10 / 16
10
しおりを挟む
朝の小樽の風は、海の臭いと肌を刺す寒さがあった。
船を出る際に柊造はアリシアに軍時代の、フロックコートを着せてみた。
かつて死んだ上官は洋装が日本人には似合わないことが嫌で、小さめに作っていたようだ。彼は少し洒落ていた。戦争が終わり、こっそり小さめに柊造も仕立て直したのだが、見事にアリシアにピッタリだった。
「ピッタリだな」
自分にはかつて似合わなかったそれに少し嬉しくなる。
自分は無難に角袖コートを着ながら「父からのお下がりだ」と、蝦夷の地へ、8年ぶりに立った。
角袖コートでは、やはり少し寒い。
「…寒くないか?」
「冷たいですが、暖かいです」
アリシアの顔は霜で少し赤くなる。だが、嬉しそうな表情を見て「よし、」と気を引き締めた。
かつて上司であった榎本は今や、海軍中将に任命されていたはずだ。
彼は当時から「ロシア侵略を防ぐため」と、この蝦夷を開拓すると謳っていた。そして現在の樺太・千島交換条約締結とマリア・ルス号事件の対処。
彼は今も生きている。
確かに、ブレもないが場所を変え、この日本に貢献していた。
はぁ、と吐いた溜め息が白い。
ちらっと自分を眺めたアリシアに「緊張してるな」と飾りもせずに言う。
榎本は当時に白旗を上げた相手の下ですらやっている。それは伊藤や井上にはない根気であると認めざるを得ない。
長州など、政権を手にすれば実際のところはどうしていいかと持て余していると言うのに。先人たちの教訓を繰り返す、としてもそこが、明治政府の幹部とは違う気概なのだ。
自分は一体どの面を下げて榎本に会うべきか。
だが、彼は一度はこの地を諦めた身だ。
彼はいまどんな心持ちで政府に貢献しているのか。当時の他の参謀たちは皆、何も得られなかったのだから、息を殺し謹慎生活を送っている。榎本はどこまでの情熱で戻ったのだろうか。そこが総長であった榎本と、自分とでははっきりと違う。
小樽の会館へ向かう最中、開拓された畑などがちらほらと目に入った。
アリシアは「広いですねぇ」と、興味深そうに感心するのだった。
「土地はたくさんあるからな。だが、ここまで制定するのは大変だっただろう」
「そうなんですね」
「ここはそもそも、細かく国が分かれていたんだ。いずれこの陸地をひとつに纏めたいのだけど、気候や…地形や、なにより広いからな。実質的にはまだまだ掛かる」
無法地帯というものからは遠ざかった。ここからは時間を掛けるしかない。
会館に着いてすぐ、間髪も入れずに榎本武揚は自分を待っていた。
彼は8年分のくらいには歳をとったのだと感じた。
榎本は疑り深いような表情だった。
柊造としてはあっさりあらわれた榎本に面食らう、と言うよりも準備が出来ていなかったような心境だった。
「…特命全権弁理大臣井上馨の代理で参りました、秘書の東堂柊造と申します」
挨拶をすれば「あぁ、失礼」と榎本も少しだけ頭を下げる。
「陸軍中将の榎本武揚と申します。黒田から伺っております。
…井上氏の代理、でしたか。伊藤氏から連絡がありましたが」
「…あぁ、」
更に、面食らった。
「…ただいま井上は海外にいまして。突然の訪問、忝ない」
「あぁ、あの人外遊中でしたよね、確か」
皮肉に返された。
それから榎本の視線は当たり前にアリシアへ迷うので、「私の倅でございます」と柊造は言う。それにアリシアはペコッと頭を下げる。
「…はぁ、なるほど。
3日滞在すると伺いました。こちらで部屋を用意いたしましたのでご案内致します」
雰囲気的には、柊造もアリシアもあまり歓迎はされていない。わかってはいる。井上の今の待遇では、そうなるだろう。
榎本は自分を覚えてなどいなかった。
