余寒

二色燕𠀋

文字の大きさ
2 / 16

2

しおりを挟む
 本当に奴隷だったのか。

 扉を閉めた、人の温度も冷ます廊下で浮かんだような言葉はそれで。

 いまの時世や立場、噂になっては後始末が面倒だ。古臭く好き者め。函館はこだての林の中を思い出しそうになる。あの男よもや追い詰められているのかと更に思考が流れたときに廊下を見れば、にやりと笑った井上がいた。
 席を抜けてきたようだ。

「…井上さん、」
「伊藤さんはお休みかね」
「…はい」
「ははぁ、君も大変だねぇ」

 何を言いたいのかと推し量れば「君、元幕臣だそうだね」と、今しがた上司にも小突かれたことが繰り返された。

「…幕臣など、そんな物でもありませんよ」

 これは恐らく、26の若さだった。あの、軍を捨てた忌まわしい政党など、思い出したくもないが、

「ほほう、なるほど」

 と言った井上は更に聞く、「出身は?」と、手近で面倒な挨拶を交わしてきた。

「…桑名くわなです」
「桑名か。生き延びるとは大した男だ」

 褒められた気がしない。
 だが井上は「着いてくるか」と、政治を語るように淡々と続けるのだから、理解に間があった。

「…は?」
「あの幕臣嫌いがなぜ君を取ったのかその肝が知りたい」

 …けしかける意図がわからない。

「…伊藤さまは同郷ではないですか」

 返答の語彙すら陳腐になり下がる。

「同郷など、捨てたに等しいのだよ、今となっては。君もわかるだろう?生き残るということを」

 そう言った彼ら言葉に暗闇を見出だした気がした。

「…そもそも、私は誰かの下、という役割ではないのです、」

 二つ、返事とせずにその場は曖昧として流して逃れる。
 終わった話にした。

 しかし、井上いのうえかおるから柊造への「人事移動願」が正式に文書として届いたのは数日のことだった。

 伊藤の元を去る際に、「あの子供は」と聞きそびれたまま柊造は井上の秘書に就任した。
 特に、何がどうだったというわけでもないのに何故だか子供の目を忘れることが出来ないでいた。

 ふと井上に、英国公使館えいこくこうしかん焼き討ちで置き去りにされた異国の子供がいる、という話をした程だった。

「君はそんなことよりも嫁じゃないのか?」

 急に井上に言われた柊造は一瞬言葉に詰まってしまった。
 違う記憶の濁流に切り替わる。嫁、子供、そう言われて故郷を思い出さないわけがない。

「…そうですね」
「君なら良い貰い手がいるだろうよ。丁度私の親戚に似た年の娘が」
「…生憎ですが、いまはもういいのです」

 その柊造の物言いにはて?と井上は首をかしげる。涼しい顔をしたそこそこな男に、宛がない。

 柊造にとって大声で言える話でもない、自分は最終的に脱藩という形で家族を捨てたのだと。敗戦したがその形で一家と自分は断絶となれど、死罪は免れただろう、そう信じている。

 伊藤よりも井上には人の心があったようだ。
 察したように「そうか」と言っては「うーむ」と考える素振りを始めたようで。

「…井上さんの体裁としては若造の部下一人、独り身がいようなど情けもないとは存じますが」
「そうだな。まぁ単純に君が不憫なのもある」

 碧眼を思い出す。
 あれが一体、本当はなんなのかを知らない。

「不思議なものだな」

 井上はそう呟いてすぐ「まぁ、いい」と、それで、物と言うのをすべて了承したようだった。

「いまや異人など鬼でもないしな。故郷に家族を忘れた男が異人の子供を拾う、筋書きとしてはそれも悪くない」
「…えっと…」
「気になるなら伊藤から引き剥がせばいいだろう」

 何を考えるかわからぬもの。
 井上は言い切れば満足したのかなんなのか、一息吐いては「…君は」と神妙になる。

「…悪い、戦争の話など。
 戦争では、果たして何を勤めた」
「…鉄砲頭ですが」
「では外務として、その子供に最後銃を向けるのは君にしようか」
「…はい?」
「…私の見た戦争の中に一つ、そういう手管がある。姫君を人質に取られ決起した。しかし、親も信じた主に手を返されそれは敗戦となった」

 …長州最大のクーデター。

「…なぁ、君は私や伊藤が憎かろうな。どんなに時が過ぎようとも。だが私はその戦も、最後の戦ですら、君を見たことはおろか敵の顔すら知らないのだよ東堂くん」
「…そうですか」
「あぁ。私は藩主の子息だからね。私はだからこそ、最後の最後、もしも君の元上官と刺し違えれば君に刀を振るうだろう」

 なるほど。
 戦地の、綺麗な水を思い出した。

 当時を生きたものは全て、同じ生き物だ。皆そう、武器は捨てずに隠している。
 本当に武器を置くのは信じたものが目の前で血祭りにあげられてからの、話だ。

「…怖いことを仰る」

 端から、皆誰も信用など、していないのだ。

 いまの財政では、そもそも英国との交渉や元幕府との和解、そんな話も遠いが、来ないわけではない。
 この男はなぞるでもなく素直に準じる男のようだ。

 噂話とはやはり後からの方が、虫のように沸いてくるようで、彼、井上馨は元は毛利もうり敬親たかちかの小姓であり、あの高杉たかすぎ晋作しんさく久坂くさか玄瑞げんずいと共に、英国大使館を焼き討ちした張本人だと知る。

 それだけの腹を持つ男だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...