3 / 16
3
しおりを挟む
井上はあの文書に、後に外務卿を自分に後継させると言う旨まで書いて寄越していた。
井上は現在、欧米へ外遊している。自分はその留守の際の変わりを、日本政府で勤めていた。
伊藤が留守中は井上がそのポストを守り、それどころか新たな法や制度を固めていたのだが、いまそれは自分に回ってきた。
あれから4年が経ち、一時はそれも崩れ井上が政界を去った期間もあったが、井上という男は元来の長州人らしく、転んでもただでは起きないような男だった。
伊藤は、といえば、体制を崩す番だった。
いま、机で柊造が眺めている文書。
先月元薩摩の大久保利通が暗殺された。
伊藤はこの情勢の不安に井上の手を借りたいようで、最近またしばしば自分を訪ねることがある。しかし伊藤は未だ、井上か自分か、自分が実権を待っていると信じている節があるのだが、井上はここ一年の報告書ですら、江華島事件の終息、日朝修好条約締結など、残したものが大きい。
すべては井上がやってきたことで伊藤博文には出来なかった、こと。
伊藤がいなかったあの4年前ですらも彼は結果を残している、遥かに伊藤より井上馨は優秀で、恐ろしい人物なのだ。
柊造から見れば伊藤は滑稽だった。
端から、井上は伊藤を手駒とすら見ていない。
自分は今、なんのつもりで伊藤から井上への手紙を眺めているのか。
不意に、函館の地で敗戦の白旗を眺めた日を思い出す。
あれからは8年が過ぎようとしている。
何故自分がここにいるかと、考えては筆が止まった。
ぼんやりとしていたら「父」と、すぐ側で聞こえてはっとする。
顔の真横で、あの異国の子供が書類を眺めている。
「…なんだ」
「その半紙はなんでしょう?」
見れば自然と、上司の時世の句などを走り書きしてしまった自分がいたようだった。
「あぁ、癖だ」
「クセですか」
「どうしたいきなり」
いつもこうして然り気無く書類を隠すのだが、この少年にはあまり意味がないと知っている。
異国の子供アリシアは、柊造の小姓として宛がわれた。
どさくさに紛れたが未だにアリシアを養子縁組にはせず、側にただいるだけになっている。
引き取った4年前、12歳の頃から柊造が教えたことは、書類を見てはならない、人質なのだから容易に外に出ない、という規則的なものと、日本語の読み書き、そろばん。
アリシアがそれらを人並みに習得するまで、案外早かった。
あまりの激務のなか、ふいに柊造はアリシアにそろばんを任せてみたことがあった。
下級武士であった自分よりも遥かにアリシアは計算が早くなっていた。
柊造はその日から、アリシアが手に取った書類分だけ、計算の仕事を任せることにしてみたのだ。
計算書類の7割をアリシアに掠め取られてしまうことを、少しばかり楽しいと感じるようになっていた。
アリシアが顔の真横で「そろばんはないのですか?」と柊造に聞く。生憎最近は井上との隠れたやり取りか、伊藤の懇願じみた手紙が殆どだった。
「今日はないな」
「最近つまんないな」
「そんな時期もある」
「うーん」
本当につまらなそうなアリシアはしかし、「父、肩を揉みます」と宣言し、柊造の返事を待たずに両肘で肩をぐりぐりと力任せにやるのだから「痛ぇ」と短く漏れる。
「そのうち効きま」
「痛ぇ痛ぇ、待ていたたたた」
「んー?」
「それ、寝転がってるときにやるやつだろーよ…」
「だって」
「痛い痛い大丈夫だ勘弁してくれ」
肘をタップすると「えー」と駄々をこねる。
本日はどうやら、元気なようだ。
「…仕方ないな」
今日はもう何も仕事にならないと観念し、柊造はアリシアに向き合った。
井上は現在、欧米へ外遊している。自分はその留守の際の変わりを、日本政府で勤めていた。
伊藤が留守中は井上がそのポストを守り、それどころか新たな法や制度を固めていたのだが、いまそれは自分に回ってきた。
あれから4年が経ち、一時はそれも崩れ井上が政界を去った期間もあったが、井上という男は元来の長州人らしく、転んでもただでは起きないような男だった。
伊藤は、といえば、体制を崩す番だった。
いま、机で柊造が眺めている文書。
先月元薩摩の大久保利通が暗殺された。
伊藤はこの情勢の不安に井上の手を借りたいようで、最近またしばしば自分を訪ねることがある。しかし伊藤は未だ、井上か自分か、自分が実権を待っていると信じている節があるのだが、井上はここ一年の報告書ですら、江華島事件の終息、日朝修好条約締結など、残したものが大きい。
すべては井上がやってきたことで伊藤博文には出来なかった、こと。
伊藤がいなかったあの4年前ですらも彼は結果を残している、遥かに伊藤より井上馨は優秀で、恐ろしい人物なのだ。
柊造から見れば伊藤は滑稽だった。
端から、井上は伊藤を手駒とすら見ていない。
自分は今、なんのつもりで伊藤から井上への手紙を眺めているのか。
不意に、函館の地で敗戦の白旗を眺めた日を思い出す。
あれからは8年が過ぎようとしている。
何故自分がここにいるかと、考えては筆が止まった。
ぼんやりとしていたら「父」と、すぐ側で聞こえてはっとする。
顔の真横で、あの異国の子供が書類を眺めている。
「…なんだ」
「その半紙はなんでしょう?」
見れば自然と、上司の時世の句などを走り書きしてしまった自分がいたようだった。
「あぁ、癖だ」
「クセですか」
「どうしたいきなり」
いつもこうして然り気無く書類を隠すのだが、この少年にはあまり意味がないと知っている。
異国の子供アリシアは、柊造の小姓として宛がわれた。
どさくさに紛れたが未だにアリシアを養子縁組にはせず、側にただいるだけになっている。
引き取った4年前、12歳の頃から柊造が教えたことは、書類を見てはならない、人質なのだから容易に外に出ない、という規則的なものと、日本語の読み書き、そろばん。
アリシアがそれらを人並みに習得するまで、案外早かった。
あまりの激務のなか、ふいに柊造はアリシアにそろばんを任せてみたことがあった。
下級武士であった自分よりも遥かにアリシアは計算が早くなっていた。
柊造はその日から、アリシアが手に取った書類分だけ、計算の仕事を任せることにしてみたのだ。
計算書類の7割をアリシアに掠め取られてしまうことを、少しばかり楽しいと感じるようになっていた。
アリシアが顔の真横で「そろばんはないのですか?」と柊造に聞く。生憎最近は井上との隠れたやり取りか、伊藤の懇願じみた手紙が殆どだった。
「今日はないな」
「最近つまんないな」
「そんな時期もある」
「うーん」
本当につまらなそうなアリシアはしかし、「父、肩を揉みます」と宣言し、柊造の返事を待たずに両肘で肩をぐりぐりと力任せにやるのだから「痛ぇ」と短く漏れる。
「そのうち効きま」
「痛ぇ痛ぇ、待ていたたたた」
「んー?」
「それ、寝転がってるときにやるやつだろーよ…」
「だって」
「痛い痛い大丈夫だ勘弁してくれ」
肘をタップすると「えー」と駄々をこねる。
本日はどうやら、元気なようだ。
「…仕方ないな」
今日はもう何も仕事にならないと観念し、柊造はアリシアに向き合った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる