのか、さっぱりわからなかった。自分に何が待ち構えているのか想像すらできなかった。
受け入れるのです、
信じるのです、
フローラは天井に向けて呟き続けた。しかし、何を受け入ればいいのか、何を信じればいいのか、皆目見当もつかなかった。
わたしに何が起こるの?
目に浮かぶ女神像に問うたが、しかし、にこやかな笑みを浮かべるだけで、何も答えてはくれなかった。
🗽 🗽 🗽
3日後、フローラに突然の辞令が下りた。長期出張の命令だった。行先は、なんと日本だった。あの憧れの日本だった。目的は漢方と薬膳の調査だった。将来の事業展開を検討するプロジェクトチームがこの二つを推挙し、トップの承認が下りたのだという。上司からは「薬草栽培から始まったサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局にとって必要不可欠な選択であり、それを遂行する者として日本語が堪能なフローラが最適であると判断された」と告げられた。
それを聞いた途端、床にへたり込みそうになった。なんとか我慢したが、信じられない思いで体がふわふわとしていた。
豊穣の女神様……、
あの時の予言を思い出した。
このことだったのですね、
心の中で呟くと、女神像の微笑みが浮かんできた。
ありがとうございます、
フローラは首を垂れて十字を切った。
🗾 🗾 🗾
仕事が終わるや否や、息せき切ってウェスタの店に駆けこんだ。電話ではなく直接伝えたかったからだ。
「日本?」
ウェスタがこれ以上は無理というほど目を見開いた。
「わたしもまだ信じられないの」
フローラも現実のこととして受け止め切れていなかった。
「ところで、いつから?」
「1週間後」
「えっ‼」
ウェスタが絶句した。真っ先に送別会と送別品のことが頭に浮かんだようだが、それを短期間で準備するのは難しいと嘆いた。
「せめて2週間後にしてもらったら?」
「無理よ、仕事なんだから。個人の都合なんて聞いてもらえるわけないじゃない」
「そうか……」
ウェスタが腕を組んだ。考え込んでいるようだった。しかし、それに付き合っている暇はなかった。
「とにかく、すぐに準備を始めないと間に合わないから帰るわね」
ウェスタが何かを言いかけたが、それに構わず、踵を返して店をあとにした。
🗾 🗾 🗾
あっという間に出発前日になった。日本滞在中に必要となる荷物は送り出していた。飛行機に持ち込む荷物もスーツケースとバッグに詰め込み終わっていた。
あとは……、
無意識に口から出た言葉が、忘れ物がないかどうかのチェックを促した。
机を見ると、隅に何かが置かれていた。封筒だった。忙しくて開封するのを忘れていた。消印はニューヨークで、弦からの手紙だった。毎週届く手紙だった。毎回写真が同封されており、今回もパンを両手に持って得意げな顔をした弦が写っていた。両手に持っているパンはグリッシーニとフォカッチャで、どちらもフローラの大好物だった。
かわいい……、
思わず呟きが漏れた。弦には実の弟のような親近感を持っていた。
ニューヨークだったら弦と会えたのに……、
昨年の夏にディナーを囲んだ時のことが蘇った。そして、初めて受け取った手紙に住所が書いていなかったことも蘇った。
おっちょこちょいなんだから……、
呟きを右手の人差し指に乗せて、写真の中の弦の額にチョンと触れた。
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