いや、知らないのかもしれない。
部屋を案内しながら榎本は「大変ですね」と話を振ってきた。
「井上氏の秘書、とは。まぁ、金にはなりますがいまや逆境でしょ。見たところお若いのに大変ですね」
「…そうですね」
「こんなとこ、流刑地だって、あんたも政府の人間なら承知でしょ?」
はっきりと言われてしまった。
確かに、ここはいまや、元幕府、奥羽列藩同盟国の士族やら、そういった物達への行き場として与えられるのも多々ある。
新たに出来た「屯田兵制度」の屯田兵として開拓にまわっている者もいるが、現状は過酷だと柊造は聞いている。
「…まぁ、黒田は井上さんを推したいみたいですけどね」
「…そうですか」
「あんた、元はなんだったんです?」
「…桑名の」
それだけ言えば榎本は止まり振り返り、「へぇ、」と、至極冷たく言うのだった。
「まぁ私ごときが言えたことでもありませんけれどね。樺太をロシアに売り渡しているし」
「…それは仕方のないと私は捉えますけれども」
驚いた。
しかし榎本も同じなようだ。
「へぇ…」と、今回は少しだけ思慮深く吐かれる。
「攻められるものだと思いましたけど」
「…政府もこの地を早く制定出来ていないのだし、条約改正も間に合わない。寧ろ、ここがなくなっていないのは大業だと、」
「偽善も聞いているとうざったいものですね。まぁ、いずれ取り返しますよ。ここは僕の領地ですから」
…また大言壮語となるのかもしれないが、なるほど、そうか「僕の領地」。榎本はまだ、この地と、あの敗戦を捨てることが出来ていないのかと身に染みたような、気がした。
しかし蝦夷共和国はもう、ない。だが、彼はこの捨てられた地を手にした感覚を忘れてはいないようだ。
榎本を応援はしないが否定も出来なかった。ただ、だから負けるのだといまならはっきりと柊造にもわかる。
船を出る際に柊造はアリシアに軍時代の、フロックコートを着せてみた。
かつて死んだ上官は洋装が日本人には似合わないことが嫌で、小さめに作っていたようだ。彼は少し洒落ていた。戦争が終わり、こっそり小さめに柊造も仕立て直したのだが、見事にアリシアにピッタリだった。
「ピッタリだな」
自分にはかつて似合わなかったそれに少し嬉しくなる。
自分は無難に角袖コートを着ながら「父からのお下がりだ」と、蝦夷の地へ、8年ぶりに立った。
角袖コートでは、やはり少し寒い。
「…寒くないか?」
「冷たいですが、暖かいです」
アリシアの顔は霜で少し赤くなる。だが、嬉しそうな表情を見て「よし、」と気を引き締めた。
かつて上司であった榎本は今や、海軍中将に任命されていたはずだ。
彼は当時から「ロシア侵略を防ぐため」と、この蝦夷を開拓すると謳っていた。そして現在の樺太・千島交換条約締結とマリア・ルス号事件の対処。
彼は今も生きている。
確かに、ブレもないが場所を変え、この日本に貢献していた。
はぁ、と吐いた溜め息が白い。
ちらっと自分を眺めたアリシアに「緊張してるな」と飾りもせずに言う。
榎本は当時に白旗を上げた相手の下ですらやっている。それは伊藤や井上にはない根気であると認めざるを得ない。
長州など、政権を手にすれば実際のところはどうしていいかと持て余していると言うのに。先人たちの教訓を繰り返す、としてもそこが、明治政府の幹部とは違う気概なのだ。
自分は一体どの面を下げて榎本に会うべきか。
だが、彼は一度はこの地を諦めた身だ。
彼はいまどんな心持ちで政府に貢献しているのか。当時の他の参謀たちは皆、何も得られなかったのだから、息を殺し謹慎生活を送っている。榎本はどこまでの情熱で戻ったのだろうか。そこが総長であった榎本と、自分とでははっきりと違う。
小樽の会館へ向かう最中、開拓された畑などがちらほらと目に入った。
アリシアは「広いですねぇ」と、興味深そうに感心するのだった。
「土地はたくさんあるからな。だが、ここまで制定するのは大変だっただろう」
「そうなんですね」
「ここはそもそも、細かく国が分かれていたんだ。いずれこの陸地をひとつに纏めたいのだけど、気候や…地形や、なにより広いからな。実質的にはまだまだ掛かる」
無法地帯というものからは遠ざかった。ここからは時間を掛けるしかない。
会館に着いてすぐ、間髪も入れずに榎本武揚は自分を待っていた。
彼は8年分のくらいには歳をとったのだと感じた。
榎本は疑り深いような表情だった。
柊造としてはあっさりあらわれた榎本に面食らう、と言うよりも準備が出来ていなかったような心境だった。
「…特命全権弁理大臣井上馨の代理で参りました、秘書の東堂柊造と申します」
挨拶をすれば「あぁ、失礼」と榎本も少しだけ頭を下げる。
「陸軍中将の榎本武揚と申します。黒田から伺っております。
…井上氏の代理、でしたか。伊藤氏から連絡がありましたが」
「…あぁ、」
更に、面食らった。
「…ただいま井上は海外にいまして。突然の訪問、忝ない」
「あぁ、あの人外遊中でしたよね、確か」
皮肉に返された。
それから榎本の視線は当たり前にアリシアへ迷うので、「私の倅でございます」と柊造は言う。それにアリシアはペコッと頭を下げる。
「…はぁ、なるほど。
3日滞在すると伺いました。こちらで部屋を用意いたしましたのでご案内致します」
雰囲気的には、柊造もアリシアもあまり歓迎はされていない。わかってはいる。井上の今の待遇では、そうなるだろう。
榎本は自分を覚えてなどいなかった。
いや、知らないのかもしれない。
部屋を案内しながら榎本は「大変ですね」と話を振ってきた。
「井上氏の秘書、とは。まぁ、金にはなりますがいまや逆境でしょ。見たところお若いのに大変ですね」
「…そうですね」
「こんなとこ、流刑地だって、あんたも政府の人間なら承知でしょ?」
はっきりと言われてしまった。
確かに、ここはいまや、元幕府、奥羽列藩同盟国の士族やら、そういった物達への行き場として与えられるのも多々ある。
新たに出来た「屯田兵制度」の屯田兵として開拓にまわっている者もいるが、現状は過酷だと柊造は聞いている。
「…まぁ、黒田は井上さんを推したいみたいですけどね」
「…そうですか」
「あんた、元はなんだったんです?」
「…桑名の」
それだけ言えば榎本は止まり振り返り、「へぇ、」と、至極冷たく言うのだった。
「まぁ私ごときが言えたことでもありませんけれどね。樺太をロシアに売り渡しているし」
「…それは仕方のないと私は捉えますけれども」
驚いた。
しかし榎本も同じなようだ。
「へぇ…」と、今回は少しだけ思慮深く吐かれる。
「攻められるものだと思いましたけど」
「…政府もこの地を早く制定出来ていないのだし、条約改正も間に合わない。寧ろ、ここがなくなっていないのは大業だと、」
「偽善も聞いているとうざったいものですね。まぁ、いずれ取り返しますよ。ここは僕の領地ですから」
…また大言壮語となるのかもしれないが、なるほど、そうか「僕の領地」。榎本はまだ、この地と、あの敗戦を捨てることが出来ていないのかと身に染みたような、気がした。
しかし蝦夷共和国はもう、ない。だが、彼はこの捨てられた地を手にした感覚を忘れてはいないようだ。
榎本を応援はしないが否定も出来なかった。ただ、だから負けるのだといまならはっきりと柊造にもわかる。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる