余寒

二色燕𠀋

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 井上はあの文書に、後に外務卿がいむきょうを自分に後継させると言う旨まで書いて寄越していた。

 井上は現在、欧米へ外遊している。自分はその留守の際の変わりを、日本政府で勤めていた。
 伊藤が留守中は井上がそのポストを守り、それどころか新たな法や制度を固めていたのだが、いまそれは自分に回ってきた。

 あれから4年が経ち、一時はそれも崩れ井上が政界を去った期間もあったが、井上という男は元来の長州人らしく、転んでもただでは起きないような男だった。

 伊藤は、といえば、体制を崩す番だった。

 いま、机で柊造が眺めている文書。
 先月元薩摩さつま大久保おおくぼ利通としみちが暗殺された。

 伊藤はこの情勢の不安に井上の手を借りたいようで、最近またしばしば自分を訪ねることがある。しかし伊藤は未だ、井上か自分か、自分が実権を待っていると信じている節があるのだが、井上はここ一年の報告書ですら、江華島えはなじま事件の終息、日朝修好条約締結など、残したものが大きい。

 すべては井上がやってきたことで伊藤博文には出来なかった、こと。
 伊藤がいなかったあの4年前ですらも彼は結果を残している、遥かに伊藤より井上馨は優秀で、恐ろしい人物なのだ。

 柊造から見れば伊藤は滑稽だった。
 端から、井上は伊藤を手駒とすら見ていない。
 自分は今、なんのつもりで伊藤から井上への手紙を眺めているのか。

  不意に、函館の地で敗戦の白旗を眺めた日を思い出す。
 あれからは8年が過ぎようとしている。
 何故自分がここにいるかと、考えては筆が止まった。

 ぼんやりとしていたら「父」と、すぐ側で聞こえてはっとする。
 
 顔の真横で、あの異国の子供が書類を眺めている。

「…なんだ」
「その半紙はなんでしょう?」

 見れば自然と、上司の時世の句などを走り書きしてしまった自分がいたようだった。

「あぁ、癖だ」
「クセですか」
「どうしたいきなり」

 いつもこうして然り気無く書類を隠すのだが、この少年にはあまり意味がないと知っている。

 異国の子供アリシアは、柊造の小姓として宛がわれた。
 どさくさに紛れたが未だにアリシアを養子縁組にはせず、側にただいるだけになっている。

 引き取った4年前、12歳の頃から柊造が教えたことは、書類を見てはならない、人質なのだから容易に外に出ない、という規則的なものと、日本語の読み書き、そろばん。
 アリシアがそれらを人並みに習得するまで、案外早かった。

 あまりの激務のなか、ふいに柊造はアリシアにそろばんを任せてみたことがあった。
 下級武士であった自分よりも遥かにアリシアは計算が早くなっていた。
 柊造はその日から、アリシアが手に取った書類分だけ、計算の仕事を任せることにしてみたのだ。
 計算書類の7割をアリシアに掠め取られてしまうことを、少しばかり楽しいと感じるようになっていた。

 アリシアが顔の真横で「そろばんはないのですか?」と柊造に聞く。生憎最近は井上との隠れたやり取りか、伊藤の懇願じみた手紙が殆どだった。

「今日はないな」
「最近つまんないな」
「そんな時期もある」
「うーん」

 本当につまらなそうなアリシアはしかし、「父、肩を揉みます」と宣言し、柊造の返事を待たずに両肘で肩をぐりぐりと力任せにやるのだから「痛ぇ」と短く漏れる。

「そのうち効きま」
「痛ぇ痛ぇ、待ていたたたた」
「んー?」
「それ、寝転がってるときにやるやつだろーよ…」
「だって」
「痛い痛い大丈夫だ勘弁してくれ」

 肘をタップすると「えー」と駄々をこねる。
 本日はどうやら、元気なようだ。

「…仕方ないな」

 今日はもう何も仕事にならないと観念し、柊造はアリシアに向き合った。
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