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「屋敷の外は危険がいっぱい」
屋敷の外は危険がいっぱい(4)
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「それじゃ、まずどこから回る?」
上の階に着くと、咲がスマホカメラをこちらに向けながらそう言った。
1階に比べると多少は人通りが少なくて助かる。
「えっと、最初は大きいものから……」
「あー、だめだめ。もっとメイドさんっぽく言って」
……メイドさんっぽくって何だ。
わたしの知ってるメイドは、いちいち買い物を実況したりしないんだけど。
それでもわたしはいちおう姿勢を正して、咲が構えているスマホに向かって言う。
「掃除機は配送してもらうので、家電売り場で最初に買う予定です、ご主人様。それから掃除や料理に使う道具を買って帰りますね」
細かいものを先に買っちゃうと荷物になるからね。
ペコリと一礼してから、家電売場に入る。
「いらっしゃいませー」
レジの女性店員さんが一瞬だけメイド姿のわたしを見たが、すぐに何事もなかったかのように正面に視線を戻す。
プロだなー。バイトと言っても、わたしのメイドもお仕事、見習わなくちゃ。
少し吹っ切れたので、わたしはメイドらしくしずしずと、でも堂々として店内を見て回った。
一口に掃除機と言っても種類は色々ある。最近増えてきたスティックタイプは、確かにコードレスという利点があるものの、使用時間に限界があって、ゴミもすぐいっぱいになってしまうので、あの広いお屋敷には向かない。
となると、やはり車輪の付いたキャニスタータイプなのだけど、紙パック式かサイクロン式かとかよりも重要なポイントがある。
軽さや長さや、自分が使いやすいものがいちばんだ。身体に合わないものを日々使うのは、思った以上にストレスになる。
うちの掃除機は母が選んだものだったから、わたしにはちょっと使いづらいんだよね。
今は何でもネットで買えるけど、こういうのは自分の手で確かめてからのほうがいい。店頭のサンプル品をいくつか試しながら、わたしは咲にそんなことを説明していた。
「へえ……」
咲は、妙にニヤニヤしながら聞いている。
「なによ?」
「だって、有紗――これからもずっと自分がセンセイの世話する気まんまんじゃん。辞めることとか考えてないでしょ? そうやって家電選んでるの、まるで新婚の奥さんみたいだよ?」
「なっ……」
思わず言い返そうとして気づく。咲にからかわれるいつものパターンだ。
「……そうやってわたしに意識させて、知らず知らずのうちに恋愛ムードに誘導する魂胆だ……その手には乗らないから」
「ふーん」
咲はすました顔でそれだけ言って、手にしたスマホを掲げてみせる。
「まぁ、今の会話もぜんぶ撮ってあるから、今さらとぼけてもムダだけど」
「ああああぁぁああ――!! カット、今のはカットで!!」
――けっきょく、いちばん軽くて高い場所まで届きやすそうな機種を選び、レジのお姉さんに配送をお願いする。
先生からは、カードと暗証番号、それから少しの現金を預かってきている。
……クレジットカードって、バイトの高校生にこんなに簡単に預けていいものなんだろうか……?
咲に横から教えてもらいながら、機械にカードを差して、暗証番号を入力。
それから、配送先として六堂先生の名前と住所を記入する。
こういう形で他人の住所氏名を書く機会なんてなかなかない。……咲が新婚さんなんて言うから、意識してしまう。これじゃまんまと咲の思うツボだ。
店員さんから見たら、メイド服を着た謎の女子高生だけどね。
次は生活雑貨。まずは調理器具のコーナーで、ボウルとざる、菜箸におたま、それから計量カップとピーラーとかを商品カゴに入れる。料理初心者が見落としがちだけど意外と多用する重要アイテムだ。
これぐらいなら、先生がひとりで料理をする場合でも、あって困ることはないはず。
それから掃除用品コーナーに移動し、ハンディワイパーと取替用シート、あれば何かと重宝する使い捨てのビニル手袋とか、あと肌に優しい洗剤類とか。
とりあえずこんなものでいいかな。小さなものは別に今でなくても、学校帰りにそのへんで買っていけばいいわけだし……。
今度は預かった現金で会計して、忘れずに領収証を書いてもらう。
「お宛名はどういたしましょうか」
「――“ご主人”様でいいんじゃない?」
咲が横からそう言うと、さすがに店員さんが吹き出してしまった。
「“六堂鏡哉”でお願いします」
咲の頭をぺちんと叩いてから、わたしは先生の名前をメモ用紙に書いて見せる。
……もし店員さんも六堂先生の読者だったりしたら、変な風評が広がっちゃたりしないかな。
まぁ、100%先生自身が望んでやっていることなので、風評というかただの事実なんだけど……。
買った品物を持ってきたエコバッグに入れ、売り場を出ると、向こうからちょこちょこと歩いてきた幼稚園ぐらいの女の子と目が合った。
わたしのメイド姿をじーっと見つめる幼女。
一瞬ためらったあと、せめてなるべく不審な印象を与えないよう、わたしはにっこり笑ってみせた。
「ママー、見て見て! メイドさんー!」
やめて。保護者のかたを呼ばないで。
悪意なく指さされるのもなかなか心に来る。
「……うん、メイドさんだねー。かわいいねー」
呼ばれた母親も、幼女に向かって優しく語りかけているけど、わたしとはぜんぜん視線を合わせてくれない。
「ミクちゃんもね! おおきくなったらメイドさんになるー!」
……うん。やめたほうがいいと思うよ。
こんなときに咲はどこへ行ったのかと思うと、少し離れた壁際でまたスマホを構えている。
「ちょっと、咲。それは何ディスタンス?」
「えー? ロングショットも撮っておいたほうがいいかなと思って」
「あのタイミングでやることかな?」
「幼女に優しく微笑む有紗、すごく絵になってたから。“ご主人様”もこれなら満足だって。あらためて惚れ直しちゃうかもね」
「だから、そんなんじゃないって……。早く録画止めてよ。買い物も終わったんだし」
「うーん、個人的にはもうちょっと撮れ高がほしいかなー」
「そんなのなくていいから」
買い物も終え、少し気が緩んでいたのかもしれない。
一連のやり取りでそこそこ周囲の注目を集めてしまっていたことに、わたしは気づいていなかった。
「おー、メイドちゃんだメイドちゃん」
「キミ、かわいいねー。それコスプレ?」
若い男性ふたりが、人込みの中からこっちに近づいてきたかと思うと、無遠慮な声を浴びせてきた。
女の子同士の『かわいい』は信用できないけど、こういう形で言われる『かわいい』はもっと嬉しくない。
「ご主人様がどうとか言ってたけど……俺らも満足させてくんない?」
制服姿でもこんな感じで声を掛けられることはたまにある。
ということは、こういうノリを好む女の子もいるんだろう。
でもわたしは、残念ながらそうじゃない。
「あー、この子ねー。やめといたほうがいいですよ?」
いつの間にか咲がすぐそばまで戻ってきて言った。
「この子、すっごく重いから。一度でもデートでもしようものなら、朝から深夜までずっとLINE送りまくりですよ。既読無視とかしたら家の前まで行くし。他の女のアドレスとか全部消そうとするし。かまってあげないとSNSで相手の実名入りの陰鬱なポエムを世界に発信し続けるし」
……あの、咲さん?
わたしを守ろうとして言ってくれてるのはわかるけど、わたしの名誉のために言っておくと、もちろんそんなことはしない。と、思う、たぶん。
男たちはそれを聞いて顔を見合わせた。
「マジかよ……」
「まぁ確かに、ゴスロリの子ってそういうとこあるよな……」
これはメイドの仕事着で、ゴスロリではない。そういう趣味の子が聞いたら二重に怒られるよ。
「ま、それでもいいや。ちょうど2対2だし、これからカラオケでも――」
前向きな結論を出してしまったその男性は、わたしに向かって手を伸ばしてきた。
一瞬、頭の中が真っ白になってしまう。
こういうとき、何を言えば良かったんだろう。どうすれば良かったんだろう。
頭の回転が遅いほうだとは思わないけれど、わたしはこういうときいつも、余計なことばかり考えて、何もできなくて。
――横からすっと伸びてきた腕が、わたしに触れる直前だった男の腕を掴んだ。
わたしはハッとし、その腕の主へと視線を向ける。
いつもの三つ揃いの上からフロックコートを羽織り、頭には煙突型のトップ・ハット。反対側の左手にはステッキ。
時代も季節感も場所柄も全て超越した英国紳士の姿がそこにあった。
……六堂先生だ。
先生は、男たちのほうを見据えて、落ち着いた声でこう言った。
「失敬。――当家のメイドに不躾な真似は控えていただけまいか」
「……先生、どうして……」
「なっ、なんだお前!?」
そりゃあ、そう言うよね。そこだけはわたしも同感。
男は先生の腕を振り払う。その拍子に、勢い余った男の腕がわたしの頭部のホワイトブリムをかすめた。
「……きゃっ」
「貴様――」
先生の身体が今まで見たことのないような機敏さで動き、宙に泳いだ男の腕を再び捉えると、流れるようにその背後に回り、さらに足を払った。片腕を捩じり上げられたまま、顔面からフロアに叩きつけられる男。
「先生……?」
「安心したまえ、有紗くん。小説の戦闘シーンを書くにあたり、最低限の体験はしておくべきだと思ってね。空手と剣道と合気道の道場に2年ほど通い、基礎は身に着けている」
相変わらず、努力のベクトルがちょっとおかしい人だ……。
わたしが聞きたいのはそこじゃないんだけど。
「そうじゃなくて、どうしてここにいるんですか? お屋敷で仕事をしている約束では?」
「……あ、いや、その……」
「まさか……隠れてずっと見てたとか言いませんよね……?」
一方、呆然としているもうひとりの男に向かって、咲がスマホの画面を突き付けた。
「さっき有紗に掴みかかろうとしたとこ、ちゃんと撮ってありますから。この動画をモザイクなしでアップされたくなかったら、今回はお互いチャラってことで、水に流しません?」
そう言って咲は目を細めた。彼女は男相手でもいつも強気で堂々としている。
……バッグの中にスタンガンとか持ってるしな。
男は、倒れたもうひとりの男を助け起こす。
「ちっ、何なんだよ、こいつら……動画で炎上とかもうこりごりだぜ」
もうひとりが、ぶつけた顔をさすりながら、そのあとに小さくつぶやいた言葉を、わたしの耳は聞き逃さなかった。
「あぁ……せっかくタクトのアホにぜんぶ押し付けたってのにな……」
聞き違いかもしれないし、そうでなかったとしてもただの偶然かもしれない。でも……。
バツが悪そうに足早に去っていく男たちと、あとなぜかこの場にいる六堂先生の姿を交互に見比べながらも、わたしの頭の中ではその言葉がずっと引っかかっていた。
――早蕨拓人は、わたしの大バカな兄の名だ。
上の階に着くと、咲がスマホカメラをこちらに向けながらそう言った。
1階に比べると多少は人通りが少なくて助かる。
「えっと、最初は大きいものから……」
「あー、だめだめ。もっとメイドさんっぽく言って」
……メイドさんっぽくって何だ。
わたしの知ってるメイドは、いちいち買い物を実況したりしないんだけど。
それでもわたしはいちおう姿勢を正して、咲が構えているスマホに向かって言う。
「掃除機は配送してもらうので、家電売り場で最初に買う予定です、ご主人様。それから掃除や料理に使う道具を買って帰りますね」
細かいものを先に買っちゃうと荷物になるからね。
ペコリと一礼してから、家電売場に入る。
「いらっしゃいませー」
レジの女性店員さんが一瞬だけメイド姿のわたしを見たが、すぐに何事もなかったかのように正面に視線を戻す。
プロだなー。バイトと言っても、わたしのメイドもお仕事、見習わなくちゃ。
少し吹っ切れたので、わたしはメイドらしくしずしずと、でも堂々として店内を見て回った。
一口に掃除機と言っても種類は色々ある。最近増えてきたスティックタイプは、確かにコードレスという利点があるものの、使用時間に限界があって、ゴミもすぐいっぱいになってしまうので、あの広いお屋敷には向かない。
となると、やはり車輪の付いたキャニスタータイプなのだけど、紙パック式かサイクロン式かとかよりも重要なポイントがある。
軽さや長さや、自分が使いやすいものがいちばんだ。身体に合わないものを日々使うのは、思った以上にストレスになる。
うちの掃除機は母が選んだものだったから、わたしにはちょっと使いづらいんだよね。
今は何でもネットで買えるけど、こういうのは自分の手で確かめてからのほうがいい。店頭のサンプル品をいくつか試しながら、わたしは咲にそんなことを説明していた。
「へえ……」
咲は、妙にニヤニヤしながら聞いている。
「なによ?」
「だって、有紗――これからもずっと自分がセンセイの世話する気まんまんじゃん。辞めることとか考えてないでしょ? そうやって家電選んでるの、まるで新婚の奥さんみたいだよ?」
「なっ……」
思わず言い返そうとして気づく。咲にからかわれるいつものパターンだ。
「……そうやってわたしに意識させて、知らず知らずのうちに恋愛ムードに誘導する魂胆だ……その手には乗らないから」
「ふーん」
咲はすました顔でそれだけ言って、手にしたスマホを掲げてみせる。
「まぁ、今の会話もぜんぶ撮ってあるから、今さらとぼけてもムダだけど」
「ああああぁぁああ――!! カット、今のはカットで!!」
――けっきょく、いちばん軽くて高い場所まで届きやすそうな機種を選び、レジのお姉さんに配送をお願いする。
先生からは、カードと暗証番号、それから少しの現金を預かってきている。
……クレジットカードって、バイトの高校生にこんなに簡単に預けていいものなんだろうか……?
咲に横から教えてもらいながら、機械にカードを差して、暗証番号を入力。
それから、配送先として六堂先生の名前と住所を記入する。
こういう形で他人の住所氏名を書く機会なんてなかなかない。……咲が新婚さんなんて言うから、意識してしまう。これじゃまんまと咲の思うツボだ。
店員さんから見たら、メイド服を着た謎の女子高生だけどね。
次は生活雑貨。まずは調理器具のコーナーで、ボウルとざる、菜箸におたま、それから計量カップとピーラーとかを商品カゴに入れる。料理初心者が見落としがちだけど意外と多用する重要アイテムだ。
これぐらいなら、先生がひとりで料理をする場合でも、あって困ることはないはず。
それから掃除用品コーナーに移動し、ハンディワイパーと取替用シート、あれば何かと重宝する使い捨てのビニル手袋とか、あと肌に優しい洗剤類とか。
とりあえずこんなものでいいかな。小さなものは別に今でなくても、学校帰りにそのへんで買っていけばいいわけだし……。
今度は預かった現金で会計して、忘れずに領収証を書いてもらう。
「お宛名はどういたしましょうか」
「――“ご主人”様でいいんじゃない?」
咲が横からそう言うと、さすがに店員さんが吹き出してしまった。
「“六堂鏡哉”でお願いします」
咲の頭をぺちんと叩いてから、わたしは先生の名前をメモ用紙に書いて見せる。
……もし店員さんも六堂先生の読者だったりしたら、変な風評が広がっちゃたりしないかな。
まぁ、100%先生自身が望んでやっていることなので、風評というかただの事実なんだけど……。
買った品物を持ってきたエコバッグに入れ、売り場を出ると、向こうからちょこちょこと歩いてきた幼稚園ぐらいの女の子と目が合った。
わたしのメイド姿をじーっと見つめる幼女。
一瞬ためらったあと、せめてなるべく不審な印象を与えないよう、わたしはにっこり笑ってみせた。
「ママー、見て見て! メイドさんー!」
やめて。保護者のかたを呼ばないで。
悪意なく指さされるのもなかなか心に来る。
「……うん、メイドさんだねー。かわいいねー」
呼ばれた母親も、幼女に向かって優しく語りかけているけど、わたしとはぜんぜん視線を合わせてくれない。
「ミクちゃんもね! おおきくなったらメイドさんになるー!」
……うん。やめたほうがいいと思うよ。
こんなときに咲はどこへ行ったのかと思うと、少し離れた壁際でまたスマホを構えている。
「ちょっと、咲。それは何ディスタンス?」
「えー? ロングショットも撮っておいたほうがいいかなと思って」
「あのタイミングでやることかな?」
「幼女に優しく微笑む有紗、すごく絵になってたから。“ご主人様”もこれなら満足だって。あらためて惚れ直しちゃうかもね」
「だから、そんなんじゃないって……。早く録画止めてよ。買い物も終わったんだし」
「うーん、個人的にはもうちょっと撮れ高がほしいかなー」
「そんなのなくていいから」
買い物も終え、少し気が緩んでいたのかもしれない。
一連のやり取りでそこそこ周囲の注目を集めてしまっていたことに、わたしは気づいていなかった。
「おー、メイドちゃんだメイドちゃん」
「キミ、かわいいねー。それコスプレ?」
若い男性ふたりが、人込みの中からこっちに近づいてきたかと思うと、無遠慮な声を浴びせてきた。
女の子同士の『かわいい』は信用できないけど、こういう形で言われる『かわいい』はもっと嬉しくない。
「ご主人様がどうとか言ってたけど……俺らも満足させてくんない?」
制服姿でもこんな感じで声を掛けられることはたまにある。
ということは、こういうノリを好む女の子もいるんだろう。
でもわたしは、残念ながらそうじゃない。
「あー、この子ねー。やめといたほうがいいですよ?」
いつの間にか咲がすぐそばまで戻ってきて言った。
「この子、すっごく重いから。一度でもデートでもしようものなら、朝から深夜までずっとLINE送りまくりですよ。既読無視とかしたら家の前まで行くし。他の女のアドレスとか全部消そうとするし。かまってあげないとSNSで相手の実名入りの陰鬱なポエムを世界に発信し続けるし」
……あの、咲さん?
わたしを守ろうとして言ってくれてるのはわかるけど、わたしの名誉のために言っておくと、もちろんそんなことはしない。と、思う、たぶん。
男たちはそれを聞いて顔を見合わせた。
「マジかよ……」
「まぁ確かに、ゴスロリの子ってそういうとこあるよな……」
これはメイドの仕事着で、ゴスロリではない。そういう趣味の子が聞いたら二重に怒られるよ。
「ま、それでもいいや。ちょうど2対2だし、これからカラオケでも――」
前向きな結論を出してしまったその男性は、わたしに向かって手を伸ばしてきた。
一瞬、頭の中が真っ白になってしまう。
こういうとき、何を言えば良かったんだろう。どうすれば良かったんだろう。
頭の回転が遅いほうだとは思わないけれど、わたしはこういうときいつも、余計なことばかり考えて、何もできなくて。
――横からすっと伸びてきた腕が、わたしに触れる直前だった男の腕を掴んだ。
わたしはハッとし、その腕の主へと視線を向ける。
いつもの三つ揃いの上からフロックコートを羽織り、頭には煙突型のトップ・ハット。反対側の左手にはステッキ。
時代も季節感も場所柄も全て超越した英国紳士の姿がそこにあった。
……六堂先生だ。
先生は、男たちのほうを見据えて、落ち着いた声でこう言った。
「失敬。――当家のメイドに不躾な真似は控えていただけまいか」
「……先生、どうして……」
「なっ、なんだお前!?」
そりゃあ、そう言うよね。そこだけはわたしも同感。
男は先生の腕を振り払う。その拍子に、勢い余った男の腕がわたしの頭部のホワイトブリムをかすめた。
「……きゃっ」
「貴様――」
先生の身体が今まで見たことのないような機敏さで動き、宙に泳いだ男の腕を再び捉えると、流れるようにその背後に回り、さらに足を払った。片腕を捩じり上げられたまま、顔面からフロアに叩きつけられる男。
「先生……?」
「安心したまえ、有紗くん。小説の戦闘シーンを書くにあたり、最低限の体験はしておくべきだと思ってね。空手と剣道と合気道の道場に2年ほど通い、基礎は身に着けている」
相変わらず、努力のベクトルがちょっとおかしい人だ……。
わたしが聞きたいのはそこじゃないんだけど。
「そうじゃなくて、どうしてここにいるんですか? お屋敷で仕事をしている約束では?」
「……あ、いや、その……」
「まさか……隠れてずっと見てたとか言いませんよね……?」
一方、呆然としているもうひとりの男に向かって、咲がスマホの画面を突き付けた。
「さっき有紗に掴みかかろうとしたとこ、ちゃんと撮ってありますから。この動画をモザイクなしでアップされたくなかったら、今回はお互いチャラってことで、水に流しません?」
そう言って咲は目を細めた。彼女は男相手でもいつも強気で堂々としている。
……バッグの中にスタンガンとか持ってるしな。
男は、倒れたもうひとりの男を助け起こす。
「ちっ、何なんだよ、こいつら……動画で炎上とかもうこりごりだぜ」
もうひとりが、ぶつけた顔をさすりながら、そのあとに小さくつぶやいた言葉を、わたしの耳は聞き逃さなかった。
「あぁ……せっかくタクトのアホにぜんぶ押し付けたってのにな……」
聞き違いかもしれないし、そうでなかったとしてもただの偶然かもしれない。でも……。
バツが悪そうに足早に去っていく男たちと、あとなぜかこの場にいる六堂先生の姿を交互に見比べながらも、わたしの頭の中ではその言葉がずっと引っかかっていた。
――早蕨拓人は、わたしの大バカな兄の名だ。
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