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ニューヨーク
しおりを挟むえっ、日本?
その文字を目にした瞬間、大きな声を発していた。それは予想もしていないことだった。青天の霹靂とはこのことで、手紙を手にしたまま身動きできなくなった。
帰りたい……、
突然、呟きが漏れた。日本に帰れば毎日でもフローラに会えるのだ。しかし、そんなことはできなかった。店を放り出して自分勝手な行動をとることはできないのだ。アントニオの代役を務めると固く決心して始めたことを途中で投げ出すなんてできるはずがなかった。
アントニオの回復は想定より遅れていた。未だに右手と右足が不自由なままなので、厨房に立つのが難しく、立ったとしても短い時間に限られていた。頑健そのものだった彼の体は見る影もなくやせ細って痛々しいほどで、そのせいか疲れやすく、すぐに息が上がった。
そのやつれた姿が目に浮かぶと、あの時の言葉が蘇ってきた。
義を見てせざるは勇無きなり。
あの日偉そうに発した言葉を反芻しながら窓に視線を向けると、ルチオの顔が浮かび上がってきて、フローラのことを考えてしまった自分が情けなくなった。だから、彼を裏切ってはいけない、自分の言葉に責任を持たなければならない、と口に出すことによって自らを縛り付けた。
それでも視線は手紙に戻ってしまった。本音は会いたくて仕方がないのだ。それを抑えることなんてできるはずはなかった。もう一度同じところを読み返すと、4月1日から銀座店での勤務が始まると書いてあったが、いつまで日本にいるのかは書かれていなかった。長期出張とだけ記されているのだ。
いつまでいるのかな……、
呟きが手紙に落ちた。しかし、返事が返ってくることはなく、手紙は無言を貫いていた。
✉ ✉ ✉
「うまくいってるかい?」
週に一度のお決まり文句をルチオが口にした。フローラとの手紙のやり取りのことだった。進捗を聞くのを楽しみにしているのだ。しかし、いつものようなウキウキした声を返すことができなかった。
「まあまあ……」
すると、「どうかしたのかい」と覗き込むようにして顔を見られた。
「ちょっと……」
「ふ~ん」
それ以上突っ込んでこなかったのでほっとしたが、その時、「あっ!」という声が聞こえた。見ると、アントニオが床に倒れていた。バランスを崩したようだった。すぐに助け起こすと、ルチオと奥さんが血相を変えて寄り添った。
「大丈夫ですか」
アントニオは頷いたが、大丈夫そうではなかった。自由の利かない右肘を打ったようだった。弦は奥さんと共に抱えるようにして自宅へ連れて行った。
店に戻って「しばらく休んでもらった方がいいですね」とルチオに声をかけると、「悪いね、迷惑かけて」と頭を下げた。
「迷惑だなんて、そんな……」
弦は慌てて首を振って仕事に戻った。
📞 📞 📞
「今日も助けてくれてありがとう」
仕事を終えて部屋でボーっとしていた弦の耳にアンドレアの声が響いた。アントニオに関する御礼の電話だった。
「ちょっと無理をし過ぎだと思うよ。怪我でもしたら大変だからしばらく休んでもらった方がいいんじゃないかな」
自分がちゃんとやるから復帰を急ぐことはないと告げた。
「ありがとう。でも、部屋でじっとしていられないみたいだから、明日もパンを焼くと思うよ」
「う~ん、それはちょっと。少なくとも明日は休ませた方がいいよ」
しかし、返事はなかった。何か考えているようだった。そのせいか間が空いたが、んん、というくぐもった声のあとにちゃんとした声が戻ってきた。
「わかった。明日は学校を休んで傍にいるようにするよ」
「そうしてくれると助かるよ。でないと奥さんも店に出られないからね」
「そうだね」
そこで声が切れた。沈黙が続いて何か躊躇っているような感じだったので、「どうした?」と問いかけると、「どうもしないけど……」と口ごもった。
「なんだよ」
また沈黙が始まったが、少しして掠れた声が戻ってきた。
「あのさ」
「ん?」
「じいさんから聞いたんだけどさ」
「何を?」
「何かあったの?」
「何かって?」
「いや、ユズルの様子がおかしかったって言ってたから」
「そうかな」
弦はまともに取り合わなかったが、「フローラとなんかあったの?」と見透かされた。勘のいいアンドレアにこれ以上とぼけるのは無理そうだったので、フローラが日本で働き始めることを包み隠さずに話した。すると、「そうか……」と何か考えているような声が聞こえたが、すぐに、「日本に帰りたいんじゃないの?」と本音を言い当てられた。「日本に帰ればフローラに毎日でも会えるしね」。しかし、弦の口から出たのは真意とは違う言葉だった。
「そんな気はないよ」
「無理するなよ」
「無理してないよ」
「声が無理してるよ」
二の句が継げなかった。それでも、「とにかく今は店のことが大事だから、それ以外のことは考えていない」となんとか声を絞り出して、通話をOFFにした。
ベッドに寝転がって蛍光灯を見上げた。すると、その光の中にフローラの顔が一瞬浮かび上がった。
「ブレッド、ブレッド、ブレッド」
フローラのイメージを追いだすために店の名前を何度も呟いたが、しかしそれは逆効果になってしまった。いつの間にか「フローラ、フローラ、フローラ」に変わって、その呟きは深夜まで続いた。
🗾 🗾 🗾
その翌日、忙しい時間が過ぎて客がほとんどいなくなった時、ルチオが手招きをした。
「ユズル、話がある」
何かと思って近づくと、厳しい目で見つめられた。
「日本に帰りなさい」
いきなりの直球だった。
「帰れって……」
弦は目を丸くしたまま固まった。
「うちのことは心配しなくていい」
昨日とは打って変わって厳しい表情になっていた。アンドレアがルチオに昨夜のことを話したのだろう。しかし、それに従うつもりはなかった。
「心配するなって言われても、僕が帰ったら店がまわりませんよ」
「大丈夫。できる範囲内で続けるから」
弦は首を強く横に振った。
「大丈夫じゃありません。無理をしてルチオさんが倒れたりしたらどうするんですか。大変なことになりますよ」
頑として制すると、それに押されたのか視線を落としたので同意と受け取ったが、そうではなかった。
「ダンテのようになりたいのか」
戻ってきた視線は更に厳しいものになっていた。
「一生片思いで終わりたいのか。死んでから巡り会っても遅いんだぞ」
鬼気迫る表情で睨みつけられたが、なんの話かよくわからなかった。突然の話題転換についていけなかったし、ダンテという言葉に馴染みはなかった。するとそれに気づいたのか、表情を戻して順を追ってかみ砕くようにして話し出した。
ルチオが言っていたのは、中世イタリアの詩人であるダンテのことだった。彼は最愛の人であるベアトリーチェと一緒になれなかったばかりか、若くして死別するという悲劇に見舞われて狂乱状態になったのだという。
「ユズル、よく聞きなさい。そして心に刻みなさい。最愛の人に巡り合うのは人生でただ一度しかないことを」
腹の底に響くような声だった。
「そして、時間が無限にあるという考えを捨てなさい。命がいつまでも続くという思いを捨てなさい。ベアトリーチェは24歳の若さで死んだんだ。フローラは何歳だ? 同じくらいの年ではないのか」
頷かざるを得なかった。
「みんな長生きするわけではない」
そこで表情が一気に曇ると、「私の孫も……」と唇が震え出した。それでもなんとか堪えて、気丈に声を絞り出した。
「いつ突然何が起こるかわからない。あとになって悔やんでもどうしようもないんだ」
そして天井を見上げた。涙を堪えているようだったが、視線が弦に戻ってきた時、表情は一変していた。
「ダンテは地獄に落ちた。最愛の人がいない現世で生きていても仕方がないからだ」
ルチオは目を瞑って『神曲』の地獄編第一歌を口にした。
「人生の道半ばで正道を踏み外した私が目を覚ました時は暗い森の中にいた。その苛烈で荒涼とした峻厳な森がいかなるものであったか、口にするのも辛い。思い返しただけでもぞっとする。その苦しさにもう死なんばかりであった」
そして目を開けた途端、「ダンテのようになりたいのか」と射るように見つめられた。更に、「フローラが突然の病気に倒れたらどうする。不慮の事故に遭ったらどうする。誰かに誘惑されたらどうする」と両肩を掴まれて揺さぶられた。
弦はハッとした。そんなことになったら生きてなんていられるはずがない。フローラのいない人生なんてなんの意味もないのだ。そう思い至った時、ルチオが行動を促すような声を発した。
「チャンスは二度と訪れない。幸運の女神に後ろ髪はないんだ。通り過ぎてしまう前に前髪を掴みなさい」
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